goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

暗闇

2013-11-06 | 日々のこと
あちこち、ネット内をお散歩していたら、更新アップ持ち時間が、あとわずかになった。
えらいこっちゃ、です。
15分で、何が書ける?

残り時間が少ない時に、ひとさまのブログを駆け足で読むことほど、
せわしなく、もったいないことはない。
もっとゆっくり読みたい。
でも、ネット内での時間配分を間違えてしまい、アタフタとなる。


そもそも平日は、持ち時間が決まっている。
前倒しにして、朝、まだ暗いうちの5時から、ネット遊びをしていれば、こんなにアクセクすることはないのに。
もっと前倒しにすると、前夜や、深夜から始めていれば、朝は、ゆっくりのんびりできるのに。

ところが、どーだ。
ネット遊びは、あくまでも遊びなので、義務でもなんでもないので、
気が向かない時には、気が向かない。
ノってきたころには、お時間終了となってしまう。

もしわたしが、純正ひきこもりであれば、確実にネット中毒になっていたことだろう。
朝になれば、出かけなければいけない、そういう状況があるからこそ、
あるいは、たとえ、つまらんルーチンワークであっても、
最低限度こなさなければならない義務があるからこそ、
中毒は回避されているように思う。


むかし、むか~し、わたしが20歳を過ぎたばかりの若いころ、
半年間、ほとんど寝てばかりいた時期があった。
そして、30歳を少し過ぎた頃、これまた、こもりっきり、真っ暗闇の中にいた、かたまりの時をすごした。
寝てばかりの時は、まわりの人に心配されていた。
本人は、ただ、「わたし、なんにも、することがないな~」なんて思いながら、ぼーっとしていただけ。
だが、その次の時期は、苦しかった。
出口がふさがっているのに、中ではどんどんエネルギーが溜まり、爆発、暴発寸前になっていた。

このハナシ、書きだすと、完全に遅刻間違いなし。
なので、今日は、理性を振り絞って、
ここで、中途半端なまんま、書きっぱなし、ほりっぱなしで、終わります。


ちょうど15分と相成りました。




にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ









おかんは、あかん。

2013-11-05 | 日々のこと
接客業、客商売。
ホステスは、気持ちよく楽しく飲ませて、通わせて、お客のふところから、たっぷりお金を払わせる。(巻き上げる)。(ふんだくる)。
愛嬌やら色気をふりまき、「あなた、素敵ね~」「また来てね」と一見(いちげん)さんよりも、リピーターづくりに精を出す。
(一見さんは、それはそれで、カモ)
「アナタ、ステキネ~」「スキヨ~」の一言二言しか話せない、
コトバがたいしてわからない、フィリピン人パブとかも人気。
コトバは、音楽、BGMの一種。

・・・

平日昼間のスーパーに顔を出してみると、若い、東南アジア系ママたちが、子連れで来ていた。
ぺちゃくちゃ話しながら、日本人のママと変わらない。

ふ~ん・・・なるほど・・・

たいして都会でもないが、さほど田舎でもない、大阪府下のとあるJR駅近く。
このスーパーの近所に住んでいるようだ。

わたしは、この駅には、ちょっと縁があって、1年に数回、車で往復する。
先日は、事情で、はじめて電車に乗って行ってきた。
車で行っている時は気づかなかったことが、ふと目に留まった。

踏切があって、がたんごとんと電車が通り過ぎる長い時間をじーっと待つ。
遮断機の向こうには、買い物帰りの人や、保育所からの帰りの人など、主婦らしき人々。
一人一人の生活ひとコマ、ひとコマが、目の前に並ぶ。

・・・

日本人女子は、昔に比べると結婚年齢が上がり、また、非婚比率も高くなった。
日本人男子も、そう。

農家の長男の嫁に、海外からお嫁さんをもらう例は、メディアでよく紹介されている。
古い家父長制、男尊女卑が色濃く残った慣わしは、核家族化のもとで育った女性には異星のごとく。
同じ環境で育った女性も、こんなの嫌、と、NG。違う道を選ぶ。
日本人女子が嫌がるから、発展途上国から調達。
介護要員もそう。
日本人が嫌がることは、お金をちらつかせ、海外から外注。

農家ではない、ふつうの男子にも、発展途上国から調達するようになったのか。
しかし、国の表の顔を見る限り、よほどの片田舎の貧しい農村地帯でもないと、
東南アジアは、もはや発展途上国とは言えないと思う。
だが、表面だけを整えて、隅々や奥深くまでは、まだまだ手が届かないかも知れない。
やはり、悲惨な事件などをニュースで見たりすると、極貧の人たちはいるようだ。
福祉のセフティネットから零れ落ちるような貧しい人たちは、日本にだっているが。


