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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

初めての上海

2011-06-26 11:01:47 | 永遠の旅人
 昨日に続いて、出張で訪れた中国の都会の素描です。
 上海には一日強しかいなくて、実は殆ど印象に残っていません。北京で、現代の中国は、もはやかつての中国ではない(勝手なイメージとしてもっている中国ではない、という意味)という印象をまざまざと見せつけられた後で、上海に入ったものですから、アジアの大都市のひとつであることをごく当たり前に受け入れたせいでもあります。ただ、夜、ホテル界隈を散歩すると、小奇麗なブティックに混ざって「楽太郎」なる六代目・圓楽の居酒屋店をはじめとして日本風の小料理店も多く、北京よりもずっと開放的なさばけた雰囲気は、そこはかとなく感じられます。
 実際に北京と上海は仲がよろしくないようで、北京では渋滞緩和のため、ナンバープレートの番号による交通制限が今も継続されている話は昨日のブログでも触れましたが、更に公共交通機関の値段を極端に安くして、そちらに誘導しようとしているらしく、そこに上海が収めた税金が投入されていると言っては上海の人たちが憤慨している、といった塩梅です。さらに、夜の会食で隣に座った、山東省の省都・済南から来た人に言わせると、中国四大料理は、日本人には北京・上海・広東・四川として知られますが、北京にしても上海にしても、誇れる地場料理などありはしない、実態はそれぞれ山東料理や揚州料理をベースに各地から集まった料理から出来たものだと言うことになってしまいます。さながらお国自慢ですが、山東省と言えば青島ビールだけでなく、省としての経済規模で広東省に次ぐ全国二位を誇り、かつては魯の国としても知られ、孔子廟もある孔子、孟子、孫子、諸葛孔明などを輩出した由緒正しき土地柄ですから、むべなるかな・・・。
 上海で、唯一と言って良いほどにちょっと驚かされたのは、出発の朝、まだ渋滞が始まらない空港に向かう道すがら、タクシーの窓から上海万博の中国館が見えた時でした。今回は短期間の出張だったため、ロクに地図を見ていなくて、いまひとつ上海の地理に自信がないのですが、どうも上海万博は上海の街の中心地帯で開催されたようなのです。大阪万博は、ご存じの通り、郊外の千里丘陵を切り開いて開催されました(因みに私の母校の高校の体育祭で、3学年10チームがそれぞれ竹を土台にした3m前後の大きさのマスコットを制作するのは、その当時、切り取った竹が大量に発生したことに由来しますが、余談です)。そこには開発独裁ならではの国家権力の強大さがチラつきます。
 最後に中国らしさ?を感じたエピソードをひとつ。日本へのお土産は、帰国便が出る空港で最後に買うのを通例にしていて、順に店を回った挙句、ゲートのすぐ傍に一軒の土産物屋が飛び地のようにポツンとあるので覗いてみると、買い忘れて訪れる客を狙ったかのように、同じChinese Wine(所謂紹興酒)でも他店の二倍の値段をつけているのを発見して、なんともアコギなところが、“らしい”と思ってしまいました。周囲との秩序を重んじあるいは長期的な関係を大切にする日本人は、これではリピーターは来ないと心配しますが、個人主義的また刹那的な中国人は気にしないのでしょうか。
 上の写真は、今回使い残した中国のお札です。1人民元(12円強)札まであるのが、日本との物価レベルの違いを想像させます(勿論、1人民元コインもあります)が、現地駐在員によると生活感としては日本の物価の三分の一くらいだと言っていました。また、国のお札にはいろいろな偉人が印刷されるものですが、毛沢東ばかりというのも、国づくり伝説を今なお訴求し続けなければ国としてまとまれないかのような危うさをつい連想させます。
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初めての北京

2011-06-25 14:52:27 | 永遠の旅人
 月曜夜から金曜朝まで、北京と上海に出張していました。
