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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

非公開

2021-03-22 | 
夫の実家のことをもそもそ書いたが(2754文字)、アップするのをやめる。
気が向いたら公開するかも知れないが、面白くもなんともない記事である。
自分の考えをまとめようと思ったが、まとめながら、途中、読まれることを意識して、スパッと書けないで、オブラートに包んだり、婉曲に書いたり、モヤモヤを助長させている。
が、自分の考えを整理するには役に立っている。

※写真は、夫の実家の水仙。
19年前に他界した舅が生前、植えていたが、こんなに長く咲き続けるものなのだろうか??

重荷

2021-02-11 | 
今回は、多くの皆さんとは共通点がないだろうと思われる話である。
老後住宅。
わたしも考えている。
まず、今の住まいのリフォームとまではいかない、メンテナンス。
水道蛇口の緩みからポツリポツリ滴り落ちる水漏れ3箇所、二階トイレタンク故障につき修理交換、玄関やインナーテラスの木製扉枠の修理、、、
あと、ひと段落すると、外壁塗装、屋根メンテナンス、ベランダ防水メンテナンス、、、
地味ではあるが、生活には欠かせない必須項目である。

それが終われば、あるいは同時進行で夫の実家の整理、リフォーム。
修理、メンテナンスも。
考えただけで、ウッとなる。
やだやだ。

これが明るい老後への架け橋なの?

元々、わたしは建築にはかなり趣味がある。
インテリア、アウテリア、庭にも。
だが、、、、。
住むのと趣味は違う。

そもそも、夫の実家はというと、、、。
江戸後期と、昭和初期と、昭和後半に建てられた家屋。
屋根瓦ひとつとっても別注になる。
そして、わたしの実家。大正時代の建物。
どうしろと?
これは、文化的には結構なことであるが、経済的に考えると負の遺産か?
次代の子供たちの肩にずしりと重くのしかかるのは気の毒である。

姑は家系の物証である家や家族をこころの拠り所にしていたが、家が負の遺産であるなどとは思いもよらないことだっただろう。
まだわたしの実母のほうが冷静な目で物事を見ることが出来て物分かりがよい。
姑にしてみると、イエ、それしかない。
実母は、それしかないわけではない。
二人とも同じ時代に生まれ育ったのに、そのあたりが性格や背景で違ってくる。
やはり経済的にも精神的にも自立しているか、していないかは、大きなポイントになる。
自分以外のものに依存すると、それを失った時、立ち直れない。
自分をしっかり持って自分の足でちゃんと立つと、自分は自分であり、足元から崩れていくことはない。

生きている間に自分軸で生きてきたか、他人軸で生きてきたかで大きく変わる。
他人にどう思われようが自分軸で生きてきた人は、評判が悪い傾向がある。
逆に他人の評価を気にして生きてきた人は、評判が良い傾向がある。
これは死後の評価であり、死んでから高評価であってもつまらない。
生きているうちは人の思惑などに振り回されず好きなようにしたほうが良いと、わたしは思う。

と、同時代に生きた二人の女性を見て色々思う。

さて、老後住宅。
老後になるまでに、あれこれすべきことがいっぱいありすぎて、おちおち老後にもたどり着けない。
わたしは好きな老人ホームに入りたいと思っているのに、資金が枯渇しかねない。
住まない家にお金をかける、、、それで自分が住む家にかけるお金がなくなるなんて、本末転倒ではなかろうか。
自分の家どころか、老人ホーム資金までなくなる、、、過去への満足感は保てても日々の生活ができない。
誇りを維持するお金がない。
では、いっそ、満足感の中身を変えたら良いのではないだろうか。
柔軟に変わらないと、時代は変わるのに生きていけない。

とは言うものの、まだ、時間はある、なんて呑気に構えている。
そのうち選択肢はなくなり、ニッチモサッチモ行かなくなる可能性もある。
さっさとやっておかないと、子供たちに強制措置を取られる恐れもある。
しかしながら、半ば脳内が楽園になっているその頃なら、それも楽かも知れない。

カルチャーショック

2020-06-09 | 
自分が好きなものは、人も好きだとは限らない。
当たり前のことだ。

夫の実家は、昔々から同じ地所にあった。
なので、古くからあるモノがそこそこある。
ただし、舅が買い求めた第二次世界大戦後のモノに関しては、わたしとは好みが合わない。
舅の好みはドカンと大造りで、やたら線が太い感じで繊細さがない。
わたしは、どちらかというと優美なものが好き。

娘婿のご両親が、ある時、観光目的地に行く途中に、夫の実家に立ち寄ってくれたことがある。
こんなことはお互い、一生のうち、最初で最後だろうと、わたしは張り切った。
娘の(父方)ルーツをぜひ、肌で感じて欲しいと思ったからだ。

日頃は厳重なセキュリティも施さず、家は放置に近い。
大事なセレモニーがある時は、舅姑は蔵から何やら出して来ていた。
古くからある調度品の数々だ。
日頃はそれらを一つ一つ丁寧に蔵に仕舞っている。