フィリピン人パブや、介護関係で知り合うのだろうか。
旅行で現地で知り合うのだろうか。
なれそめは想像するだけであるが、国際色が豊かになったと喜ぶべきなのか、
はたまた、アタマの古い人間にとっては、複雑な心境になる。

お金をたっぷり持った中年日本人男性が、東南アジアで若いピチピチ奥さんと第二の人生、
むこうの親戚も蟻のようにどっと集まり、大盤振る舞い。
お金がなくなったら、ぽい。
先日、20億円近いお金(さらにもっと何倍もの額の疑惑発覚)を横領し、
(そうのちのいくらか知らないが女性につぎ込んだだろうと思われる)男性が逮捕されていた。
現地では、幸せが凝縮された、まさに、「夢のようなひと時」だっただろう。
(逮捕時は、痩せこけて見る影もなかったが)

・・・

結婚適齢期の日本人女子と、日本人男子は、うまくマッチングできないのは、なぜか。
束になった男性と女性が、お互い、静かな距離をもって位置する。
かたや、一方で、婚外では好き放題し放題の既婚男女。

・・・

帰りの電車の中。
平日、夕方でもないと、日ごろは顔を会わせない通学高校生。
4人向かい合わせの席。わたしの前に女子高校生2人。
一人が、もう一人に、母親のことを愚痴っている。
母親と喧嘩し、ぶち切れた母親が、ケイタイ代を自分で出せと言うそうだ。

その前に、学校から持ち帰ったお弁当箱を洗う、洗わないでも、約束を守った、守らないで、
ささいな喧嘩があったらしい。

喧嘩の内容は、じつにかわいい、日常の些細なことで、
わたしも高校生の頃を思い出すと似たようなことが思い出される。
ただし・・・ここで、うるさ型のいじわるバアサンのわたしは、思う。

内容はともかく、あのコトバ使いは、気にいらん。
女子なんだったら、もう少し、ましなコトバを使ってほしい。
母親のことは、「おかん」と呼ぶ。
吉本の芸人じゃあるまいし。
そのひとつの単語だけでなく、
「おかん」は、すべてのほかに使っているコトバ使い、表現を代表している。

品がないな~。この家庭。この母子。
高校生女子が反抗期で、わざと品なく行動している、そういう時期??

やはり、子供は、裏に隠れる家庭を背負っている。
育てられた背景のニオイがする。

しかし、これが、外国で、コトバがまったくわからないとすると、
わたしは、眉をひそめることもなく、にこやかに彼女たちの話を聞いていたのではないだろうか。
いやはや、コトバが、わかりすぎることの弊害もある。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ





珍客

2013-11-03 | 日々のこと
わたしの、くだらんつぶやき、最近少しばかり、のぞいてくださる方が増えた。
で、・・・ぐだぐだと、つぶやきの割には、長ったらしい。
もはや、つぶやきとは言えない。
念仏、呪文のようなものか。

その逆に、ブログ村は、ポイントが低下。当然、ランキングも。
ブログ村との関連性は、やはり、関係ないんだと確信した。

その長々ブログ・・・
今日は、長ったらしくできないので、ご安心ください。

昨日、今日、明日と、家族イベントがあり、ブログに時間が取れない。

平常モードでないと、どうも落ち着かない。
日ごろの生活パターンでなく、非常にお久しぶりの顔が現れると、どぎまぎ。
なにを話していいか、わからない。
(あ、これ、・・・息子です)

ましてや、パチパチ、キーボードなんぞ、澄まして打ってられない。
がやがやと、もうじき、あれこれ人数が増えてくるので、
今から、昼食の支度にかかります。

ちなみに、わたしの最も不得意な事柄は、食事作りと、家の整理整頓・掃除。
最も好きなことのひとつは、ブログ更新。

中途半端にブログをほったらかして、
へたくそな料理作りへと移行いたします。
(て、報告してなにか、意味があるのか?  ・・・ぜんぜん、ない)


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ











おじん

2013-11-02 | 暮らし
なぜか、わたしが毎日見に行く、一方的隠れファンである、とあるブログ。
まったく、なんの関わりも接点も共通点もないのだが、
描写力の素晴らしさ、キリリとした目線の鋭さが、ある種の気持ちよさを感じさせてくれる。

冷静な目で人間ウォッチングをしているところは非常に興味深いのだが、
目線の先の現象に対して、本人がそれをどう感じるか、ということが、違う。
世代間ギャップも大きい。
(なんせ、世代もまったく違うもので)
それがまた、面白かったりする。

