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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

教養って何?

2023-08-27 | 読む人々には興味ない話
いつも一緒に運動をしている、体育会系仲間が一過性の病気になった。流行病。
で、運動の場に引っ張り出されなくなり、あまりにも退屈。
この酷暑の中、不要不急の外出は避けてください、とニュースの声。
ウォーキングなど、とんでもない。
自宅でもエアコンをつけてください、と、キャスターの声。
今月の電気代に戦々恐々としている人は少なくないだろう。

さて、トップ画像。
退屈すぎて、戸棚から引っ張り出してきた。
姑の本。百人一首、漫画版。
すごく面白い。
でも、読むのは1日3首にしておこう。
著者は2人いて、1人はわたしより一歳、上。
子供向けに書いたところ、好評だったそうだ。
もう1人は、手塚治虫氏に指導を受けたという漫画担当で、わたしと同じ歳。
同級生が書いているようなノリ。
かなり優秀な同級生ではあるが。

もう一冊は、舅の本。橋のない川。
昭和44年26刷、定価350円のハードカバー装本。
夫の実家で発見して以来、読もう読もうと思いながら手付かずになっていた。
持ち帰って来ていたのも、20年ぐらい前かも知れない。
紙の色はもはやキナリ、ベージュになっている。
まだ3ページしか読んでいない。
読む本を2冊、机の上に用意すると、なんだか安心する。

舅は文学全集をズラリ揃えていて、次女が学生時代、興味を抱いて何冊か、うちまで持ち帰ってきた。
それは、立派な装丁ではなく、紙が劣化してパラパラめくると粉粉になって散ってしまうのではないかと思うほどのもの。
紙は、耐久性が低い。
驚くべきことは、文学全集と舅が結びつかないこと。
舅は文学青年の片鱗もない。カケラもない。
見事、昇華したのだろう(と思いたい)。
晩年、NHK「趣味の園芸」のテキストを見ると、それらしい好みが窺い知れる。
人間って、変わるものだ。

わたしの父は割合、書くことが好きだ。
文学より自作。
晩年は、時間の隙間を見つけて1人で映画を見に行っていた。
(生涯現役のため、オフタイムがとても少なかった)
わたしは父に似ているかも知れない。(文章を書く意味では)
兄も寄稿を頼まれると嫌いではなさそうだ。

父のこころに残る言葉。
「自分から自慢アナウンスしなくても、周りが自然に知る」
背伸びしたり見栄を張っても、いずれバレる。
逆に、何も言わなくても見ている人は見ている。
自慢したくて、言いたくてウズウズしていても、言わないほうがスマートということか。

しかし、悪いことは隠し通せるか?

兄の名言。
「教養は人を見下すためにあるのではない」

これはまさにその通り。
自分が知っているからといって、知らない人や間違っている人を馬鹿にするぐらいなら、そんな教養は無い方がマシ。
ひけらかした知識が間違っている時は、凍る。
コワイ。
わたしはしょっちゅう、日常茶飯事だが。


就学前の子供(孫)が、黄金のおまじない言葉のように、百人一首の句を口にすると、ほぉーーっと大人が目を輝かせる。
あの快感は、水戸黄門の葵の印籠だろう。
それがキッカケとなって、興味や探究心が生まれたらよいのだが、◯◯の一つ覚えにならないことを祈る。
大概は、1句しか知らない。
せめて5句、間違えずに言えるといい。意味も。

知人で、高校生ぐらいの時に覚えたという憲法の第◯条の一文を丸暗記して、今も言える、と、早口で呪文のように言ってくれる人がいる。
のではあるが、その人の知っているのはそれだけで、あとの学校で習ったであろう、あらゆる分野のあらゆることは成人になってから脳から滑り落ちている。
興味がないことは忘れるのだろう。
脳の省エネ。
憲法はたまたまだと思う。