 若い頃の出張は、会社に財政的な余裕があり、かつ人材育成の見地から、数週間というスパンで放り出され、あるプロジェクト立ち上げなどのミッションを与えられて現地の人たちをサポートしつつ、場合によっては率先して汗を流しながら完遂する、時に遅延が生じて二週間が三週間になり、一ヶ月になるのが当たり前の、滞在型の出張が一般的でした。その場合、現地人との付き合いは濃くなり、いろいろなレストランに自ら足を運んで食事したり、週末は街を徘徊したりするなど、現地の懐に飛び込むことによって、異文化を自らの目と耳と肌で感じて事情通になることが出来ました。それも今となっては昔の話です。最近は財政的な余裕がなく、PEXよりも更に格安の航空券を探して、ガチガチの最低限の日程を組み、仕事柄、プロジェクトといっても進捗を確認するだけのピン・ポイントの出張となり、現地人とはある距離を置いた関係で、レストランも日本人の口に合うところが駐在員によって予め選ばれ、空港とホテルとオフィスの間をタクシーで往復するだけといった具合で、異文化体験の点でも、観光以下のレベルで、上っ面を撫でるだけの、物足りないものになりがちです。今回は、私にとって初めてのMainland Chinaで、いろいろ見て回りたかったのですが、北京に二日弱、上海に一日強、殆どオフィスに籠りっきりで、結局、私に出来ることは、オフィスやタクシーの窓から見ただけの中国の印象を素描するだけのことです。
 初めて訪問する土地で、ちょっと張りつめていた気を許すことが出来る瞬間があります。例えばそれは空港で「味千」の看板を見つけた時であり(ご存じない方も多いと思いますが、アジア太平洋地域を中心に海外展開を進める熊本のラーメン屋さんで、私もペナンやシドニーでお世話になりました)、タクシーに乗って移動を始めて、トヨタやホンダなどの日本車が走っているのを認める時です(噂通りVolkswagenは目視でのシェアも高いですし、韓国車も健闘しています)。異国の地で日本ブランドを見つける・・・つまり同邦の人たちが頑張っていることを実感する時ほど、日本人として、また異国の地で仕事するにあたって、心強く感じるものはありません。
 特に今回は、日本の資本が入ったホテルだったため、バス・トイレはTOTO製、部屋の空調はSANYO製、TVのスイッチを捻れば、公式のNHK衛星だけでなく、TVガイドでは空白になっているチャネルで多少映りは悪いけれどもWOWOWや民放を何社も拾っていて、一体自分はどこにいるのか、本当にここは北京なのかと錯覚するほどでしたが、そこまで行くとちょっと特別のことでしょう。
 そういった日本の影響をどれだけ感じるかは別にして、開発独裁のアジアに似て、国の玄関口である空港は国の威信をかけて立派ですし、空港からホテル、さらにオフィスまでの道のりは、北京オリンピックを契機とした区画整理も恐らく手伝ってのことでしょう、高層ビルが立ち並び、その間を何車線もの高速道路が縫い、走っている車は意外にも新しいものが多くておんぼろは滅多に見かけず、一般道には予想外に自転車が少なくて(走っていても電池付き電動自転車が多く、こちらではEバイクと呼ぶらしい)、今なおナンバープレートの下一桁番号による交通制限を継続してもなお朝晩の通勤時間帯には渋滞するほど車が多い、アジアのどこかの大都市を思わせるような景観です。
 私のような通りすがりには、日本のテレビ放送が天安門事件のことに触れると突然画面がブラック・アウトされるといったような管理社会であることが、一見、分からない、強いて挙げれば、出会う中国人に英語を話せる人が少ない、覇気が余り感じられない、「何でもあり」のような猥雑さが排除されているように感じられるといったような、ちょっと感覚的なところ、あるいはオフィスの隣にあるごく普通の外観の研究所が実はミサイルも開発しているなど、言われるまでは気が付かない、目に見えないところに、この特殊な国家の影が差しているようなのですが、飽くまでごく普通の、遅れてやって来た大都会といった風情ではあります。
 上の写真は、北京オリンピックのメイン・スタジアムだった「鳥の巣」で、今は体育館として使われているようです。手前に見える高速道路の車も、チンケなものはありませんね。たまたまのようですが、曇り空で、まるで排ガスが充満しているかのような見通しの悪い二日間でした。
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テキサスの人・異聞

2011-05-03 21:22:26 | 永遠の旅人
 国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディン容疑者が殺害されました。イスラム武装勢力(パキスタンの)タリバン運動(TTP)報道官は「(パキスタンの)ザルダリ大統領と軍が第1の標的で、米国が第2の標的」と話しているそうで、テロの脅威はむしろ増大するとの見方が多く、これまで以上に警戒する必要があるのかも知れませんが、アメリカのテロとの長い戦いは、先ずは一つの節目を迎えたことは事実です。このニュースを最も待っていたであろう人物は、ビンラディン容疑者の殺害を「極めて大きな功績だ」と称え、「テロとの戦いは続く」と指摘した上で、「米国は、時間がかかろうとも正義はもたらされるという明白なメッセージを送った」との声明を発表しました。ブッシュ(ジュニア)前大統領です。
