goo blog サービス終了のお知らせ 

友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

デザイナーの山本寛斎さんは同じ歳

2020年07月28日 17時34分44秒 | Weblog

 国際的なファッションデザイナーの山本寛斎さんが亡くなった。同じ歳だと思うと、彼が生きてきた世界が身近に感じられた。華やかな世界の人のイメージが強かったが、生い立ちなどを知って、私が想像する以上のとてつもない人生に頭が下がる。

 同じ歳だから、田舎の風景も都会の景色もよく分かる。岐阜工業高校へ入学したことが、大きな転機だった。「応援団長として生徒1500人をまとめていた」とある。私の高校は進学校で校則が厳しかったが、それでも学生服の裏布地を虎や龍の図柄に作り替えて粋がっている者もいた。

 寛斎さんがどんな団長だったのか分からないが、「独創的な振り付けを考案した逸話がある」と中日新聞は報じている。岐阜から横浜へ移り、日大英文科へ進んでいるが、よくお金があったと思う。私学の入学金や授業料は国立とは桁違いだったはずだ。その日大を中退し、コシノジュンコ氏に師事したことがさらに大きな転機となった。21歳でファッションデザイナーの登竜門「装苑賞」を受賞、4年後にはロンドンでのファッションショーに打って出ている。

 私の母は裁縫教室を開いていたので、雑誌「装苑」を私もよく見ていた。雑誌に載っていたイラストを私が真似して描くと、生徒さんが「上手。デザイナーになれるわよ」と褒めてくれた。両親を亡くした時、東京へ出てストリップ劇場の看板描きになろうとしか考えなかったので、私は完全に寛斎さんには及ばない。

 私も大学4年の時は東京で暮らしていたから、同じ空を見ていただろう。貧しさをバネに、前を目指した寛斎さんとは違い、私は堅実な道ばかりを追っていた。それなのに道は消え、新たに自分が歩ける道を探す日々だった。寛斎さんのような華やかさは無いが、それなりに他人のために役立つ道だったと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする