いいなあ、、、
最愛の他人と過ごす晩年。
ねえ、おじいさん。
なんだい、おばあさん。
ほら、あの時、子供達のあの出来事、あなたったら、、、
そりゃ、そうさ、、、あれは、なあ、、、
見て、この風景、前に住んでたところを思い出しますねえ。
あの家は、ひどかったけど、懐かしいなあ。
静かに語り合う過去、支え合う暮らし。
いいなあ、、、
やがて、片方がいなくなっても、もう一方は淡々と生きていく。
晩年にならないと到達しない心境だとしたら、まだ晩年とは言えない、生臭い年齢の今。
落ちついた老年の自分が想像できない。
欲が一切なくなって、塩分も脂も旨味もなんにもなくなって、ひたすら薄味になれば到達できるのだろうか。
(無味になると、無味乾燥だけど)
強欲なわたしは、強欲は、生きる意欲とセットになっているかも知れない。
ある芸術家は、自分の才能に行き詰まり、作品作りをやめるのと同時に、自らの生命を断った。
生きることは、生み出すこと。
エネルギー、情熱が芸術を生む。
生み出すことが出来ないなら、生きている意味がない。
わたしは芸術家ではない、一般凡人なので、そんな壮絶な追い込みはない。
ぬるく生きている。
が、欲が張っているせいで、自分の首を絞めている。
欲と生命力がセットなら、、、
自業自得の人生と言える。
生み出すものなどなく、ひたすら、自分の欲と闘う。
この欲が、出世欲とか名誉欲とか、独占欲とかなら、まあよくあることだが、もっと低次元の欲。
ぜんぜん建設的ではない、マイナスの力。
そうやって、無意識に「生きること」へのバランスを取っているのだろうか。
水面下で、手足をバタつかせて、涼しげな顔だけ水面から出しているのか。
宗教で救われることも多い。
ただし、わたしの場合、特定の宗教ではない。
宗教は、人間の業の深さを認めた上で、否定せず、なだめてくれる。
フタをして覆い隠すのではなく、鎮めてくれる。
具体的に教えを実践して、写経をするわけでも、お百度詣りするわけでも、巡礼地に赴くわけでもない。
教会に行くわけでもなく、聖書や聖典を読むわけでもない。
そうこうしていると、もうじきお盆。
仏教は、御先祖と子孫たちの縦のつながりを大事にする。
わたしは、義務であるお盆行事をこなさなければならないが、これがついでに身を鎮める効果もあるなら、悪くはない。
しかし、家の仏教継承は嫁の義務ではあるが、そもそも、嫁が嫁いだ家の宗教を守り継承しなくてはならない、この義務そのものに疑問を感じる。
そんな疑問を感じても、盆行事は遂行する。
宗教心からではなく、義務感。仕事。
(嫁が違う別の宗教なら?
嫁がいないと【離別、死別、非婚】、嫁ではない家の人がやり、家の人がいないと、誰がやる?)
しかし、いつになったら、解き放たれるのだろう。
いつまで経っても、迷える中途半端な、生乾きの人物である、わたし。
わたしのモヤモヤが解消されるのは、この世からいなくなる時だろうか。
あるいは、生きている間に、怖い悲惨な目に遭ったら「モヤモヤ」は、のんきな幸せの副作用だったと気づくかも知れない。
とりあえず、今日に感謝。
誰に感謝するのかわからないけれど、自分以外の人に感謝して、さらに自分に労いの言葉をかける。
芸術も生み出さず、ぬるく生きている、不平不満だらけの自分に、よくまあ恥ずかしげもなく、のうのうと生きているなあと、労いの言葉をかける。
まあ、とかく凡人は生きやすい。
最愛の他人と過ごす晩年。
ねえ、おじいさん。
なんだい、おばあさん。
ほら、あの時、子供達のあの出来事、あなたったら、、、
そりゃ、そうさ、、、あれは、なあ、、、
見て、この風景、前に住んでたところを思い出しますねえ。
あの家は、ひどかったけど、懐かしいなあ。
静かに語り合う過去、支え合う暮らし。
いいなあ、、、
やがて、片方がいなくなっても、もう一方は淡々と生きていく。
晩年にならないと到達しない心境だとしたら、まだ晩年とは言えない、生臭い年齢の今。
落ちついた老年の自分が想像できない。
欲が一切なくなって、塩分も脂も旨味もなんにもなくなって、ひたすら薄味になれば到達できるのだろうか。
(無味になると、無味乾燥だけど)
強欲なわたしは、強欲は、生きる意欲とセットになっているかも知れない。
ある芸術家は、自分の才能に行き詰まり、作品作りをやめるのと同時に、自らの生命を断った。
生きることは、生み出すこと。
エネルギー、情熱が芸術を生む。
生み出すことが出来ないなら、生きている意味がない。
わたしは芸術家ではない、一般凡人なので、そんな壮絶な追い込みはない。
ぬるく生きている。
が、欲が張っているせいで、自分の首を絞めている。
欲と生命力がセットなら、、、
自業自得の人生と言える。
生み出すものなどなく、ひたすら、自分の欲と闘う。
この欲が、出世欲とか名誉欲とか、独占欲とかなら、まあよくあることだが、もっと低次元の欲。
ぜんぜん建設的ではない、マイナスの力。
そうやって、無意識に「生きること」へのバランスを取っているのだろうか。
水面下で、手足をバタつかせて、涼しげな顔だけ水面から出しているのか。
宗教で救われることも多い。
ただし、わたしの場合、特定の宗教ではない。
宗教は、人間の業の深さを認めた上で、否定せず、なだめてくれる。
フタをして覆い隠すのではなく、鎮めてくれる。
具体的に教えを実践して、写経をするわけでも、お百度詣りするわけでも、巡礼地に赴くわけでもない。
教会に行くわけでもなく、聖書や聖典を読むわけでもない。
そうこうしていると、もうじきお盆。
仏教は、御先祖と子孫たちの縦のつながりを大事にする。
わたしは、義務であるお盆行事をこなさなければならないが、これがついでに身を鎮める効果もあるなら、悪くはない。
しかし、家の仏教継承は嫁の義務ではあるが、そもそも、嫁が嫁いだ家の宗教を守り継承しなくてはならない、この義務そのものに疑問を感じる。
そんな疑問を感じても、盆行事は遂行する。
宗教心からではなく、義務感。仕事。
(嫁が違う別の宗教なら?
嫁がいないと【離別、死別、非婚】、嫁ではない家の人がやり、家の人がいないと、誰がやる?)
しかし、いつになったら、解き放たれるのだろう。
いつまで経っても、迷える中途半端な、生乾きの人物である、わたし。
わたしのモヤモヤが解消されるのは、この世からいなくなる時だろうか。
あるいは、生きている間に、怖い悲惨な目に遭ったら「モヤモヤ」は、のんきな幸せの副作用だったと気づくかも知れない。
とりあえず、今日に感謝。
誰に感謝するのかわからないけれど、自分以外の人に感謝して、さらに自分に労いの言葉をかける。
芸術も生み出さず、ぬるく生きている、不平不満だらけの自分に、よくまあ恥ずかしげもなく、のうのうと生きているなあと、労いの言葉をかける。
まあ、とかく凡人は生きやすい。