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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

光と影

2021-04-16 | 読む人々には興味ない話
この頃、思うのだが、心身共に健康に産み育ててくれた両親に感謝している。
唐突な話ではあるが。
あまり悲観的でもない、楽天的な性格と、病気知らずの健康な身体、これは生まれつきのようだ。

子供時代は学校でイジメに遭っていた兄、姉の下で、ちゃっかり目立たない方法を自然に身に付けたように思う。
学年が上がるにつれ、成績面では、優秀だった兄、姉を先生が引き合いに出し、「それに比べてキミは、、、」と説教の種にされ、劣等感に苛まれても不思議ではない状況だったにもかかわらず、全然といってよいほど、めげていなかった。
たぶん、当時、家庭が大嫌いだったので、外の生活が少々悲惨でも、家のことと比べると、マシだったからかも知れない。
というか、子供の頃から先生など信じていなかった。

何かにつけ、結構、激しい家庭だったように思う。
わたしの価値観は、「悩み事や嫌な事があったとしても『人の生き死に』にまでは及ばない」というものだった。
子供の時からそう思っていた。
死ぬほど辛い、というのは精神的な比喩表現で、どんなに辛くても、実際に死んでしまうことはない、と。
生きるか死ぬか、そういうギリギリの線まで来ていない、切迫していない、と感じていた。
友人が、「ママに叱られた〜」とヒステリックに泣き叫ぶ姿を見て、何が悲しいのか、まったく、さっぱり、まるでわからなかった。
蚊に刺される程度なんじゃない?と。
まだ社会に出ていない子供であるわたしにとっては、家庭でのたいした虐待もなかったし、死に至るほどのことは実感出来なかった。

が、今の世の中の子供達を取り巻く環境や意識とは隔世の感がある。
わたしは時代背景も今とは違うし、苦労知らずなのかも知れないが、それなりに気苦労はあった。
生きるか死ぬかが判断基準の子供って、ある意味、度胸が据わっている。
というよりも、もっと、ちゃんちゃん敏速に機敏に動くべきだろう、子供は子供らしく。

話はコロッと変わるが、、、
昭和39年〜40年に「小説現代」に連載され、今から半世紀も前に刊行された小説を今、読んでいる。
黒岩重吾。(1924〜2003)
主人公や登場人物に対する感情移入がまるで出来ない。
当たり前だ。
環境が違いすぎる。
時代が違いすぎる。
感覚が違いすぎる。
性別の違いによる感じ方のギャップ。
読者ターゲットの違い。

女性の考え方は、ああいうものではないと思う。
至極当然だ。
そんなにも昔の男性の書いた小説だから。
第一、わたしの父親世代。そう年齢は変わらない。
戦争出征経験者。
高度成長期の落とし子世代のわたしと感覚が違わないほうがおかしい。

いくつかの短編が収められている文庫本であるが、同じパターン表現が数カ所出て来て、プロの小説家といっても、表現の多用を避けるのは無理なのか、それとも、そういう表現が好きなのか。
わたしが書き手で仮にプロなら、繰り返し同じ表現を使うのは、ちょっと恥ずかしい。
避けたい。
あまり気にしない人や、そういうパターンが好きな人は、そうこだわらないのだろうが、わたしは神経に引っかかる。
うるさい読者だ。

が、1か月に700違い本数のものを書いていた時代のようなので、いちいち覚えていないのではなかろうか。
50年も経って、チマチマ重箱の隅を突くのも、作家と言えどロボットじゃあないのだから。

というか、明らかに読む小説を選び間違えている。
NHK朝の連続ドラマ「おちょやん」の主人公が生きていた時代や地域を舞台に書かれた小説が昨年、書店に平積みにされていたのを手にした。
時代は昭和に移り、特定の地域をクローズアップして書かれた小説も同じコーナーに並べられ、その小説を黒岩重吾氏が書いていた。
黒く暗く重い、、、。
ずしっ。

まあ、そういう本を買ったということは、興味があったということだ。
女性の社会進出など、どこ吹く風の、底辺で蠢く女性たち。
うーーーーん、、、
まったく理解できない。
まったく共鳴できない。
外国語の原書を読むかのごとく、想像力だけで読んでいる。
(シェイクスピアはもっと理解できないが)
まだ、時代設定が明治時代〜の「おしん」や「あゝ野麦峠」のほうが物語としては訴えるものがある。

で、購入した本は、あと、一篇で終わり。
なかなか話が進まないので、パラパラ飛ばして結論を先に読みたいのをぐっと我慢して、頑張って読んだ。
相手を殺したり、自殺したり、浮かばれない結末に、あ〜あ、またか、とため息。
ちょっとだけ涙が流れる箇所もあったが、最近、何もないのに涙が出ることもあり、自分の涙が信用できない。
しかしまた、なんであんなに暗く出口がない、どうしようもない話ばかりなのか。
あれから福祉や数々の制度も整い、社会は成熟し、意識も変わった。
が、また別の社会問題も生じている。
人が暮らす場所、時代には、明るさも暗さも、喜びも絶望もある。
明暗、光と影は表裏一体。
コインの裏と表、どちらも真実である。

