世の中、すばらしい人は、たくさんいる。
文章に秀でている方も、とても多い。
透き通るような、美しい文章や、
流れるような、とか、知的な、理路整然とした、とか、
感性がさらさらしていて、でも潤いのある、どこかのシャンプー&リンスみたいな文章も。
ひとつには、キーンとアタマがいい、と考えられる。
ひとつは、感性がピカピカ、ピカっ、あるいは、ビリビリ、ビビっとしている。
ただし、これは、わたしの完全な偏見だが、あくまでも文系でのノリ。
(あたりまえか、文章のことを言っているだから)
計算やら、設計やら、発明やら、物理学的・化学的分析やら、理数系とは、違う分野だ。
そして、文学くくりで、おなじ芸術系でも、ビジュアル系や音楽系ともまた違う。
文系にも、感性や文章表現とはまた違う分野の、脳のサエ、脳ミソの良さがある。
めちゃくちゃ幅の広い分野の、気が遠くなるような膨大な量の事柄を、コンピューター処理ではなく、
自前のアタマで処理していく能力。
あるいは、地球の底まで掘ってもたどり着かないような、深く深く、延々とモノゴトを掘り下げ、思考に思考を重ねる、
とてつもなく強靭な脳ミソ。
書けば書くほど、自分とはかけ離れていって、どんどん書く意味がなくなってきている。
なんのために、書いている?
あ、そうか。
文章のことだけで、自信を失っているわたしだったが、
文章能力も、他の能力のうちの、ほんのひとつ、ちっぽけなことなんだと、ちょっと気が付いた。
そして、表現方法もさることながら、内容がカナメ。(表現そのものが、内容になっている場合もあるだろう)
(ここで、自信のなさが、いっきに、上から目線へと変わる)
グーグルアースで、町内の自分の家を見ていて、ぐいーんと縮小率を上げていき、
いっきに、地球レベルまで上げて、どこかの国の核実験地まで見えるほどになっている。
スポーツや、特殊技能、職人技など、また違う分野もあるだろうし、能力の分野には限りがない。
しかも、そんなわかりやすい、換算値が出しやすい能力ではなく、
精神的な包容力とか、慈愛とか、ボランティア精神とか、
あるいは、両親、子供に見返りを求めず尽くすとか、他人、社会に尽くす、身を粉にして働く、
などなど、別の方向から見ると、際限なく、グーグルアースではとらえきれない、
もはや判定不可能・・・宗教分野に入ってしまうかも知れない。
でも・・・
わたしは、やはり自分に自信がない。
なにごとにおいても。
すべてのことに、だ。
それが、哀しいかな、自分の基本スタンスになっている。
(しかし、なぜか、相反すると思うのだが、「上から目線」、「ナニサマ」が混入されているようだ)
なので、ものごとを言い切る人や、自信満々の人は、苦手だ。
その自信をプレッシャーに変換して、日々、エネルギーや、やる気の源にしておられるのだろうけれど。
自信を持つのは大いにけっこうで、人生で不可欠だと思う。
ただ、自省する余地は、ほしい。
なにが、なんでも自分が正しい、というのは、いかがなるものかと。
(「なにがなんでも、自分は正しくないが、それがどうした?」というのも、いかがなるものかと)
少しぐらい柔軟に、自分を変化させようという余力、柔軟性がほしい。
自信をもって、言い切ってしまえば、それで終わり。成長も発展もない。
自信を持つには、それだけの根拠があり、実績があってのこと。
だが、世の中、上には上がある。
ちょっと、中間で一休みするのは、とても大切なことだと思うが、
それは、道の途中だということをわかって、一休みしてほしい。
(→なんか、この言い方、気づかないうちに、すでに、ナニサマっぽくなっている)
いつも、休んでばかりいるわたしが、なにを言っても聞く耳は持たれないとは思うが、
ひとそれぞれ、個性というものがある。
わたしは、自分には備わっていないもの、
たとえば、強いもの、自信満々なもの、ぐいぐい引っ張っていってくれるもの、
そういうものには、惹かれるし、なびくが、
根拠のない自信や、わたしが見て、え?と思うようなレベルのものには、
いくら自信満々でも、さささーっと引いてしまう。
これが、わたしの、「自信がないくせに、力がないくせに、上から目線」という、
扱いに困る、やっかいな基準、性格だ。
この性格で、ずいぶん、いままでわたしは、損もし、苦労もした。
統一感がないのだ。
自信がないんだったら、自信を持ちたいんだったら、恥ずかしげもなく掲げている、自分と程遠い理想を低めろ。
理想と現実の不調和。それを解消せよ。
一生、これは、わたしの課題となり、克服することは不可能だろう。
一生、自信を持てないまま、渇望状態で、そのくせ、へんにへらへら笑っている、
相反する自分と付き合っていかなければならないだろう。
しかし・・・それもなあ・・・
そうだ!逆に考えればいいんだ。
発想の転換。
自信がない=弱い人の気持ちがわかる
上から目線=上の人の気持ちがわかる
この両方を併せ持っている、ということは、
弱い人の気持ちも、上の人の気持ちもわかる、という、オールマイティではないか。
これは、どんなところにでも生かせるのでは・・・?
(と、思ったのも束の間)
自治会では班長の役が毎年、順々に各家に回ってくるのだが、うちが班長になった年のこと。
例年、その班長の中から役を決める。で、恐怖のくじ引きで敗れ、副会長になってしまった。
そして、わたしは、班長会議の議長をやらされたが、
どの人の意見にも納得し、理解を示し、すべてを採用しそうになって、なにがなんだか、わからない状態になって、
見るに見かねた、会長さんのご主人が、代わりに議長を引き受けてくださった。
学生時代も、クラス委員をやらされたとき、会議の進行は、まるでひどいもので、
先生が助け舟を出してくれた。
慣れて力が備わる前に、役をおろされた。
わたしは、リーダーシップや、多くの意見をまとめて決定する、なんていう能力は、
生まれてくるときに、母親の胎内に置き忘れてきたようだ。
なので、せっかく逆転の発想で、短所を長所にとらえ直そう、という試みは、見事、失敗に終わった。
やっぱり、自信のない、上から目線の、アンバランス蝶であります。

