【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

石上神宮

2016-01-30 | デジカメ紀行
石上神宮は、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座しています。
日本最古の神社の一つで、武門の棟梁、物部氏の総氏神として、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

主祭神  布都御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)

石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。
「石上神宮」
「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」
「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」
「石上社」
「布留社」とも呼ばれていました。

中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争し、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、神領も没収されました。
氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われ、明治4年官幣大社に。
16年には神宮号復称が許されました。

駐車場に車をとめ、参道へ向かいます。

参道




社号標Ⅰ

昭和3年11月に行われた昭和天皇の即位礼、大嘗祭を奉祝して
建てられたもので、裏面に、「昭和参年拾壹月建之」と。

大鳥居

参道の入口に建つ大鳥居、高さ7メートル、
最上部の笠木の長さ10メートル、
柱の直径は76センチとなっています。
現在の大鳥居は、昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して
建立されました。
台湾の檜(ひのき)が用いられ、明神造りとなっています。
平成23年9月に再建立。

休憩所

社務所の向い側、鏡池の横にあります。
古くは拝殿前にあった舞殿で、昭和15年(1940)に移築したものです。
今の屋根は銅板葺となっています。

ニワトリ達が、お出迎え。

ニワトリは石上神宮の一番の人気者です。現在約30羽が参道をはじめ
境内の各所にいます。
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・天然記念物)、烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)、採卵用種のレグホン・ミノルカなどが棲んでいます。
今から40年程前に奉納され、以後時々の奉納や自然繁殖、時にはイタチ、タヌキ、テンなどの小動物による被害を受け、
羽数は増減しますが・・・。
ニワトリはすでに『古事記』『日本書紀』に登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされています。


鏡池(かがみいけ)

横にある池。
奈良県指定天然記念物の「ワタカ」という魚が生息しています。
ワタカは我が国特産の鯉科の淡水産硬骨魚で、体は細長くてひらたく、
頭は小さく眼は大きく、
体色は背部が緑青色である他は銀白色です。

祓所(はらいしょ)




大祭など最も大切な祭典の時、斎主・祭員(さいしゅ・さいいん)、
参列者等を修祓(しゅうばつ)する所です。
一段高くなり、全体に白い小石が敷き詰められています。
四方に注連縄が張り廻らされており、清浄な場所として、
普段は立ち入ることはできません。

ここにもニワトリ達が。

手水舎

布留社の文字が刻まれています。

横にはニワトリのちいさな像。


手を清めて、お参りへ。



楼門


棟木に記されている墨書によると、鎌倉時代末期、
第96代後醍醐(ごだいご)天皇の文保2年(1318)に建立。
重要文化財に指定。
往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、
明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却されました。


ハートに見える?ところが可愛い。

楼門をくぐると・・・。

拝殿

第72代白河天皇が、鎮魂祭(ちんこんさい)のために、永保元年(1081)に
宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられています。
建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられます。
拝殿としては現存する最古のもので、国宝に指定されています。

本 殿
かつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を
御本地(ごほんち)とし、
その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。
明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、
御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
神剣と共に出土した玉類などは、その多くが重要文化財に
指定されています。



椿の向こうに見えているのは、本殿の千木と鰹木がつけられた
屋根の一部です。


拝殿から振り返ってみると



廻廊
拝殿前の斎庭を取り囲むように建てられています。
連子窓がついており、縁が黄色に彩色され、四角の窓枠は緑色。
連子子(れんじこ)が付けられています。
現在の廻廊は、昭和7年に建てられました。
古い記録には、宝永4年(1707)10月の南海・東海大地震で倒壊したと記されています。更に古く、元亀元年(1570)に修覆すとあり、かなり以前より、廻廊は設けられていました。






神杉


境内には『万葉集』に「石上布留の神杉…」と詠われる神杉が
古くは数多く繁茂していました。
現在も樹齢300年を越える杉が数本あり、神杉と呼ばれています。


こちらは東側の神杉
幹囲り3.4メートル、樹齢は350年を越え、高さ約30メートル。

西側の神杉は、幹囲り4.1メートル、樹齢は400年前後、
高さ約35メートルだそうです。


出雲建雄神社( いずもたけおじんじゃ)




天神社



境内で見られた椿です。




長生殿(ちょうせいでん)

平成9年に改築。
各種の研修、会議、休憩、食事、披露宴等に利用されます。
古くは、神主詰所その後社務所として機能していました。


社号標Ⅱ

県道51号線より、石上神宮に入る参道の左側に建っています。
隷書(れいしょ)で「官幣大社 石上神宮」と彫られています。
この社号標は、明治16年の建立で、この年の3月に
本来の正式名称「石上神宮」の神宮号に復旧したことを
記念して建てられました。
富岡百錬(鉄斎)の筆によるものです。

万葉歌碑(まんようかひ)

『万葉集』の巻4(501番)柿本朝臣人麻呂の歌
「未通女(おとめ)らが 袖振山(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の
久しき時ゆ 思ひき吾(われ)は」
と刻まれています。
歌意は「乙女が袖を振る、そのふると名も同じ布留山(ふるやま)の古くより神様をまつる瑞垣(みずがき)のように、
長い間あの人のことを思ってきた、わたしは」

昭和43年4月の建立で、石材は旧内山永久寺の北門跡にあった
敷石が用いられています。
高さ2.3メートル、横巾は1.4メートルとなっています。

汚水管マンホール蓋



天理市のマンホールは、真ん中に天理の「天」の字を
6つの丸で模様化し、
市の花・梅の花の形にした市章のデザイン。

空気弁の蓋


お守り
    

神剣渡御祭で、お渡りになる御神剣「七支刀」を覆う錦劔袋
(にしきつるぎぶくろ)の形で、
表には「七支刀」が形取られています。
起死回生・身体健康のお守りです。

「でんでん祭」の名で親しまれる伝統行事
「神剣渡御祭(しんけんとぎょさい)」。
稲の害虫を追い払い、五穀豊穣を祈る神事。
「でんでん」と太鼓を打ち鳴らしながら神剣の行列が渡ることから
愛称がついたそうです。
拝殿での神事の後、神剣を持った神職やお田植えの神事に奉仕する
作男、早乙女ら約20人の行列が
末社の神田(こうだ)神社までの約1キロを歩くそうです。

猿みくじ


よこに「石上神宮」の文字。

下の赤い紐を引っ張ると、中から「おみくじ」が出てきます。
結果は???。

石上神宮公式サイトを参考にしました。

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