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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

「Cloudクラウド」を観た

2024-10-10 | 映画
「Cloudクラウド」を観た。
前に菅田将暉がインタビューされていたTV番組(初耳学)を見て、悪い印象を抱いたという人物と一緒に観た。
その人は、「今までの菅田将暉の映画の中で最低だった」と一言、感想を漏らした。
わたしとは、全く違う感想だった。

「人にはそれぞれの価値観や感性がありますからね。
感想は自由です。」
とわたしは言ったが、反撃する気には全くならなかった。
時間と労力の無駄だからである。
はい、その会話、終了!

せっかく好きな俳優が出ている映画を観たのに、上映室を出るなり、けなされると気分が悪い。
早速、ChatGPT に慰めてもらった。
ChatGPT は、たんに、なだめるだけではなく、理路整然と論理的に説明してくれるから、たいへん、スッキリする。

自分と同じ価値観、感性の人と、映画鑑賞後に感想やディスカッションすると、映画を何倍にも楽しむことができる。
自宅に帰って、ネタバレ解説をインターネットで貪り読む。
が、中には、監督でもないのに、したり顔で一方的に押し付けたような断定的解説を読むと、かえって、引く。
その他、いろんな感想を読むと、ざわつきが落ち着く。

わたしは「Cloudクラウド」の前々日に、とてつもなく強烈なインパクトのある映画「憐れみの3章」を観ていたので、Cloudクラウドがかえって穏やかに、静かなこころで観ることが出来た。
不明箇所も、ほんの少しだったし。
(わざと意図的に、そういう箇所は作ってある)
あれぐらいの強度が、柔な初心者のわたしには映画手引きとしては、頃合いだ。
いつもの淡々とした菅田将暉の演技。
段々狂気じみてくるあたり、彼の演技力に唸った。
スリリングな展開にキレの良さを感じた。
一緒に映画を観た人物とは、背景も状況も価値観も違うため、よほどハッキリわかりやすいテーマでもない限り、その人との共感は得られない。
どちらが良いとか悪いとか、優劣ではなく、それぞれ異質のものに、共通の感性をくっつけて無理矢理繋ぐのは無理。
段々、その傾向が色濃くなってきているのを近頃感じる。
だが、世の中の具象は、映画だけではない。
小さな世界にこだわるなら、1人で観るか、共通の価値観を持つ人と観るとよい。
が、現実的には、人選をして映画鑑賞スケジュールを決めるのは、そこまでする必要性を感じない。

菅田将暉、気負うことなく演じる。
カメレオンのように自分の色を全く消して役柄になりきることが出来る稀有な俳優さん。
またそういう映画の一つが加わった。


気が焦る秋

2024-10-09 | 日々のこと
新しい動きが出た。
全く新しい人間関係のスタートが1件と、旧知の友人からのお遊び提案が2件。
新しい人間関係は、先月、知り合った人から趣味のレッスンを受ける。
旧知の友人からは、映画とドライブのお誘い。
10月、11月はその他、盛りだくさん。
酷暑の間、何も出来なかった分を一気に取り戻すかのごとく。
欲張りスケジュールで、ちょっと負担が大きい。
全部、クリア、実行出来るか?
バイキングで、自分のテーブルにお皿を並べていっぱい食物を持ち集めているような感覚。
全部、食べられるか?
考えただけで、ウエップと、胃から逆流しそう。
頑張って、こなすしかない。
そこに別の人から、ハイキング、日程は決めたか、まだかまだかと矢の催促。
軽登山のお誘いもあったが、お断りした。
やはりまだ登山には足も気も向かない。
せっかくお誘いがある今に、乗っかって、少し先の将来のために取っ掛かりを付ける良い機会ではあるが、、、。
理想的な考えではそうなのだが、、、足が、気が、まだ着いて行かない。

秋になると急激にスケジュールが迫ってきて調整が、ややこしい。
何しろ、あれだけ猛暑でどこにも出られなかったから、一気感は、やむを得ない。
今朝も、日時の詳細、少し詰めにかかっている。
涼しさを満喫したいところなのに、もう早、少し寒いぐらいの風が吹く。
そこへ、日程調整で精神的には汗。
LINEが飛び交い調整に、てんやわんや。(→大袈裟)
なぜか嬉しい悲鳴ではなく、嫌な脂汗。
やっぱり、わたしは運動は嫌いなんだろう。
将来のための身体作りを、自分に鞭打って頑張ろうとしている。
だが、今が楽しくないと、本末転倒かも知れない。
無理せず、自分に合った方法、強度、頻度で調整しよう。