読後、時間が経つにつれ、内出血した身体のように、効いてきている。

わたし、女中さんで結構です

2020-09-04 | 読む人々には興味ない話
家事は女性がするもの?
第二次世界大戦前はそうだっただろう。
(正確な時代考証は専門家にお任せします)
共稼ぎが主流になってきている今では当てはまらないが、いまだにそう思っている人は必ずいる。
絶滅種シーラカンスの人種ならともかく、バリバリに若い20代の人でもそういう人は存在するようだ。

ちなみに、我が家は家事は100パーセント女中(わたし)がしている。
主人(外ではそんな呼び方は絶対にしない。「夫」と言っている)のしている家事を無理やり列挙するなら、気が向いた時に、除草剤を撒くことぐらいか。
除草剤をいくつも買いだめて、1年に1回、撒けば上等。
隔年だったり、数年に一度だったり。
草を引くなんてことは絶対しない。

自分の身の回りのことをするのは、自分の靴を磨くこと。
これはお気に入りの時間のようで、アタマを無にして没頭しているのを数年に一度、見かけることがある。
舅も靴磨きが好きだった。
DNAか?

あとは、箸の上げ下ろしから、脱いだ服を脱いだ場所に放置しっぱなしの現状に至るまで、完全にわたしは夫教育に失敗した。
死ぬまで変わらないという絶望感は、なかなか悲壮であるが、悲壮も通り越すとまた別の境地に達する。
変化、変質する。

ものごとは、同じであり続けない。
無常である。
摂理だと理解している。
「無情」とは字が違う。

さて、長女夫婦。
夫婦各々の収入に応じて家事育児分担の比率を決めているという。
これは収入がある(多い)方が偉い、権力を持つ彼女の実家方式(わたしと夫)を採用しているとか。
そのため、娘婿はまるで昔のお嫁さんのように家では家事育児によく働く。
(夫は、娘婿に料理、給仕してもらったり)

しかし、収入比家事分担の例外として、わたしの両親(長女の母方おじいちゃん、おばあちゃん)は、父の収入と母の収入の比率に応じて家事を分担してないし、父は偉そうに権力を振るっていない、と長女に説明した。
収入は父99999:母1でも、権力は五分五分。
しかも主義主張は母の方が俄然強い。
父はいつも、「おかあちゃんキライや」と泣いていた。(誇張表現です)

収入に応じて家事分担比率を分けたら、失職したりして収入が逆転したらどうするの?と長女に聞くと、
「ばあちゃん(わたしの実母)方式にする」と素早く転身の構え。
良いとこどり。

まあ良いけれど。
「経済を握る人は強い」という見本。
だが、ダブルインカムだから強く出られる。
長女が一人で家計や家事育児を支えるとなると、今のようにはいかない。
娘婿のマンパワーは必要不可欠である。
(もちろん、経済的にも)

わたしなど、「弱い見本」の最たるもの。
でもまあ良い。
どうにか今日までやってきた。
これから先、今より健康になることはあり得ないし、病気になる可能性も大だから、一人では不安である。
無償でわたしのために、あれこれしてくれる人は、他人にはいない。
それに、娘一家と付き合っていくにも、一人だと弱い面がある。
6対1では数的にも圧倒的に劣位。
仲間はずれ意識が芽生えるかも知れないし、へんに遠慮したり、、、。
夫婦二人なら、別の単体として、長女一家と対峙できそうだ。
次女や息子は自立しているからグループ外に位置し、味方でも敵でもない。
わたし一人だと、どうも弱い。
何かにつけて。


この女性の時代に、専業主婦希望の女子が増加しているとか、していないとか。
時代に逆流して、わたし、長いものに巻かれろ方式にしようかと思っている。
あの世まで、まだ30年もあるのに。
実質的には20年ぐらい残っているのだが。

頑張るのが、めんどくさいのである。
誰のために頑張るのか?
もう対象はいないので、自分のため。自分ファースト。
自分のためなら、頑張らない。
自分に手の込んだ料理は決してしない。
自分を喜ばすために頑張る人もいるだろうけれど、個人個人の性質や考え方によってそれぞれだろう。

そうやって、頑張りから手を離すと、とてもリラックス出来る。
ああいい湯だな、と喜んでいたら、長女が子供のうちの一人や二人を後継者として出してもよいよ、なんて唐突な提案をしてくる。
わたしは、もう「家」は卒業した感があるので、嬉しくないことはないが、目を輝かせるかというと、もはやそうではなく、腰が重い。
自分の全身全霊をかけて守り頑張ってきた姑の投げたボールを、ひょいっと身をかわして受け取らないでいるところなのに。
後ろからひょこんと球を受け、投げる準備をしている状況が現れ、驚いている。
手を離そうとした矢先。
そういうものだろうか。