今日の記事、カンジワルイと感じた人は、いろんな経験がおありだと推測する。
逆に、無い人、いるのだろうか。




古い価値観

2023-08-10 | 読む人々には興味ない話
各国、なぜ少子化になっているか?
人口の多い国はこれから栄華の時代を迎える。
昔は貧乏人の子だくさんというイメージがあった。
産めよ増やせよの時代を過ぎて、やがて理想とする子育ては教育にお金がかかる。
質を追求して子供の数を減らす。

自分の生活や人生の質や充実を重視して、子供を産まない、結婚もしない。
少子化の波に歯止めがかからない。

価値観の変移か。
しかし夫婦で協力して子育てしている姿をよく見かける。
女性が普通に家庭外で働くようになって、家事、育児の協働が目立ってきた。

介護について。
老老介護もさることながら、わたしが知る範囲では、リタイア前後の男性が母親の介護を担うケースが増えてきている。
嫁ではなく、息子。
時代は変わった。

だが、まだ旧態然とした価値観は人によっては変化せずにそのまま。
特に前期・後期高齢者あたりの、昭和男性は、アタマの中が変わっていない。
今更、変えようにも無理。
周りは諦めている。
が、少し突くと、火薬庫の爆発が起きる。
啓蒙啓発は無駄なので、あたり触らず、そっとしておくしかない。

いくら目の前で若い婿が家事・育児をしていても、自分には直接関係がなく、映画を観ているようなもので、自分事として捉えていない。
その状況が許されているわけではなく、アタマのカタイ人は、居ないもの、存在しないものとして扱われている。
特別な地位、特権を与えられているわけではない。
治外法権の例外区。
経済発展区なら良いが、限界集落のようなもの。
再生などには手付かずで、やがて朽ち果てるのは時間の問題。

ちなみに、我が家があるのは、半世紀前に大規模開発された地。
我が家の近所周り、土地家屋の新旧移り変わりが著しい。
開発、分譲当初、安い値段で買って入居した人々は90歳近くなっている。
家を手放し、駅近くのコンパクトなマンションに引っ越しているか、老人ホームに入っているだろう。
綺麗に区画され整列していた各邸は、歯抜けのように、どんどん古い家が更地になっていく。
そして、新しい家が建つ。
ちょっと家の周りを散歩すると、あちこちに動きが見られる。
1番の動きは、わたしが寝ている2階の部屋から見える風景が変わったこと。
今まで何もなかったのに、窓から全面にドーンと大きな家が立ちはだかり、こちらの2階と目線の位置が同じになった。
うちの1階からは見えないのだが、2階から見ると存在感を現している。
なぜ、1階からは見えないのに2階から見えるのか。
というか、2階からしか見えない。
うちの玄関の反対側(背後)の家の、更に道を隔てたお向かいの家。  
何十年も手付かずの空き地だった。
裏側の筋を一つ進んで足を運ばなければ、家が建っているのが1階からではわからない。
そして、うちの2階から見えるのは、大きな家の横側。横姿。
道路側の間口より奥行きが広く建っている。
道路側の横から見ると幅が狭いが、直方体の大きな家。
大きな家が建ったと思っていたら、それは横側から見た姿で、実際はもっと大きかった。
(書いても書いても、うまく表現、描写できない。
図面か、写真なら一発でわかるのだけど。
なぜか、この家の形状、形態を表現したい)

その家が新築されている同じ筋には、南側、一軒飛ばして1軒、さらに南側、1軒飛ばして1軒、合計2軒も家の取り壊し。
そしておそらくその取り壊される家と家の間の1軒も取り壊されることだろう。
すると3軒連なって全部取り壊し。
北側4軒目(うちの2階から突如、姿を現した家)は新築ということになる。
そのお向かい東側の家も潰して別の人が新築。
新築主は、その隣家の娘さん。
親子で2軒続きになる。
すごい。
(だらだら同じようなことばかり書いて、自分ばかりが、興奮している)

新旧入れ替わり。
新しい人や、新しい世代、2分割にされたりして若い世代が入ってくる。
活性化され、若返って良い。
半世紀でこんなにも一戸建て(建売ではない個別オリジナル注文建築)の住人は、丸々家ごと入れ替わるのだ。
それに引き換え、夫の実家やわたしの実家地域は、全く入れ替わりがない。
新しい人が入って来ない。
閉鎖されているから停滞して衰退していく。
住民の精神と、行政の遅れ。
高齢化は進む一方。

