生野銀山開坑は大同2年(807年)。天文11年(1542年)に本格的な採掘が始まりました。織田、豊臣、徳川それぞれの直轄事業として銀山開発が盛んに行われ、江戸時代には、最高位の銀山に対する名称「御所務山」が与えられ、これを祝して山車を引き回しました。山神祭の伝統行事として行われていた「御見石」引きは、これにちなんだものでした。
明治元年(1868年)には、貨幣制度の改革にともなう材料確保の必要から、政府直轄となり、朝倉盛明やフランス人技術者セアン・フランソワ・コワニエらによって、フランス式レンガ積建物や鉱山関連物資の輸送用道路「生野銀山寮馬車道」(生野―飾磨間)が建設され、鉱山を近代化・機械化しました。明治22年(1889年)から宮内省に所属。御料局生野支所と名称が変更されました。明治29年(1896年)、政府から三菱合資会社に払い下げられ、はじめて民間事業として操業します。
昭和48年(1973年)に閉山。
旧坑道を利用した坑内展示施設や資料館生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)などが建てられています。
4月17日訪れました。
門の手前に
=門柱=
=代官所門=
=ヒカゲツツジ=
関東以西の本州、四国及び九州に分布する日本固有のツツジ。低山の山間にある岩場や水辺に自生し、数あるツツジ類の中でも唯一黄色い花を咲かせます。
開花は4~5月。花は直径3~5センチほどで淡い黄色。日陰では蛍光色のようにも見え、自生地では水辺の景を照らすことから「サワテラシ」との別名を持つ。花冠は五つに裂け、雄しべは10本あり、花糸には柔らかな毛が密生する。
桜も見頃です。
「生野銀山」駐車場入口手前に保存展示されてる「明神電車(一円電車)」
「明神電車」は、「明延鉱山」の鉱石を「神子畑選鉱所」へ運ぶためにつくられた鉱山列車。
全長約6キロメートルのほとんどがトンネル区間で、鉱石運搬の他に人員輸送もされ、運賃は1円(当初は無料)で運行されていたので、「一円電車」と呼ばれていたそうです。
こんな花達も・・・
=「一獲千金」的=
=山神宮分社=
観光坑道へ向かいます。
テレビ番組、若一調査隊のロケ。
=鉱山資料館=
江戸時代の銀山の様子を詳細に描いた絵巻物、坑内模型などの資料を展示しています。
未公開坑道まで含めると、総延長350Km、地下880mの深さまで達しています。これは、東海道新幹線新大阪駅から静岡駅近くまでの距離に匹敵します。年間通じ13度。
採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。
=金香瀬坑(かながせこう)の入り口=
「案内図」
旧坑道は、作業者ひとりがやっと通れるほどのもので、ノミ跡も生々しい掘り跡を紹介し、江戸時代の坑内作業を電動人形で再現しています。
=江戸時代の堀穴=
=熟成庫=
ボタンを押すと発破の音が再現されます。
=太閤水=
豊臣秀吉が坑内に入ったとき、この水で、茶を点てて飲んだと言われています。
=坑内作業者がその命を託し地中深く降りていったエレベーター立坑=
=巨大な捲揚ドラムのある捲揚室=
=坑道の出口になっている滝間歩坑(たきまぶこう)=
坑道外コースは、 坑道入り口の左横にある石段を登っていきます。
途中に・・・
「南無阿弥陀佛」とか佛像が彫られているとか・・・。
=滝不動=
この滝を見守る社。鉱山の作業の安全と、繁栄を祈ったようです。
門が見えてきました。
=生野代官金香瀬番所=
この先は生野銀山の初期にあたり、江戸時代に大きな鉱脈が見つかった場所だそう。
説明文は公式サイト、パンフレットより