でも、わたしはすっかり魂も気力も抜けた抜け殻になっている。
空気の抜けた、だっこちゃん人形は穴が開いて、いくら息を吹きこんでもピンと張らない。
今はわたしはどうも凪状態のようで、何をする気にもならない。
栄養を補充しない限り、衰える一方なのか。
まだ30年もあり、いたって心身健康なのに、この脱力状態、やる気なさは、何だろう?
次のステージへの踊り場、溜まり場?
パワー、エネルギーがチャージされるまで少し時間を必要としている。
価値観の変移途中なので、すっかり移行するまで。
そんなこと言いながら、チャージされないで失われる一方かも知れない。
成り行きを見守るしかない。

頭の上にはずしりと高齢の親たちが載って詰まり、下からは活気ある力でパワフルに突き上げられ、さらに下の下からマグマの源が生まれ、、、
否が応でも、動きのあるものに押し出され移動を余儀なくされる激流を感じずにはいられない。



スロー進化論

2020-05-25 | 読む人々には興味ない話
わたしのブログへの閲覧数上昇は、コロナ禍ステイホームによる人々の暇つぶし影響と見られる。
共通課題のコロナが徐々に落ち着くと、閲覧数も元のようになると予測している。

わたしが毎日見に行くブログがある。
その一つは、アートな写真に見惚れ、凛とした文章で魂を毎回抜かれてしまう、憧れのミュンヘンブログ。
ただし、エネルギーを吸い取られた読後は自分のブログを書く気にはなかなかなれない。
他にも、まとめて読みに行く、長年のこころの友のブログがある。
このブロガーさんは、本人にもお伝えしているが、わたしは友達認定を一方的にしている。

さらに、かなり前からの、たぶん、わたしがブログをスタートした初期の頃から旧知のブロガーさんがいる。
じつは、わたしはそのブロガーさんに毎回、更新モチベーションのスイッチを押されているような気もしている。
だが、そのブロガーさんのアクションは、目や脳からではなく、指先運動の日課によるものであり、ひょっとしてわたしが勝手に受ける錯覚、思い込みかも知れないと思う瞬間もある。
しかし、モチベーションなんていうものは、根拠や実体なんか無くても、勘違いでも何でもいいんだと妙に納得したりする。

今日のミュンヘンブログに書かれていたような、お会いしたこともない、声を聞いたこともない、でも長年、文章だけでやり取りして、その人のイメージを作り上げることってある。
わたしがインターネットに初めて触れたのは32年ぐらい前で、その頃からの知り合いが数人いて、現在も年賀状一枚で繋がっている人もいる。
ちなみに、初めてインターネットで繋がった記念すべき第1号の人は、香港の中学生だった。

パソコン通信と呼ばれていた時代。
愛好者は、通信系、パソコン系の仕事に携わっている人や、著作系の趣味のある人だった。
著作系の人は、パソコンからではなくワープロから通信していることもあった。
仕事以外での家庭パソコン普及率もあまり高くなく、SNSも一般的でなく少ししか存在していなくて、わたしが利用していた代表的な大手ネットも会員は30万人ぐらいだった。
よく考えるとインターネット歴は、人生の半分近くを占めている。

ただし、パソコン画面はモノクロで、英数文字を長々と無機質に打ち込むもので、今のように画面にアイコンが現れ、ひょいっと掴んで移動させたり、一瞬で画面が躍動的に踊り出したり、とは程遠いものだった。

当時、大きな薄いペラペラしたフロッピーを差し込むと画面がガシャガシャと立ち上がり、文字入力を通しておしゃべりしていくうちに、会話でインプットした情報が蓄積され徐々に賢なっていく女の子のゲームソフトみたいなものもあったが、黒い画面に白い文字で延々とおしゃべりを続けるだけ。
動画も声も、なんにもない、なんの愛想もないものだった。
また、圧縮ツールみたいなものがあって、圧縮して送られたものは、決められた英数文字を入力して解凍したり、、、何かしらの知識がないと操作できない、めんどくさいものだった。
スマホで指くるくる、瞬間操作とは、隔世の感。

というように、インターネットは、当時はそういう技術系の人々と文章系の人々が交差していた。
真ん中あたりの中間の人はいなかった。
パソコン普及率も今とは違っていた。
今はスマホがあるから、あまり固定型パソコンは個人的には需要がないのではないかと想像する。
仕事ではノートパソコン、タブレットが多い?
小学校でもパソコン授業が取り入れられているし、自宅からのオンライン授業も更に充実させるのが喫緊の課題とされている。

と、話はまたまた逸れて、どんどん好き勝手に流れていく、、、。

メールなどの文章や、ブログだけで接していると、相手のイメージをどんどん固めていく。
今はスカイプやオンライン会議もあるから、姿、表情、声もリアルタイムにわかるが、それを利用しない場合、人物像は想像を積み重ねて作り上げる。
考え方や感性は文章でわかるが、実際の3Dでのライブ感は、匂いや体温、空気はまた違う。
まして、感触となると益々、、、。

