法隆寺
推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇により創建されたと伝わります。
「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があり、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられます。現存する世界最古の木造建築群として往時の姿を今に伝えています。
4月5日訪れました。
参道は松並木になっており、参道を抜けたところに南大門(国宝)があります。
境内は西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物は55棟。
全体は大垣(重要文化財)と呼ばれる築地塀に囲まれています。
法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置になっており、寺の中心である西院伽藍には、五重塔(国宝)と金堂(国宝)が並び、中門(国宝)と大講堂(国宝)をつないで回廊(国宝)が囲む。東に向かって東大門(国宝)を抜けたところに夢殿(国宝)のある東院伽藍が見えます。国宝は38件・150点、重要文化財を含めると約3000点。
法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録されました。
~東院伽藍~(夢殿)方面
<手水舎>
入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)ですが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立っています。
左右に塑造金剛力士立像を安置。
【聖徳太子1400年遠忌】
法隆寺(斑鳩町)で3日から営まれていた聖徳太子の1400年遠忌(おんき)の「御聖諱(ごしょうき)法要」が5日、結願(けちがん、最終日)を迎えました。
太子像が安置された大講堂の前に設けられた舞台で法要が行われました。法隆寺の僧侶らが声明(しょうみょう)を唱え、南都楽所(なんとがくそ)が舞楽(ぶがく)を奉納。
清水寺貫主(かんす)が慶讃文(けいさんもん)を読み上げ、僧侶らが「太子和讃」を唱え、偉人の遺徳をたたえました。
五重塔に吹き流しが付けられ、境内の色々な所に幡(ばん)(旗)が飾られるなど寺全体がにぎやかな雰囲気に包まれていました。
法要が行われる舞台、大講堂が見えてきます。
<大講堂(国宝)>
桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置しています。
儀式で用いられる太鼓などは鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、今でも現役で使われています。
入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみ。
二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたもので、その年代については諸説あるそうです。
木造五重塔として現存世界最古のもの。高さは32.55m。
初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く設計されていることが大きな特色です。五重目の屋根の一辺は、初重の屋根のおよそ半分のサイズです。塔身もまた、下層から上層へ行くにつれ、細くなっています。
五重塔は全体を心柱が貫く構造になっていますが、その心柱を支えるのが地下1.5mの深さにある大礎石。礎石の上部には舎利容器などが納められており、舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められています。
鎌は約1メートルの木製の柄に、30センチほどの鉄製の刃が付けられています。
昭和の大修理を指揮した寺の元管主(住職)、佐伯定胤(じょういん)(故人)が書き残したとされる文書「佐伯定胤五重塔鎌表白」には、鎌倉時代に落雷で寺が火災になった際、4人の大工が命を賭して消し止め、駆け付けた西大寺の興正菩薩(ぼさつ)が鉄の鎌4本を五重塔に掲げて魔よけにしたことが記されています。
昭和の大修理に際し、約1300年前の創建時に使った古釘(くぎ)を再利用して鎌を作られたそうです。
金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもあります。大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立で、当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあったそうです。
回廊を進んで、大講堂へ。
鎌倉時代。奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立。現在の建物は鎌倉時代に再建。
堂内に、平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。
鎌倉時代。東室、西室という建物(僧房)でした。
鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造したそうです。
西院から東院へ向かう道筋に建ち、三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。八脚門。
~東院伽藍~
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されました。
回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿(ゆめどの)が建っています。
夢殿がある東院伽藍から、法要が行われる金堂や五重塔が並ぶ西院伽藍への行列です。
奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置しています。
鎌倉時代の建立。絵殿には、聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。舎利殿は聖徳太子が2歳の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置しています。
鎌倉時代。袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と刻印された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
西大門へ向かいます。
<礼拝所>
法隆寺の五重塔、竜田川と紅葉が描かれ、町の木「クロマツ」と町の花「サザンカ」が添えられ、周囲は法隆寺五重塔の高欄と同じ「卍崩し」の模様になっています。
推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇により創建されたと伝わります。