考え方が古く、いつまでも旧態然としていると衰退、退廃する。
老人たちが自分の蒔いた種。

若い人が結婚しようという気にもなれない、昔の価値観。
価値観が今の時代に合っていないことに全く気づいていない。
少しでも古い価値観に触れると、逆上する。
古い価値観の人がこの世からいなくなるか、新しい価値観と闘わなければ、古い価値観はなくならない。
やがて、徐々に社会は変わっていくだろう。
が、時代が移っても、次世代に伝えるべき良いことは踏襲すべきだと思っている。

同じことを何度も書き散らしている。
シツコイわたし。

わたしも40年、古い価値観と闘ってきたが、大元がこの世からいなくなり、解放されたと思いきや、古い価値観そのものの幽霊が残存していた。
古い価値観の親の価値観をそのまま受け継ぎ引き継いでいる子供が歳を取り、親がいなくなったその後も、亡霊が乗り移っている。

※写真は、今日の大分・別府。
台風の影響で遅くなり疲れているのに、旅先で、全く関係ない内容のブログ記事。

悪意記事

2022-12-01 | 読む人々には興味ない話
さて。
いきなり、始まる。

LINEに配信されるドキュメント記事で、悪意の塊を感じた。
記事で紹介されるAさん。
まあ叩かれても仕方ない行いをしているのではあるが。
本人が望み、法には触れていないなら、人に迷惑かけてないなら、なんでもいいの?の類い。
最後には、行為を介して移る病気に感染し、Aさんはこれではいけないと強く思い、悪癖を絶ったものの、次の、空虚を埋める手段も見つからず、満たされない時間を過ごしている、と記事では〆られていた。

まあ、記事的にはそんなものなのだが。
わたしは共鳴も賛同も同情もしないAさんであるものの、、、
書き手の目線、切り口が、わたしは気に入らない。
Aさんがやっている行いは決して良いとは思わないが、彼女を取り巻く環境についての記述が気に入らない。
(それがどうした?の感想で、すみません)

時代が変わり価値観は多様化した。
あくまでも多様化しただけであり、過去の一定の価値観を否定するものではない。
過去の価値観を含め、価値観は押し付けられるものでもなく、一つだけでもない。
国民が一丸となって同じ方向を向いていた時代は終わっただけである。
強制統一から解放され、自由に柔軟な展開になったのだ。

妻は家庭、夫は仕事。ほんの半世紀前までは。
今は共働き。
夫婦別姓はまだ国会を通過せずモタついている。
離婚はよくあることで、シングルマザーもゴロゴロいる。
後ろ指差されるなどは大過去の話。
結婚相手や恋人も同性だったりもする。
マイノリティもカミングアウト数が増え少ないなりに価値観が認められ、法制度が整い生活を守る。


価値観が多様化したのは結構だが、
公の大手サイトで広く読者に向けて発信する書き手は、気をつけなければならない。
多様化した選択肢の多い中、自分の価値観を基準にして、そうではない価値観を否定、糾弾しているかのような書き方には、違和感、不快感を感じる。
被害者妄想的にわたしが勝手に歪んだ受け取り方をしているのかも知れないが。
(現在の風潮をさらっと書かれているものに対して必要以上に行間を感じ取り、いじけているだけか?
今の時代の価値観を受け入れられないのか)

価値観が多様化したというのは、他の価値観を否定することではない。
一つだけの価値観ではなく、多くの価値観もあるという、選択肢があるということ。
自分の価値観からだけの発想で、決めつけてはいけない。
自分の価値観が自分にはあるなら、他人には他人の価値観がある。
同じではないからといって、自分以外を否定するのは、もはや多様化とは言えない。

なんだかな〜。
取材や手記による読みものが多いサイトなのに、、、著者によって色合いがころっと変わる。
読者個人の感想文ならいざ知らずに、発信側はニュートラルに構えて欲しい。
時代の風潮を、良い時代が来たにもかかわらず、わたしが反発して、時代遅れなだけかも知れない。