コロナ禍は、そのあたりを分断させるわけだが、自然が成した禍だとは思えないぐらい、現在と未来の我々に課題、命題を投げかけている。
いくらコンピュータ技術や科学が発達しても、出来ることと出来ないことがある。
とは言いつつ、会ったこともない人同士の子供を誕生させることだって出来るのだから、科学技術は恐ろしい。

科学を盲信して、すごいスピードで突き進む人類に、警鐘を鳴らしていると感じた人は多いだろう。
何が一番大切か、思い知らせるための、神様からのお知らせメッセージか。
自然災害や未知ウイルスなどなど、、、どんなに人類が全知全能の神のごとく進化しようが、全て思い通りには出来ない弱さを思い知る。

今回のコロナ禍で、こういう時に耳にタコが出来るぐらい、あちこちで聞く、ダーウィンの言葉。
「生き残れるものは、強い者でも賢い者でもなく、変化に対応する者だ」
改革を訴える政治家やビジネス界で好んで使われているらしいが、本当の意味でのダーウィンの進化論とは矛盾していて的外れだとか。
科学以外にも社会的にも利用されたり諸説あるので、真意の程は、各自研究していただいて、と。

これからの時代は、「変化に対応」がキーワードのようだが、これは効率的、合理的の真逆らしい。
ということは、、、超、自分に有利に解釈すると、、、正に、何の役にも立たないスローなわたしの出番か!!!
じゃ〜〜ん!


なんて、言葉遊びはそれぐらいにして、活動的すぎるチビッコたちから解放された喜びを暫定的ではあるが、今、ひしひしと味わっている。
わたしにとって、取るに足らないどうでもよい建設的ではない無駄なことに(たくさん羅列した、、、)思いっきり時間を浪費できることは最高の贅沢であり、喜びである。

さて、材料を買ってきては作り、買い足しては作り、冷蔵庫を埋めては空になり、埋めては空になり、、、の繰り返し「おさんどん」料理当番から、とりあえず解放され、今から、お一人様カップ麺を食べよう。
この手抜きのチープな食べ物が大好きなわたし、、、変化には対応できるかも?
いや、栄養が偏って健康寿命を縮めるのかも知れない。

ボツ記事、出直します

2020-03-25 | 読む人々には興味ない話
今日は書く気、満々だ。
スマホのバッテリー不足に備えて、バッグの中には携帯バッテリーまで持ち込んでいる。
なぜ、そんなに気力がみなぎっているのか。

別段、特別な意味はない。
たんなるノリである。
わたしは、この、「たんなるノリ」に大きく振り回され、疲れや悩みの種になっている。
別名、気分屋。
出来、不出来や気分にムラがある。

自分では調整できないのが最大の弱点である。
努力したり、練習を繰り返したりして、いつも同じ質を保ち、精度を高めるのが、デキる大人らしい。
わたしは、落第である。

頑張っても頑張らなくても、結果はバラバラ。
法則性がない。
頑張ったからといって良い出来とは限らないし、頑張らなくてもスイスイほいほい出来る時がある。
おそらく、結果にタイムラグが生じているのだろう。
それぐらいにしか、原因が思い当たらない。

なら、頑張れば、頑張り貯金みたいなものでチャージされ、頑張れない時に、貯めておいた頑張りが復元されて現れたりしたらいいなあ、、、。
だが、そんなことは出来ないようだ。
商品券や貯めたポイントに使用期限があるように、頑張りチャージは長く貯められないシステム。
タイムラグも、ほんの小さい短いもので、その場限りにほぼ近い。

なので、ほぼチャージ出来ないようなので、頑張らないことにした。

だが、、、
わたしみたいな人ばかりでは、国力が衰える。(いきなり、個人から国へ、ジャンプ!?)
頑張った人にはご褒美がないと、タダ働きは、やってられないだろう。ただし、頑張る人と頑張らない人の格差が生まれる。
格差はあっても、頑張らない人にも救いの手は差し伸べられるのが、成熟した社会。

・・・

これは昨日、途中まで書いていたのだが、このあと、生半可なヌルい知識や考えがダラダラ、、、
専門知識がないので、ひたすらユルユルの締まりがない考察が続き、自分でも嫌気がさしていた。
一向に、結論、〆にたどり着かない。
書きかけたまま↓この文章で止まっている。

・・・
と、話が逸れて、眠い方向に進んでいる。
読んでいる人は、すっかり退屈だろう。
・・・

説得力も正当性も普遍性もなくても、自分さえ面白ければよいのが、わたしのブログ・スタンス。
自分を面白がらせない感心しない内容では、自分がつまらないので、やり直すことにする。
でも失敗作なのに、なぜかアップする。





悩みの相談

2019-11-17 | 読む人々には興味ない話
す応援ポチは、気になるものの、自分だけしか面白がらない、自分しか見てない、その他は一切視野にない、好きなこと書きます。
ポチ、お気遣いなく。ほんとうに。
ほんとうに、ほんとうに。

いつもの、自分を説得、納得させるための、理屈っぽい話を書く。
自分へのカウンセリング、セラピー。
施術人と被施術人は、同一人物。
質問と回答は、同時進行。

今回は、既婚で、しかも、もう遠に忘れるぐらい前に結婚した人には、まったく興味がないことだと確信する。
スルーしてください。  
絶対になんの役にも立たない、関係も興味もない分野、絶対に時間の無駄遣いになります。
(やたら、スルー方向に力を入れている。
深層心理は、読んで欲しくない、ってことかと想像する)

さて。
あるサイトに投稿した人の悩み。
自分が好きになった人(相談者の夫)の好みを知ってしまう。
身体的特徴だったりする。
だが、妻である自分は当てはまらない。
どうするか?

その質問サイトに、女性経験10000人(眉唾もの?!)という男性が答えていた。
身体の一部である「持ち物」と「持ち主」は違う。
「持ち物」と「使いかた」は、違う。
これは、男性向けのアドバイスだ。
あるいは、体力が減退した年齢を重ねた人への応援にもなる。

まあそれはいいとして、、、
質問者。
自分の好きな人(夫)が、自分を外観上好みではないけれど、好きだと言ってくれる。
しかし、夫はこっそり、サイトで好みの身体女性の動画ばかりを見ている。
自分とは相思相愛の男性なんだけど。
愛情と、外見上の好みは違うのか?と、悶々とする質問者。

これに対し、10000人キャリアのくだんの回答者は、、、
愛する人が、内緒で好きなものを見ることを、あなた(相談者)が許すことを勧めている。
見て見ないフリをする、嗜好はあくまでも嗜好、別のものと考えること。
それで浮気に走るわけでもなし。
全てをあなたが思い描くようにはならない。
人と人。どんなに愛していて相思相愛でも、そういう距離感が必要だと答えていた。

私ならどうか。
許せないものを許さなければならないとすると、優先順序がある。
いくら好きな人でも、隠れてサイト覗きは許せるとしても、隠れて風俗通いは許せない。
どうしてもやめられないなら、別れて別の人を探す。
わたしは、風俗と、ギャンブルと、暴力と、警察沙汰は、認めない。
口が臭いとか、そんなのは、かわいいものである。
なにも風俗のような生々しい例えでなくても、もっとマシな例がありそうだが。
(しかし、風俗のお仕事は大変のようだ。電子コミック、無料立ち読みした、、、、話が逸れてます)

理解できない、分かり合えない、認められない部分は必ずあるということを知る。
知った上で、黙殺する。
あえて取り除こうとか、考えや行動を変えさせようとかしない。
そっとして触れない。
白黒、結論を出さない。

許せない、嫌だと思う箇所、分野を限界ギリギリまで我慢しても、もうだめなら、相手を手放す。
あえて固執しない。
あるいは、こだわりの分野の手綱を緩める。
基準を緩くする。大目に見る。
または、ころっと発想の転換をする。

何もその相手の好み対象が、自分でなくても、自分は相手の好みストライクゾーンでなくても、自分は他の人にとっては好みかも知れない。
ピンポイントで一人に限定しない。一対一で向き合わない。
AさんはダメでもBさんは選んでくれるかも知れない。
敗者復活戦に、トライ!

意見が一致しない時に、一対一では、息が詰まり、煮詰まる。
一旦、そこを離れて、俯瞰の位置に昇る。
上のほうから、遠くから見下ろす。
自分と相手、他の組み合わせもある。
そんなガチガチなピンポイントで趣味、嗜好、意見、主義主張がバッチリ合うことを求めても無理。


時間は1秒たりとも止まることはない。
刻一刻と変わり、同じではない。
時が進むと状況も変わる。
状況を踏まえつつ、自分が理想とする内容を変えていくべき。
視野を広めよう。
風通しを良くしよう。
頭から決めつけはやめよう。
そう思うと、すーっと何かから解き放たれたような気になり、相手に固執しなくなる。
相手から力を抜いて離れて、気が楽。
今まで選ばれる立場で、振り回されていて受動的だったのに、選ぶ立場に逆転している。
下にいて、苦しく喘いでいたのが、上に上がり、能動的に余裕顔になっている。
何事も、煮詰まって、二進も三進も行かなくなると、一旦、離れることが良いようだ。
わたしの経験。
プライベートも仕事も然り。

すっと離脱すると、途端にフワリ、軽くなる。
不思議なものである。



おバアの昔話、その後

2019-05-24 | 読む人々には興味ない話
どなたかが引っぱり出して読んだ足跡がある、9年前(2010.1.20)の過去ブログ記事「おバアの昔話」。
懐かしい話だ。
まだまだ、その話には追加される詳しいエピソードがあるが、まあ昔話として、一人でニヤニヤしておこう。