 実は、先々週に出張したテキサス(ダラス)ゆかりの人として、このブッシュ・ジュニアのことをブログに書こうとしていました。というのも、ダラスのオフィスのあちらこちらで、彼のバッヂを見かけたからです。彼の写真の上に“Do you miss me yet?”という問いかけがあしらわれたものです。もとより現地人の誰に尋ねても「史上最低の大統領」と答えるだけで、懐かしむ者などいません。テキサス州知事(1995~2000年)のあと、第43代アメリカ合衆国大統領(2001年1月~2009年1月)として、いきなり同時多発テロという難局を迎え、支持率は、同時多発テロ直後に、ギャラップ社の調査で記録に残る過去最高の90%に達しながら、2008年2月2日には、記録に残る最低の19%にまで、まるでジェットコースターのように乱高下するという、これほど毀誉褒貶が激しい大統領も珍しい。
 確かに泥沼化するイラク・アフガニスタン情勢は、ベトナム戦争を彷彿とさせ、ブッシュ・ジュニアの単独行動主義は世界を敵に回してしまい、甚だ評判がよろしくありませんでした。また、アメリカ経済を金融に特化させた結果、サブプライム・ローンから世界恐慌を招いた元凶だと、私たちは理解しています。しかし、中西輝政・京大教授は、ブッシュ・ジュニアの失敗はテロとの戦争、とりわけイラクの戦後統治に失敗したことだけだと言います。所謂「新・自由主義」から、市場経済万能のような考え方が出てきたのは、ブッシュ・ジュニアの時代ではなく、その前のクリントンの時代からだったと。
 4月の一ヶ月間、日経新聞「私の履歴書」に連載された彼の手記は、勿論、回顧録として都合が悪いことは書かないで自己正当化に徹するという世間の相場から外れるものではありませんでした。そしてその最終回では、歴史の評価には時間がかかるものだと自論を展開し、彼自身の功績も後世の史家に委ねるとまで強がりました。しかし彼のそうした一見傲慢な態度はあながち間違いではないかも知れません(少なくとも全否定されているかのような現状は多少は改められるかも)。
 共和党穏健派で知日派のアーミテージ元国務副長官(因みに彼は、今回、ビンラーディンを殺害したSEALsに所属しベトナム戦争に従軍しました)は、ブッシュ・ジュニアのことを、個人的な人間関係を好み、とてもチャーミングだったと形容しています。人は「イデオロギー色が強過ぎた」とか「付き合うのが難しかった」と言うけれども、と。因みにオバマ大統領のことは、全ての関係がビジネスライクで、人間関係を築こうとしないことに、非常に不安を覚えると述べています(「日米同盟vs中国・北朝鮮 アーミテージ・ナイ緊急提言」リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ、春原剛共著)。勿論、人が好いからと言って良い政治家とは限りませんが、優秀過ぎて自ら恃む人より、知性を疑われるような発言を何度も行おうと側近の意見に耳を傾けることの方が重要な素養だろうと思います。
 そして、そうした人の好さを示すエピソードがWilipediaに出ています。大統領退任後に住んでいるダラスのとあるホーム・センターが、「ブッシュ前大統領殿 ようこそお戻りになりました!」との書き出しで始まる「お客様係募集」求人広告をジョークで掲載し、「時間に融通の利く、非常勤。ご自宅からも近距離で、一日体験も可能です」とメリットを列挙したうえで、「何年にも亘る外国要人との会談を通して、社交術を磨き上げてきたあなたが、このポジションの優れた候補者だと確信しています」と呼びかけたところ、ブッシュ本人が「仕事を探しているんだ」と突然来店し、店長に対して入社を丁重に辞退したうえで買い物をするというジョークで応じたため、居合わせた客らから喝采を浴びた・・・というものです。
 彼は大の野球ファンとして有名で、1989年からテキサス・レンジャーズの共同オーナーを務めました。上の写真は本拠地レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン。
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久しぶりのNY

2011-04-29 17:19:59 | 永遠の旅人
 もう先週木曜日のことになってしまいますが、出張の場所をダラスからプリンストンに移しました。アメリカの地理的な大きさを感じるのは、こうして移動するときで、ダラスはタイム・ゾーンでCentralの南の端にあり、片やプリンストンは東海岸のニューヨーク近郊、時差は1時間でしかありませんが、飛行時間は3時間、東京から台湾に行くくらいの感覚です。
 更にこの日は、朝4時に起きて、2時間前に空港カウンターでチェックインを済ませて、早々とゲートの待合室に到着して、朝食にスタバのコーヒーとマフィンをつまみながら、のんびり本を読んでいたところ、周囲の妙な動きが気になって、ゴミ箱に近づきがてら、発着情報のモニター画面を見ると、フライトが突然キャンセルになっていることに気がついて、仕方なく、シカゴ経由に変更したため、ニューアーク空港には予定より3時間以上も遅れて到着し、朝4時に目覚めてから実に10時間をかけた移動になりました。こうなったら、身も心もくたびれて、仕事に気合いが入りません。レンタカーで1時間運転してオフィスに到着したのは、夕方の4時で、そこから小1時間打合せをして、そそくさとホテルに引き揚げました。
 かつては(私が入社した頃)新入社員でもビジネス・クラスで出張したものですが、今となっては昔の話。最近は事業部長クラスですら、チケットはキャンセルも変更もきかないPEXというケチな出張で、今回のような突然のキャンセルにどう対応できるかと思ったら、さすがに航空会社の都合なので、あっさり変更できました。それにしても、アナウンスもなく、いくら早朝とは言えゲートのカウンターには職員一人だけで、システム画面を見ながら何やら操作しているように見えて、進捗がなく、カウンターの列は一向に動く気配がありません。だからと言って乗客もさして文句を言うことなく、むしろあきらめ顔・・・。さして珍しくもないフライト・キャンセルですから、さっさと対応できそうなものだと、日本人なら思ってしまいますが、アメリカではどうにも場当たり的でリカバリーは遅く、強いようで実は脆弱なインフラの一面を垣間見て、いかにもアメリカらしく感じました。
 日本は、全国津々浦々、高品質なのです。勿論、田舎に行けば時計の針の進み具合は多少遅くなるでしょうが、それでも許容範囲の内に、物事はそれなりに満足いくレベルで進みます。そしてそれは地理的な横の広がりだけではなく、縦の広がりにおいても妥当します。しかし、アメリカでは、大統領のリーダーシップに求めるレベルは極端に(自分のことはさしおいて)高いくせに、空港のカウンター職員や、場末のレストランのウェイトレスに期待する機転とか手際のレベルは決して高くない。まさに、いろいろな人がいる移民大国の故、なのでしょうか。
 プリンストンと言えば、プリンストン大学や、かつてはAT&Tのベル研(今はアルカテル・ルーセント傘下になってしまいましたが)もあった、緑が多く静かな学究都市です。更に車で一時間ほど南に下ったフィラデルフィアには、これまた名門の通称ペン大やドレクセル大学があって、全米でも有数の学生人口を擁します。聞くところによると、プリンストンはニューヨークで働く人たちのベッドタウンにもなっているようです。確かに車で1時間といえば通勤圏で、夕方、ニューヨークに戻る道すがら、ハイウェイの反対車線は車が多く、ところによっては渋滞していました。この地域のメジャーリーグ・ファンは、そのせいでニューヨーク(ヤンキース/メッツ)とフィラデルフィア(フィリーズ)に分かれるそうです。
 東海岸に来たな・・・と思えるのは、ダラス同様、空はあくまで広く、しかし、ダラスが砂漠とは言いませんがダラス以上に多くの緑に囲まれ、移民大国でありながら、西海岸のように多くの移民でざわつきがあるのとは違う、落ち着いた街の佇まいにあります。ショッピング・センターには、食品雑貨スーパーのStop & Shopとか、ドラッグストアのCVSとか、庶民派デパートのMacy‘sなど、東海岸ならではの馴染みの名前が並び、懐かしさが増します。
 前置きが長くなりました。今日のブログ・タイトルにNYの地名を入れたのは誇大広告で、マンハッタン島は42nd Streetを通って横切っただけで、車でさらに15分ほど走ったところにあるFlushingという街に宿を求めました。この街のことは、これまで知らなかったのですが、10年前の9・11の後、マンハッタンのチャイナ・タウンから客足が遠のいた時に、マンハッタンを離れてこのFlushingの街に移り住んだ人たちがいたそうで、今ではNew China Townと呼ばれるほど、漢字が氾濫する街になり、ところどころに韓国料理や和食レストランも見られます。ホテルで教えてもらったレストランは、徒歩一分の、若者が集まる食堂のような風情でしたが、味は良かった。逞しく海外で生きていく人たちがいます。
 上の写真は、ホテルへ向かう道すがら、9・11以後、再びニューヨークで一番高くなったエンパイアステートビルを望む。
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久しぶりのダラス

2011-04-24 12:25:38 | 永遠の旅人
 先週の日曜日から昨日までアメリカに出張していました。ちょうど一年前に初めてダラスの地を踏み、今回もまたダラスを久しぶりに訪れました。もっとも、現地オフィスは空港に近いため、自らレンタカーを運転することなく、ホテル・リムジンとタクシーを使った不自由な生活で・・・。
 そう、アメリカと日本(と言っても大都市圏のことになりますが)で違うことは勿論いろいろありますが、その内の一つは、自ら車を運転して移動するアメリカと、公共交通機関に頼って生活する日本との違い、これは単に交通手段の違いに留まらず、その心性にまで及ぶのではないかと思います。それは3・11の震災で帰宅難民を生むかどうかにまで影響します。こうした非常時に、自らの足を駆って自分の棲家に辿り着くことができるのか、それとも帰宅して家族とともにあることを諦めざるを得ないのか、の違いは大きい(何時間もかけて歩いて帰宅された方も勿論多いのですが)。日本における個人と国の、自ら公共の福祉に貢献する意識が薄い割りに、公に頼り公に依存する関係は、こうした行動特性にもよるのではないかと思うのです。
 さて、今回はオフィスとホテルを往復する退屈な日々だけでなく、20日の夜、レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントンまで、地元レンジャーズとエンゼルスのホーム・ゲーム第三戦ナイターを見に行きました。なんて偉そうに言っちゃあいけません、足がないので、現地の人に連れて行ってもらいました。夜8時を回って、席についた時にはゆうに1時間が過ぎ、試合は5回裏の攻防にまで進んでいました。
 前日にエンゼルス・高橋尚成が救援で活躍していたので、日本人選手の登場に妙に期待したりすることなく、心置きなくその場の雰囲気を楽しむことが出来ました。選手が天然芝で伸び伸びとプレーしやすい環境を整え、最高の選手による最高のプレーを見せて楽しませるだけでなく、その合間も楽しませる余興も仕込んでいます。代表的なのは、7回表が終わって、セブンス・イニング・ストレッチと呼ばれる、観客全員が席を立っての「私を野球に連れてって」("Take Me out to the Ball Game")の大合唱(これは100年前に観戦していた大統領がたまたまやった仕草を真似て始まったものと言われます)ですが、今回、初めて気がついたのは、“ホーム・スチール”と称して、子供が外野側からファール・グランドを走ってホーム・ベースを盗り、無事、ある時間内に戻って来ることを競うゲーム(まさに胸に抱えて走る様はホーム・スチール!)でした。回の合間に観客の映像をバックスクリーンに映し出すと、皆さん大喜びでガッツ・ポーズをするのが、どうやらテキサスの流儀のようですが、ある回が終わった時だけ“Kiss Cam”というタイトルとともに映し出されると、キスをしなければならない、なんていうイタズラ企画もありました。当然のことながらカップルは年齢を問いません。若者はもとより、倦怠期に入っていそうなオジサン・オバサン、そしてお爺ちゃん・お婆ちゃんに至るまで、自分たちの姿を認めると慌ててキスをして応えてくれます。時にさらっと、そして時に熱烈に。中にはたまたま隣り合わせただけの男女が年齢が近いというだけで勘違いされて映し出されることもあって、首を振って頑なにキスを拒むところが、観客の笑いを誘います。こうして、野球を楽しませ、野球場という場にいることを楽しませる仕組みは、アメリカ的なコマーシャリズムに毒されているというイジワルな見方も出来ないわけではありませんが、それが茶目っ気に溢れる限りは、微笑ましくそれを受け止めようという、アメリカ的な大らかさが表れているように思いました。
 上の写真は、当日のレンジャーズ対エンゼルス戦6回裏、マイケル・ヤングがチーム唯一の打点を叩き出した二塁打です。42ドルのチケットは、アメリカでは高い部類に入ると思いますが、迫力のあるプレーを間近で見ることが出来ました。
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久しぶりの香港

2011-02-27 14:03:53 | 永遠の旅人
 香港は、一度、遊びで訪れたことがあるだけで、22年前のことです。当時は中国への返還などまだ先の話で、ロンドン風の二階建バスがあるかと思えば、タクシーには「的士」の文字があって、ヨーロッパとアジアが混ぜこぜの、不思議な活力がある街という印象でした。現地に駐在している人の話によると、既に中国返還後13年が経過し、中国語がやや幅を利かせつつあるようですが、大学は完全に英語で教育されるようですから、コスモポリタンなところは健在のようです。
 こうした性格は、台湾と比べると、その違いが明瞭で、香港においては日本語で話しかける気安さは少なく、長くイギリス統治下に置かれ、フリー・ポートで栄えた街として、心情的にヨーロッパや世界に対するアンテナが高いようです。それはホテルの部屋で見るテレビ番組に表れていて(勿論、一般家庭で見るチャネルとは違うでしょうが)、台湾では、地元の番組以外では、ニュース系はNHKとCNN、自然・社会科学系のドキュメンタリー番組はナショナル・ジオグラフィックやディスカバリー・チャネル、ドラマや映画はHBOやCinemax、スポーツはESPNなど、殆どアメリカ一辺倒のチャネル編成になっているのに対し、香港では、ニュース番組だけでもNHK(BS1、2及びワールド)やCNNだけでなく、BBC、アルジャジーラ、イギリスのスカイ・ニュースの豪・NZ版など、この地に世界各地から訪問客を受け入れているかが垣間見えます。
 しかし街の広告塔や看板を見ていると、香港では圧倒的に中国系企業が目立ち、Wikipediaによると、いくら香港基本法で言論および報道の自由や通信の秘密が規定されていても、広告主となる企業の多くは中国本土で活動する上で中央政府の意向を気にせざるを得ない状況にあることから、広告収入に依存するメディアの中には自主規制する傾向が出ているといわれています。
 夜の街の賑々しさは格別です。看板の大きさやその道に張り出した態様や色遣いは日本人の感覚に新鮮でけばけばしく、圧倒されます。私は早々に引き上げましたが、宵っ張りの香港の人々や観光客で、夜遅くまで賑わっていることでしょう。自治権の付与と本土と異なる行政・法律・経済制度の維持が認められる2047年まで、またそれ以降も、この混沌としたような賑々しさが続くと良いですね。
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久しぶりの台湾

2011-02-26 00:26:28 | 永遠の旅人
 出張で、今、香港からブログにアップしています。水曜日の夜に台湾に入り、丸一日いて、木曜日の夜に香港に入り、また丸一日いて、明日(土曜日)朝一番のフライトで日本に戻ります。
 台湾訪問は20年ぶりのことです。入社するまで海外に出たことがなく、入社して初めての出張が、私にとって初めての海外であり、それが台湾だったわけですが、以来、訪問回数は三十は下らず、私にとって、物理的にも心理的にも極めて近い存在です。久しぶりに訪れて、この20年の間に、一人当たりGDPは購買力平価ベースで1万ドルから3万5千ドルにまで上昇し、もはや先進国並みに豊かになって、さぞ変ったことだろうと予想していたら、確かに、変わったところ、変わらないところ、それぞれあるにしても、全体として余り変わったようには見えないところが、やっぱり台湾らしくて、それを確認出来て、なんとなく嬉しくなりました。
 何が変わらないかというと、先ず、空港に降り立ったときに吸う空気、その”香(こう)”の匂いにちょっと肉とか油が混ざったような独特の湿っぽさが全く変わらない。人間にとって視覚の記憶より嗅覚の記憶の方がよほど確かなので、この変わらないという思いの持つインパクトは強烈でした。
 そうなると、ちょっと変わった程度では、大して変わらないように思えてしまうのが不思議です。街並みだって、表通りにちょっと小奇麗な店が増えたのは事実ですが、よくよく見ると、まるでモックアップのように、裏通りには相変わらず薄汚い建物が残されていたりして、余り変ったように見えないのは、どこに行っても綺麗な日本とは明らかに違って、実際的・機能的な台湾人の面目躍如といったところでしょうか。街中を疾駆するタクシーは、かつてはドアが外れるのではないかとひやひやするようなオンボロで、時には遠回りされて高く請求されたこともありましたし、空港に向かうタクシーでガス欠にならないかとヒヤヒヤするのをよそに、最後までダイジョーブと言い放ちながらやっぱりガス欠になって、別のタクシーを拾ってくれたりしましたが、今では、外見こそ随分きれいになりましたが、怪しげな雰囲気はやはり変りません。ただ、バイクの数は減ったようですし、かつてはバイク1台に家族4人や5人で乗る姿をよく見かけたものですが、今ではそんな家族移動は見かけませんし、街を行く若い女性も、かつてはスッピンが多くてお構いなしだったのが、ちょっとは化粧が上手になってファッショナブルにも見えますが、それでもそんな変化は誤差の内、といった感じです。
