蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

故郷

2010-03-06 | 人生
異国の地に暮らす人は、死が近くなると、望郷の念にかられる、という。
それは、祖国、日本。
私の場合、異国に暮らしていないし、戦争を知らない世代なので、
祖国などと言われても、ピンと来ない。
日本人であることを意識するのは、海外に行った時ぐらいだ。

それでは話が進まないので、国は、ちょっと横に置いて・・・
では、故郷は?
私の実家?
なら、結婚後は、婚家が故郷?
頭の中ではそう思うように、自分で言い聞かせる。
実際には、故郷が後半になって、ひとつ増えた、というかんじ?
子供たちも、結婚すれば、また故郷がひとつ、増えるのだろうか?

子供たちにとっての実家は?
今、私が暮らしている家であるはずなのだが・・・。
どうも霞(かすみ)を食べて生きているような、ヘラヘラし過ぎの私、
我が家は、実家というにはあまりにも軽いかも?
よくもまあ、こんな母親なのに、無事に、子供たちは大きくなったものだと、ヘンに今さら感心する。

重みがあるのは、実家の実家。
父方の実家。
母方の実家。
どっちに頻繁に行き来するかで、違ってくるだろう。
しかしながら、子供たちの実家は、じいちゃん、ばあちゃんの家ではなく、我が家。
合理的核家族。
各々の実家に比べると、あまりにも、うちは、軽くお粗末で、ふわりと飛んで行ってしまいそうだけれど。

重みを引き継ぐには、人材が不足している。
なぜ、煙たがる、嫌がるのか? なぜ、重圧に耐えられないのか?
古くさい古風な考えが根付いている田舎では、古くささを、伝統、というらしい。
意義がある伝統でなければ、引き継がれないと思う。形骸化するだけだ。
だが、その一代だけの世代限りで終わってしまう、勝手気ままな暮らしは、カタチとしては残らない。
自分たちの生活にほとんどを使ってしまい、次世代に残すだけの甲斐性がないのが現状かも。
税制も変わり、相続税は重いから、先祖からの有形のものを引き継げない家は多々ある。
戦後生まれのヘナヘナな私には、厳しさが足りない。
先代以前のような根性もパワーもない。

どうせ死んでいくのだから、あとは、子供たちがそれぞれに歩んでくれたらそれでいい、という考えもある。
一代、一代が、その時、その時で終わって行く。
でも、結果的には、DNAとしては、脈々と引き継がれていくのだが。
有形にこだわらず、無形の貴重なもの、DNAという遺伝子だけのものでもいい。
そういうシンプルな考えが通ればいいのだが、そんなわけにもいかないようだ。
考えの違い、風土、風習、因習の違い、それらとの折り合いがつかない場合でも、
非婚が増える昨今、こういう時代だし、最低限度、DNAだけでも継承すれば、それで上出来だ。


で、話を元にもどすと・・・自分の故郷とは?
自分の心のなかにある思い出。
夫の転勤先で、夕暮れの買い物からの帰り道、幼かった子供をバギーに乗せて、空を見上げ、
「これって、故郷イメージっぽい夕暮れ」などと自分で想像して、
別に自分の故郷には、そんな夕暮れシーンの思い出なんてないのに、勝手に創り上げている。
故郷は田舎でないと、絵にならない・・・なんて、イメージ先行型の私の感性。
私は、リアル体験の感受性が鈍いのかも知れない。
本物の美しい花を見て、「わぁ、まるで造花みたいに完璧にキレイ!!」という感覚、
ホンモノと造りものが、頭のなかでこんがらがっている。
一般的に言えば、故郷とは、「生まれ育った地、及びその地の風景&心象風景」だろうか。

私の実際の故郷も、自分の幼い頃の品々も、まだそのまま置いてあるものもあり、今も実在している。
婚家は、夫の故郷。イエに、合わせろと強制されると、
義務であるDNAだけポンと残して、全力で逃げ出したくなる。

故郷とは・・・
私には、やっぱりまだ語れない。

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