あんなに、かわいいトモ君をよく手放してしまったものだ。
わたしは、夢に溺れないんだなあと、あんなに若い時でさえ、冷静だ。
夢に溺れないように、父に洗脳されていただけかも知れない。
でも姉は洗脳されていないで、呪縛から逃れていたから、考えの弱いわたしが好き勝手に、そうしたと思われる。

かわいい年下の男子、結婚しようと思えば出来たかも知れかなったのに。
(無理かも知れないが、100%不可能でもない)
もったいなかったか?
いやいや、あれでよかった。
過去には戻れないんだし、もしもあの時、、、と仮定しても時間の無駄。
今が最善だと思いたい。

一人だけ、ああ、あの人と結婚していたらよかった、と後悔する人がいる。
当時のわたしが、未熟だったため、良縁を逃した。
まあ、自業自得だ。
わたしは別の人と結婚して、子供や孫に恵まれ、今の幸せがある。
とは言いながら、じつのところ、誰と結婚していても、あまり変わらなかったような気もしている。
この人ではならない、という思い込みはなく、この人がダメなら、次の人、というように、自分が挙げる条件に当てはまる人なら誰でもよかったみたいだ。
と言いつつ、条件は、あまり身近にはゴロゴロいない、かなりレアなものだったが。
自己防衛、自己チュー色は、若い当時からすでに基礎固めされていたと思われる。

結果良ければ、全て良し。
うまくいかなかった、失敗、不成功プロセスも、彩りの一つである。
彩りは、たくさんあるほうが楽しい。
失敗は成功のもと。
昔のひとは、良いことを言う。

すぐに、なんでも、すんなり理想通りに行けば、ありがたみも、面白みもない。
転んだ時に、ただで起きなかった際に地面の石ころをつかんでいた。
その石ころが両手いっぱいある。
両手では収まりきれないかも知れない。
一つづつ、思い出してみるのも、楽しい作業かも知れない。

自己否定から自己肯定へ長い道のり

2019-05-22 | 読む人々には興味ない話
せっかく注目記事に(AIによって、だろうけれど)選ばれたのに、またまた価値を下げかねない日記投稿をする。
ドンマイ、どうせ、選ぶのはAI。
でも、それにつられて読んでくれるのは、生身の人間。
ありがとうごさいます。
AIに? 皆さんに?

まあ、可愛げのないことは、さておき。
今朝、涙した。
趣味がらみ。
ダンスの練習相手のモラハラに遭った。
情け無い自分。
モラハラに対抗できない。
自分は、モラハラされるに相応しい、それだけの能力しか持っていない。
いつも努力嫌いのせいで、楽をしようとして、自分より能力の高い人を選ぶ。
能力ギャップは、浪花節で埋めようとする。
わたし、出来ないの。ごめんね。一生懸命してるんだけど。
お涙頂戴。
情けをかけてね、と、すがりつく。
みっともない。
プライドはないのか?
、、、ない、、、
打算で、努力の方向を切り替えている。
出来ない箇所を研究、練習を重ね、試行錯誤、努力して、出来るようにするのが、正しい努力方法である。
にもかかわらず、その努力方法は、解答用紙から切り取られ、抜け落ちている。

仮にもプライドがあるなら、自立せよ。
いつもブログで偉そうに言っている、わたし、だが、、、
実際は違うようだ。
プライドなんか、ない。
あるんだが、あったんだが、売り払っている。ただいま、欠品中。
お取り寄せしようにも、アマゾンに売ってるか?

で、出来ない部分を責められ、モラハラのできあがり。
受ける側としては確信犯的・受動モラハラなので、自分で自己責任で受けるしかない。
情け無い。
いつもその時点で、自問自答する。
いっそ、パートナーシップを解消してしまおうか。決裂してしまおうか。
一旦、そう思う。
仮定してみる。シュミレーション、スタート!
だが、、、シュミレーターは一向に作動しない。
なぜ?なぜ?と自問するが、答えが見つからない。
なぜなんだろう。
すでに、答えを持っていて、結論を変える気がないからだ。

自分の能力に相当する人とペアになりたくなくて、自分より上の能力の人と組みたがる。
2人足して2で割ると、自分だけの持ち点数よりも平均点が上がるからだろう。
ズルい手抜き根性。楽して評価だけ得ようとする。
卑怯だ、努力せず、人の土俵に上り込む。
だが、いつも相手の顔色を伺うことになる。
大阪商人、揉み手モミモミ。
なにしまひょ?
にこやかな、ニヤケ顔で客を迎える。
絶対に逆らわない。五分五分ではない。
が、実は魂胆の裏返し。
策略。
だが、お互い、利があれば、ウィンウィンだ。