わたしが、初めて夫の実家をわたしの両親と共に訪れた時も、出してあった。
わたしの実家にもある、同じ作家の作品が掛けてあり、時代が共通していることを感じた。
当時の流行作家だったのだろう。

最初に目に入ったその家は、道路沿いに建っていた。
隣の家はどしりと趣きがある家だったが、夫の実家は、あれ?と思った。
舅が古い家屋を取り壊し、後に建て直した家だった。
だが、わたしは舅とは好みが明らかに合わず、家のどこを見ても嗜好の違いを隅々に感じた。
設計そのものに対しても、わたしの好みではなかった。
舅にしてみれば、うるさい、ほっといてくれ、と言いたくなるような、ほぼ言い掛かりに近い、わたしの勝手な感想である。
舅は、敷地内の一部の限られた面積、予算の中で合理的に建てている。
わたしは、新しく建て替えるのなら、古いものを超えなければ意味がないと思っている。
しかも、初めて行く地、家。
一番最初に目に入る部分に、その家は建っていた。
建て替えてそう経っていない、しかもトタン屋根のバラック掘っ建て小屋ではないのだから、わたしに文句を言われる筋合いはないと思われる。
だが、わたしは日頃から目にしたり、生活しているものに目が慣れていたため、違和感を感じた。
家は見るだけではなく、息をして生活するものなので、自分の全ての感覚がそこで創られている。

わたしの感性と舅の感性は違って当然だ。
年齢、性別、生い立ち、環境、立場、時代、、、全く違うのだから。
しかし、好みがあるとぶつかる。
姑も夫も、家やインテリア、アウテリア、調度品には全く好みがなかった。
無感性、無感覚、無関心、無感動だったので、ある意味、わたしとは対立しなかった。

衣食住、どれに一番興味があるか、人によって違う。
興味云々のレベルではなく、毎日が無事過ぎればそれでよし、という時代もある。
興味や好みというものは、生活に余裕が出来てこそである。
病気にでもなると、何も見えない。
余裕は衣食住を飛び越えて、趣味に走る場合もある。


と、延々、遠回り、道草しているが、そういうことで、舅とわたしは、好みが合わない。
ケバケバ派手派手ではなかったので、それはまあ良かったが。
それにしても、長い長い前置きだ。


舅が昭和40年代後半?に建てた棟に続き、昭和4年?頃築の舅の両親が晩年住んでいた棟があり、また更に庭を挟んで建設時代が遡った離れがある。
その離れに、娘婿のご両親が来られた時に、わたしは頑張って、蔵から色々出してきた。
大きいものは、最初から出しっ放しなので、中ぐらいの大きさのものを主にチョイスした。

で、家の雰囲気やルーツは、語らなくても見てわかるかな、とぼんやり思っていた。
別に自慢したいわけではないので、何の説明もしなかったら、ものの見事に、何の質問も受けず、何の関心も興味も示されなかった。
だからといって失望するわけでもなく、リトマス試験紙のように、酸性、アルカリ性、陽性、陰性、みたいなかんじで、ああそういう反応なのだと理解した。
それはそれで良かった。
へんに反応していただくと、これまた微妙に好みが違ったりしてめんどくさい。
または、社交辞令的に頑張って無理やり話を合わされてもしんどい。
まったくカスリもしないというのは、案外すっきりしてやりやすい。
素直なストレートなお人柄には安らぎすら感じる。
お互い、なんのトラブルもストレスも嫌な印象も感情もなく、今日まで来ている。

水と油とよく言うが、それとは少し違う、淡水と海水かな?と。
あるいは、軟水と硬水かな?と。
お互い、テリトリーや生活様式、スタンスが確立されていると、まったく摩擦がないと感じる。

ただ、欲を言うと、世の中には良い意味の摩擦を通してカルチャーショックを得て、新しい自分が生まれたりする。
何にも感じないと、摩擦もないが変化もない。
一般的には摩擦はマイナス効果が多いので、ローリスクを選ぶなら摩擦を避けたほうが賢明ではあるが、ハイリスクでも冒険してみるなら、活性化され知らない世界が広がることもある。

だが、対象が娘婿のご両親ともなると、ことなかれ主義のほうが、お互いに良さげ。
娘も娘婿もそのほうが良いのではないかと勝手に思っている。
しかしながら、とても素晴らしいご両親である。
あんなに良い息子さんを産み育ててくれたご両親にはこころから感謝している。

と、どんどん話が逸れて終わらない。
いったい、どこまで行くの?