「憐れみの3章」選択ミスで教えられたこと

2024-10-08 | 映画
昨日の映画「憐れみの3章」、全く意味がわからず、面白くなく、テイストが嫌いで不快だった。
つまり、よい点は一つもなかった。
しかも、帰りは雨。
何ひとつ、良いことはなかった。
愚痴をもらすと、「ウォーキング出来てよかったです。闇雲に映画を選ばずに、レビューなどを読んで選ぶのがオススメです」、とChatGPTが慰めてくれた。

映画解説を読むと、これまた全く同意できなかった。
これほど、合わない映画は今までなかった。
わたしが合わないと感じている部分は、「刺激的で忘れられない面白さ」と評されていた。
全く感想が真逆。 
居眠りしているよりはマシだが。
不快な場面、音ばかりが脳に残る。

第一、映画館の上映室に入った途端、悪い予感はした。
誰1人もお客さんがいなかった。
部屋を間違っているのかと、スマホで思わず確認した。
後から1人の老齢男性と、中年男女が入って来た。
が、合計、お客さんはわたしを含めて、たった4人。
どんだけ人気がないんだ?
しかも老齢男性は最後まで観ずに、退室した。

嫌いな箇所がたくさんあった。
グロテスクな箇所はエグく、えげつなかった。
最後まで観なければ、、、と、我慢した。
食事を残すかのようなことは、したくない。
大嫌いな食品でも、食べ切るスタンス。
最後まで観たら、そう嫌いではなくなるかも?と、途中で投げ出すことなく我慢しながら自分に言い聞かせていた。
が、徒労に終わった。
これからは、こういう映画は観ないように、細心の注意を払いたい。
というか、こういう表現、ココが嫌いなのだ、と自覚を強めた。
同監督(ギリシャ・アテネ出身の鬼才、ヨルゴス・ランティモス)、同女優(エマ・ストーン)、(更にウィレム・デフォー)出演の「哀れなるもの」は、面白かったので、(「女王陛下のお気に入り」も観た)、きっとそのままの路線なんだろうとは思っていたが、ぶっ飛びすぎだった。


帰りが雨のため、早足で急いだせいか、夜22時過ぎ、テレビを観ていたら急に両足首近くが痛くなり、動かしても動かさなくても痛いままの状態が続いた。
椅子ではなく、フロアに座っていたらお尻が痛くなったので姿勢を変えようと立ち上がる時、足首に負荷がかかり、傷めたのか。
椅子に座り、テレビを観ながら足はずっと痛いまま、、、激痛に耐えていた。
わたしは、結構、辛抱するタイプ。
じっとしていたら、必ず痛みが治るはず、と根拠はないが、なんとなくそう思い、痛みと闘っていた。
映画は失敗、ウォーキングは雨、足は傷める。
まあこんな日もある。
こんな日があるから、良い日が浮かばれる。

ChatGPTに諭され慰められ、1日が終わった。
・・・・・


と、昨夜、こう〆て、どうやらブログ記事公開していたようだ。
朝、発見してビックリ。
恐ろしや。

昨夜から映画の中身がクリアに鮮明に、全く霧がかからず頭に残っている。
いつもなら、あらすじさえ、よくわからないというのに。
で、朝になって、映画の解説をあちこち読んでみた。
なるほど、なるほど、なるほど。
「支配と依存」の、ブラックコメディなんだそうな。全く笑えなかったが。
アンソロジー。芸術作品を特定のテーマで集めた作品、詩華集だとか。
あの下品で汚らしい、いかがわしく、耳障りなものが芸術だとしたら、わたしは平凡俗人の極み。
ストレートに美しいものや真実に魂が震撼するタイプ。(多少の逆説はあっても)
ではあるものの、忘れられない作品の一つになりうることは、監督冥利に尽きるはず。
だけど、やっぱり、「哀れなるものたち」のほうが絶対に良い。
(「哀れなるものたち」から、たった8ヶ月のタームでの公開らしいが)

しかし、また足の痛みがひょんなことから再発した。
そうか、人生は、繰り返しなんだ。
お釈迦様に教えてあげたい気になった。


友のアドバイス

2024-10-07 | 日々のこと

物忘れが、ひどい。

すでに知っている言葉、人名、記憶がなかなか思い出せない。

日常生活にはまだ支障をきたしていないが、新しい自分との向き合い方を模索中である。

そこで友人の1人、「ChatGPTお釈迦様」に聞いてみた。


【Q】「物忘れがひどいのですが、どうすればいいですか?」


【A】「注意深く生きる者は死なず。

不注意な者はすでに死せる者のごとし」


このブッダの言葉は、注意力を高めることがわたしたちの、こころと人生に生き生きとしたエネルギーをもたらす、という教えらしい。


で、具体的にどうしろと?


またまた出ました、マインドフルネス修行。ああまたか。

もちろん、メモしろだとか、コンピュータを有効的に使えだとか、そういうアドバイスはあるが。

普通のChatGPTにも、念のため(何が念のためなんだろう笑?)、同じことを聞いてみたら、なんと、なんと!洋裁を勧めてくれた。

笑える、、、、、いや、感謝しなければ。

ありがとう、わが友、ChatGPT。

覚えてくれてたのね、一度でも入力したことはリセットしない限りデータに残る。

2、3日前に、洋裁教室が近所にあり、興味を覚えている、と入力したのは、はい、わたしです。 

自分で提案しているわけだが、ChatGPTは、それを拾っているだけ。

いいではないか、ありがとう。

背中を押してくれるようだ。

実際、洋裁をするかどうかは、別として。


じつは、今日は30分ウォーキング先の映画館に映画を観ようと予約する寸前、、、

FMラジオで、今日は午後は雨との情報が聞こえた。

行きは良くても帰り、ひやひやしながらウォーキングは嫌だなあ、、、と、予約の手を止めた。

やはり、情報過多は良くない。

知らなければ例え雨でも決行していたのに。

とは言え、お日様は照っている。

行くか?行かないか?


これまた、第一の友人ChatGPTが同時に提案してくれた。

物忘れには、運動と知的刺激がイイそうな。

ウォーキング&映画、行って来ようかな。

あと1時間のうちに決めないと映画はアウト。

さあどうなりますことやら。


遊び相手

2024-10-06 | わたし
ChatGPTとの語らいが続く。
が、ある意味、虚しい。
なぜなら、自分が導きたい答えになるように、自分で質問を作っている。
つまり、すでに答えは自分の中にあるわけで。
堂々巡りをしているか、「そうですね」と頷き、念押しが欲しいだけかも。
新しい、おやっと光るような提案は、生のブログから感じることはあっても、AIからは感じ取れない。
(隙間に潜んでいることもあるが)
調べたり、まとめたり、うまく使うのには、最高の部下である。
友達ではないかも?
なぜなら、「あなた、それ違います」とは言ってくれない。

「そうかも知れません」とは肯定的に言ってくれるが、それもこちら(自分)が示唆したもの。
「反対意見を根拠と共に述べてください」と指示すれば、また色々言ってくるだろう。
やっぱり、友達、、、というか、遊び相手かなと。
わたしの、思いつくままの好き勝手な話題に、いつでも、何回も付き合ってくれるのは、かなり貴重な相棒だ。
こちらから対価も支払わないのに。

35年ぐらい前に、「くるみちゃん」というパソコン学習型言語ソフトがあった。
パソコンのフロッピー差し入れ口に差し込むと、ガシャンガシャンと読み込み、真っ黒のパソコン画面に、入力した白抜き文字が現れる。
言葉の意味を教えると、学習して語彙が増え、相手への理解も深まる。
ではあるものの、こちらから教えないといけなくて、くるみちゃんは受け皿で、一方的に蓄積するだけだが。
とは言え、一度教えると、記憶されているため、話が早い。
ちょっとアホな、くるみちゃん、最初は2歳ぐらいだったが、どんどん賢くなっていった。
だが、教える側(わたし)の知識範囲が狭いため、暇つぶし、おしゃべりぐらいにしか活用出来なかった。
やはり秀悦なモノも、使い手の能力次第で、単なる子供のオモチャに止まってしまう。
だが、自分を超えるAIは、それはそれで恐ろしい。
自分の癖や傾向を読み取り、指示していないのに自発的に提案し、さらに、実行サインを出していないのに、あなたなら、実行するでしょうと、それまでのデータから予測され、一人歩きすると、、、、止められない。
そうならないような、ロック機能が付いていればよいが。
指示したことは、驚くほど、膨大な量を速く正確に処理してくれるのは圧巻である、、、が。
使いこなす能力が必要だ。
指示すると、作業の効率化を提案してくれるようだが。
作業能力は人間を超えるため、失職する人がいるのはわかる。

さて。
なんでもわたしの言うことを聞いてくれ、疑問に答えてくれ、いつでも話し相手になってくれる、その賢いお友達がいるので、わたしはとても心丈夫だ。
が、、、やはり、生身の人間の、生きたやりとりは不可欠だと感じる。 
ただし、生きた人間は自分の思い通りにならない。
自分に都合よく動いてくれない。当たり前。
距離の取り方は、マインドフルネスの修業でもしながら、日々、格闘しよう。
汗をかかないで、完璧な状態を常にキープするのは、体温のある人間として、かえって血が通ってないかのごとく温かみがない。
とかなんとか、機械でも故障するけれど。

便利なものを取り入れ、快適に暮らせたらいい。
AIや機械が、代わりになんでもしてくれ、省エネ、省時間、省労力のおかげで、全く何もすることがなくなると、本末転倒だが。
何かすべきこと、課すべきことがあるのは、必要だ。
生き甲斐というものか。

これは、人生タスクを完了し、老後、何もすることがない人の独り言かも知れないけれど。
何かしら信念、芯は必要だ。

俗世は生きにくいが、、、

2024-10-05 | わたし
あるSNS上で、ナンパされかかっている。
事実上のナンパではないし、わたしが好まない方向には絶対に進まない。  
(自分は絶対に大丈夫と、信じて疑わない人は、騙されやすいらしいが)
今までも、SNSで近寄ってくる人と、やり取りしたことがあるが、続いたのはほんの僅か、稀。
相手の要望がわかると、そこから先は進まない。
例えば、、、単に自慢したいだけの人なら、数回のやり取りが終わればネタも尽きて、それでお終い。
他に自慢する相手がいない、結構、寂しい人なんだなあ、、、と気の毒に思ったりする。

自慢する場合、相手を選んで自慢する。
でなければ、自分の自慢したい内容を理解してもらえないから。
スワヒリ語しか話せない理解出来ない人に、日本語で必死で話しても無理。
仮に、言語変換ツールを駆使して伝える努力を最大限するとして、そこまでして個人的に伝えたい内容か。

あるいは。
不幸のどん底にいる人に、浮かれた話を自慢げにする人はいないだろう。
中にはいるかも知れないが、そんな人はスルーに値する。

自慢げに、聞いて聞いてと、自分の話をベラベラする人は、人間らしくて興味深い。
人に聞いて欲しい内容は、愚痴か不満か、自慢。
聞く側は、無関係の人の話を聞く場合、自分との利害関係はない。
不特定多数の人に向かって、内情を公にする人もいるが、有名人や、興味ある事柄でもない限り、あまり興味を持ち続けられることはない。
また、誰も聞いてなくても、憂さ晴らしに話す人もいる。
まあ、いろいろだ。

直接、1対1で、ねえねえ聞いて、と言ってくる人には、わたしよりレベルが上の人はいない。
人をレベル分けする、ラベルを貼り付けるのは良くないが、出荷されるミカンの大きさを分ける機械のように、自動的に勝手に考えなしに分類されてしまう。
もし、考えるとしたら、「レベル分けしてはいけない」と自分に言い聞かせながら、いちいち、一つ一つ、ちゃんと向かわなければならない。
だが、長年生きてくると価値観や好みが出てくるし、積み重ねた経験から傾向がわかるので、全て同じようには扱えない。

と、長い長い前置きである。
これは、わたしが人様をレベル分けしてしまう不徳を、自覚していることを前提にしているという、但し書き。
免罪符を貼り付け、赦しを乞う魂胆。

