【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

瀬戸内「うどん」と「うさぎ」の旅 PartⅢ

2019-04-02 | デジカメ紀行
一夜明け、7日は朝から小雨模様。
今日は大久野島の歴史に触れ、島を巡ります。

昭和4年に旧陸軍の毒ガス工場が建設されてからは、軍事機密上地図から消されていた悲劇の島です。
終戦後に毒ガス工場は解体され、昭和38年からは島全体が国民休暇村となっています。
70年以上経った現在でもその当時の建物が点在しています。また、芸予要塞(げいよようさい)時代の砲台跡も残っています。
芸予要塞とは、瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の線に設置された大日本帝国陸軍の要塞。1897年(明治30年)3月に建設が開始されました。

毒ガス工場と毒ガス障害
東京第二陸軍造兵廠忠海製造所は、日本陸軍の毒ガス工場として昭和4年に大久野島に設置され、昭和20年終戦後米軍により破壊。
この工場では各種の毒ガスや信号筒が製造されたが、イペリットの生産に重点が置かれていました。
従業員の総数は約五千名に達し、その多くはせき、たん、呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎にかかり、イペリットが発癌物質であったため喉頭癌・肺癌・胃癌などが多発。
広島大学医学部(内科・病理)及び国家公務員等共済組合連合会忠海病院は昭和27年以来、毒ガス障害の解明と治療を行なっている一方、障害者の切実な要望にこたえ、国は29年『ガス障害者のための特別措置要綱』を制定して救済を開始し、その後医学的研究の結果に基づいて、救済の範囲の拡大しました。
現在では、広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の従事者も救済されているそうです。

朝食の前、休暇村職員さんに本館付近、キャンプ場、海水浴場辺りを30分ほど案内していただきました。

ビジターセンター


大久野島毒ガス障害死没者 慰霊碑

1937年に毒ガス製造による犠牲者鎮魂の殉職碑が建てられました。
戦前戦中の一時期、極秘裏にこの大久野島で毒ガスが製造され、それに従事して毒ガス障害を負い命を落とした元従事者の霊を慰めるための祈念碑です。

「くのしまの けむりに逝きし 同胞の み霊よ とわに 安らけくあれ」

広島県立忠海高等学校ホームページによると、高等学校の生徒さん有志と休暇村大久野島の職員さんにより、大久野島神社及び慰霊碑周辺の清掃が行われています。
折鶴を折り、慰霊式典を行い、黙祷と献花がなされます。10年以上も受け継がれている行事だそうです。

大久野島神社

1929(昭和4)年に毒ガス工場が開所された際に、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」として、1932年に現在地に移転しました。境内では様々な行事、毎月8日の大詔奉戴日(大東亜戦争が始まった日)や四大節(元旦、紀元節、天長節、明治節)や入学式、卒業式が行われましたが、現在は手付かずの状態で、うさぎ達の住処?うさぎ達が守っている?そうです。

島に生息する野生ウサギは全てアナウサギ。戦前、戦中は、毒ガスの動物実験用にウサギが飼われていました。戦中・戦後には食用にされたといわれていますが、戦後の毒ガス関連処理の際に全羽殺処分されたため、当時のウサギの子孫はいません。
現在生息しているうさぎは、1971年に地元のある小学校で飼われていた8羽が放されて野生化し、繁殖したそうです。

うさぎ耳のオブジェ

何が聞こえるかな?
これは、集音器と呼ばれるもので、頭を入れると集音器に集まった音を聴くことができます。島を抜ける風音や海のさざ波といった水音など、うさぎになった気分で楽しめます。 

大久野島灯台

竹原市忠海の沖合い2,3kmにある大久野島にある灯台で、三原瀬戸9灯台のひとつとして明治27年に建てられました。灯台は平成4年の改築工事で建替えられましたが、旧灯台は香川県の四国村に移築保存されています。

ラッキーなことに朝陽が・・・。




本館へ戻り、朝食の後、島をぐるっと巡ります。




毒ガス資料館



明治30年代から日露戦争開戦に備えて砲台を築いたことから、日本の歴史に名を刻み始めた大久野島。第一次世界大戦が始まると化学兵器を製造・保有する軍事施設が作られ、大久野島は地図から消されました。この施設で従事した地元の人々は戦後長く健康被害に苦しめられました。ここで造られた化学兵器の使用により多くの人が命を落としたことを忘れてはいけません、と。