・・・

「他人の小さな子供に、まとわりつく60代おじん」

これって、ちょっと衝撃を受けた。
なにがかというと、ものの見方、方面、角度が違うと、こうも違うものかと。

このおじん、離婚歴ありで、子供がいるが、家族とは没交渉。
孫がいるとすると、同じような年頃。
そういう子供たちと遊んだり、話したりしたがる、一人暮らしの団塊世代・男性。
同じ集合住宅に住んでいて、毎日、まとわりつかれてうんざり、と若いママたちに苦情をもたらされている。

よほど、気持ち悪い変質者的であるか、異常なほどのねっとり偏愛者っぽいとか、
子供をべろべろなめまわすとか、汚い手で、さわりまくるとか、
そんなことなら、警戒もするだろうし、気持ち悪がられて当然だが。
そんな風でもない。

毎日、ぺったり子供たちと接したくて、周辺をうろうろしている、とのこと。

実際にその場にいて見ていないので、なんとも言えないが、
定年を過ぎた独居やもめ男性が、自宅に閉じこもるのもヘキヘキし、外に飛び出す。
自分の孫と同世代の、かわいい年頃の子供たちと接したい。
それだけの思いだとすると、なんて、かわいそうなことだろう。

趣味でもあれば、毎日、趣味を楽しむのもひとつの方法。
(大してお金のかからない方法で、趣味を見つけることもできる。
趣味を通しての人付き合いも生まれる)
だが、その男性は、おそらく、趣味や、家族はもちろんのこと、友人たちとの交流がないのだろう。
で、自宅近隣の子供たちと遊ぶことが、楽しみ、あるいは、暇つぶし。
1日のルーティンワーク。

しかし、ママたちには、そんな嫌な目で見られているとは、およそ思っていないと推測する。


会話するにも至近距離すぎて、口が臭くて、唾が飛ぶのがゾッとする、とのこと。
これ、ひょっとしてわたしも、人にそんな思いをされているとも限らない。
フランス語のテキストを机に広げて、ラジオの流れにそって、テキスト真上から10~15センチぐらいのところで発音していると、
テキストに、小さな小さな水滴(霧に近い?)のようなものが、ぴっぴっと付くことがある。
(すぐ、乾いて見えなくなるが)
これって、いわゆる唾(ツバ)?

多かれ少なかれ、人は発音すると、ツバが飛ぶ。
これを不快と感じるか、ツバの存在自体に気が付かないか、相手との距離に関係する。
その人物とのお付き合いの距離、こころの距離。

自分の生活空間を圧迫する人に対しては、不快感を募らせていくのだろう。
目に見えない、感じることのできない、小さな小さな霧状のものでも、
大きな大粒の、思わず避けたくなるほどの、汚いツバのカタマリに感じるのだろう。


人のいい、さびしい熟年おじさんが、こうも嫌われる図は、憐れでしかたがない。


・・・

昨日のわたしの記事、ひとり残った老人の話。
彼の捉え方も、見方によっては、まったく違う。

一人気楽に、文句ばかりのうるさい女房もいなくて、好きにできる。
なんだって、しようと思えばできる。
一人暮らしの気楽さ。(ただし、病身でなければ)
場合によっては、今から結婚だってできる。

なにも子供を残さなくても、家族や子供にかける、その分のエネルギー、時間、お金を、自分の好きに使うことができる。
自由に好きなことに、使うことができる。
かなりのことが、できるだろう。
(家族や子供への労力、出費は、それぐらい大変なウエイトを占める)

なので、そんな悲惨な話ではないのだが。
過去から現在、未来への橋渡し、継承という軸を基準に、ある側面から見た場合の、わたしの感想である。
あんなに大勢だった家族が、一人減り、二人減り、最後には誰もいなくなることへの、
寂しさを感じただけであり、
本人は、ぜんぜんそんなこと、お構いなしかも知れない。

それはそれで、いい。

・・・

自分では楽しい人生を送っていても、人から見れば、嫌われたり、気の毒がられたり、
そういうことは、摩訶不思議な現象である。

ママ・ブログに書かれていた、(おじん、改め)まとわりつきおじさんに関しては、
ママたちに嫌われていることに対して、わたしは、同情の念を抱いている。
(が、おじさんと生活空間を共にしているママたちと、立場が違うので、なんとも言えない)

おじさんは、自分では、嫌われているなんて、思いもしていないだろうだけに、
なんだか、しんみりものである。

生活空間を共にする場合、かなり気を使わなくてはならないということか。


・・・

毎日、どういう気持ちで生活を送っているか、ということが大きいと思う。
ピアノの音がうるさい、ぎんぎんがんがん、アタマに響く。
どんどん、ばんばん、床の振動がこたえる。
子育てや仕事で、へとへとになっていると、ちょっとしたことも、気に障るのかも知れない。
椅子を引くキーキー音が神経にさわる、など、建物の構造上の問題もあるだろう。

