【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

酬恩庵 一休寺

2015-12-12 | デジカメ紀行
とんちの一休さんのお寺として知られている酬恩庵一休寺。

当時の元の名は妙勝寺。鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めです。
元弘の戦火にかかり復興せずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455~6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名しました。
禅師はここで後半の生涯を送り、八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われ、文明13年(1481年)11月21日八十八歳で病没。
一休寺で静かに眠っています。
禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至ったそうです。

紅葉を求めて、行ってきました。

駐車場に車を停め、一休寺へ。
顔ハメ看板

今何かと人気があるようですね。

地図(パンフレットより)




塀を抜け、参道へ。


左手に参道が続きます。

一休禅師墨蹟碑

「諸悪莫作」「衆善奉行」
一休和尚筆七仏通戒偈「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。

手水舎


総門は右手になります。





総門とは禅宗寺院における表門のことです。 総門前には金春禅竹による屋敷跡があったと伝えられています。京都府指定文化財。


石畳の参道が続きます。







拝観受付を済ませ・・・。

浴室

慶安3年、加賀藩主前田利常により、方丈等再建時に修復されたもの。(重要文化財に指定。)

浴室の向こうに見えているのは

絵馬奉納所



アニメでおなじみの顔が見られます。

三本杉

元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の緑を湛えていましたが、 寿命となり今は昭和40年に植えられた
2代目です。

一休禅師墓

菊花のすかしぼりから中を眺めてみると、禅院式枯山水の庭園を
見ることができます。

禅師は文明13年(1481)11月21日に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。
前面の庭は禅院式枯山水の様式。 現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており、門扉に菊花の紋があります。

中門(方丈への門、京都府指定文化財に指定)をくぐり、石段を下ると庫裏の入口です。

庫裏

その前に植えられているのは枝のたれさがった姿がめずらしい
「しだれ松」です。
樹齢は約400年になります。

サザンカ


唐門

中門を入って右手にあり、欄間には獅子と鳳の彫刻がほどこされています。この門は、方丈へ通じる玄関になっています。1650年(慶安三年)の方丈再建の時に新築されたもので、重要文化財に指定されています。


庫裏は僧侶の居住の場であり時食を調える台所です。この庫裏は1650年(慶安3年)方丈新築時に同じように前田家の手で改築されたもので、 江戸初期の建築様式をそのまま残しています。重要文化財に指定されています。

かまど


排煙


正面には囲炉裏


屏風絵表面


裏面


方丈は住職の接客や仏事を行うところです。江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建されました。同候は元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪に向かう途中、 当寺に参詣、一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、酬恩庵再興に乗り出しました。
重要文化財に指定。

庭は撮影出来るんですが、方丈内の部屋は撮影禁止です。
  方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してあります。
  パンフレットより
  この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので、自身の頭髪と髭を植えたとされています。

  襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるもので、ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれています。
  今現在あるのは複製画で、本物は寺の宝物殿に収蔵されています。

  一休禅師が81才で大徳寺の住職になった際、ここから紫野まで乗って通ったという輿が置かれています。

南庭

サツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が 植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められています。

後ろに見えているのは、一休禅師の墓(宗純王廟)と虎丘庵です。
虎丘庵はもと、京都東山の麓にあったものを一休禅師が74歳の時、応仁の乱のためこちらに移築したものです。
茶室造りの静寂穏雅な建物で屋根は檜皮葺。 周囲庭園(名勝指定)は禅院枯山水。作者は茶道の祖といわれる村田珠光と伝えられています。

東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされています。

北庭

禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に約2メートルの巨石を配し、
観音石として用いられています。
これに他の集団石組で枯滝落水の様子が表現されています。
石塔や石灯籠、手水鉢なども見られました。

禅院枯山水の蓬莱庭園とは?。
蓬莱山の滝から水が流れ落ち海へ流れるさまを、水を使わないで石組みで表現した禅宗寺院独特の庭のことです。

これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉と言われ、国の名勝に指定されています。
この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされています。

東司(御手洗い)




庫裏の手前の建物です。重要文化財に指定されています。
重要文化財の御手洗いは、全国でも数少なく、 1650年(慶安三年)、
方丈再建の時に新築されたものです。
昔の状態そのままに残っている御手洗いは少なく、大変珍しい
ものだそうです。





本堂への門


振りかえると・・・。


本堂

仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が
安置されています。
現在みられる本堂は、室町幕府6代将軍足利義教により建立されました。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物です。
重要文化財に指定されています。
1429年から1441年の永享年間に 室町幕府六代目将軍足利義教公の
帰依により建立されました。




一休像


開山堂

本堂を奥に入ると、開山堂がたっています
このあたりは妙勝寺の旧跡にあたるところです。大正時代に改築。
様式は昔のものを残しています。
堂内部には妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されています。
これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し、63歳の時につくられた
ものです。
25才の時に、中国の唐に渡って禅を学び、ここ「妙勝寺」でその教えを
弟子たちに伝えていました。
大応国師の弟子大燈国師が大徳寺を作った人です。
晩年はここ妙勝寺で暮らしたそうです。

少年一休像

少年時代の一休さん。手に箒をもち掃除をしています。
現在の世の中の汚れもこの箒で一掃して明るい世の中にしたいとの願いがこめられているようです。

少し進むと放生池。


四角い池には、鴨が泳いでいました。


何やら青い動くものが見えたので・・・。




「カワセミ」でした。ズームして撮りました。

「このはしわたるな」

お約束。真ん中を通りました。

木々の間を出口の方へ歩きます。

宇宙人っぽいのやら、自画像のようなものまで色々なお地蔵様が
並んでいます。





「当たり前のことが当たり前にできるように努力したい」



一休さん

背中にはネズミが。

鐘楼

慶安3年、加賀藩主前田利常により、方丈等再建時に修復されたもの。重要文化財に指定。

待月軒、江庵入り口


あまりの綺麗さに、チョット身を乗り出して。


開山忌 (11/21)
11/21は一休禅師のご命日です。禅師の遺徳をしのんで法要が行われます。 酬恩庵の紅葉は例年、京都市内より一週間ほど早くこの日にあわせたかのように境内が真っ赤に染まるんだとか・・・。

22日に訪れたんですが、本当に素敵でした。

汚水管マンホール蓋

市の花ヒラドツツジと、中央に市章がデザインされています。
下部に「きょうたなべ」「おすい」と書いてあります。
市章は、京田辺の田の文字をかたどり、丸い円は市民の融和を意味し、横に突き出た部分は
無限にのびゆく京田辺市を表現したもの。


一休寺公式ホームページ、パンフレットを参考にしました。

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