わたしは一見、ものわかりの良い老人のテイなのに、実のところは頭カチカチの、自分の価値観以外は認められない狭量な人間なのだろうか。
しかしそれは、芯だから。自分が生きる指針だから。
まあ、芯がないというのもグニャグニャで、よろしくない。

曲がるにしても、しなやかに、しなる強さが欲しい。



遠い親戚のおばあさん

2022-11-17 | 読む人々には興味ない話
わたしのブログ記事は辛口だ。
自虐傾向があるため、自分と同時に、自分に似たような人も斬ってしまう。
人間が持つ共通の心理だったりすると、他人が読んで自分のことをけなされているような気がして不快になることもあるだろう。
触れたくない、触れられたくない、こころの奥やヒダだったりすると尚更。

楽しいことや興奮するような嬉しいことは、共有したくて、元気になりたくて読まれるが、逆のマイナスは近寄りたくないのが自然。

それと、わたしは普通にさらりと思っていたり、していたりすることも反感を持たれたることがある(と思う)。
自虐ネタは、読む人は嘲笑なり優越感なりを感じて、こころの余裕を生むが、そうでないネタは、自慢だと感じられる。
自慢する人に悪い人はないという説もある。
だが、ニオイに過敏なわたしは、ニオう自慢は避けたい。

実力が伴う人がさらりと現状を述べるならオッケーだが、自分の力でもない人間が、無自覚で優位に立っている現状をべらべら話す(書く)のは、痛い。
わたしは、自然体で書きたいのに、どこかにニオう自分を感じる。
自虐は逆自慢の現れか。
自意識過剰か。

二面性が顕著にあるため、一面のみの顔を表に出している。
が、裏の顔で悪事を働くわけではない。
健全な善良な一市民である。
にもかかわらず、、、
自分のもう一面と対峙するのは自分であり、人に相談したりしない。
同じような状況の人の話を参考にしたりするが、その方法を取り入れるか、取り入れないか、あくまでも、叩き台にするだけ。
自分の思いを吐露できない苦しさはある。
そして、わたしの嫌な面を深く知る人は、この世から去って欲しいと願う。
まるで、犯人が証拠隠滅を試みるように。

わたしには良い面もある(はず)。
ではあるが、取り立てて騒いで持ち上げて欲しいとは思わない。
かえって暑苦しい。
ただ、ほんのちょっとした、些細なことに遭遇して、知ったりすると、じわじわと喜びが広がる。
意外に単純である。

つい先日、遠い親戚で、ほとんどつながりも、会うこともない、長い長いスパンでの関わりの人の口から、不意にわたしの下の名前がぽろっと出た瞬間に、なんだかわからない嬉しさが込み上げた。
アラジンの魔法のランプから、もわっと巨人が出現したかのよう。
その親戚は、80歳ぐらいの女性なのだが、今までほんの数回しか不祝儀の会でお会いしたことがない。
季節品を送っていただいたお礼の電話をかけた時に、苗字を言うと即座にわたしの下の名前が出たことには驚きを感じた。
(長年、わたしは夫の名前で礼状を出していた)
よくよく考えるとわたしも、その人の下の名前を知っている。
親戚というのはそんなものか。

(ちなみに、その親戚との関係は、、、
夫の父の父の父の弟の息子の娘。
明治初期に枝分かれした親戚。
はあぁ、長い、、、
「ファミリーヒストリー」の世界)

嫁ぎ先の親戚というのは、親戚になってから長い時間が継続している。
実家の親戚は自分が嫁ぐまでの時間が加わる。
娘たちの配偶者の親戚も広がりを見せている。
海外にも広がるなどとは思いもしなかった。
新しい未知の文化に触れる機会を得た。
同じ県の近隣の人としか縁談を認めなかった、母の実家はそのせいもあり、後継者がいなくなった。
ガッチガチに凝り固まった古い考え方。
まさに隔世の感である。