自分より下の人と組むこともある。
平均点が下がるが、自分のほうが絶対的優位を保てる分野だと、いっこうに評価など気にならない。
自分より下の人と組むと、上に行けないことは最初からわかりきっている。
上に行こうと、はなから思っていない。
下の人は、上には、気をつかってくれる。
耳触りのよいことを言ってくれる。
愚痴もワガママも聞いてくれる。
チヤホヤしてくれる。
相手も、大阪商人。腹の中では策略。
ウィンウィンを目指す。

上であろうが下であろうが、組んだことで少しでも現状より向上すれば良い。


自分が最も重要とし、価値を置いていることには、自分を無にしてでも手に入れたい。
プライドと引き換えにしても。
自己犠牲と引き換えに、目的のものを手に入れる。
ただし、相手をやっつけたり、強引な搾取はしない。
取引である。ギブアンドテイク。


別方向で努力する。
サポート役だったり、縁の下からの支えだったり、隣で団扇で扇ぐ役だったり、応援する役だったり、快適に能率よく仕事などが行える環境を整える役だったり。
仕事や勉強そのものを頑張るのではなく、頑張ってもらう側に回る。
自分には頭打ちの分野なら、別方向から参加する。

だからといって、必要以上には期待しない。
トンビが鷹を産んだ親が、へんに舞い上がるのは良いが、トンビがトンビを産んでいるのに、勘違いして頑張らせ過ぎて、結局、親子共々、トンビを自覚するのは、哀しい。
遠回りではあるが、ある意味、親子で人生勉強をしたことにはなるが。
なににつけても、勘違いはしがちである。
勘違いで器を大きくする場合もある。
良かったのか、良くなかったのか、後にならないと、わからない。
結果論。


話は逸れた。
昨日、途中まで書き、さらに日をまたいで今朝、加筆しているため、色合いが変わってきている。
どんどん逸れている。

つまり、わたしは、自分は頑張らないで籠に乗せてもらい、籠を担いでいる人に賃金を渡しているようなものか。
賃金はご褒美である。
先払いのケースも、後払いのケースもある。
(長期にわたる建築物なんかの場合は、事前、途中、完了時、と3回に分ける?)
たんに褒め言葉だけで満足する人はあまり多くないだろうから、その人、その人にとって価値がある、欲しがるもの、ことを代価として差し出す。
物々交換。
モノ(物体)であるとは限らず、コト(具象的な行動)であることが多い。
お金なら、世界共通。(貨幣のない地域では、どうする?
貨幣に代わる、約束手形みたいなモノか?)
頑張りに対して、お金もさることながら、お金に左右されない「評価」という、最も手に入れにくいものが手に入る。
目的には入っていなかったのに、「感謝」なんていう無形のものもある。

話が逸れに逸れている感あり。
逸れついでに、好きに書こう。
早い話が、持ちつ持たれつ、ギブアンドテイク&ウィンウィンになっているということだ。
船頭は一人で良い。
役割分担して、各自の持ち場で、持ち味を発揮するのが良い。
だから、目的のために、自分の魂やプライドを相手に売っているのではない。
最も効果が高い、効率的で合理的な方法を見つけて実践しているということだ。

ああ、よかった。
長々、書きながら結論が悪い方向に行きそうになったが、どうにか自己肯定へと持ち込めた。
プロセスはなんでもいいから、自分を肯定し、応援すると良いんじゃないかと自己チュー教のわたしは、思うわけである。

ああ疲れた。
最後まで読んだ人、います?

わたしはいつも、人の長い文章は、最初と最後だけ読む。
中身は流し読み。
だって疲れるし、めんどうだから。
皆さんも、ぜひ、そうしてください。

耳をすませば何が聴こえる?

2016-07-22 | 読む人々には興味ない話
またまたホンネが書けなくなった。
しかし、わざわざ書いて公表する必要はないわけで。
かといって、ウソを書く必要もないわけで。
書いて闇に葬ることにした。
それでも気は紛れる。

ただし、期限があり、答えを決定しなければいけない場合は、なにかしら自分で考えなければならない。
対話の相手は自分。
自分の声に耳を傾ける。

利害関係なしの位置にいて、感情移入せず、客観的、ニュートラルな考えを持つ人のアドバイスがあれば参考になる。

が、頭が痛い。

がんじがらめの日常?

2010-01-28 | 読む人々には興味ない話

例えば、ご近所づきあいが高じて、仲良しさんになる。
相手の家の冷蔵庫の中身まで知っている。
ぞ、ぞ、ぞ、・・・。

恋人。
お互いに束縛し合うのが、ひとつの愛情の証。
うげ。

夫婦。
行動、金銭、付き合い、仕事、すべてを知ろうとする。
無理。

ただ、リタイアして公認の外出がなくなったら・・・
いちいち説明して、出かける・・・。
まあ、適当にゴマかすこともできるだろうけれど、ゴマかすのも面倒くさい。
かといって、全てを報告・・・やはり、げ、げ、げ、・・・。
全てを把握したい理由は、人それぞれだろうけれど。