「長い話はウザい」というキーワードを見つけると、どきりとする今日この頃である。



エンドレス姑物語

2020-04-26 | 
わたしは姑と仲良しだった。
至って相性が良かった。
お互い、正反対の性格、気性で、うまく凸凹が噛み合い、喧嘩することはなかった。
(その息子とは?だが)

わたしは姑を尊敬していたし、人生の先輩として、上司として、教えられることや影響をとても受けた。
こんな不出来な嫁を可愛がってもらい、感謝している。
組み合わせの運が良かったとも言えるが、姑に気に入られたようなものだから、姑としてもわたしを選んだからには大事に扱わなければ、ね。
(でも欠陥品だったかも?多少は目をつぶろう。て、誰に言ってる?)

姑とはよく、ピーチクパーチク喋った。
彼女は専業主婦だったので、時間采配は彼女流、彼女時間。
朝昼晩という食事時間の他には洗濯(干す時間、取り入れる時間)、お風呂タイム、就寝、、、と、一日は順調なタイムスケジュールになっていた。(当たり前すぎたか)
食事と食事の間に家事を入れたり、食事中におしゃべりを延長したり、
今日はこの事をしましょう、と計画を立てたり、規則正しい生活だった。
(ではあるが、監獄に入っていてもこんな感じかも?)
コロナ厳戒態勢の今なら、ピッタリ充実のお家時間になるだろう。

と、これは前置き。長くてすみません。

姑はよく喋った。
彼女の幼少期の話だけでもたっぷりあった。
実家の娘たちは「いとさん」と呼ばれる中でも、姑は末っ子だったため「こいとちゃん」と呼ばれていたとか。
すぐ上のお姉さんとの確執、一番上のお姉さんの嫁ぎ先やその優雅な結婚生活、両親の話、毎日の暮らし、お稽古事の話、、、などなど。

父親は骨董品が好きで、茶道具を特にコレクションしていた。(その影響もあり姑は茶道には詳しい)
母親は、学生時代はテニスを楽しんでいたらしいが、明治生まれなのにモダンで活動的。(生前、お会いしたことが何度かあるが、あのおばあちゃんが、ねえ、、、)
朝食はいつもパン。
商家ということもあるが、昭和初期当時の地方にしてはハイカラ・イメージだ。
だが、嫁ぎ先は、古い旧態然としたライフスタイルで全て姑には合わなかったらしい。
そうだろう、そうだろう、ほんとに旧態然としている。
男尊女卑、家父長制。昔の映画やドラマで見るかのごとく。
姑も身体を壊し、わたしも身体を壊した。
声なき声が、身体を通して訴えたのだろう。
(しかし、長男である夫は、無意識であるかも知れないが、骨の髄までその考えが浸透している。
それを書き始めると、またまた何時間あっても何日あっても足りない)

姑の小さい頃の話だけでも、長時間。
これに親戚の栄枯衰勢物語がまた長い。
聞いても聞いても、枯れない井戸水のように湧き出てくる。
よくまああんなに、こころに溜めたものだ。
出る出る出る。
姑のフィルターを通して見た家、家族観を延々と何十年も拝聴した。

わたしの母は仕事をしていたし、時間があれば仕事、仕事で、エネルギーが切れたら死んだように寝て、また復活する、ゾンビ活力の塊の人だった。
なので、専業主婦の姑とは行動内容が少し、いや、大いに違う。
頭脳は姑が優秀だったが、母とは置かれたポジションが違った。
経済を握るのは大きい。
わたしは、ぼーっと昼行灯(死語)だが、なんにも勉強しないで優秀な頭脳DNAを姑、夫経由で子供たちに繋いだ。
たまたまであるが、ラッキー。

と、話が逸れた。
膨大な人生時間とエネルギーを使う、使い方が、姑と母では違った。
姑は能力はあっても経済力がない苦渋、辛酸、悔しさを十分味わったと思う。
だが、安定した生活、ぬるま湯、殻から抜け出すエネルギーや勇気がなかったからで自業自得である面もある。
もともと抜け出す気などなく、ただ鬱憤晴らしに、わたしに対して、無意識ではあるものの深層心理では、隠れパワハラもどきのオブラートで包んで、話していたのかも知れない。
(だが、姑自身も「こんなに至らない未熟な嫁である自分を姑は責めなかった」と当時を振り返り、嫁いびりのない、きょうだい間にも喧嘩のない仲の良い明るい家だったと回顧していた。
姑が嫁いだ時は、長男である姑の夫にはまだ未婚の弟妹たちが同居していて、中でも、すぐ下の妹の話があるが、またそれが度々しばしば、しょっちゅう出てくる)

あるいは、他人には言えないから、わたしに思いっきりホンネを打ち明けたのだろう。(男たちには聞かせられない女子会トークもあった)
ホンネすぎて、重い、重い、、、途中、後半からは背負いきれなくなった。
ゼネレーション・ギャップも厚い壁としてそびえ立つ。
時間の経過とともに、姑は歳を取り、わたしも歳を取り、シーソーゲームで権力は推移する。
といっても、わたしはいつまでも権力なし。
もし、わたしが権力をフルに使えるとしたら、ダイアナさんではないが、Leave me alone!! かなあと。

と、話は逸れる逸れる。
姑の「幼い頃編」だけでも、たくさんある。
絶対に終わらないエンドレス・ストーリーなので、今日はこのへんで。

コラ!ぼーっとしないで、しっかりしなさい!