そして、住環境は、とても大事。
でも、各自、いろんな事情があり、理想と現実は一致しないことが多い。

・・・

と、なにをまとめれば?
とどのつまりは、個人の性格や、受け止め方の違い。
価値観の違い。
現在、置かれている状況の影響が大きい。

いろいろあるものだ。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ













ぽつんと、ひとり残されて。

2013-11-01 | 人生
ある家庭。
昔は、大家族だった。
今も大きな美しい家がある。

昔昔から代々、平穏に続く暮らしがあった。
わたしが知っているのは、婿養子だったおじいさんが生きていた頃から。
このおじいさんは、大人しく穏やかな人で、毎晩、少しの晩酌を楽しみにしていた。

なぜ婿養子かというと、
子供は姉妹しかいなかったので、長女に婿養子をとり、両親たちと同居していたのだろう。
当時は、おじいさん、おばあさんがいて、婿養子と娘と暮らしていた。
そこに子供たちが次々生まれた。(大正末期から昭和にかけて)


やがて子供たちは、跡取り以外は、嫁に行って家を離れたり、戦死したりして、いなくなった。
だが、跡取りの長男には、嫁がきた。
その夫婦に、また子供たちが生まれた。(戦後)
子供たちは、全員、男。

年を重ねて、孫をかわいがっていた、おじいさんが亡くなり、孫の親である跡取り長男が亡くなり、
女子供だけが残った。
(男性のほうが平均寿命が短い)
嫁は、姑の介護を長く続けていたが、姑も亡くなり、嫁も亡くなった。

その間に、かわいくて、ちょっと抜け目にない、でも憎めないタイプの三男は、
その人柄を見初められ、大きな家に、いちばん最初に、婿に行った。

長男、次男は、何度か結婚話があったが、頭の固い母親(嫁)が、難色を示し却下されていた。
今、考えると、そこは、大きなターニングポイントだった。

大きな家に、男兄弟二人暮らしが続いた。
兄は、外、弟は家事、みたいな構図が出来上がっていた。
つい最近、長男が、亡くなった。

で、残るのは、白髪の、おじいさん。つまり、次男ひとり。
(団塊の世代なので、そんなに超高齢ではないが、見かけが老けている)
大きな家に、おじいさんが、ぽっつーーんと、ひとり。

昔は、大勢いた。
・・・うんと前の人々、それに続く、ひいおじいさん、ひいおばあさん、
婿養子のおじいさん、家付き娘のおばあさん、子供が5人、長男の嫁、孫たち・・・

この白髪のひとりぼっちのおじいさんは、↑上の一行、最後に書いた孫の一人である。

大家族は、夢の宴。
時代の流れか。
宴のあとは、さびしい。


どこで、どう間違ったのか。

本来は、末っ子の三男が婿養子に行ったあたりで、長男が嫁をもらい、次男は、分家し、・・・
となる予定だったはず。
だが、タイミングを失い、未婚のまま。
婿に行った三男は、すでに孫もいる。

ひとりぼっちのおじいさんは、嫁や息子夫婦や孫に囲まれているはずだったのだが・・・。
嫁や息子夫婦や孫の代わりに、気難しい兄と二人暮し。
先細り。
あんなににぎやかだった家が、今では、ぽつんとひとり・・・。
やがて、誰もいなくなるのは、時間の問題。

あのターニングポイントで、難癖つけずに、結婚を推し進めていたら・・・。
強くプッシュしていたら・・・。
いまとなれば、「たられば」、であるが。
結婚しても、子供に恵まれなかったり、離婚したり、騒動があったりすることもあるだろうけれど。
とりあえず、命をつなぐ、子供を生み育てることの大事さ、これを痛感する。

・・・

別の、ある年配姉妹。
姉は、きちんとした見合い結婚。
子供は二人だが、一人は未婚、一人は既婚で子供なし。
妹は、シングルマザーで二人の子供を育て、今では孫もいる。
今と違って、50年前は、シングルマザーの風当たりが、かなりきつかった。
偶然だが、シングルマザーの妹のほうは、将来につながる子供、孫に恵まれた。
当時、非難を浴びても、結果的には逆転した。

世間体やら格式を重んじて、古臭いことをガチガチにこだわっていては、
こだわるあまり、かんじんの目標に到達することができない。
本末転倒。
かといって、犬猫のような安物の男女になってほしい、と、極端なことを望んでいるわけではない。


なにごとも、調整、調和、柔軟な切り替えが必要だ。
舵きり、方向転換、策略変更の試行錯誤。
その道一筋、一直線、頑固一徹、てこでも動かない、というのも美学かも知れないが。
ピアノ線より細くても、しっかりした強い芯を持っていれば、
柳のように、右へ左へ、しなっていても、折れはしない。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