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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

リビアとギリシャ

2011-10-25 02:17:45 | 時事放談
 週末のニュース解説番組を見ていると、先週一週間もいろいろな出来事があって、中でもカダフィ大佐殺害は衝撃的でしたし、古代ギリシャの血をひくはずの現代ギリシャの民衆デモと社会的騒乱にもまた驚かされました。私自身の反省として、中東やラテン系の国のことを知らな過ぎるとつくづく思ったものです。
 実際、私たちは、中東やEUにおいて、まさに歴史の一頁を飾るような事象を目の当たりにしています。これら二つの事件は、場所も違えば歴史的背景も状況も違い、何の脈略もないように思われますが、私には、ある一つの事象を思わせます。それは、国家統治の不思議さです。
 アラブの狂犬と呼ばれ、奇抜な言動で、国際社会からは一種の鼻つまみ者だったカダフィ大佐は、それでも42年もの長きにわたってリビアに君臨しました。その内実は、資本主義とも社会主義とも違う「第3の道」を標榜しながら、周囲を一族や出身部族で固めた典型的な独裁国家で、それを評価するのは私には難しく、狂犬ならぬただの強権政治だっただけかも知れませんが、42年という歴史的事実は重く、外形的には安定した社会だったと言わざるを得ないかも知れません(だからと言ってカダフィ大佐を肯定するつもりはなく、飽くまで評価は保留しますが)。ところが、アラブの春あるいは民主化と呼ばれる政治の季節に突入し、ここしばらくは政情不安が続きそうです。
 他方のギリシャは、学生時代に歴史の教科書で学んだように、紀元前の時代に民主主義の原点として歴史に登場したことを知らない人はいませんし、東ローマ帝国までは「ギリシャ化したローマ帝国」と捉えることも出来るものの、15世紀半ばから400年間はオスマン帝国に支配され、さらに戦後も1974年までは軍事独裁政権に支配されていたという史実を、私は初めて知りました。長い歴史の中で、古代ギリシャの民主主義の伝統は忘れ去られてしまった・・・と言うよりも、民主主義は本質的に不安定な政体であり、権力は腐敗するがために、市民または国民が主体的に向き合い監視し続けなければ機能し得ないものなのだろうと思います。
 私が学生時代の頃は、冷戦たけなわで、共産主義に対抗するに、「自由」が絶対的な価値をもつものとして尊ばれていました。政治体制は、誰が政治の担い手になるかによって「王制」や「貴族制」や「民主制」などいろいろあり、私たちは絶対王政の歴史を知るが故に「王制」に対してネガティブなイメージしかもちませんが、「自由」を担保するのに相応しい統治機構は、実は「王制」であると「貴族制」であると「民主制」であるとを問いません。「共産主義」だって「民主的」であり得るように、「民主制」そのものに絶対的な価値があるわけではなく、守るべき価値は「自由主義」であって、それを実現するに、古代中国の堯のような賢帝がいれば「王制」もまた可なりということを、当時、学んだことを思い出しました。もっとも最近は、「自由」だけでは済まなくなって、政治が実現するべき価値として「公平性」が重要になりつつありますが、それでもそれを担保する政体についての議論に変わりはありません。
 チャーチルが言った言葉を思い出しました。上の文脈で理解するべきでしょう。「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」
コメント
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