知られたくないことって、どんなこと?
そもそも、知られたくないようなことがあること自体が、けしからん?
しかし、いくら身近でも、デリカシーがないこと自体が、けしからん?
実は、人を殺して、この家の床に埋めている・・・なんてヒミツは、だめだけれど。


自分の子供だからといって、こっそり日記を読んだり、そういうこともしたくない。
たとえ、子供でも、プライバシーというものがある。

義母が、義母の姑の日記を(生前)見たら、
あれこれ、よくしてくれる他の嫁のことが書かれていて、気分を害したと言う。
「え? 人の日記なんて、見るべきじゃないですよ」
と、思わず私はツッコんでしまった。

先月、お正月前に、義母宅で、迎春準備をしていて、メモ用紙を張りつける必要があり、
台所中を探したが見つからず、食器棚の下段の引き出しも開けてみた。
そこは、昔、私が、一時期、子供たちと暮らしていた棟の台所なのだが、
その中に、当時の私の日記と、家計簿が、無造作に入れたままになっていた。
もう、はるか昔のもので、自分でも恥ずかしいような内容だが、
家計簿は、項目ごとに、きちんと年統計もしてあった。
(今なら、考えられない)
誰でも関係者は自由に出入りできるサブ台所として、現在は、利用されている。
だから、その気になれば、誰でも、そのオゾマシキ日記と、家計簿を目にすることができる。
そう思うと、ぞ、ぞ、ぞ、・・・とした。

ただ、皆さん、忙しい人ばかりなので、「家政婦は見た」のように、
人の生活やプライバシーを根掘り葉掘り突っついて楽しむ、という俗悪趣味もなさそうだ。
(と、信じたい)
自分でも、パラパラと見ただけで、ぞっとして、パタンと閉じ、また同じ場所に放り込んでおいた。

実家に残したままの、私が中学生の時からマメにつけている日記の山を、
2~3年前、大規模整理をしていた母から手渡してもらったが、
キモチ悪くて、読めない。
今も物置に、封印している。そこは、鬼門になっている。

というわけで、日記など、見るものではない。
書いた後も、日記が一人歩きをする場合があるので、保管には厳重注意をすべき?!

プライシーは、生きていくうえで、必要不可欠なもの。
私にとっては、酸素。
いろんな人を見ていると、窒息せずに、よく生きていると感心する。
家庭にしろ、職場にしろ、なんにしても、適度な空気の入れ替え、換気が必要だ。


自慢たれ

2010-01-24 | 読む人々には興味ない話
過去の栄光を話す人は、寂しい人だ。

誰もが行けないような場所に行っていた。
有名人を知っている。
一般人ではできないことをしていた。
高い能力があり、高額を稼いでいた。
美しかった。異性にとてもモテた。
一見さんお断り店の優良顧客である。
高級車に、乗っていた。
贅沢三昧をした。

現在もハイレベルを維持している人は、成金でもない限り、滅多と口にしない。
本人が口にしなくても、回りが先に知ってしまう。
自分でわざわざ言って、回りが、「ほほーっ、すごいですね!」
と誉められても、本当に褒めていない場合もあるから、真に受けていると、とんだマヌケになる。
そういった類のことは、話の展開上や、回りが話題をふってきて、求められたら話せばいいと思う。
もちろん、相手によっては、話したくなければ、話す必要もない。

自慢話をするのは好きでも、聞くのが好きな人は、いないと思う。
例え、今が頂点であろうが、リタイア組であろうが、自慢ととられるような話をするのは、
品位を下げる。
過去に高い地位にあった人や、素晴らしい功績を残したり、大きなプロジェクトに参画した人などは、
わざわざ自分からペラペラ自慢する人をあまり見たことがない。
自慢ではなく、後学のため、専門分野を教えてくれる、手ほどきをしてくれる、お勉強会なら、大歓迎だ。

自分がこつこつ努力して得た地位、お金、特権であれば、そんなに、むやみに乱用しないのでは?
(しかし、人間は、「免疫のない快楽」に狂うということもあるようだが)
たいして、努力もせずに、転がり込んできたものに対しては、
さして心を痛めずに、じゃんじゃん浪費する。
しかも、それを自慢するというのは、恥の上塗り。
「お金持ちですね~」「さすが、えぇしの子ですね~」と持ち上げるのは、
発言に責任ない、その場限りの太鼓持ちの人々。
こき下ろしたり、不快感を示したり、見下げたり、そんなことをする人はいない。
言葉にしない裏面がある。
それが処世術。

小粒の人間や、失った栄光にしがみつく人が、自慢話という形で、自分を誇示したいのだろうが、
哀しい人々だ。
器の小ささが、なせる業だ。

考え方や、価値観は、人それぞれ。
お金や特権がなくなったあと、どれぐらいの人が付いてきてくれるかで、
その人の本当の価値がわかる。
ちやほやされて大盤振る舞いの、単なるお人よしも、自業自得。
何もなくなった時に、本当の自分がわかる。