2020-03-26 | 
昨日、とても嬉しいことがあった。
飛び上がらんばかりに喜んだが、別に声を上げるわけでもなし、頰を緩めるわけでもなし、だが、こころは天に向かって舞い上がっていた。

そもそも、わたしは、いつ頃だったか忘れるぐらい前に(日記を紐解いてみよう、、、)、あるモノを失くした。
それは数年前の寒くはない時期。
夫の実家からソレを持ち帰った。

夫の実家は、非常に防犯上、生ぬるい。
歳を取れば取るほど、ちゃんと戸締りをしたりするのが、だんだん面倒くさくなってくるのだろうか。
体力や知力に自信を失うと、逆に外敵が怖くなって、何度も何度も施錠を確認したりすると思うのだが。

まあなにしろ、セキュリティの甘い不用心な、そういう家に置いていた、自分の貴重品を持ち出して自宅で管理している。
無くなってからでは遅いので。
引き続き、誰も住まないその家から姑の貴重品も持ち帰り、わたしの管理下に置いた(つもり)。

その次の年、ふと、その貴重品をチェックしようと持ち帰った先であるわたしの自宅を探してみたが、見つからない。
一夏中、探した。
何度も同じ場所も繰り返し探した。
おかしい、、、明らかに、おかしい、、、。
なぜ、無い?
持ち帰って来た当日を思い起こし、バッグの中や、内ポケット、バッグ イン バッグの中も探した。
実家の部屋で立ち寄ったかも知れない、落としたかも知れない箇所も念入りに探した。
日を置いて、また、可能性のある場所を隈なく探した。
が、結局、見つからなかった。
神隠しに遭った?

自宅の寝室のライティングビューローの前で、その小さなモノをまじまじと見て、「極上とは言えないけど、まあまあそう悪くはないかなあ」と、にんまりした記憶はしっかりあるのだが、覚え違いだったのか?
あるいは、感想が、思い上がりに満ち溢れた感じ悪い上から目線だったので、神様か、はたまた購入者(舅・故人)の怒りに触れたのか。

なにしろ、失くしてしまっていた。
もし、将来、形見分けの時期でも来たら、義姉になんと言い訳しよう、、、
「気がついたら、いつの間にか無かった」と盗難路線を推し進めようか、、、はたまた、「そもそも、そんなものの存在は、有ったことなどハナから知らない」と、シラを切り通そうか、、、などなど。
まあ、誰も何も言わないと思うが。
義姉は何か思うだろうが、何もこちらから切り出さなくても、言われたら何かしら返答すれば良いと考えていた。
見つかった今でも、言っても言わなくても良いと思っている。
姑のモノは、わたしのモノ。
家のモノはわたしのモノ。
そう姑がわたしに言っていた。
良きにせよ悪きにしろ、管理者に全責任がある。
相手の出方を待ってから対応するのが、わたし流。
後出しジャンケン。ずっこい(「ズルイ」の方言)

それはそうと、
そう必死でしがみつくようなシロモノでもないのだが、(精神的には意味があるものなので)ずいぶん気にかかっていた。
一生、出てこないだろうと覚悟を決めていた。
喉に骨がささったまま、お蔵入り、迷宮入り未解決案件とともに生き続け、次第には忘れ去ることだろうと思っていた。
別に、有っても無くても、(僅かばかりの換金性はあるだろうが)実質的にはなんの役にも立たないモノである。
(そんなこと書くと、せっかく姿を表したソレが、また雲隠れしてしまいそうだが)

いずれにしても、すっかり諦め切っていたモノが見つかり、有頂天になっている。
昨日、見つかったその日が、関係者の命日とか、記念日か、何かの関わりがある日だったのか、調べてみた。が、まるで関係なし。
この喜びと、失くした残念感、喪失感と、どちらが大きいか。
失くしたのはわたしの全責任で、見つかった、出てきたのは、関係者一同(故人数名含む)の目に見えない力、協力、チーム総合力だったように、勝手に感じている。
嫁として、炭酸水の気が完全に抜けた、もはや置物の如く動かない手抜きサボりのわたしを、ヒヤリとさせ一喝した?
無事出て来て、まだまだ頑張れ!と応援した?
出て来たのが、わたしがあの世に行く直前ではなく、老人ホームに入る前日でもなく、今の時期であることに、(故人数名を含む)皆んなが、わたしに伝えたい意図があるように感じた。

たんに、老化の入り口の出来ごと。
地獄の入り口?
よくある物忘れなんだけど。
脳と心臓に良くない。
今後、益々、深刻ぶりを増して行きそう。



姑物語

2020-03-21 | 
エッセイブログ、姑の詩を読んだ。
隔世の感。
ほんの数十年前のことなのに。
日本昔話のような気がした。

笑う、笑われる、とかいうような失礼な、不謹慎なことでは決してない。
今は姑になりたくてもなれないのだ。
なぜなら、子供が結婚しないから。
しかも、それが嘆きだった時代もとうに過ぎた。
非婚は珍しいことではなく、普通の当たり前のことになっている。
なので、姑の概念、家の概念、お家存続の概念自体が、ころっとオセロゲームのように激変していると、わたしは感じる。

