蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

事実を追求し、辛辣は人を傷つける

2024-05-18 | 老い
さきほど、蝶ブログ記事に、ある人に対するマイナスの評価を書き連ねた。
だが、わたしが憂さ晴らしできたかというと、全然そんなことはなく、むしろ逆で、嫌な気持ちになった。
それで、ボツ、非公開にした。
人の欠点を追求しても自分は救われないということ。
人の性格の弱さを糾弾したところで、糾弾している自分自身に自己嫌悪を感じる。
自分だって欠点があり、克服できないくせに、人の欠点をどうこう言える資格はない。
人の欠点をスルーできない自分、気になる自分は、それだけ器が小さいのだろう。
器の小ささを感じて、自己嫌悪を感じるのかも知れない。
ではあるものの、わたしがこれだけ自省し、そして努力している事柄に対して、当の本人は微塵も何も感じていない。
じつに幸せだ。
人の幸せを壊す権利はわたしにはない。
なので、見て見ぬフリをする。
単なる価値観の相違だろう。
自分で気づいて改善しようとするものなら、とっくに努力するだろうけれど、もう諦め、自分の欠点は見捨てたに違いない。
なので、その欠点を突くと、おそらく本人は著しく不愉快になるだろう。
プライドを揺るがし人格まで壊しかねない。
ほっといてくれ、と。
なので、ほっている。
が、いつも痛いものは痛く感じ、いっこうにわたしの感覚は麻痺しない。
痛みの神経を抜くわけにはいかない。
痛みを部分的、短時間、やわらげることはできても、根本的には不可能。
足を切断した人が、その切断した足の指が痒い、と感じるような、原因は脳や神経にある場合がある。

ずっと前、今より若かった頃の蝶ブログは、毒だらけで、毒吐きしまくっていた。
わたしには毒がいっぱい詰まっていた。
その毒こそが原動力だったかも知れない。
それがかえって読む側にはアクのある悪の気持ち良さを感じたり、自分にもある深層心理を表面に表され、同じ病状に悩む人のような、共犯者のような、そんな共感を生んだかも知れない。
蝶ブログは毒の代弁者。
今は、自分に若さがなくなった分、落ち着いたからか、人の欠点をほじくり出すような内容のブログ記事は、自分を救えない。
人の内面を突き詰めて非難するなんて、良くない。
人は人。
スルーするか、そっと見守るぐらいのこころの広さが欲しい。
暖かく容認、受容するには、まだ修行が足りないが、悟りまであと少しのような気もする。
だが、それが長く困難。
「気にならない」ぐらいがちょうどいい。
改善させなければいけない、、、なんていうのは超お節介だ。
人の内面の深いところに首を突っ込むのは、うるさく、あつくるしい。

自分のどうしようもない欠点を改善する方だけに集中すべき。
だが、最近わたしは、自分の欠点は認め、ジタバタしないようになった。
諦観。
それと同時に、人の欠点も許せる傾向。
そういう時期に移っている。

ただ、許せるのだが、事実がしっかり明確に見え、原因や現状、分析が出来るので、気づいていない本人を見ると、いらっとすることもある。
と同時に、気づかない幸せってあるんだなあと思う。
何でも見え過ぎるのは良くない。
傷つく。
敏感に感じ過ぎないよう、目、耳、口、頭、何か薄いもので覆ったほうが良い。
だが、本人の意識とはまた別に、神様は見えなくしてくれる能力を一定年齢以上の人にプレゼントしてくれるから、ありがたい。
シニアワールドは誰でも入れる。
入りたくない人も。


※写真は、シンガポール・チャンギ国際空港。