風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

元ヤクザの牧師さん

2010-01-30 11:11:04 | 日々の生活
 今朝のニュース解説番組で、元ヤクザの牧師さんが取り上げられていました。ご覧になった方もおられるでしょう。暴走族から暴力団へ、そして組長代行にまで上り詰め、覚醒剤に溺れて組を破門になってからも覚醒剤密売を続けて逮捕され、三度目の収監の際、知人から差し入れして貰った聖書に目覚めて、服役後、教会に住み込みながら神学校を卒業し、牧師になったという、絵に描いたようなストーリーですが、事実は小説よりも奇なり、受刑者から届く手紙が月に40本あり、返事をしたためるのが日課になっているなど、ワケありの人たちも含めて多くの人の支えになっているという話でした。
 社会は不条理で、必ず敗者が産み落とされ、犯罪が絶えず、その中には再犯者も多いと言われます。そうした中で、宗教によって救われる人も少なくありません。こうした宗教の力は、日本の宗教ではなく、やっぱりキリスト教(あるいは西欧の宗教)なのだと再認識しました。日本の宗教が、そうした力がないというわけではなく、生い立ちや性格が全く違うということが言いたいだけです。
 西欧社会における契約の観念は、元来、神との契約に発するように、西欧では、自己と対置する形で神を自らの精神の中に宿らせます。神は万物のCreatorですが、その実、神を創造するのは個々の人間の精神なのですね。そして原罪を背負った人間から出発する通り、旧約聖書を起源とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界は、極めて文明的な文脈で展開されてきたことが分かります。イスラムの世界で、一夫多妻が認められるのは有名な話ですが、戦争未亡人を救うのが趣旨だったと言われますし、断食も、飽食を知り、貧しい人たちに思いを馳せるのが趣旨だと聞いたことがあります。宗教の生い立ちに常に文明社会の存在があり、社会における行動規範を形成しています。そういう意味でも、現代社会にあっても、更正の支えになる力があるのだろうと思います。
 西欧にももちろん土俗的な宗教はありましたが、文明の発展の中で、今ある三大宗教が誕生し、やがて集約されて行ったのでしょう。それに引き換え、日本の宗教(神道の世界)は、土俗的なまま息づいています。人によっては日本に宗教はないと言いますが、それは文明的な文脈での宗教と対比し得る宗教がないという意味だと思います。八百万の神は、自らの内面にミラーのように対置する規範的存在ではなく、私たちを取り巻く自然そのものであり、私たちの祖先であり、自己を包み込む存在であり、私たちはその一部であり、自らを同一化し得る存在です。私は宗教研究家ではありませんし、生まれてこのかた、誰に教わったわけでもありませんが、木にも森にも山にも神様はいると、ごく当たり前に思っていますし、ごく自然に、便所には便所の神様がいると思います(水洗トイレはキレイ過ぎて、自然との繋がり、すなわちかつての所謂ボットン便所のような地面との繋がりがなくて、神様もさぞ住み辛いでしょうが)。ハンチントン教授は、日本をも世界の七大文明の一つに数えてくれましたが、極めて特異な文明と言うべきで、それが、西欧のような文明社会との付き合いの難しさの基本になっているように思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする