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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

リメンバー・パールハーバー(下)

2011-12-13 01:14:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回紹介したNew York Times(電子版)の12月6日付コラムに並んで、“A Reluctant Enemy”(by Ian W. Toll)という些か刺激的なタイトルのコラムで、山本五十六連合艦隊司令長官の生涯が紹介されていました。このタイトルは、敵ながら天晴れ、とまでは言わないまでも、敵ながら・・・のニュアンスが入ったものでしょう。まさに12月23日から公開される「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」を紹介するような、悪い言い方をすると、そんな映画のことなど知るよしもないアメリカ人一般にひけらかすために、ぱくったような内容でした(実はこのコラムを書いたIan W. Tollという人は、“Pacific Crucible: War at Sea in the Pacific, 1941-1942”という著作もある作家なので、映画以前によく知っていると考えるべきかも)。いずれにしても、当時は少数派で今となっては理性派とみなされる英米派の主張を、アメリカでも取り上げてくれたのが、ちょっと嬉しい。
 今、本屋の歴史コーナーに行くと、ちょっとした山本五十六ブームであるかのようです。映画のお陰ですが、その映画を監修し、原作書籍を出した半藤一利さんの思いを語った声が、週間文春12月15日号に載っていたので、引用します。「海軍次官の時に日独伊三国同盟に反対し、遺書まで書いたことは有名な話だが、司令長官になってからも、戦争回避のために全力を尽くした。その部分を盛り込みました。」「山本さんの『自分の思っていることと正反対のことをやらざるを得ない。これが天命というものか』という手紙がある。開戦前、親友の堀悌吉さんに出したものです。実物を大分県立先哲史料館で初めて読んだ時、さすがに胸が詰まったね。」「今は、米国と戦ったことすら知らない人がたくさんいる。国力のない日本が無謀な戦争をしてはいけないと、映画や本を通して分かってもらえればと思っています。」
 しかし、山本五十六の生き様としては、既に40年近く前に阿川弘之さんが海軍提督三部作の一つとして描いて、一大ブームを巻き起こしました(因みに、残りの二人は米内光政と井上成美)。この三部作のために、海軍=開明的、陸軍=因循的といったイメージを固定化してしまった点で罪深いと語る人がいるほど、インパクトを与えた本です。そして、日本は勝ち目のない無謀な戦争に何故突入したのかという悔悟の念に囚われ続けた日本人に、そうではない先見の明をもった日本人がいたことを教える点で勇気を与えてくれる本であるとともに、私は、太平洋戦争が、こうして日本国内の事情でしか語られない状況を固定化してしまったのではないかと思われる点でも罪深いのではないかと秘かに思っています。
 そもそも太平洋戦争に至る経緯が、戦前の軍国・日本が全面的に悪かったとする自虐史観か、せいぜい開戦に反対する一派もいたとするややバランスの取れた国内抗争として描かれるか、いずれにしても日本国内の事情にこだわる論説ばかりであることに、私は不満を持ってきました。戦争は、外交の延長だとすれば、相手あってのこと、いわば相互作用の結果であり、一方的に非難される筋合いのものではないはずです。この点に関して、古くは江藤淳さんが「閉ざされた言語空間」で、最近では西尾幹二さんが「GHQ焚書図書開封」で、戦後日本で行われたGHQによる検閲の用意周到振りや偏向振りを丹念に検証し、SAPIO 12/28号で、西尾幹二さんが、連合国軍総司令部指令没収指定図書を調べることによって、戦前・戦中の日本人が、冷静に国際情勢を分析し、的確に「アメリカの戦意」を読み取っていたこと、そのように戦前の日米両国が衝突せざるを得ない宿命にあった事実を、戦後のGHQの検閲が隠蔽したがっていたことの一端を明かしています。
 清水馨八郎さんは、「侵略の世界史」で、米墨戦争(1846~48年)の開戦の契機が「アラモの砦の戦い」だったと述べています。この戦いは、アメリカが自国のアラモ砦を囮にして相手を挑発し、わざとメキシコ軍に先制攻撃させ、自軍に相当の被害を出させた上で、「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に戦争を正当化し、国民を鼓舞して反撃に移ったものだったと解説しています。その後、アメリカは、1898年、ハバナを表敬訪問中の米戦艦「メーン」を自ら撃沈させ、2060人もの乗組員を犠牲にし、これを敵がやったことにして、「リメンバー・メーン号」を合言葉に国民を戦争に駆り立て、有無を言わさずスペインに宣戦布告したと言います。「リメンバー・~」は、アメリカが侵略する時の常套手段になっているというわけです。
 リメンバー・パールハーバーという言葉は、それぞれの立場によって、いろいろな思いがこもっている言葉だと、前回、書きましたが、アメリカの指導者にとっては極めて恣意的に利用する言葉であることもまた思い知るべきでしょう。別にアメリカの指導者に限るものではありません。東京裁判やGHQの検閲で言論統制のみならず文化や伝統まで統制され、自立する国家としてはある意味で去勢されてしまった日本人は、今こそ、その迷妄を脱却し、冷徹な国際政治の現実に目覚めるべきだと思います。
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リメンバー・パールハーバー(上)

2011-12-11 11:45:42 | たまに文学・歴史・芸術も
 真珠湾攻撃は、時と共に経験・記憶で語られるものから単なる歴史の一コマとなって、人々の意識から薄れていくといった事情は、アメリカでも同じようで、6日のNew York Times(電子版)に“Pearl Harbor Still a Day for the Ages, but a Memory Almost Gone”(by Adam Nagourney)というタイトルのコラムが寄せられていました。
 日本でも「ハワイ州の真珠湾では攻撃の難を逃れた元米兵約120人を含む計約3000人が参加して追悼式典が開かれた」(産経新聞)と報じられましたが、毎年この日に記念式典を行って来たPearl Harbor Survivors Associationという団体が、この12月で解散することになったそうです。1958年に発足した当初は、真珠湾攻撃の時にオアフ島にいた元軍人28,000名もの名前が名簿に載っていたそうですが、今年9月には十分の一以下の2,700名まで減り、その会員の多くは90代に突入して加齢とともに自由に動けなくなり、会員の中から会を運営するための“president, vice president, treasurer and secretary”を選出することが出来ないため、内国歳入法501Cが定める免税措置を受けることが出来る非営利団体としての地位を維持できないという現実に直面したためということです。
 真珠湾攻撃については、ルーズベルトの陰謀説が根強い人気を誇って来ました。「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」(Wikipedia)というものですが、フーバー元大統領も、ルーズベルトのことを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことを、米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「Freedom Betrayed(裏切られた自由)」で明らかにしたそうです(産経新聞)。これはこれで知られざる歴史の一面を探る面白いテーマですが、これに拘り過ぎるのはどうかと思います。当時の緊迫した日米関係において、諜報戦も重要な戦術だったことは間違いなく、国際政治に謀略の要素がないと思う方がナイーブなのであって、ある戦略のもとに、多かれ少なかれ、様々な情報がルーズベルト大統領のもとに集まっていたことでしょう。問題は真珠湾攻撃がどれほど確からしいと判断していたかどうか、少なくとも、フィリピンのクラーク・フィールドの可能性が高く、ハワイのパール・ハーバーの可能性も否定できないといったところだったでしょうが、実はそれすらも、歴史の流れの中では小さな淀みに過ぎません。
 SAPIOの12/28号に「日米開戦70年目の真実」と題する特集記事が載っていて、真珠湾攻撃前に、真珠湾の様子を偵察していた外務省職員のことが紹介されていました。実は山本五十六が派遣した海軍予備役少尉で、1941年3月にホノルル総領事館に着任し、現地の女性とドライブしたり派手に遊ぶフリをしたりしながら、オアフ島の地形を観察して、東西に山脈が走る島の北側は曇天が多いけれども南側は晴れているため、「(前略)北側より接敵し、ヌアヌバリを通り、急降下爆撃可能なり」などと打電したり、毎週日曜日に最も多くの艦艇が真珠湾に停泊するといった、太平洋艦隊の“習性”を掴んだりして、本国に報告していたそうです。日本側でも小さいことながらこんな具合いですから、ルーズベルトは、肝心の主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事させて無傷とするも、それ以外は情報を掴んでいることを悟られないために平静を装っていたことでしょう。その結果、戦艦8隻を失いましたが、その内の6隻は後に引き揚げられて復帰したため、最終的にアメリカ軍が太平洋戦争中に失った戦艦はこの2隻のみであり、しかも、乗艦を失った乗組員は新たに建造された空母へと配置転換され、アメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けした(Wikipedia)とされますが、結果論に過ぎません。8隻を沈められたのは、初戦での損害として小さくなかったことでしょう。
 さて、冒頭のPearl Harbor Survivors Associationの話に戻ると、日本の攻撃が始まったのは、現地時間で日曜日朝7時55分という早朝で、戦艦などの艦船と飛行場などに集中したため、乗組員はほとんど下船していて人的被害は僅少だったのは当然で、だからこそ28,000名もの名簿を作成できたのでしょうが、ルーズベルト大統領がどう考えていようと知ったこっちゃない、というところでしょう。指導者にとっては、戦争は外交の延長でしかないと割り切ることが出来ても、身体を張って国を守る軍人としては、騙し討ちのような攻撃を受けた事実が全てであり、精神的なダメージは大きかったことでしょう。戦勝国とはいえ、たまたま日曜日早朝だったから難を逃れたものの、国家が惹き起こす戦争の被害者であり、あの時代状況の中で愛国心に燃えつつも戦闘を余儀なくされ、戦争に勝ったものの、戦争という大きなトラウマにその後の人生を支配されたであろうことを思うと、何とも言えない感慨を覚えます。私たちは後知恵で多かれ少なかれ歴史的事象として真珠湾を眺めるわけですが、彼らは自らの経験という極めて限られた状況のもとで記憶の中で生きているわけです。このAssociationのモットーは、“Remember Pearl Harbor --Keep America Alert-- Eternal Vigilance is the Price of Liberty.”だそうで、アメリカという、いかにも戦闘志向の強い国であることを思わせる言葉ですが、もともと西欧社会は自由を勝ち取ってきた歴史をもつことを考えれば、自らの人生を、そうした価値に昇華して正当化したい思いが伝わってきて、ちょっと敬虔な気持ちになります。リメンバー・パールハーバーという言葉は、それぞれの立場によって、いろいろな思いがこもっている言葉だと感じます。そしてこの12月で一つの記憶体が幕を閉じようとしています。こうしたそれぞれの思いを超えて、リメンバー・パールハーバーという言葉にどのような意味づけを与えていくのかは、残された私たちの課題です。
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ケビン・メアの弁明(後編)

2011-11-22 00:08:28 | たまに文学・歴史・芸術も
 「決断できない日本」(文春文庫)ごとき本でよくも引っ張るものだと思われるかも知れませんが、福島原発問題への対応をアメリカがどう見ていたかといったところの記述はなかなか興味深いものがありましたので、印象に残ったところを拾ってみます。
 メア氏が震災対応のタスクフォースに身を投じて早々の震災翌日午後、東京電力から在日米国大使館に「在日米軍のヘリは真水を大量に運べないか」と問い合わせがあったそうです。これを聞いたメア氏は、その時点では原発の状況に関する確たる情報が入っていなかったので、原子炉の冷却系装置が壊れたことを察知して、戦慄したといいます。しかもこれは、原子炉を傷め最終的に廃炉を余儀なくすることになる海水注入を躊躇っていることを意味し、拙劣な初動対応で貴重な時間を空費した疑いがあることにまで言及しています。本書ではこれ以上触れていませんが、私はこの部分の記述を読んで、施策として稚拙だったかどうかは別にして、在日米国大使館に問い合わせたのが日本国政府ではなく東京電力だったことに衝撃を受けました。政府は機能していなかったのか、敢えて東京電力に責任を押し付けていたのか。
 事故発生から数日間、情報が不足し、アメリカ政府は強いフラストレーションに苛まれ、菅政権は何か重大な情報を隠しているのではないかという疑念は、世界にも広がったと、メア氏は言いますが、それは私たち日本人も同様でした。メア氏は、当初から、日本政府は情報を隠しているのではなく、確かな情報を持っていないのではないかと睨んでいたそうですが、それは、日本では、原発で何らかの事故が発生した場合、直ちに運転を停止するという厳しい基準が設けられており、却って情報隠しが横行する温床になっているという見立てです。確かに、東電と経産省の関係もさることながら、以前、河野太郎氏が、東電の資料が“伏字”だらけだったことに不満を述べておられたのを読んだことがあり、東電の体質として特異なものがあることからも、さもありなんと私も思います。
 情報不足へのフラストレーションが頂点に達しつつあった16日の段階で、米軍無人偵察機グローバルホークを福島第一原発上空に飛ばして観測した結果、原子炉の温度が異常に高くなっている事実を把握し、原子炉燃料が既に溶融していると判断していたため、米国政府としては、なんと東京在住の米国民9万人を避難させることまで検討していたといいます。これに対し、メア氏は同盟国として一斉避難命令を思い留まるよう提言したことを自負し、結果として、福島第一原発周辺50マイルからの退避勧告程度で済んだことが、日米安保にとって不幸中の幸いだったと強調しています。
 とりわけ、アメリカ政府が危機感を一気に高めるきっかけになったのが、天皇陛下のテレビ・メッセージだったというのは、なかなか興味深い指摘です。しかし、私たち日本人には、危機感を強めるよりも、頼りない政府に代わって、戦後最大の国難ともいえる危機的状況に直面した日本国民が一致団結してことにあたるよう、日本国の元首が直接発した激励のメッセージと受け止めたのではなかったでしょうか。
 その結果、アメリカ政府は、米国時間16日、藤崎駐米大使を国務省に呼び、You need an all of government approach.といった強い調子で、日本政府が総力を挙げて原発事故に対処するよう異例の注文を付けたそうです。これを読んで、2年前のクリスマス休暇前の出来事をデジャヴのように思い出しました。あの時、当時の鳩山総理は、COP15の晩餐会で隣に座ったクリントン長官に、普天間基地移設の現行計画に代わる新たな選択肢を検討する方針を説明し、結論を暫く待ってもらうよう要請し、基本的に理解してもらえたと記者団に語ったのが、実は独りよがりで、雪の日、クリントン長官はわざわざ駐米大使を呼びつけ、普天間基地のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設という日米合意の早期履行を求め、誤解を正したのでした。政府が頼りないばかりに、駐米大使もたまったものではありません。
 そんなアメリカにとって、菅政権が危機打開へ何ら有効な対策を打ち出せていないことは承知していたものの、翌17日にようやく自衛隊のヘリ一機が三号機に散水したのを見て、日本のメディアが「自衛隊の英雄的な放水作戦」と褒めそやしたのに反し、あの日本政府が成し得たことはこの程度かと、アメリカ側は絶望的な気分を味わったといいます。そして、海水投下作戦は、その効果のほどはともかく、何かをやっていることを誇示せんとする、政治主導の象徴的な作戦、いわば菅総理の政治的パフォーマンスにしか見えなかったと振り返ります。あの段階で執りうる選択肢にはどういうものがあったのか、早く検証結果を聞いてみたいものですが、私たち日本人も、この程度で大丈夫かと、半ば焦燥感に駆られていたのは事実でしたが、情報不足から、とにかく頑張ってほしいという思いが強かったのも事実でした。アメリカ側は飽くまで冷静に事態を注視していたことが分かります。
 そしてメア氏は、国務省タスクフォースでの勤務中にも出会った役所的対応を暴露します。原発事故後、米国が日本に支援出来る品目リストを送ったところ、日本からはどの支援品目が必要だといった回答ではなく、支援リストに記載された無人ヘリの性能や特徴に関する事細かな質問だったり、放射能で汚染された場合の補償はどうなるのかといった質問などのやりとりで、およそ二週間が空費され、平時のお役所仕事がまかり通って、およそ緊迫感がなかったと述べています。
 日本の危機対応の弱さは、リーダーシップ論としてつとに指摘されて来て、今回はそれに輪をかけて、民主党という政治に不慣れな政権党が、政治主導の美名のもとに、官僚組織を自民党寄りと警戒して信用しないばかりにその力を活かし切れず、さらに個人の力量としても指導力に問題があることで定評のある元・市民運動家の総理大臣を頂いていた不幸がありました。今となっては詮無いことですが。
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ケビン・メアの弁明(中編)

2011-11-20 16:39:30 | たまに文学・歴史・芸術も
 「決断できない日本」(文春文庫)は、日本人論の系譜にあると見る書評もあるようですが、沖縄問題を含む安全保障の分野で、主権国家としての日本(とりわけ民主党政権)の対応を批判しているだけで、詰まるところ、ケビン・メア氏の弁明の書に過ぎません。
 さてその核心部分で、「沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人(master of manipulation)」などと誤解されるもとになった話は、補助金システムにまつわるもので、日本政府は、沖縄の米軍基地再編計画を実行するためには地元のコンセンサスが必要と言い、地元の政治家はコンセンサス社会であることを逆手にとって、日本政府と交渉して毎年百億円になんなんとする補助金(名護市を含む北部振興策)を引出し、その補助金を手放したくないがために基地移転に反対し、事態が進捗しない手詰まり状況に、メア氏の苛立ちが表現されたもののようです。また、「沖縄は怠惰でゴーヤーも栽培出来ない」と報じられるもとになった話は、沖縄にマンゴーやパパイヤなどの亜熱帯産の果物がなく、地元名産のはずのゴーヤーですらも時に宮崎などから取り寄せており、台湾や東南アジア産に比べて価格競争力がないサトウキビが相変わらず栽培されているのは、ひとえにサトウキビ栽培に補助金が出ているからだと断じるのが趣旨だったようです。日本人なら、そういうこともあるだろうと頷けるような内容で、日本滞在19年のメア氏にとっても目新しいものではなかったでしょうに、ここに来て何故、舌禍からとはいえ嵌められて、国務省東アジア・太平洋局日本部長を辞任するまでに至ったのでしょうか。
 産経新聞を検索していたら、メア氏への5年前のインタビュー記事が目に留まりました。当時、米軍普天間基地移設問題で名護市に建設する代替施設について、沖合に移動させるかどうかが焦点になっており、メア氏からは、安全性向上と騒音軽減に向け、地元・沖縄への配慮を真摯に訴える姿が伝わってきます。ところが、最近はその沖縄との関係もこじれ、ある政府高官からは、日本部長に就任した09年以後のメア氏は「日米協議で嫌みなことばかり言う」と露骨に敬遠されていたと言われており、この5年間で、随分、メア氏を取り巻く環境が変わったことがうかがえます。本書では「由々しき危機に際して、日本のリーダーには決断力や即効性のある対応をする能力がない」と断じるなど、そのフラストレーションは、自らのありようよりも、日本側の対応へと責任転嫁しているように見えます。
 この5年間で風向きが変わったことが、本書でも簡単に触れられています。2006年5月の日米安全保障協議委員会(2プラス2)で、ようやく10年越しの「米軍再編実施のための日米のロードマップ」が策定され、普天間基地の代替施設が14年の完成を目標とし、キャンプ・シュワブ沿岸部に滑走路二本をV字型に設置することが盛り込まれました。ところが、同年11月に初当選した仲井眞沖縄県知事は「普天間基地の閉鎖状態」を公約し、翌07年1月、名護市はV字型滑走路の沖合移動を要求し、08年7月、沖縄県議会はシュワブ移設反対決議を可決するというように、国家の専権事項たるべき安全保障政策が、地方政治によって反故にされるかのような動きが続き、ついには翌09年9月に鳩山首相自らが普天間基地の県外移設を唱えてパンドラの箱を開けるに至ったのは周知の通りです。この2006年から09年までの5年間は、メア氏が沖縄駐在の総領事だった時期に重なります。
 そして本書では、この間の、地元とメア氏との確執の模様が、多くはメア氏に不利な内容で報じられたことが取り上げられています。
 例えば2006年7月、まさに総領事として着任する日に、嘉手納基地に初めて弾道迎撃ミサイル・パトリオット(PAC3)が配備されることが発表され、数か月後に弾頭部分が基地に運び込まれる作業が、デモ隊によって妨害されるという事件が起こります。しかし地元警察は全く動こうとしなかったため、沖縄防衛局(防衛省の出先機関)に問い合わせたところ、総領事から、直接、県警に要請した方が良いと言う。仕方なく地位協定に基づく権利を行使する要請書を県警にFAXで送って、ようやく妨害行為が排除されたのですが、マスコミはこの結果だけを見て、メア氏が県警に命令書を送り付け、占領軍の司令官のように振舞ったと報じたそうです。メア氏は、これを、責任をとりたくない日本の役所の体質があぶり出された例として挙げています。
 また、08年7月には、普天間基地を抱える宜野湾市長が、同基地は米軍の安全基準にも違反していると指摘したのに対して、メア氏が「基地外の建設を制御する安全基準で、逆に滑走路の近くの基地外に何故、宜野湾市が建設を許可しているのかという疑問がある」と反論し、物議を醸したそうです。米国には、当然、基地の外側に建築規制を設けて安全性の向上を図る仕組みがありますが、実際に普天間基地の近くの航路上に高層マンションが建設された時、日本政府は、民間空港の周辺の建築を規制する法律はあるが、在日米軍の基地を対象にした安全基準としては適用されるものではないと解釈し回答したそうです。そのため、飛行ルートに高いアンテナを建てたのが、強制撤去できないことを知っていた暴力団関係者で、結局、防衛局が買い取るハメになったという話まであるそうです。こうして基地周辺の土地は利権化し、日本政府の借地料のついた土地が売買の対象になって取引されるだけでなく、基地の底地に対しても、日本政府から3万9千人の地主に支払われる借地料は918億円(11年度)にのぼり、沖縄では地価が下がっても借地料は年々値上がりし続けていると言います。
 そのほか、湾岸戦争の時に創設された物資協力基金の使い道を巡って、武器輸出三原則の制約のある日本当局との根回しや、官僚機構とのうんざりするようなやり取りにつき合わされて、ついにはThe Japanese bureaucracy is the only bureaucracy that I know can give you 11 billion dollars and piss you off.(110億ドルもの巨額資金をプレゼントしておきながら、相手をカンカンに怒らせるような役所は日本の役所だけ)などと同僚にぼやく話も出てきます。
 弁明の書だと揶揄しつつも、事例まで取り上げて詳しく紹介して来たのは、今の日本が、所謂お役所仕事や、政治主導と言いながら政局に明け暮れて、国家としての大局を見誤りはしないかという、メア氏の憂慮を、私も共有するからです。
 これも本書の中に出てくる話ですが、同時多発テロ事件後、米国は原発に対するテロ攻撃の脅威を真剣に受け止めて対策に乗り出し、日本政府当局者と意見交換した際、原発警備のため、銃で武装した警備要員を配置する必要性を力説したところ、「日本で銃の所持は法律違反」だからと、必要性を否定されたそうです。米国は常にどこかで戦争をしていて、平和ボケの日本とは、危機に対する発想が根本的に異なるのだとメア氏は言います。アメリカでは原発防御は対テロ戦の重要な項目になっており、過激派に乗っ取られた航空機が原子炉に突入し、原発が全電源を喪失した事態を想定するシミュレーション訓練も(確かに話には聞きますが)定期的に実施されているそうです。その意味で、日本が平安時代の貞観津波の例を引いて、想定外と嘯いたのは、想像力が足りないというわけです。
 次回は、メア氏が、国務省東アジア・太平洋局日本部長を解任されたあと、その東日本大震災に見舞われた日本を支援する「トモダチ作戦」のために国務省タスクフォースのコーディネーターに起用され、ホワイトハウス、国防総省、在日米軍、在日本大使館、それに福島第一原発事故に対応する必要から、エネルギー省、原子力規制委員会などとの調整を行う中で、彼が目にした日本の震災対応の内幕について、取り上げたいと思います。
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ケビン・メアの弁明(前編)

2011-11-05 11:16:45 | たまに文学・歴史・芸術も
 「沖縄人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人」などと差別的な発言をしたことの責任を取ってアメリカ国務省日本部長を辞任したケビン・メア氏(元・沖縄総領事)の「決断できない日本」(文春新書)を読んで、誰がゴースト・ライターだったのだろうかと、つらつら考えていたら、WILL12月号に掲載されている櫻井良子さんとケビン・メア氏の「『決断できない』野田総理」という対談の中で、櫻井さんが、文芸春秋の担当編集者の話によると、この本はメア氏が語ったままの日本語を文字にしたものだ、と言われているのを見て、些か驚かされました。
 確かにメア氏は、日本人の奥様をもち、日本滞在が19年にも及ぶ知日家だそうで、それなりの機微をもって語ったことを文字に起こすのに、それほどの造作は必要なかっただろうと想像されます(それでも、どこまでが本人の発言かの疑問は残りますが)。そして「ゆすり」発言に戻ると、日本に長く住む外国人が、おまけに日本人の妻を娶って、日本のことを悪しざまに言うのは、合理性の観点から、私には俄かに信じられません。それに近い誤解を招くもののいいがあったのは事実でしょうが、残念ながら左翼系のメディア(記者、あるいはその背後の勢力があったかどうか知りませんが)に嵌められた部分はあったのだろうと思われます。
 実際に、沖縄に住んでいない私には、メディアを通して声が大きい人の言葉しか伝わらないので、沖縄の人たちが実際にどう思っているのか分からなくて、軽はずみなことは言えませんし、米軍を、大日本帝国軍から解放したとして今なお感謝する人(本文にかかる記述あり)がどれだけいるのか想像もつきません。複雑な過去をもち、日本の、ひいては北東アジア地域の冷戦構造を日本において今なお凝縮して引き摺っていて、現代の私たちの想像を絶する、というのが正直なところです。それを象徴するエピソードが、普天間基地移設を巡る問題で、目の前にある学校が危険なので日本政府が移転させようとしたところ、当の宜野湾市長が移転に反対するのは、学校を移転したら基地反対を叫べなくなるからだと言う、メア氏はこれこそ革新系地方政治家の正体だと喝破しますが、原発の議論でも出てくるかのような、学校をすら政争の具にする本末転倒の摩訶不思議と言うべきでしょう(注:前・宜野湾市長は、名誉毀損容疑でメア氏を告訴)。
 思えば日本には多くの不作為があり、原発をまともに議論して来なかったのもその一つですし、沖縄に真正面から取り組んでこなかったのもその一つで、日本においては何故か原子力や安全保障論議がタブー視されてしまいます。その不毛さはGDP(当時はGNPだったかも知れない)1%という防衛予算枠が国策だった時期があるところに端的に表れていて、形式的には枠がなくなった今も実質的には変わらなくて、日本が置かれた地政学的な難しさや安全保障の何たるかは多少なりとも然るべきところで議論されているのでしょうが、そこから国防の装備の必要性を考えるのではなく、先ずは予算ありき、まるで家庭の主婦や主夫が、そもそも稼ぎをどうするとかどこに住むとかどういう生活設計をするなどを考えるよりも、とりあえず今の稼ぎで家計をやりくりするのに似た自転車操業的な近視眼性と戦略不在を思わせます。実はこれは日本だけに起因する問題ではなく、太平洋戦争の敗北を機に、歴史観を塗り替え思想的に統制してきた戦後統治の問題でもあります。アメリカの日本に対する戦略的な「意図」は、当然のことながら本書の中では触れられることはほとんどなく、あるのは「トモダチ作戦」をアメリカの善意とのみ記述するだけの偽善です。
 本書の目的は、「ゆすり」発言のメア氏の名誉回復を図ることが先ず第一であり、それ以外にも過去に率直に語ってきたがためにマスコミ(とりわけ地元・沖縄のメディア)が意図的に捻じ曲げてきたメア氏の発言の真意をただすことを主眼にしたもので、それはそのまま、在日米軍を巡るアメリカ側の宣伝臭さはあるものの、国務省や国防総省の「公式」のスタンスを伝えるものであり、その結果として、普段、新聞などではなかなか報道されにくい事実関係に言及されているなど、偏った報道を矯正し、沖縄の基地問題を多少なりとも公平に、かつ多面的に再構成することが出来るという意味での良書にはなっていると思います。
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天災は忘れたころに・・・(後編)

2011-10-10 23:21:48 | たまに文学・歴史・芸術も
 寺田寅彦氏「天災と日本人」(角川ソフィア文庫)から、以前、科学者の視点で天災と国防について語ったエッセイから印象に残った言葉を抜き書きしました。実は氏には、もう一つ、天災をはじめとする日本の気象や地理が日本人の民族性を形作っているとする視点でのエッセイもあります。この時期に、講談社学術文庫が「天災と国防」と題し、また角川ソフィア文庫が「天災と日本人」と題する、エッセイのアンソロジーを相次いで出版した所以でもあります。今日は日本の自然と日本人観について、印象に残った言葉を抜き書きします。
 日本の自然、先ずは気候の特異性を説明されます。日本は温帯にあって、「最も寒い地方から最も暖かい地方までのあらゆる段階を細かく具備し包含している」こと、「そうした温帯の特徴は季節の年周期」にあること、熱帯も寒帯も、昼夜はあるが季節も天気もないことから、いろいろと予測しがたい変化をする『天気』という言葉自体も温帯でこそ意味を持つ言葉だと述べられます。さらに温帯の中でも、日本は他国と比べて特異性を持つ原因は、「日本が大陸の周縁であると同時にまた環海の島嶼であるという事実に帰することが出来る」と言います。一般に「大陸の西側と東側とでは大気並びに海流の循環の影響で色々の相違がある」ことが知られますが、とりわけ日本のように、「大陸の東側、大洋の西側の国は気候的に不利な条件にある」ということです。
 気候に続いて重要なのは、土地の起伏水陸の交錯による地形的・地理的要素であるとして、先ず、「日本の土地が云わば大陸の辺境の揉み砕かれた破片である」こと、このことは「日本の地質構造、従ってそれに支配され影響された地形的構造の複雑多様なこと、錯雑の規模の細かいことと密接に連関」しており、「極めて複雑な地形の分布、水陸の交錯を生み出し」、それが「居住者の集落の分布やその相互間の交通網の発達に特別な影響を及ぼさないではおかない」のであり、このような地形は「漂泊的な民族的習性には適さず、むしろ民族を土着させる傾向をもつ」と述べられます。
 こうした土地に固有な火山現象の頻出が更に一層その変化に特有な異彩を添え、「動かぬものの譬えに引かれる吾々の足下の大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はない」ということになります。その一つの典型が、「人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した」のに対して、「東洋の文化国日本にそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかった問題」に表れており、日本では、“母なる大地”に象徴されるように「自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてその懐に抱かれることが出来る」と同時に「我々のとかく遊惰に流れやすい心を引き締める『厳父』としての役割を勤める」結果として、「自然の十分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を収集し蓄積する」ことに勤めて来たというわけです。こうして、以前、このブログの別の稿で触れたように、日本人は「科学」と言うより「技術」を発達させ、今もなお「科学」はさることながら「思想」で処理することすらも「技術」で克服する民族性が育まれたのだろうと、私は思います。