 もう一つ、変らないという意味では、日本また日本人への親しさであり優しさでしょうか。かつて街で見かけた日本語は、日本食レストランか、怪しげな土産物やマッサージの勧誘の類いでしたが、今では、ダイソー、モスバーガー、吉野家、牛角、洋服の青山まであって、正真正銘の日本があちこちに見られ、20年の時を経て、益々、日本に近い存在になったように感じます。泊まったホテルは決して最上級ではありませんでしたが、必要最低限の日本語は通じるので、英語はとても話せそうにない老夫婦やおば様たちばかりのグループ客でも安心です。夕食は、かつてよく連れて行ってもらった台湾料理の店「梅子」が健在なのを見つけて、変わらない美味しさに舌鼓を打ちましたが、中華料理の中で、台湾料理は一番日本人の舌に合うように思います。
 そして何よりも日本人に向ける眼差しが優しい。お金持ちで、お金を落としてくれるお得意様と見ている面もなくはありませんが、かつての植民地統治が抑圧的ではなく、かつ台湾の近代化に多少なりとも貢献したであろうことが、今に続く良い関係に繋がっていることは間違いありません。
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アジア・続

2010-12-15 23:42:13 | 永遠の旅人
 前回に続いて、アジア出張の落穂拾いです。
 心理的な日本への近さ、ということで判断基準となるのは、日本食レストランがあるか、NHKや日本語新聞を見ることが出来るか、日本語ミニコミ誌があるか、といったところでしょう(逆に日本から遠い、あるいはアジア的と感じるのは、町並みや食の清潔さに乏しく、交通が乱雑で、怪しげな対面販売がまかり通ることと言えましょうか)。その意味では、海外在留邦人数の公式統計(外務省領事局政策課、2009年10月現在)通りで、バンコク(3.3万人、世界第4位)、シンガポール(2.3万人、同7位)、マニラ(1.0万人、同19位)の三都市は、居酒屋や日本人が経営するヘア・サロンまでありますし、ホテルのテレビでNHK衛星の日本語放送を見ることが出来ますし、朝、ホテルの部屋に日本語新聞が届けられていて、現地での生活に不自由は少ないだろうと思われます(同時にアジア的でもあります)。
 しかしニューデリーは地理的な距離以上に日本から遠いようです。ホテルで見たNHKは英語放送だけでしたし、日本食レストランがほとんど無く、現地に長らく生活する駐在員ですらもしょっちゅう食中りをおこすほどの衛生環境で、今回も、現地会社の社長さんのお宅に呼ばれて晩飯をご馳走になるという、それこそ20年以上前に先進国で見られた駐在員生活が今なお続いています。今なお続いているという意味では、空港からホテル、ホテルからオフィスと、全ての移動を現地駐在員にアレンジしてもらって、外の空気に触れることはありませんでしたし、交差点で信号待ちしているところに、赤ん坊を抱いたお父さんが近づいて来て物乞いをするという、話には聞いていた光景も目の当たりにしました。特にこの光景には、日本人としては憐憫の情を催し、気が気でないわけですが、現地人運転手に言わせれば、金を与えたところで、オヤジが酒を飲んでしまうだけだと、冷静です。
 他方、東南アジア最大の先進国と言っても良いシンガポールは、それだけ日本に近いかと言えば、必ずしもそうとは言えないのがアジア的な不思議さでしょう。東洋のイスラエルと呼ばれる、流浪の民・客家人の国で、明るい北朝鮮の異名をもつ監視社会でもあり、労働者党などの野党の存在は認められているものの野党候補が当選しようものなら中央から予算削減などの露骨な嫌がらせ受け、言論や集会・デモは厳しく制限され、報道規制についても「国境なき記者団」から強く批判され、ファイン・アンド・ファインとまで揶揄される清潔な街並みは、500万本ある街路樹の一本一本について、肥料を施した日や、開花や落実の時期などの細かい点に至る樹歴がコンピュータ管理されていると言われ、そういう意味での政治的安定と経済的自由を享受する代わりに、事実上の一党独裁で政治的自由は放棄している状況です(一部Wikipediaにも出ていますが、現地会社の社長も実感を込めて語ってくれました)。
 こうして見ると、日本では、最大限の自由を享受できてなお、人々の行動には節度があり、街並みは美しく、規律ある社会を形成する国民の成熟度は、アジアという喧騒と混沌において特筆すべきものであることが分かります。
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アジア

2010-12-13 00:16:37 | 永遠の旅人
 昨日までの丸一週間、マニラ(フィリピン)、シンガポール、バンコク(タイ)、ニューデリー(インド)の四都市を巡る出張に出ていました。西へ少しずつ移動する日程だったので、時差も少しずつずれて(遅れて)気が楽でしたが、シンガポール以外では24時間以上滞在することはなく、移動ばかりでちょっとくたびれてしまいました。