島内遊歩道は、7月の豪雨災害の影響により、通行止めになっている箇所があります。

三軒家毒ガス貯蔵庫跡





毒ガス貯蔵庫跡



猛毒で皮膚がただれるびらん性ガス・イペリットがここに貯蔵されていました。2つの部屋それぞれに、10トン入るタンクがコンクリートの台座に置かれていました。すぐ前にあったイペリットの工場から、管を使ってこのタンクに毒ガスが送り込まれていました。イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスは、内部に鉛を貼った鉄製のタンクに入れていました

長浦毒ガス貯蔵庫跡



島内で一番大きい貯蔵庫で、今も巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っています。ここには約100トン入るタンクが6基置かれていました。戦後処理の際、毒性を取り除くために火災放射器で焼き払って、黒くただれた壁画が今でもその凄惨さを物語っています。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖の太平洋に海洋投棄されました。

北部砲台跡






大久野島が軍事的にクローズアップされたのは、日露戦争前の1902年に芸予要塞が設置され、大久野島に砲台が設置されたときからでした。北部砲台には8門の大砲が設置されていました。
毒ガス工場があった時代には、ここに大きな毒ガスタンク(砒素を原料とするルイサイト)が置かれており、戦後処理の際にタンクを焼却処理したため、1996年に砒素汚染が発覚し、1999年に土壌を洗浄処理しました。

24㎝加農(カノン)砲の砲台跡








発電場跡



毒ガス工場の電力を賄った発電場。ディーゼル発電機を重油で動かし発電しました。当初は240V発電機が3台でしたが、1933年に3台、1934年には2台を増設しました。さらに、1941年には忠海から22KVの海底ケーブル2本によって受電し、既設の発電設備を併用して電力を賄いました。敗戦前には、この建物の中で女子動員学徒による風船爆弾の気球部分の満球テストも行われました。

芸予要塞時代の桟橋

石で造られた固定の桟橋。
当初は人間や資材などが陸揚げされてましたが、毒ガス工場の秘密を守る為本土からよく見えるこの桟橋は使用できなくなったそうです。

***うさぎからのお願い***
弱い動物です。ストレスがたまりやすく骨をおったりケガをしやすいため、追いかけまわしたり抱っこしたりしないでください。病気やケガをすると野生環境で暮せなくなってしまいます。
人やウサギが安全に過ごすためにも道路や道路脇、建物の玄関前ではウサギとふれあわないでください。

口もとに手をやらないでネ!
うさぎは歯がするどく目があまりよくありません。口もとでエサを与えるとかまれてケガをします。

お菓子やパンを食べさせないでネ!
うさぎはかぎられたものしか食べることができません。

ゴミのポイ捨てはやめてください!
ゴミのポイ捨ては島を汚すだけでなく、それを口にしたり釣り糸がからまったりと島にすむ動物たちにとっても深刻な問題です。

島にうさぎをすてないでネ!
飼育されていたうさぎはきびしい自然環境の中で暮らしていくことができません。うさぎに限らず、島に生き物を置いて帰ることはやめてください。

所々に置かれている水入れ

きれいな水を入れてください。

それぞれ集団があり、縄張りもあるそうです。
 











5月頃には赤ちゃんうさぎの姿も見られそうです。
好みのうさぎ目当てのリピーターさんもあるんだとか。

島の歴史にふれ、うさぎ達とふれあい、大久野島を後に船で忠海港へ戻ります。





おおきな時計には、4時の位置にうさぎがいるのですが、なぜだかわかりますか?と。
答えは最後に・・・。

うさぎの思い出「プチ・スタンプラリー」
専用スタンプ用紙を受け取り、オリジナル・スタンプを3つ押すと…。

「チャーム」を頂きました。

設置されている、マンホール




待合所に設置されています


最近スーパー等で、捨てられているキャベツの外葉を見ると、大野久島のうさぎ達が喜ぶだろうなー、と・・・。

4時の位置にうさぎがいるのは、「十二支の卯(うさぎ)は4番目だから」だそうです。

説明文は公式サイトを参考にしました。




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