特に、その、過去の時代にどっぷり身を置いていた者にとっては、石で作られた通貨を見るかのごとく。
石器時代のギャートルズ。

時代が変わっても変わらないものも絶対にある。
人の命の尊さや、尊厳、人権などなど。

女性は、家庭の中だけでなく、社会の一構成員としての役割を持ち自立した。
自立してない女性も、男性もいるが。それはそれとして。

避けて通れない、わたしの人生のほとんどを左右していた絶対的な存在だった姑。
わたしは、第二次大戦の前と後のように、ころっと価値観や意識が変わった。
姉の姑も、すごかったが(悪い意味で)、その姑に(偏った思想を植え付けられ)育てられた息子が夫、となると、嫁はその葛藤やいかに。
壮絶なバトルだった。
自分のバトルを書かないで姉のバトルを書くのは、いかがなるものかと思うが、そのほうが面白いから。
(ごめん、姉。ネタにして)

姉の姑がヒドイ分、その息子はすごく良く出来た人だったから、差し引きゼロ。
(ちょっとだけ自分のことを書くと、姑舅が素晴らしく良すぎてスポイル息子にしてしまったのが、わたしの夫)

それはそうと、姉の話に戻る。
上と下、落差が大きい。
姑がこの世からいなくなった時、あんなに喜ばれるなんて、それもまた一種の幸せをもたらす偉大なる黒い女神。
義姉の姑さんも然り。
どれだけ周り全部が喜んだか。
これは、生きていた価値があるとわたしは踏んでいる。

生きている時に尊敬され、感謝され、愛されなくても、亡くなって周りに喜びを与えるのも、ひとつの子孝行かと思う。
嫌われものは、スイカの塩、ぜんざいの塩昆布。
周りに幸せを引き立たせ、色濃く感じさせてくれる。
辛抱したあとに手に入れた幸せは、計り知れない。
悪役礼讃。

ちなみに、わたしは、姑である。
娘婿に、「おかあさん」と呼ばれ、やたら丁寧すぎるほど丁寧に接していただいている。
丁重に扱っている=距離感の表れ。
ざっくばらんではない。
まあ、わたしみたいなタイプの姑では娘婿もやりにくいだろう。

うちで料理を作ってくれたりする時は、わたしは邪魔にならない程度に補助係。
彼は、ちゃっちゃと手早く、主婦歴37年の人(わたし)など3年で軽く追い抜かしていた。
昔の嫁がしていたことを丸々そのまま娘婿がしている。
単に女性が男性に入れ替わっただけなのだが、娘婿は専業主夫ではない。
ダブルインカム、複数kids。

この不思議な構図に、自分の、姑である立ち位置、収まり具合に、しっくりいかないものを感じるが、そんなものなのかと思うと、最近は慣れてきた。
そもそも自分は、自立していなかったので、そこらあたりも全く違う。
昔昔、大昔、マンモスや恐竜が闊歩していた頃ぐらい過去の世界観。
今も自立していないので、雪山に凍結されたマンモスのごとく。
ではあるが、令和の時代にそれとなくひっそり生きている。

マンモスは、ぱお〜んと、叫ぶのか?  ぱお〜んは、象なのか?
なんだか知らないが、マンモスの長い眠りのまま、今日にいるので、マンモス時代の話を見聞きすると、大変新鮮な気持ちになる。

時代は変わり、世の中も変わり、人の行動も価値観も変わる。
今も昔もそれは同じ。
変わって変わって、ずっと変わり続けてつながり、今がある。


来てよし、帰ってよし

2020-01-07 | 
空き家から、1月2日に自宅へ戻った。
ケータリング荷物ごと、民族大移動。
期間限定ファミリー大集合、空き家編から自宅編へと、1月2日以後もまだ続いていた。
ほっと、ひと段落、、、ではなく、自宅で、まだ、暦の上でも休暇の上でも正月は続き、ファミリーの胃袋係は継続、続行する。

年末年始を挟む前後は我が家で泊まり、大晦日、新年は空き家に滞在した、うるさ型、大物(長男)が3日朝に帰り、やれやれ。

長男にしてみると、まるっきりの実家。
しかし長男の部屋をわたしは自分の寝室として占拠してしまっているため、長男は、寝室難民となる。
長女の部屋は、わたしは巨大クロゼットとして占拠しているので、長女は寝室を追われて久しい。

