一心寺
大阪府大阪市天王寺区にある、法然上人を開基(文治元年1185年)とする浄土宗の古刹。
正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。
江戸時代末期より年中、施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として知られるようになりました。
徳川家康公の子息・仙千代君の葬儀が行われた縁で、「大坂冬の陣」では家康公の本陣がおかれました。
写真は6月8日のものです。
掲げてある「一心寺仁王門縁起」によると。
1997(平成9)年4月のお骨佛開眼大法要にあわせて二ケ年をかけて建立されました。
仁王尊は彫刻家・神戸峰男による5m余の青銅像。
左側・口を開いている阿形像は心の邪念を戒め、右側・口を閉じた吽形像は世の紊(みだれ)を睨んでいる。
扉の四人の天女は画家・秋野不矩氏の原画を神戸氏が浮彫りにされました。
インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。
インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。
昭和20年(1945)に空襲で焼失した旧山門が大阪城玉造り御門の移築と伝えられ「黒門」とよばれていたことに因んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興。
山門をくぐり境内へ、入ります。
(ホームページより)
本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子。関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため大坂夏の陣(1615年)で討ち死にしました。
酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ています。
墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願。
墓碑は、元和2年(1616年)に建立されたものです。
開山堂の手前、墓地への入口に建っています。
慰霊碑「大正八 九年流行感冒病死者群霊」と記された供養塔です。
1918~21年にかけて、世界中で猛威を振るった「スペイン風邪」で亡くなった人のための慰霊碑。
当時の大阪の人口2,754,090人、患者473,131人、死亡者は11,280人。
大阪道修町(どしょうまち)で薬問屋を経営していた、薬剤師小西久兵衛さんが建立。
「日本薬品粉末株式会社」総代であり、明治期には滋養薬、造血剤として「滋養大関 次亜燐」を販売し、薬種の巨匠ともいわれた人物だそうです。
横の碑に、気持ちよさそうにお昼寝。
納められた遺骨により10年ごとに造立される「お骨佛」の寺としても有名です。
(ホームページより)
平成17年に、大阪市の無形民俗文化財に指定されています。
続いて、一心寺の向かいにある安居神社へ行くことに。
遠くに通天閣が見えます。
大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮、安居神社ともいう。
創建年は不詳。少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられています。
菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承があります。
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられています。
境内で見られた花達。
大阪府大阪市天王寺区にある、法然上人を開基(文治元年1185年)とする浄土宗の古刹。
正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。
江戸時代末期より年中、施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として知られるようになりました。
徳川家康公の子息・仙千代君の葬儀が行われた縁で、「大坂冬の陣」では家康公の本陣がおかれました。
写真は6月8日のものです。
山門
掲げてある「一心寺仁王門縁起」によると。
1997(平成9)年4月のお骨佛開眼大法要にあわせて二ケ年をかけて建立されました。
仁王尊は彫刻家・神戸峰男による5m余の青銅像。
左側・口を開いている阿形像は心の邪念を戒め、右側・口を閉じた吽形像は世の紊(みだれ)を睨んでいる。
扉の四人の天女は画家・秋野不矩氏の原画を神戸氏が浮彫りにされました。
インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。
インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。
昭和20年(1945)に空襲で焼失した旧山門が大阪城玉造り御門の移築と伝えられ「黒門」とよばれていたことに因んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興。
山門をくぐり境内へ、入ります。
(ホームページより)
手水舎
八代目 市川 團十郎(はちだいめ いちかわ だんじゅうろう)の墓
文政6年10月5日(1823年11月7日)~ 嘉永7年8月6日(1854年9月27日)。
天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。
開山堂
本多出雲守忠朝(徳川方の武将)の墓
酒封じの神様として信仰され、断酒祈願のしゃもじが
たくさん奉納されています。
八代目 市川 團十郎(はちだいめ いちかわ だんじゅうろう)の墓
文政6年10月5日(1823年11月7日)~ 嘉永7年8月6日(1854年9月27日)。
天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。
開山堂
本多出雲守忠朝(徳川方の武将)の墓
酒封じの神様として信仰され、断酒祈願のしゃもじが
たくさん奉納されています。
本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子。関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため大坂夏の陣(1615年)で討ち死にしました。
酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ています。
墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願。
墓碑は、元和2年(1616年)に建立されたものです。
開山堂の手前、墓地への入口に建っています。
慰霊碑「大正八 九年流行感冒病死者群霊」と記された供養塔です。
1918~21年にかけて、世界中で猛威を振るった「スペイン風邪」で亡くなった人のための慰霊碑。
当時の大阪の人口2,754,090人、患者473,131人、死亡者は11,280人。
大阪道修町(どしょうまち)で薬問屋を経営していた、薬剤師小西久兵衛さんが建立。
「日本薬品粉末株式会社」総代であり、明治期には滋養薬、造血剤として「滋養大関 次亜燐」を販売し、薬種の巨匠ともいわれた人物だそうです。
横の碑に、気持ちよさそうにお昼寝。
本堂
納骨堂
納骨堂
納められた遺骨により10年ごとに造立される「お骨佛」の寺としても有名です。
(ホームページより)
平成17年に、大阪市の無形民俗文化財に指定されています。
ハルカスと赤い南門が見えています。
南門
魚供養池
北門へ続く道に
鐘楼
北門
南門
魚供養池
北門へ続く道に
鐘楼
北門
続いて、一心寺の向かいにある安居神社へ行くことに。
遠くに通天閣が見えます。
安居神社(やすいじんじゃ)
大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮、安居神社ともいう。
創建年は不詳。少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられています。
菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承があります。
参道
鳥居が見えてきました。
手水舎
鳥居が見えてきました。
手水舎
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられています。
真田幸村戦死跡之碑
石碑の背後には幸村が最後にもたれかかったとされる「さなだ松」
(現在は2代目)が残っています。
石碑の背後には幸村が最後にもたれかかったとされる「さなだ松」
(現在は2代目)が残っています。
拝殿
狛犬
奥に本殿
稲荷神社
淡島大神
名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(かんしずめの井)の址。
狛犬
奥に本殿
稲荷神社
淡島大神
名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(かんしずめの井)の址。
境内で見られた花達。
説明は公式ホームページ、ウィキペディアを参考にしました。