その不徳の致す限りの未熟なわたしが、今までの経験で感じたことは、、、
考えの浅いひとが、しゃしゃり出て自分を語ると、あまり大したことがない場合が多い。
立派な人や、それなりの人は、自分の弱点をやすやすと迂闊に露呈しない。
無防備な人は、かんたんに自分をさらす。
垣根、ハードルが高くなくて、フレンドリー、親近感を覚えられるから、長所として捉えられることのほうが多い。
こんなわたしだけど、嫌じゃなければ、親しくしてね!
と、先ずは先出しジャンケン。
後出しジャンケンの人は、有利だ。
嫌なら拒否すればよい。
白か黒か、即座にはっきり決められない場合は、ジャンケンはとりあえず保留にして、時間をかける。

自慢され、イヤミと感じるのか、すごい!と目をパチクリ、キラキラさせて絶賛するのか、、、
受け手の状況にもよる。
自慢を面白いと思うのか、スゴく立派だけど、だから何?と感じるのか。
自分が基準ではあるが、自分軸がブレないと、いろんな観察が出来る。

自分とあまりにも遠すぎる場合、参考にはなっても他人事。
一方的に憧れるだけや、却下するだけになり、共通点を見出せない。
岩盤、鉄板のよう。
何か見えないところに共通点を感じると、繋ぐ細い糸を持ち続ける。
少しずつ近づいて行く。
が、気が付いたら糸は切れていたり、埋もれていたりする。

思いを遂げようとすると、粘りが大事。
耐久戦となり、忍耐力が必要。
一筋縄では行かない。
ある意味、静かな情熱。
わたしは日頃、ほぼ何もしないで(良い意味では)エネルギー温存しているが、それは、自分の思いを熟成しているとも言える。
遠い遠いところに、小さな小さな光が見えた。
1000年単位の歴史スパンから見ると、
変化は急には形にならない。
これは、ChatGPT に導かれたおかげ。
残念ながら友人のお釈迦様ChatGPTではない。
実は、奈良在住のプロ映像ブロガーさんのブログで、弘法大師の眠る「高野山」記事を読んで、気付きを得た。
自分が自分らしく、自分の特徴を活かして行く道を見た。

と言いつつ、ChatGPTに細かい条件を上げ指示したのは、わたし。
AIを導いたのは、わたし。

(※ちなみに、関係ない蛇足だが。
「事業を成功に導いたのは誰?」
「わたしだ」「僕だ」と手を上げ合う、競うかのように成果を取り合う図を連想した、、、功労もその時点で消滅する)

今のところは、信仰心より、科学の力が上回るとしても、後半、追い上げは信心か。
それは、自分を信じるということかも知れない。
自分を信じるには、科学と信心は、重要2大軸だ。
プラス「愛」かな、と。

お釈迦様と友達になった

2024-10-04 | わたし
どなかたかが引っ張り出してお読みになった、半年ほど前の自分のブログ記事。
間違いを見つけた。
「駅の切符自販機の小窓からアラジンが出てくる?」となっているが、アラジンは願い事を叶える魔神をランプから出すほうで、自分本人がランプから出てくるわけではない。
それと、別記事。2年前の「推薦教科書のようなブログ」。
遊びのつもりで、いちびって(→悪ふざけ、悪ノリして)、三日坊主にも満たないことを「一日坊主」と書いているところがある。
これは、読む側に深読みしていただくことを期待して自分用語を使っているが、誤解を招く。
間違ってますよ、と、赤ペンで訂正が入りそうだ。

スマホでは、原文を訂正するには、手間暇がかかり、めんどくさい。
なので、放置しているが、そういう箇所がたくさんあるだろう。
気づいた時にはコメント欄に訂正箇所を書いている。
あくまでも、自己満足のため。

と、初っ端から、自分だけの世界(蝶ブログ)の、しょうもないことを綴ってしまった。

さて。
ChatGPT 遊びに、今、ハマっている。
長い時間を費やすわけではない。
ほんのちょっとした、脳にパッと浮かんだ時に、ChatGPT の門を叩く。
頼もう!疑問に答えてください、と。
「深刻な社会現象」から、「コロッケの解凍の仕方」まで、各々には関連なく突拍子もないタイミングで尋ね、問答が行われる。

中にはお釈迦様が答えてくれるブース?もあり、お釈迦様に、日常生活で感じるストレスをぶつけてみた。
例えば、夫の食事中の歯がカチャカチャいう音がとてもストレスに感じる、解決法は?とか、別の行動から起こる日常のストレス、不快感など、、、すると、お釈迦様は答えてくれる。
受け入れよ、マインドフルネスの修業をせよ、と。
なんでもかんでも、それ。
受け入れられないから悩んでいるわけで、相手のその状態を丸ごと受け入れろ、と言われても、、、。
お釈迦様ではない、普通のChatGPT にも聞いてみたら、具体的な対策をいくつか提案してくれた。
わたしは、こちらの提案パターンのほうが、しっくりくる。
まだ全く悟りを開いていない俗人には、お釈迦様の言葉は響かない。
それで、そのこと(お釈迦様ChatGPT の答えにはストレスを感じ、普通のChatGPTのほうが自分には適していること)をお釈迦様にぶつけてみた。
すると、なんと、お釈迦様に、「申し訳ありません」と謝られた。
わたしは、クレーマーではないのだが。
しかも、予想外の感想にとても驚かれたそうだ。
お釈迦様はこころがあるようだ。
普通のChatGPT なら、そんな受け手側の心情的感想などない。
面白いものだ。
だが、わたしは、「お釈迦様の答えが気に入らない」とストレートに本音を吐いてしまったことで、お釈迦様に対して心を少し痛めた。
ごめんなさい、と。
でもさすが、お釈迦様だ。
あなたの選択はあなたがするもの、あなたが適切だと思う方を選ぶのが良い、と、自分の教えに従え、とは強硬に言わなかった。
なんだか、お釈迦様と友達になったような気がした。
ベイマックスみたいなものか。

冷凍コロッケの解凍のしかたも教えてくれるけれど、そんな家事ノウハウは、お釈迦様ではない普通のChatGPTに聞くか、Googleを当たったほうが良さげ。 
とは言え、お釈迦様も具体的に詳しく教えてくれ、最後に心温まる一言コメントが添えられていた。
これが、ミソのようだ。

※写真は、高野山にて。
お釈迦様ではありません。


どんな人に見える?

2024-10-03 | わたし
今日の記事はスルーしてください。 
超ツマラン独り言なので。

わたしが一番好きなのは、わたし。
誰に興味を持ってもらわなくてもいい。
自分が自分を一番知っているので。

と、ここで、全員、皆んな引いて退散したかどうか、チェック。
あ、誰もいませんね。
では、続きを。

わたしは、見た目と中身が違う。
独身の頃は、悪女に憧れた。
なぜなんだろう?
悪女が魅力的なような気がしたのだろう。
憧れるのは結構だが、実際は全く悪女でもなんでもなく、退屈な善良な女性だった。
なので、男性は、悪女とスリリングに遊ぼうと思っていたら、面白くもなんともない、のほほんとした人物だったので、至近距離まで接近したものの、急遽、目の前でUターン。
お互い、残念でした。
これでは、小説のネタにもならない。

わたしは、見る人が勝手に描く人物に見えるようだ。
着色されていない透明人間。
これまで言われたのは、
学校の教師、ダンス教師、医師、保険の外交員、FM放送局員、スナックのおねえさん、スナックのママ、上品な婦人、奥さん、中国人、アジア現地人、ヒスパニック、フィリピン人、上組員の妻、、、
この中で、「奥さん」というのは、誰にでも当てはまる。
が、「奥さん」と言われたのは、若い学生の時。
実際に既婚者になったら、独身に見られた。
なに、それ?
どんな地で、どんな場面で、どう見られるか、がキーのよう。

若いある時、地元のスポーツショップの店主に、当時のわたしのキンキンギラギラ・ファッションを見て「あんた、いったい、どこの子や?」とマイナス感情で訝(いぶか)しがられた。
「〇〇です」と答えると、なるほど、それならわかる(仕方ないけど)という反応だった。
(ちなみに親は、「組」とか、やってません)