一階の二間続きの和室。
奥の和室は、冷暖房完備、床暖房付きの納戸と化している。
で、手前の和室に、修学旅行の生徒みたいに、ずらずらと布団を敷き詰め、長男と、長女一家は、団体御一行様扱い。
これは、12月30日。
1月2日、夕食後は、長女一家が引き上げたため、長男お一人様、和室、良かったね、と思いきや、子供を二人、置いて帰った。
置き去り、忘れ物、口の付いた生き物2名。
長男は、ちびっ子たちに夜中は布団に潜り込まれて安眠妨害されたことだろう。

次女の部屋はまだ、わたしの魔の手には侵されていない。
最後の聖地として、手を付けない予定だ。
長男が帰った後、3日も合同夕食、4日も5日も合同。
5日夜に次女は彼女の住まいへ引き上げた。
次女が帰った後も、またまた長女母子が泊まるというので、丁重にお断りしてお帰りいただいた。
子守役の次女が帰ってしまった後では、人手不足。
しかし、6日にはまた復活して、ちびっ子、母子はお泊り。
ちびっ子の、賑やかを通り越して喧騒が続き、鳴り止まない。
うるさいのはまあ良いとして、食材を補充しなければ、とても足りない。

年末年始は、鍋料理続き。
手間いらずだが、値段は一つ一つ結構お高い。
しかも大人数で、それも何日も続くと、「費用がかさむんやで〜」と長女に言うと、「手間をお金で買ったんやな」と言われた。
ほんとに、実の娘というものは、好きなことを言う人種である。

だらだらとメモ記録した。
ああ、長かった、、、、、。
〆は、何?
終わってやれやれ、安堵の気持ちである。
来てよし、帰ってよし、とはよく言ったものだ。
来年は、どうなっていることやら。



やっとこさ、明けましておめでとうございます

2020-01-03 | 
帰ってきました、空き家から我が家に。
空き家で、ゆく年来る年。
民族大移動の荷物は、まるでケータリング業のよう。

砂糖、みりん、醤油、酢、ポン酢、マヨネーズ、ケチャップ、マスード、バター、ジャム、、、などなど、全ての調味料をガシャガシャと持ち込む。
年末年始、御節とお雑煮、お餅だけではとてももたないと思って、あれこれ献立材料に頭を悩ませる。
お正月三が日は主婦が楽をするため、料理をしてはいけない、とは、よく言ったものだ。
実際は全然、楽なんてできなくて、いつものほうがめちゃくちゃ楽だ。


だが、調味料持ち込みは、空き家で、昔からの伝統的御節料理を作るため。
伝統的と名がつけば、高級、とかではない。
あくまでも江戸時代から伝わっているもの、、、と言えば、そんな高級な食材など、あのような雛地にはないわけで、、、。
山の幸、なんて言えば、凄そうに聞こえるが、たんに、大根だのゴボウだの里芋だの人参だの、、、で。

まあ、ご先祖サマは、安上がりでシンプルなメニューを残してくれて、とても助かる。
豪勢な御節料理だと踏襲できない。
ふところ事情は、時代によって、山あり谷あり。
運気がどん底になってお金にゆとりがない時も、どうにか御節料理が用意できるような、そんな、シンプルで健康的なコンテンツである。

そのメニューは代々引き継がれてきた。
手の込んだお取り寄せ御節料理の横に、どかんと置かれた、骨太質素な御節料理。
質素倹約を美徳とする家風。
わたしは、嫌ではないが、蝶よ花よと育った姑は、苦痛だったようだ。

三が日が済んでも、まだまだひたすら食べ続けるワンパターン野菜の煮しめ御節料理。
しかし、小さい子供にはぴったりの、優等生御節である。

御節だけでは到底、足りない。
我々夫婦、長女一家、長男、次女たちの胃袋に収まる二泊三日分の食材。
ではあるが、お茶を持っていき忘れたのが、最大の失念。
コーヒーはしっかり確保したが。
三度三度、お茶なし。

ちなみに、、、
姑が不在のため、天下だ!!と思っていたら、大きな間違い。
姑より口うるさくなっている長男に、微に入り細に入り、あれこれ苦情やら、手が入る。
うるさいなあ、、、台所や、家事一切に、そんなに口を出すな!!(と、わたしのこころの声)

しかし、彼はどこから調達してきたのか、毎回メニューに、彼オリジナルの野菜一皿を大盛り、加える。
野菜が少ない、と苦言を呈される。
メニューがワンパターンだの、工夫がないだの、フキンは消耗品だの(新しいのと取り替えろ、の意味)、チクリチクリと言ってくる。
まあいいか。
文句も言うけど実践もしてくれる。
そして、次女も相当、役に立ってくれた。
わたし一人では、文字通り、日が暮れる。

長女一家のみ、超VIPお客様。
娘婿だけが血が繋がらないから、居心地が悪いだろうと、わたしは少し気を揉む。
が、娘婿は妻である長女以外には、気をあまり使わなくても良さ気なので(恐妻家)、我々なんぞ、あまり気にしていなさそうだ。