 こうした「特異な環境に適応するように育て上げられてきて、何らかの固有の印銘を残していること」の一つに、かつてテレビCMで日本語で「風」を表現する言葉が多いことに触れたものがありましたが、寺田寅彦氏は、「春雨」「五月雨」「時雨」のように、雨の降り方も実に色々様々の降り方があり、それらを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本は恐らく世界随一ではないかと述べています。同じように、「花曇り」「霞」「稲妻」なども他国では見られない表現だと言います。
 そのほか、衣食住をはじめとする日本の文化が、こうした日本の特異な自然環境に規定されるとして、いくつか事例が紹介されます。
 先ずは日本人の常食に関して、新鮮なものが手に入りやすいことから、余計な調味で味付けするのではなく、新鮮な材料本来の美味を、それに含まれる貴重なビタミンとともに、自然のままで摂取するほうが快適有効であることを知っていること、そして、食物の季節性に関しても、「はしり」を喜び「しゅん」を尊ぶ日本人は、「年中同じように貯蔵した馬鈴薯や玉葱をかじり、干物塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人や支那人、あるいはほとんど年中同じような果実を食っている熱帯の住民」とは対照的だと述べます。
 日本の家屋で木造が発達したのは良材が得やすいからに相違ありませんが、床下の通風を良くして土台の腐敗を防ぎ、庇(ひさし)と縁側を設けて日射と雨雪を遠ざけるというように、日本の気候に適応した設計を施していますし、障子は、光を弱めずに拡散する効果があり、風の力を弱めてしかも適宜な空気の流通を調節する効果をもち、「存外巧妙な発明だ」と述べています。
 住居に付属する庭園もまた、西洋人と日本人とで格好の対照をなし、「西洋人は自然を勝手に手製の鋳型にはめて幾何学的な庭を造って喜んでいるのが多いのに対して、日本人はなるべく山水の自然を害うことなしに住居の傍に誘致し自分はその自然の中に抱かれ、その自然と同化した気持ちになることを楽しみとする」と言います。盆栽・活け花のごときも、また花見遊山も、月見や星祭までも、日本人にとっては庭園の延長(圧縮あるいは庭を山野にまで拡張するもの)であり、床の間に山水花鳥の掛け軸をかけるのもまたそのバリエーションと考えられなくもない、と言います。
 最後に、話は日本人の精神生活に及びます。「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれ」、「日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然」であろう、「山も川も樹も一つ一つが神であり人でもある」のである、と。また、「仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有する色々の因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい」、「思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思う」と述べていて、慧眼だと思います。本書の解説の中で、山折哲雄氏は、和辻哲郎氏の「風土―人間学的考察」が、寺田寅彦氏の「日本人と自然観」と同じ年にまとめられながら、和辻氏が、西欧の牧場的風土、中東やアフリカの砂漠的風土に対して、日本のモンスーン的風土を対比して論じているだけで、地震的性格について何一つ触れられていないのが不思議だとしつつ、台風的契機を重視して「慈悲の道徳」に着目したのに対し、寺田寅彦氏は地震的契機を取り出して「天然の無常」という認識に到達した、その対照性に無類の知的好奇心を覚える、と結んでいます。
 寺田寅彦氏の論考の一つひとつが、今となっては私たち日本人には既に馴染みのことと思います。それを敢えて引用したのは、環境問題やエネルギー政策を考える時に、日本の風土が世界でも類まれな存在であること、こうした私たち日本人の置かれた環境をあらためて振り返ることも、無駄ではないだろうと思ったからです。

(追記)2011/10/23
 和辻哲郎氏の「風土」は、学生時代に本を買ったまま後生大事にしまいこんで、いまだに読んでいなかったなあと思いだしたところへ、「梅棹忠夫 語る」(日経プレミアシリーズ)を読むと、和辻哲郎氏のことを批判する言葉がぽろぽろ出てくるので、ますます読みたくなりました。「和辻さんという人は大学者にはちがいない。ただ『風土』は間違いだらけの本だと思う。(中略)自分の眼で見とらんからです。(ヨーロッパが)何かもう非常に清潔で、整然たるものだと思い込んでいる。(中略)見せかけに騙されるのならまだいい。それと違うな。あれは思い込みや。」このあたりは、同じ書で「私は自分で見たものしか信用しないし、他人の繰り返しは出来ないのや。」と言い放つ、フィールドワークを生涯をかけてベースとされてきた氏のあるいは京都学派の面目でしょうか。梅棹氏には「文明の生態史観」という名著があり、これも氏は「足で発想した」と言い、「日本はヨーロッパと同じや」「インドが東洋なら日本は東洋ではない」などと過激なことを言われ、こちらの本もまた再読したくなりました。
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天災は忘れたころに・・・(前篇)

2011-09-25 22:24:38 | たまに文学・歴史・芸術も
 東日本大震災を契機に、寺田寅彦氏による自然災害と科学や日本人の精神性に関するエッセイのアンソロジーが、講談社学術文庫(「天災と国防」解説・畑村洋太郎、2011/06/10)と角川ソフィア文庫(「天災と日本人」解説・山折哲雄、2011/07/23)から相次いで出版されました。ほとんど重複する内容ですが、解説者に対する好みとタイトルに惹かれて、「天災と日本人」の方を読みました。
 思えば、東日本大震災の時に「日本沈没」という些か誇大妄想な言葉で心をよぎった漠然とした不安は、私たち日本人が戦後の廃墟から立ち上がり営々と築き上げ、一度は世界を席巻した産業文明の象徴たる巨大都市・東京が崩壊する(と言って大袈裟なら、機能マヒする)かもしれないという底知れない恐怖であり、同時に、こうした高層ビル群に象徴される文明社会が災害によって崩れ去る脆さを目の当たりにした虚無感のようなものでした。
 寺田寅彦氏は、本書の中で、「文明が進むに従って人間は自然を征服しようとする野心を生じ」、「重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った」、ひとたび大災害が起こった時に、「運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きく努力するようにしているものは誰あろう文明人そのものである」と科学者らしい表現でシニカルに述べます。また、二十世紀の現代では、日本全体が「高等動物の神経や血管と同様に」「各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交差し、色々な交通網が隙間もなく張り渡される」いわば「一つの高等な有機体」であり、「その有機系のある一部の損害が系全体に対して甚だしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがある」と、21世紀の現代ほどのネットワーク社会は予想できなかったでしょうが、「文明が進むほど天災による損害の程度も累積する傾向があるという事実」を十分に自覚し、平生からそれに対する防御策を講じなければならないと見通しています。
 これらのエッセイが書かれたのは、関東大震災や室戸台風があった大正末期から昭和10年位までのことで、筆者は当時の被災地を見て、「過去の経験を大切に保存し」「過去の地震や風害に耐えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守」していたからこそ、「そうした経験に従って造られたものは関東大震災でも多くは助かっている」のに対し、「ひどい損害を受けたおもな区域はおそらくやはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないか」と述べているのが興味深い。同じ土地に集落が続く限りは、長老の経験も多かれ少なかれ受け継がれるのでしょうが、旧道には津波が届いたことを示す石碑があったのに新道が出来てからは津波のことが忘れられた、などの事例に見られるように、再び戦後さらに高度成長期にも開発が進み、それまでに「旧村落が『自然淘汰』という時の試練に堪えた場所に『適者』として『生存』している」のを越えて生活領域が広がったがために、災害に弱い街ができてしまっているであろう現実が想像されます。
 こうして「日本のような特殊な天然の敵を四面に備えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ、科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然」と提言されているのは卓見です。今回の東日本大震災でも活躍したのは、警察・消防もさることながら、自衛隊でした。救助と災害復旧に20万人規模の自衛隊の内の実に半分を動員し、まさかこうして困っている時に乗じて、例えば尖閣諸島を乗っ取るなどといったような悪意ある隣人はいないでしょうが、国防という観点からは、極めて異常な事態ではありました。小泉内閣以来の公共事業予算削減によって、土木・建設業界が弱体化し、災害復旧を遅らせたなどと批判する人がいましたが、本来、災害復旧のために土木・建設業界を養うのは筋ではありません。
 更に、「政治法律経済といったようなものがいつの間にか科学やその応用としての工業産業と離れて分化するような傾向」があり、「科学的な知識などは一つも持ち合わせなくても大政治家大法律家になれるし、大臣局長にも代議士にもなりうるという時代が到来し」、「科学的な仕事は技師技手にまかせておけばよいというようなことになった」ために、「科学者の眼から見れば実に話にもならぬほど明白な事柄が最高級な為政者にどうしても通ぜず分からないために国家が非常な損をしまた危険を冒していると思われるふしがけっして少なくない」、「政治には科学が奥底まで浸透し密接にない交ぜになっていなければ到底国運の正当な進展は望まれず、国防の安全は保たれないであろう」と嘆いています。科学を中途半端にかじった政治家でも災いをなすのであって、実に現代においても示唆に富んでいると言わざるを得ません。「国運」という、些か古めかしい日本語が、現代的な意味を帯びて私たちの心に迫って来ます。
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ムラ社会の論理

2011-08-18 00:06:04 | たまに文学・歴史・芸術も
 ある経営倫理関係の雑誌に、萩原誠さん(元日本原子力学会倫理委員会委員)が、「利害を共有する集団が集団外の利害関係者(ステークホルダー)を軽視し、唯我独尊の行動を取ることを、”ムラ社会の論理”という」という書き出しで、エッセイを寄せておられました。その中で、「”ムラ社会の論理”は、『都合の悪いことは見ない、なかったことにする、外に漏らさない、既得権益は守る』」であり、「この”ムラ社会の論理”は原子力発電業界だけでなく、多くの業界に蔓延している」と述べておられます。まさに、昨日のブログで書いたことは、官僚組織にとどまらず、実は私の会社にも顕著に認められますし、およそ日本の多くの組織に、多かれ少なかれ見られる特性だと言えます。
 「ムラ社会の論理」という端的な形容に、そうだったと、はたと膝を打った次第。日本の組織による国際社会への不適合のかなりの部分は、この論理で説明できるような気がします。
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六十五回目の夏(10・完)エリート

2011-08-17 00:24:37 | たまに文学・歴史・芸術も
 昨日、六十六回目の終戦の日を迎えました。このタイトルで書き始めたのは昨年9月初め(六十五回目の夏)のことで、遅くともこの3月にはシリーズを書き終える予定でしたが、大震災のどさくさに紛れて遅くなってしまいました。
 これまで先の戦争の諸相を追って来ました(先の戦争と言っても、私は京都人ではありませんので戊辰戦争のことを言っているのではありません)。太平洋戦争を論じる場合、いろいろな視点があり得ますが、巷には組織論的なアプローチが圧倒的に多いように思います。日本人にとって永遠のテーマなのでしょう。そして、大震災のどさくさに紛れている間に、太平洋戦争におけると同様の組織論的な問題が、大震災とりわけ原発問題ではしなくも露わになったように思います。既にこのブログに部分的に記述しましたが、あらためて私なりに太平洋戦争を、大震災とりわけ福島原発問題とのアナロジーで、組織論的に総括してみたいと思います。
 大震災で最も印象に残ったのは「想定外」という言葉でした。肯定的に受け止めたのではありません。むしろ逆で、未曾有の大震災と言うのは、私たちの経験になかっただけのことで、震度にしても津波の大きさにしても、歴史を紐解けば容易に想定できたはずでした。もっと言えば、自然界に想定外などないと言った科学者もいました。そうだとすれば、一体、誰のための何のための想定だったのか。実は、責任をもって進めるべき当事者が、本来の目的を離れて予算などの別の制約条件によって、自らの責任範囲を限定し、言い訳として語っているに過ぎないわけです。似たような事例を、太平洋戦争でも見つけることが出来ます。例えば、1940年9月、日本は独・伊との間で三国同盟を締結し、アメリカを牽制しようとしましたが、アメリカの対日感情は却って(想定以上に)悪化してしまいます。1941年7月、日本は南部仏印に進駐し、東南アジアからの物資調達ルートを確保するとともに、ビルマにおけるアメリカの援蒋ルートを牽制しようとしましたが、英米蘭による日本の在外資産凍結や米による対日石油禁輸など過剰反応を招き、アメリカとの関係悪化は決定的になりました。現実離れした視野の狭い楽観的な見通しは、端的に誤算だったにも係らず、想定外として責任追及を免れようとしている点で、原発問題と通底するものがあるように思います。