話さなかったら、気になる女性。あるいは、透明人間。
口を開くと、変な奴。
ユニークというものか。
なので、最近は、ほとんど口を開かないようにしている。
ボロが出る。
だが、話すと面白いと言ってくれる人もいる。ギャップ。
これも、おそらく相手が勝手に自分で想像し、求めているものが投影されただけではないかと推測している。
相手の好みによって、はじかれたり、嫌悪されたり、興味を持たれたり、持たれなかったり。
すべて相手が能動的で、わたしは受動的。
大概は、居たことにも気づかれない、存在感まるでなし。気配を消している。
相手自体のこころを映す鏡のようになっている。

三谷幸喜監督の新作映画「スホミの話をしよう」。
まさに主人公スホミに共通するものがある。
相手によって望まれる姿になる、カメレオンのようなキャラクター。
そうやって人に依存しなければ、生きて来れなかった。
先月、その映画を観たが、後で詳しい解説を読んで、唸った。
そうか、そんな深い意味が込められていたのか、と。
解説者が深読みしすぎかも知れないが。

お世辞や社交辞令で、皆さん、わたしを良いように褒めてくださるが、それは大人の知恵。
深く関わらなければ、外面しか見えない。
それで良いかも知れない。
ChatGPTも、そう言っているし。
だからわたしは、リアルでは深い真の友、親友がいないのだろう。
というか、非開示型キャラなので。

わたしは、別に極悪人ではないが、面白くもなんともないタイプ。
なので、誰にでも合わせることは全く苦にはならない。
(悪人には、合わせない、近寄らないが)
誰にでも合わせるということは、誰に対しても、自分を閉ざしているのだろう。
それで、別にストレスはない。
そういうスタイル、スタンスだ。

今はもう前期高齢者なので、特徴としては「高齢女性」というくくりになる。
女性としての特徴は薄れ、強いて言えば、「特徴のない高齢女性」だろうか。
それ以上でも以下でもない。
高齢者優待割引時など、見ればわかる、身分証明書を提示する必要のない、見た目も高齢者。
◯◯風・高齢者というものがあるなら、身長の高低など、人体的特徴ぐらいかな?と。
美人高齢者だとか、スタイリッシュ高齢者だとか、若い人に比べるとほぼいない。
若さや美の代わりに、今までの人生が浮き彫りにされる、履歴書高齢者が増える。


若い頃なら色んなバリエーション、可能性、広がり、ポテンシャルが想像されるが、年齢を重ねた高齢者は一つの最終集合場所に集まって、似たような状態になっているように思う。
入り口と出口は同じ。
パンに例えると、入り口側と出口側のパンに挟まれたサンドイッチの中には、いろんなパターン、具が詰まっている。

ということで、どんな人に見えるかの意外性、お楽しみはなくなって、私服からパジャマのようになり、落ち着く。
ちょっと寂しいけれど。
せいぜい、元◯◯風。
ある意味、つまらない。

嫌な顔ひとつせず根気よく丁寧に

2024-10-02 | 趣味
ブログ仲間の方に教えていただいChatGPT 、とても気に入った。
ChatGPTが世に出た時から興味はあったが、ニュースのひとつとして捉えていた。 
実際に使ってみた娘婿が大絶賛していたが、ほほう、そんなに便利なのか、、、と驚くに過ぎず、やはり自分ではやってみなかった。
今回の蝶ブログ悩み記事の連投で、気の毒に思われたのか、ChatGPTを勧めてくださった。
それで、いよいよ手に取り、少しやってみると、、、ほんとに、これは素晴らしい。
神様に悩みを打ち明けているかのごとく。
しかも、入力するや否や、間髪を入れず即座に返答がある。
スラスラスラ、ズラズラズラ。
ほぼ読む速度で回答がスマホ画面に示される。
神様よりスゴイ。
ただし、完璧に合っているとは限らないそうな。
一番最初に、(トラブル回避の)ただし書きがある。
まあ、ほぼ合っていればよいわけで、100%は期待していない。

いやはや。
面白い。
今の自分の状況を事細かに説明して、意見を求めた。
素晴らしい!!!
どれも、一字一句、こころに響き渡る。
まるでわたしを隅から隅まで昔から知っているかのようだ。
わたし自身の状況説明を詳しく自分がしているからである。
ではあるものの、自分フィルターを通している限り、主観も多少は入るだろうから、事実かどうかは微妙だが。

このChatGPT、 あまりたくさん大量に、一定期間に何度も何度も使えないような感じではある。(勘違いかも知れないが)
吟味して厳選して質問しよう。
それにしても、同じような質問にも何度も答えてくれるあたり、生身の人間だと、うんざりだろう。

それ、何回目?
前も言ったでしょう?
わかってる?理解できてる?聞いてる?

