橿原神宮
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓に橿原宮を創建されました。
第一代天皇として即位されたのは、今からおよそ2,600余年前、紀元元年です。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえます。
第一代神武天皇と、皇后の媛たたら五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)をお祀りしています。
神武天皇は、天照大神の天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」。皇后の媛たたら五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たる方です。
天照大神が天孫、瓊瓊杵尊に言われた「豊葦原の瑞穂(とよあしはらのみずほ)国はわが子孫の君たるべき国なり」との言葉通り、神武天皇が国内を統一、畝傍山の東南、橿原の地に皇居を造り、即位の礼が行われました。
明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出されました。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社、橿原神宮となりました。
「本日から11月30日まで御創健125年以来、神職か選ばれた者しか入れない橿原神宮。
内院に後門からの御本殿参拝と非公開の勅使館並びに文華殿、貴賓館の三庭園が特別に公開となります。」
勅使館、文華殿の庭園は知る人ぞ知る隠れた紅葉の名所と言われているそうです。
手水を済ませ、南神門の石段を上がり、神域に入ります。
神門をくぐると・・・。
外拝殿
両脇に長い廻廊を連ねた入母屋造りの外拝殿は、昭和14年に完成した建物で「昭和の神社建築の粋ともいうべき豪壮さがうかがわれます」と。
外拝殿の石階段を上ると、正面に内拝殿が見え、その屋根越しに幣殿の千木、鰹木が金色に輝いてそびえています。
外拝殿に入ると
回廊には、つり灯篭、塀には「神武天皇御一代記御絵巻」①~⑳までが展示されています。
釣燈篭には、「 実付き抱き柏」のおしるしが・・・。
神武天皇御一代記御絵巻
①は
神職さんのお話を聞きながら、内拝殿、本殿、幣殿と廻ります。
まず、「神域」に入る前に、お祓いをしてもらいます。身が引き締まります。
パンフレットより
内拝殿(ないはいでん)
内拝殿は紀元祭その他重要な祭典に使用され、また特別参拝の拝殿となります。
本殿、幣殿(ほんでん、へいでん)
橿原神宮の社殿は、創建の御由緒から、本殿は専ら御祭神の御鎮座される御殿とされ、幣殿では祭典の諸儀が行われます。
幣殿は、屋根に千木、棟の上には鰹木を置くなどの様式です。
#内拝殿、幣殿、本殿は一直線に並び、本殿の方へとだんだん高くなっています。
#伊東忠太が内拝殿、幣殿の設計を担当。他に、明治神宮等の設計もされていて、それぞれの、良い所が取り入れられているんだそうです。
#「菊の御紋が、TDLのかくれミッキーのように、色々な所に見られますよ」とのこと。リラックスムードです。
釘隠しや、扉の・・・等キョロキョロしながら進みます。
#門扉に付けられている金具等は、取り外され、磨いてまたもとへもどされるんだとか。再利用です。
#国中から樫の木などの献木が奉納されましたが、国内だけでは集まらず、台湾からも輸入されたそうです。
内陣を固める脇障子の上には、漆塗りの欄間があります。欄間には、二重の「×」がデザインされ、バツは罰に通じるとも言われ一般に使われることはありません。お寺や神社では結界や禁止を表し、通常の領域とは違う聖域を表しているそうです。
本殿の裏の方へ回り、手を合わせ、3、40分で、出てきました。
貴重な体験でした。
内拝殿と外拝殿との間には、周囲を廻廊に囲まれた外院斎庭があります。広さは3200m²(約970坪)あり、紀元祭には全国から数千人の参列者で埋めつくされるんだそうです。
こんなところにも菊のデザイン。
檜皮葺
招霊(おがたま)の木の実(別名オガタマ、トキワコブシ)
拾ってきました。
形状から、神楽鈴が考え出されたと言われているそうです。
外拝殿を出て、お庭の拝観です。一か所目、勅使館(ちょくしかん)まで、案内していただきました。
勅使館への入り口です。
勅使参向の際に参籠、潔斎する建物で、広間、上壇の間、勅使の間、随員控室などがあります。
天皇陛下からの御幣物の実物を展示。
控室、勅使の間、上壇の間へといくにつれ、床の高さが上がっていきます。
建物を出て趣のある板塀に沿って前庭へ回ります。
向かい側から・・・
続いて二か所目、貴賓館(きひんかん)へ。
御皇族や各大臣の御休憩所として、昭和14年建造されました。
広間、上壇の間、展望室、応接室などからなり、入母屋造銅板葺、
車寄は唐破風造銅板葺です。
「が、いままで一度も使われていません」とのこと。