 当事者というのは、誤解を恐れずに言えば、官僚組織ということになります。
 日本においては、明治維新の当初こそ政治主導が輝かしい歴史を残しましたが、以後、官僚組織が圧倒的な権力を握ります。明治憲法は「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」と定めていました。輔弼とは天皇の大権行使に助言することであり、誤りがあれば責任は天皇でなく各大臣が負うものでした。大臣の独立性が強く、輔弼制度のもとで、大臣の任免権は首相にはなく、首相も内閣の一員に過ぎませんでした。そのため、後に、陸軍大臣が辞めて内閣が瓦解するという、今では信じられないことがざらに起こるようになります。これは、伊藤博文が、天皇主権の絶対君主制と、議会の存在を認め大臣の輔弼責任を前提とする立憲君主制という、二つの異なる原理を両立させようとした苦肉の策と言われます。伊藤博文は、権力を天皇に集中させ、自由民権運動などの政党勢力に対抗しようとしたわけです。結果として、輔弼というシステムは、首相に権力が集中するのを避け、天皇の地位が空洞化するのを防ぐ一方、天皇に最終的責任を負わせないで済む仕組みで、権力は分散し、責任は曖昧になりがちでした。こうした日本独特の権力の中空構造の中で、官僚組織が確実に権力を浸透させていきます。戦前においては参謀本部こそ官僚組織の典型だったと言われます。
 太平洋戦争を語る時、「軍部」と言えば大本営・陸軍部(参謀本部)及び大本営・海軍部の「作戦部」のことを指します。陸大、海大の成績トップ5番までしか入れないという暗黙のルールがあるエリート集団でした。天皇陛下の命令=大本営命令は、作戦部が原案を作成し、作戦部長、参謀総長の承認を経て、最終的に天皇の裁可を得て発令されます。そのくせ、統帥権独立のタテマエから内閣や議会は直接関与できませんし、天皇陛下が原案を拒否することも先ずありません。そしていったん天皇陛下の裁可を受けると、参謀総長と言えども後には引けませんし、機関説を奉じていたとされる天皇陛下も、遠慮されて、上奏されない限り自ら命令変更することはありません。結局、走り出すと、誰も失敗を言い出すことは出来ないものですから、失敗を改めることも出来ない、もっと言うと、失敗そのものを認められない組織構造になっていました。こうしたエリート組織の悪しき習性は、戦後にそのまま引き継がれているように思われます。
 エリートだから悪いわけではないでしょう。ただその高い地位にも係らず、世界で何が起こっているのかということに対して感度が鈍いとしたら・・・。外の変化に目を向けるより、内なる権力闘争(例えば陸軍vs海軍)にばかり関心を向けていたとしたら・・・。官僚として、公僕として、国益(太平洋戦争の当時は日本の安全であり、原発問題においては国民の安全)を追求するより、自らが所属する狭い組織のメンツや省益にこだわるとしたら・・・。実際、官僚の一人ひとりは飛びっきり優秀で志も高く、憂国の情に燃える人が多かったと思いますが、組織としては、何故か、物事の本来の存在意義や目的を矮小化し、逸脱して、なおその責任の自覚が乏しいことが、日本の官僚制の問題であるように思います。66年の時を経ても、なお・・・?
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プリンセス・トヨトミ

2011-07-03 15:16:32 | たまに文学・歴史・芸術も
 5月28日から公開されている映画の原作を読みました。最近は映画をほとんど見なくなった私が、「東京島」といい、本作といい、原作を読むのは、ひとえに、出張の機内で読んで、現地駐在員に進呈するのにちょうどよい軽さだと思うからに他なりません。しかし、この本は文庫で500頁を越える厚さで、北京や上海が予想以上に近かったために、情けないことに読み切れずにわざわざ持ち帰って読むハメになりました。
 映画化されたキャッチコピーは「大阪全停止。その鍵を握るのは、トヨトミの末裔だった。」
 その設定の奇抜さが命とも言える作品です。著者自身のふるさとであり、著者自身も語っているように、所謂「吉本」が築き上げたイメージに乗らないように、マスコミやテレビのバラエティで強調されている大阪色に染まらないように(文藝春秋のインタビュー)、描くことにはそこそこ成功しており、実はその媚びない抑制した姿勢こそが設定の奇抜さを支えるベースとしての雰囲気を醸し出し、その肩の力の抜け加減に好感が持てます。
 大阪にもいろいろあって、大阪の下町育ちで、こってり系の根っからの大阪人もいれば、私のように九州で生まれながらモノゴコロつく頃から大阪にいて、大阪近郊のベッドタウン、いわば周辺で巨人ファンを標榜しながら吉本の息遣いを感じて育つというような、あっさり系の大阪人が多いのもまた現実です。それは東京も同じことでしょう。いずれにしても、人々は移ろい行くけれども、その人々の思いが長年にわたって雨水とともに染み込んで形作る土地柄、その土地から汲めども尽きぬ湧き水のように湧き上がる精神のようなものがあり、その中心地に近づくほどに根強いパワーがあります。
 大阪の土地柄は、本書でも述べられている通り、江戸時代、天領でありながら武士が1%にも満たなかった町人の町としての面目です。おかみの権力をものともせず、天皇さんと呼んで権威にもなれなれしい、日本では珍しいくらい東南アジア的な喧騒に充ち満ちた、アクの強い町。高校・大学と、JR京都線や阪急電鉄京都線を通学に使っていた私にとって、就職して初めて使った東急東横線やJR山手線のホームで整然と列をなして順番を待つお行儀の良さは驚嘆に値しました。
 この作品は、そんな大阪という土地柄の深層心理をモチーフにしています。受け継がれるものの不思議、時に受け継ぐことの馬鹿馬鹿しさ、その精神が衰えているのではないかという危惧、そのパワーを信じたい思いが、奇想天外なストーリーの中にそこはかとなく感じられます。それぞれの登場人物の名前に歴史上の人物を連想させ、辰野金吾という建築家にまつわるウンチクを語らせて、伏線となし、大マジメにふざけながら、うまくその境界を泳いで、エンターテインメント小説に仕立てています。ちょっと冗長過ぎるところで、★一つ減。
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