迎春準備に追われて、バタバタ新年を迎えるころは、ぐったり。
次からは、もう一日早く用意するか、または、バタバタモードで仕事内容を減らすか、どちらかにしようと思う。
一家全員集まるのと、正月が同時だからバタつく。
普通の日なら、こんなに準備が重ならない。
神様、仏様など、伝統行事が大変。
それらを割愛する手もあるのだが。

かと言って、正月でなければ集まらない。
正月行事を皆んなに見せておきたい気もある。
この葛藤。

長男のお嫁さんが、普通は切り盛りするのだが、わたしは、切り盛りしない、できない。
する気がない。モチベーションが低い。
評価を得るために頑張らない、無理しない主義。
なので、ぬる〜い、ぬる〜い、伝統行事となった。
わたしが頑張らないのは、伝統行事は嫁がするもの、という伝統的役割を放棄したいからである。
監理、監視する上司(姑)が欠員であることも大きい。
わたしがしないなら、夫がすればよい。
でも、夫は自主的にはしない。
自分の家でしょう?自分の実家でしょう?
それなら、もういいか、思った。
代々続く伝統文化は、わたしが切る。やめ!!!
時代に柔軟に対応出来ない跡取り息子に育てた、舅、姑に責任がある。
お嫁さんにバトンタッチできてやれやれと喜んでいた姑には悪いが、世の中、そう甘くない。
嫁に仕込んだつもりが、嫁は自分のところで、止めて、申し送りしない。
引き継ぎしないで突然辞める人騒がせで迷惑な職場の担当者のごとく。

わたしが、気が変わった。
司令塔無きあと、誰も司令塔にならない、家屋と同じで人材面も空き家状態。
頑張っているお嫁さんたちは、世の中にはたくさんいる。
それをまた踏襲する子供達や、その配偶者もいる。
頑張る人には頑張っていただく。

わたしは、司令塔を失い、すっかり無気力になっている。
せっかく続いたものを引き継がず、悔いが残る?自責の念がある?
姑は、イエの維持、存続を生きがい、使命にしていたと思うが。

お正月やお盆などのメインイベントの時、姑は、アドレナリンが放出されていたのではないだろうか。
義務を自分の身体に鞭打って、こなしていく。
が、それはあくまでも義務、仕事だったんだなあ、、、、と今、思う。
課せられたことを全うするのに必死だったが、決してイキイキ楽しそうだったかと言えば、そうではないような気もする。
今は世代ごとに、価値観も嗜好も志向も違うから、同じ方向をずっと見るのは難しい。
未来に向かって子孫繁栄は、同じ望み、希望ではあるが。
方法、やり方は、違ってきているように思う。

空き家での年末年始が終わり、荷物をまとめて皆んなで引き上げる時、
さあ!お終いの瞬間、レンタルファミリーの解散式ような気がした。
お疲れ様!と、長男役や長女一家、次女役にレンタル料を手渡し、散り散りバラバラ、各人の場所、位置、ポジションに戻っていく。
そんなかんじかなあと。

これを書きながら、睡魔が襲ってきた。
一瞬の夢だったのだろうか。
それにしては長かった。

過去は養分になればそれでよい。
枯れないだけの役割を果たせば、次世代にバトンタッチ。
次世代は、過去の遺物まで引き受けなくてもいい。
養分だけ吸収してくれたら、それでよい。
ごくたまに、全員集まって、レンタルファミリーみたいに過ごしたら良いのでは。
冠婚葬祭の時しか親戚は集まらなかったが、今は、家族そのものが一人一人が個になって、家族単位で動かないのではないだろうか。
家族一同が集まるのは、冠婚葬祭の時ぐらいか。
今回は正月だったが、たまたま、長男の仕事休暇の関係から。

家族の意識は大きく変わったと思う。
わたしの家族だけかも知れない。
他の家の家族にはまた他の家のあり方がある。
一家の長のような、求心力のある精神的大黒柱が元気なうちは良いが、
力を無くすと、たちまちのうちに、集束していたものはパワーダウンし、緩やかな結束になるのだろう。
時の移ろいは、誰にも止められない。

しんどい目をしてまで、空き家に集う意味が見出せなくなる時には、先祖からの縛りから解放されることだろう。
もともとわたしには、ないけれど。
縛りを説きすぎた姑の嫁教育のせいで、すっかりわたしは嫌になってしまった。
算数の足し算ばかりやらされて、すっかり足し算嫌いになっている孫Aのごとく。

時は移ろうが、必ず時は進む。
良いことも悪いことも、否が応でも時は止まらない。
どうにかなるということだ。


※写真は、初詣に行く道で撮ったもの。
我が家ではありません。



同じ年の素晴らしい人!