 こうして連続してアジアの発展途上の諸都市を見ていると、シンガポール更には日本の街の美しさが際立ちます。それだけマニラでもバンコクでもニューデリーでも、巨大なビル群が乱立する一方、都会の真ん中に、スラム街とまでは言わないまでも開発に取り残された区画が残っていたり、裏通りに入ったとたんに道端が汚くなっていたりして、そういうところは臭いもきつく、治安も悪そうに見えます。こうした街の風物でも、とりわけ国の豊かさを象徴するのが街を行く車でした。ニューデリーでは、バイクだけでなく自転車もまだ多い。マニラでは、バイクのほかに、薄汚い軽トラック型の乗り合いタクシーが一杯走っていました。シンガポールはもとより、バンコクでも車がきれいなのに驚きましたが、自動車の生産拠点の恩恵を受けているのでしょうか。
 他方、こうした発展途上の諸都市では、後発ほど空港が新しくて立派なのも顕著な特徴です。経済成長とともに航空需要が増加するのはいずこも同じですが、冷戦が崩壊した1990年代以降、グローバリゼーションが本格化し、人の往来が増えた時代に対応していることに加え、多かれ少なかれ開発独裁の手法により、国の威信をかけて巨大な玄関口を建設しているわけです。チャンギ国際空港(シンガポール)は1981年開業ですが、1991年のターミナル2に続いて2008年にターミナル3が開業して一段と利便性が増しましたし、スワンナプーム国際空港(タイ)は2006年、インディラ・ガンディー国際空港(インド)のターミナル3は今年7月に開業したばかりです。
 そして、後発ほどホテルの部屋の時計が合っていないように思ったのは、気のせいとばかりは言えないのでしょう。5~10分の違いは当たり前、ニューデリーでは15分以上も狂っていました。日本の神経質とも言えるほどの正確さに慣れてしまうと、却って戸惑ってしまうのが、なんとも哀しい性と言えましょうか。こうした大らかさ、あるいはいい加減さは、良くも悪くも会議時間に間に合わない人が多いことにも表れていて、これじゃあ生産性が上がらないと言うべきか、まだまだ上がる余地が一杯あると見るべきか、そんな発展のノリシロが多いことをそこかしこに感じて、なんとも懐かしくも、羨ましく感じた一週間でした。
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世界ふれあい街歩き

2010-10-22 23:42:17 | 永遠の旅人
 NHK総合で金曜夜10時から放送される小一時間の番組があります。まるで私たちが世界の街角を歩いているかのように、私たちの目線でカメラが路地裏を這い回り、時に、そこにいる人に話しかけて触れあい、時に近所の住人のお宅を拝見しては触れあう、なんとはない番組です。今日はストックホルムでした。北欧最大の都市、スウェーデンの首都でありながら、人口は僅かに80万人、14の島からなる海に囲まれた街で、緑も多く、街のど真中の王宮を前にして出勤前にサケ釣りを楽しむ人の屈託のない笑顔を見ていると、ゆったりとした時間が流れていることが知れます。
 小学5年の下の娘が、一年ちょっと前まで住んでいたシドニーの生活を懐かしがります。この年齢にして、シドニーでは時間がゆったりと流れていたと言います。それは何故かとつらつら考えるに、基本的に流行り廃りとは無縁なのだろうと思いますし、それは個がしっかりしていて集団や周囲に流されないからだろうと思いますし、それは更に元をただせばヨーロッパを中心とした移民一世が多く住み、ヨーロッパの保守の雰囲気を色濃く残しているせいかも知れないと思います。逆に日本人は、どうしてこれほどあくせく、新し物好きで、すぐに流行に飛びつき、刹那的な生き方をしているのでしょう。
 日本は安全ですし、人々は四季折々の季節を愛でる繊細な心をもち、人だけでなく動物や自然にも優しい、それでいてコンパクトに全てが揃って便利で、世界の最先端の流行のものでも身近にすぐ手に入り、食事は何でも美味い、日本人の私たちには住み慣れた良い国です。しかし海外生活をしてみると、東京は余りに全てが集中し過ぎて、狭くてちまちましていて、生活するには余り相応しくないと感じます。他方、近鉄に勤める知人が嘆いていましたが、地方の疲弊ぶりは、私たち東京に住む人間の想像を遥かに越えるようです。
 ブータンのように、GDPではなくGNH(国民総幸福量)を意識しながら国づくりをせよとまでは言いませんが、日本の国はどうあるべきか、日本人はどんな幸せを目指すべきか、失った20年を取り返すために、これから経済や社会を再生する前に、もう一度、私たち一人ひとりが国づくりのことを考え直さなければならないと思います。
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