最後に三か所目、文華殿(ぶんかでん)へ。
昭和42年に、織田家旧柳本藩邸の表向御殿を移築、復元したもの。
江戸時代末期の天保15年に建立された屋形の一部分で、1万石藩邸の遺構として珍しい存在だそうです。昭和42年重要文化財に指定されました。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓に橿原宮を創建されました。
第一代天皇として即位されたのは、今からおよそ2,600余年前、紀元元年です。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえます。
第一代神武天皇と、皇后の媛たたら五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)をお祀りしています。
神武天皇は、天照大神の天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」。皇后の媛たたら五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たる方です。
天照大神が天孫、瓊瓊杵尊に言われた「豊葦原の瑞穂(とよあしはらのみずほ)国はわが子孫の君たるべき国なり」との言葉通り、神武天皇が国内を統一、畝傍山の東南、橿原の地に皇居を造り、即位の礼が行われました。
明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出されました。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社、橿原神宮となりました。
「本日から11月30日まで御創健125年以来、神職か選ばれた者しか入れない橿原神宮。
内院に後門からの御本殿参拝と非公開の勅使館並びに文華殿、貴賓館の三庭園が特別に公開となります。」
勅使館、文華殿の庭園は知る人ぞ知る隠れた紅葉の名所と言われているそうです。
表参道(おもてさんどう)一の鳥居
表参道広場から西に向かって、大参道が真っすぐ延びています。
宮川にかかる神橋を渡ると二の鳥居があります。
南手水舎
南神門前の広場にあります。ここで手を洗い、
口を濯ぎ、心身を清めます。
表参道広場から西に向かって、大参道が真っすぐ延びています。
宮川にかかる神橋を渡ると二の鳥居があります。
南手水舎
南神門前の広場にあります。ここで手を洗い、
口を濯ぎ、心身を清めます。
手水を済ませ、南神門の石段を上がり、神域に入ります。
南神門
南神門は素木建の八脚門で屋根は切妻造の銅板葺です。
南神門は素木建の八脚門で屋根は切妻造の銅板葺です。
神門をくぐると・・・。
外拝殿(げはいでん)
背後には畝傍山が控えています。
背後には畝傍山が控えています。
外拝殿
両脇に長い廻廊を連ねた入母屋造りの外拝殿は、昭和14年に完成した建物で「昭和の神社建築の粋ともいうべき豪壮さがうかがわれます」と。
外拝殿の石階段を上ると、正面に内拝殿が見え、その屋根越しに幣殿の千木、鰹木が金色に輝いてそびえています。
絵馬
外拝殿の外側には絵馬が立て掛けられています。今頃は、来年の干支「申」に代わっていることでしょうね。
紅葉
サザンカ
外拝殿の外側には絵馬が立て掛けられています。今頃は、来年の干支「申」に代わっていることでしょうね。
紅葉
サザンカ
外拝殿に入ると
回廊には、つり灯篭、塀には「神武天皇御一代記御絵巻」①~⑳までが展示されています。
釣燈篭には、「 実付き抱き柏」のおしるしが・・・。
神武天皇御一代記御絵巻
①は
神職さんのお話を聞きながら、内拝殿、本殿、幣殿と廻ります。
まず、「神域」に入る前に、お祓いをしてもらいます。身が引き締まります。
パンフレットより
内拝殿(ないはいでん)
内拝殿は紀元祭その他重要な祭典に使用され、また特別参拝の拝殿となります。
本殿、幣殿(ほんでん、へいでん)
橿原神宮の社殿は、創建の御由緒から、本殿は専ら御祭神の御鎮座される御殿とされ、幣殿では祭典の諸儀が行われます。
幣殿は、屋根に千木、棟の上には鰹木を置くなどの様式です。
内拝殿を・・・
内拝殿の屋根越しに幣殿の千木、鰹木が見えます。
内拝殿の屋根越しに幣殿の千木、鰹木が見えます。
#内拝殿、幣殿、本殿は一直線に並び、本殿の方へとだんだん高くなっています。
#伊東忠太が内拝殿、幣殿の設計を担当。他に、明治神宮等の設計もされていて、それぞれの、良い所が取り入れられているんだそうです。
#「菊の御紋が、TDLのかくれミッキーのように、色々な所に見られますよ」とのこと。リラックスムードです。
釘隠しや、扉の・・・等キョロキョロしながら進みます。
#門扉に付けられている金具等は、取り外され、磨いてまたもとへもどされるんだとか。再利用です。
#国中から樫の木などの献木が奉納されましたが、国内だけでは集まらず、台湾からも輸入されたそうです。
内陣を固める脇障子の上には、漆塗りの欄間があります。欄間には、二重の「×」がデザインされ、バツは罰に通じるとも言われ一般に使われることはありません。お寺や神社では結界や禁止を表し、通常の領域とは違う聖域を表しているそうです。
本殿の裏の方へ回り、手を合わせ、3、40分で、出てきました。
貴重な体験でした。
内拝殿と外拝殿との間には、周囲を廻廊に囲まれた外院斎庭があります。広さは3200m²(約970坪)あり、紀元祭には全国から数千人の参列者で埋めつくされるんだそうです。
こんなところにも菊のデザイン。
檜皮葺
招霊(おがたま)の木の実(別名オガタマ、トキワコブシ)
拾ってきました。
形状から、神楽鈴が考え出されたと言われているそうです。
外拝殿を出て、お庭の拝観です。一か所目、勅使館(ちょくしかん)まで、案内していただきました。
勅使館への入り口です。
勅使参向の際に参籠、潔斎する建物で、広間、上壇の間、勅使の間、随員控室などがあります。
天皇陛下からの御幣物の実物を展示。
勅使館
屋根は入母屋造瓦葺で、大正6年の建造です。
庭園は、白砂や築山、池、橋等で構成され、
山水や名所を縮景した宸殿造です。
屋根は入母屋造瓦葺で、大正6年の建造です。
庭園は、白砂や築山、池、橋等で構成され、
山水や名所を縮景した宸殿造です。
控室、勅使の間、上壇の間へといくにつれ、床の高さが上がっていきます。
御幣物が展示されていました。
御幣物(ごへいもつ)柳筥(やないぼこ)御祭文(ごさいぶん)
柳筥
絹の織物が入っています。
中央には菊の御紋が。
天井に取り付けられた、ペンダント類です。
御幣物(ごへいもつ)柳筥(やないぼこ)御祭文(ごさいぶん)
柳筥
絹の織物が入っています。
中央には菊の御紋が。
天井に取り付けられた、ペンダント類です。
建物を出て趣のある板塀に沿って前庭へ回ります。
向かい側から・・・
続いて二か所目、貴賓館(きひんかん)へ。
御皇族や各大臣の御休憩所として、昭和14年建造されました。
広間、上壇の間、展望室、応接室などからなり、入母屋造銅板葺、
車寄は唐破風造銅板葺です。
「が、いままで一度も使われていません」とのこと。
最後に三か所目、文華殿(ぶんかでん)へ。
昭和42年に、織田家旧柳本藩邸の表向御殿を移築、復元したもの。
江戸時代末期の天保15年に建立された屋形の一部分で、1万石藩邸の遺構として珍しい存在だそうです。昭和42年重要文化財に指定されました。
玄関
前庭
レトロな消火栓
入り口近くの紅葉です。
久米舞の衣装が展示されています。
昭和祭(しょうわさい)4月29日
新嘗祭(にいなめさい、農業祭、農産物品評会)11月23日
の、年二回、4人の舞人による久米舞が奏納されます。
久米舞:神武天皇が御東遷のみぎり宇陀において戦勝の宴でお詠みになった御製に、久米部の兵士らが合わせて舞ったのが起源だそうです。
下段
向かって右から、三乃間、二乃間、一乃間と続き、一乃間の後方に書院があります。
それぞれの部屋のあいだの欄間には、二重の「×」がデザインされています。
大書院(だいしょいん)
表座敷で殿様が家臣たちと対面したところです。格式高い造りで、下段の間より中段、上段と奥に入るにつれ床が高くなっています。
上段と中段、下段の室境にある極彩色鮮やかな彫刻の欄間に江戸時代の様式が遺されています。
「いわれの庭」と言われる庭園
古庭園の復元や作庭に辣腕を発揮した日本を代表する造園史家、森蘊(もりおさむ)の作。
記念に頂きました。
左下の包みには、檜皮葺が入っています。
「永きに亘り、御祭神の二柱の御神座をお守りしてまいりました。御屋根の尊い檜皮古材を皆様の家の守りとして、御家庭の安寧と御家運の隆昌を大前で、祈願しましたものを、慈にお頒け致します。」と。
前庭
レトロな消火栓
入り口近くの紅葉です。
久米舞の衣装が展示されています。
昭和祭(しょうわさい)4月29日
新嘗祭(にいなめさい、農業祭、農産物品評会)11月23日
の、年二回、4人の舞人による久米舞が奏納されます。
久米舞:神武天皇が御東遷のみぎり宇陀において戦勝の宴でお詠みになった御製に、久米部の兵士らが合わせて舞ったのが起源だそうです。
下段
向かって右から、三乃間、二乃間、一乃間と続き、一乃間の後方に書院があります。
それぞれの部屋のあいだの欄間には、二重の「×」がデザインされています。
大書院(だいしょいん)
表座敷で殿様が家臣たちと対面したところです。格式高い造りで、下段の間より中段、上段と奥に入るにつれ床が高くなっています。
上段と中段、下段の室境にある極彩色鮮やかな彫刻の欄間に江戸時代の様式が遺されています。
「いわれの庭」と言われる庭園
古庭園の復元や作庭に辣腕を発揮した日本を代表する造園史家、森蘊(もりおさむ)の作。
記念に頂きました。
左下の包みには、檜皮葺が入っています。
「永きに亘り、御祭神の二柱の御神座をお守りしてまいりました。御屋根の尊い檜皮古材を皆様の家の守りとして、御家庭の安寧と御家運の隆昌を大前で、祈願しましたものを、慈にお頒け致します。」と。
橿原神宮御本殿特別参拝パンフレット、公式HPを参考にしました。