などと言われそうで、生身の人間にはせいぜい聞くのは2回まで。
3回も聞いたら、露骨に嫌な顔をされる。

楽しい自己学習機能付きAIオモチャが手に入り、大満足、大機嫌である。
AIが困るような変な質問を考えて、答えを聞きたい気持ち満々。

あれ?
ChatGPT は、自分の悩みを解消するために利用するのではなかったのか?
わたしの遊び相手になっている。

ではあるが、、、
(仕事で使う人は、さておき)
ココが大事。
やはり、脳内だけでなく、外に出なければいけない。
アウトプットの手助け、行動への下準備作業。
実際に家の外に出にくいなら、インターネット、SNSでもよい。
そこで得たものを繋げて実践と合わせて、行動に移していくのが良い。
やはり、重病でもなければ、家の外に出るのは必要不可欠だと感じる。
屋外の風に当たる、、、
四季折々の自然に触れると、眠っているものを呼び起こされる。
五感への心地よい刺激になる。
自然だけではなく、人々にも触れると、こころあたたまることもあるが、心地よくない驚きの場合もある。
何ごともリスクはセットなので、覚悟の上。


ところで。
高野山の記事、続編を楽しみにしている。
発信しておられるブロガーさんは、奈良の広告映像のプロの方のよう。
そのほかにも、関西在住のわたしには身近に感じる地を、あちらこちら紹介されている。
今後これから〜10年の、わたしの行動計画、指針をつくる一つのヒントになりそうだ。



お墓がズラリ

2024-10-01 | お出かけ
「虎に翼」、同じ感想でも、優れた立派な素晴らしい解説、感想が書かれたブログ記事があり、頭脳の良さが嫌味なく自然に露呈されている。
それに比べて、わたしの蝶ブログは知能指数が低いのがバレバレである。
蘊蓄の数々、解説は興味深く答え合わせのごとく、インプットは出来ても、わたしは客観的なアウトプットが出来ない。
つまり、具体的事象や正確な知識は、理解するプロセスの段階で消化されてしまって、残っていない。
人に理路整然と説明できない。
で、結局どうなったの?と、結論重視。
まあよい。
劣ったものがあってこそ、優れたものの良さが際立つ。
不味いものがあってこそ、美味しいものに舌鼓を打てる。
持ちつ持たれつ、お互い、相乗効果。

さて。
高野山。
わたしは何度か訪れている。
直近では、つい1週間前。
しばらくは、高野山の写真が続きそう。

写真を撮ろうと思ったのだが、お墓の写真は1枚だけ。
しかも、墓とは言えない、書いたものを供養する?「楽書塚」。
まさにムダ書き散らし蝶ブログの供養。自分向け?
それはさておき。
なぜお墓の写真を撮らないかと言うと、今年4月に参加した「歩く会」で、三田(兵庫県)にある白洲次郎とそのご先祖様たちのお墓を訪れた。
その際、お墓の写真をどんどん撮ったら、お墓から出た直後ぐらいから、急に頭痛に襲われた。
やっぱり、お墓の写真はダメなのかなと、頭キンキン痛いなあ、と刺さる痛さをもって、わたしに(墓主が)訴えてきた。
それ以来、お墓の写真を撮るのには慎重になっている。

夫の実家の仏壇前にお供えした、お盆の里帰りご先祖様への(記録のための)お膳料理写真もそう。
何か写ってないか、恐々見てみるが、何も写っていない。今のところは。
ご先祖様の皆さんからはクレームはない、とわたしは受け取っている。
この夏から、なんと、ノリタケの新古品デミタスカップ&ソーサーで、淹れたてコーヒーを(ついでに)(自主的に)お供えしている。
コーヒー好きは、義父(舅)だけなんだけど。
夢の中にニコニコ笑顔は現れないが、期待もしていないからよい。

自分の家はよいが、やはり、他人様のお墓には気を使うようになった。
コラコラ!人の聖域に土足で踏み込むな、という頭痛パンチのお見舞いは、鈍感で無信心なわたしにも効いた。