2019-02-23 | 
母。
嫌い。
わたしは嫁に行って、実家を出て清々した。

代わりに兄に嫁が来た。
わたしの旧姓を名乗ってくれた。
ありがとう、わたしの代わり。
気の毒な気もした。

あの母が姑。
よほどのすごい人でないと、太刀打ちできない。
当時、20代で、美人で、すこぶる頭脳明晰だった。
父は嫁を誇りに思い、喜んだ。
わたしは、実家の兄にあんな素晴らしい人が来てくれて、とても嬉しかった。鼻も高かった。
でも、母は、彼女の良さがわからなかった。
相性の問題だろう。

兄嫁は、眉目秀麗で優秀、優等生タイプで、お嬢様育ち。
母は、寝ずに働く労働者タイプ。
はっきり言って、合いません。

彼女の良さを理解し、崇めたてまつる父が他界したあと、母と兄夫婦は同居した。
わたしには、兄嫁がとても不憫だと思った。
が、母も自分の道があった。
絶対に譲らない。
価値観の違い、相性が合わないというのは、悲劇を生む。

夫婦二人がぴったり寄り添っていたら、姑の存在にも力を合わせてどうにか対応できるだろう。
しかし、兄はマザコン。
ああ、最悪。
強烈な母の前では無力、刃向かえない。

身代わりの兄嫁を尻目に、わたしはわたしで、時代遅れの地方の嫁ぎ先で、喘いでいた。
そういう時代かも知れない。

ちなみに、わたしと兄嫁は同学年。
同じ県内。
時代や地域差、経済格差なんて理由にならない、同じ教育環境だった。
兄嫁はピンキリのピン。素晴らしい秀才。
わたしはその歴然たる違いに、卑屈になることもなく、すごい!と賞賛していた。
ホンネ!である。
わたしは、へんなところがあり、素晴らしいものには、文句なく、自分をはるか越すことには、ストレートに素晴らしさを褒め讃える。
なので、当時の受験事情、時代の色がまったく同じ状況での兄嫁の学力には、はは〜っと、葵の御紋を見せられた町娘以上に、ひれ伏せる。
しかも、さらに、どう?こんなにスゴイお嫁さん!と誇り高く思う。
デキの悪い娘の代わりに、最高ランクのお嫁さんが来た!

しかし、複雑な事情が背景にあった。
価値観の違い、相性の違いはどうしようもない。
わたしは、実家から舟を漕いでたどり着いた対岸から眺め、すでにわたしの居る場所でないことに、安堵した。
火事現場から逃げ去った。


平凡が良い

2019-02-08 | 
姑は、働き者だった。
特に気働きの人。
炭鉱で男に混じって真っ黒になって、一人息子を育てた、なんていうのなら、文学ものになりそうだが。プロレタリア作品。
残念ながらそっち系ではなく。
地方都市の普通の専業主婦だったので。

TVファミリーヒストリーには、あるあるタイプかも知れない。
その気になれば盛れそうだ。

なにしろ親戚の話、同級生の話、地域の人の話が好きだった。
特に、没落した人の話は大好き。
華やかし頃と、没落後の落差を語るのと、定型文のルーチンワークのノリ。
台本があるんですか?
(だが、第二次世界大戦を挟んで、日本は大きく変わり、社会も変貌を遂げた。
影響を受けなかった人はいない)

同じ没落ストーリーでも、源氏と平家とかはダメ。
戦国時代もダメ。
自分の身近な、実際にリアルに見聞きした、知っている人が登場しないと、臨場感が無いようだ。

いつも、崖の下に落ちた人を見て、安心する。
ああならないように、頑張る。
上を見ることはあまり無いように思う。
なぜだろう?
上には行けないが、下には簡単にドロップアウトしてしまう。
しっかり気合いを入れて現状維持を目指す。
そんなかんじだろうか。
ハングリー精神とはまた違ったプレッシャーがある。
上を目指すのではなく、下に落ちないよう、一生懸命努力する。

上を目指すには、現状をキープする方にエネルギーが必要で、余裕がない。
上昇しないで、いつまでも低空飛行かというと、低空飛行ではない。
上昇はしないが、高いところを飛んでいる。
上昇志向はないが、普通にしていると落ちてしまう。
結果的には高い位置を維持すること自体が上昇志向なのではないだろうか。
と、ここまでは姑の話。
「聞き役、お疲れ様でした」と自分を労おう。

ここからは、自分の感想。

高い、低いは、自分の中にあるもの。
人と比べるのではなく、自分との闘い。
高いと感じたければ、自分より高い人は見ずに低い人を見れば良い。
低いと感じたければ、自分より高い人を見て、低い人を見なければよい。
自分が見る人は、自分で選んでいると思う。
いつまでも過去にとらわれていても進展はない。
劣等感や優越感につながる。
劣等性と優越性とは違う。

自分がどうなりたいか、だ。
上を見たり、下を見たり、横を見たり、斜めを見たり。
周りがどうであっても、自分は自分。

考え方や感じ方は、人によって違う。
年代や地域、職業、収入、環境などによって、大いに違う。
姑のものの見方や考え方は、それはそれで確立され、存在している。
自分とは違っていても、目指すところが同じなら、共存共栄でありたい。
平凡が一番の幸せだと姑は言う。