「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があり、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられます。現存する世界最古の木造建築群として往時の姿を今に伝えています。
4月5日訪れました。
参道は松並木になっており、参道を抜けたところに南大門(国宝)があります。
<南大門>
境内は西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物は55棟。
全体は大垣(重要文化財)と呼ばれる築地塀に囲まれています。
法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置になっており、寺の中心である西院伽藍には、五重塔(国宝)と金堂(国宝)が並び、中門(国宝)と大講堂(国宝)をつないで回廊(国宝)が囲む。東に向かって東大門(国宝)を抜けたところに夢殿(国宝)のある東院伽藍が見えます。国宝は38件・150点、重要文化財を含めると約3000点。
法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録されました。
~東院伽藍~(夢殿)方面
<手水舎>
<中門(国宝)>
入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)ですが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立っています。
左右に塑造金剛力士立像を安置。
【聖徳太子1400年遠忌】
法隆寺(斑鳩町)で3日から営まれていた聖徳太子の1400年遠忌(おんき)の「御聖諱(ごしょうき)法要」が5日、結願(けちがん、最終日)を迎えました。
太子像が安置された大講堂の前に設けられた舞台で法要が行われました。法隆寺の僧侶らが声明(しょうみょう)を唱え、南都楽所(なんとがくそ)が舞楽(ぶがく)を奉納。
清水寺貫主(かんす)が慶讃文(けいさんもん)を読み上げ、僧侶らが「太子和讃」を唱え、偉人の遺徳をたたえました。
五重塔に吹き流しが付けられ、境内の色々な所に幡(ばん)(旗)が飾られるなど寺全体がにぎやかな雰囲気に包まれていました。
法要が行われる舞台、大講堂が見えてきます。
<大講堂(国宝)>
桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置しています。
儀式で用いられる太鼓などは鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、今でも現役で使われています。
<金堂(国宝)>
入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみ。
二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたもので、その年代については諸説あるそうです。
<五重塔(国宝)>
木造五重塔として現存世界最古のもの。高さは32.55m。
初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く設計されていることが大きな特色です。五重目の屋根の一辺は、初重の屋根のおよそ半分のサイズです。塔身もまた、下層から上層へ行くにつれ、細くなっています。
五重塔は全体を心柱が貫く構造になっていますが、その心柱を支えるのが地下1.5mの深さにある大礎石。礎石の上部には舎利容器などが納められており、舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められています。
鎌がみえます。
鎌は約1メートルの木製の柄に、30センチほどの鉄製の刃が付けられています。
昭和の大修理を指揮した寺の元管主(住職)、佐伯定胤(じょういん)(故人)が書き残したとされる文書「佐伯定胤五重塔鎌表白」には、鎌倉時代に落雷で寺が火災になった際、4人の大工が命を賭して消し止め、駆け付けた西大寺の興正菩薩(ぼさつ)が鉄の鎌4本を五重塔に掲げて魔よけにしたことが記されています。
昭和の大修理に際し、約1300年前の創建時に使った古釘(くぎ)を再利用して鎌を作られたそうです。
<回廊(国宝)>
金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもあります。大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立で、当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあったそうです。
回廊からの桜。
回廊を進んで、大講堂へ。
大講堂内から、舞台を。
大講堂と桜
大講堂と桜
<上御堂>
鎌倉時代。奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立。現在の建物は鎌倉時代に再建。
堂内に、平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。
<聖霊院(聖徳太子像)>
鎌倉時代。東室、西室という建物(僧房)でした。
鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造したそうです。
<東大門(国宝)>
西院から東院へ向かう道筋に建ち、三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。八脚門。
~東院伽藍~
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されました。
回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿(ゆめどの)が建っています。
夢殿がある東院伽藍から、法要が行われる金堂や五重塔が並ぶ西院伽藍への行列です。
<夢殿(国宝)>
奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置しています。
<絵殿、舎利殿(重文)>
鎌倉時代の建立。絵殿には、聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。舎利殿は聖徳太子が2歳の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置しています。
<手水舎>
<鐘楼(国宝)>
鎌倉時代。袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と刻印された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
西大門へ向かいます。
<礼拝所>
<西大門>
マンホール
マンホール
法隆寺の五重塔、竜田川と紅葉が描かれ、町の木「クロマツ」と町の花「サザンカ」が添えられ、周囲は法隆寺五重塔の高欄と同じ「卍崩し」の模様になっています。
説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。