話はまたまた脱線している。
脱線に脱線を重ね、終わることがない。
おばあちゃんの昔噺は、これだから聞いていられない。

パワハラ、モラハラ用語

2021-11-24 | 読む人々には興味ない話
柿のシーズン。
あちらこちらから、たくさんいただく。
お裾分けというか、箱ごと知り合いにそのまま送る。
うちが購入して既に送った人もいて、その人にはもう送れないが、息子には何重に重なっても送る。
夫の息子に対するラブコールはなかなか涙ぐましい。
冷たくされても、なお。
父子ってそんなものなんだろうか。
わたしは、いたって温度が低い。
離れたがっているものを無理矢理、囲い込もうなんて、さらさら1ミリも1μも思わない。
すがりつきは、みっともない。
高圧的は最も嫌。

兄も母にひどい(過保護、過干渉)仕打ちを受けて可哀想だ。
本心から気の毒に思う。
あと少しで、重石が取れるはずだから、兄よ頑張れ!
だが、母と兄、どちらが長生きしそうかというと、、、、歳の順とは限らない。
兄は生きているうちに、重石が取れた清々しさを満喫することが出来ないかも知れない。

兄もわたしも時代が時代なら、ドロップアウトしていると想像する。
たまたま学費が払える経済力のある家庭に生まれ育ったため、どうにかなった。
わたしは、かまいたち(お笑い芸人)のア○ーバTV番組風に言うと、女ヒモ。
家庭にお金を入れず、住宅費、生活費などを浮かして、好きなことをして遊んでいる。
(だが、配偶者がいると、とりあえず、ヒモの肩書は外れる)
親の資産や遺産を食い潰す場合も、穀潰し?みたいな感じになるのか?
事業に失敗した場合は?

そもそも穀潰しって?
「ごくつぶし」と読む。
ものすごいモラハラ、パワハラ用語。
説明なりなんなりを読めば読むほど、気が滅入ってきた。
穀潰しって、わたしのことなんじゃない?
自己否定は鬱に突入する危険性を孕んでいる、、、ので、自己否定しない方向に自分で舵を切る。

穀潰し、と言われている側にではなく、言っている側に目を移す。
(わたしの周りには、そんなことを言ったり態度に表したりする人はいない。
わたしが勝手に、今の時代ならそうかもしれない、と想像力逞しく、悲観しているだけ)
じゃあ、あなたは、穀潰しではないにしても、効率的、合理的な動きをして、最高に能率よく、余すことなく能力を発揮したのか?
その能力や結果は、すべての人が認めているのか?
質はどうなのか?
自分を肯定したいだけなのではないのか?

家族に穀潰しがいる人は、どう接すればよいか、とご親切に導いてくれるサイトまであった。
役割を持たせよ、だそうだ。
会社にも穀潰し社員がいるそうだ。

何もしないほうがまだマシで、下手に何かして、マイナスの結果を招く場合もある。
何もするな、とはわたしは言わないが、皆んなが我も我もと動くと摩擦を生じる。
まあなんでも、ほどほどが良い。
何も建設的に生み出さない場合は、生きる権利がないのか?
そんなこと言ったら、若者が多くの非生産的高齢者を支える税システムはどうなるのか?
過去になんらかの役に立った人は、その功績を少しずつ削り取って、食べていっているのか?
功績は、お金だけではない。

まあ、あまりにも目に余る穀潰しはどうかと思うが、世の中、「穀潰し」カテゴリーに属する人々は少なくないと思われる。
すべての人に優しくなければならない今の社会は、大変デリケートな時代である。
穀潰し側から見た景色と、穀潰しと接する側から見た景色と、外から見た景色は違う。

自分を必要以上に声高に肯定する必要はないが、否定しても人生、面白くない。
で、、、自分は穀潰しなのか?
ブログで暇潰しではなかろうか。
と、笑えない冗談をマジメに言ってふざけている。


こころの中に眠るもの

2021-10-16 | 読む人々には興味ない話
今日も一日は、ほぼ終了。
次女母娘、実家暮らし、居たら居たで大変だけど、居なくなったら居なくなったで、寂しい。
感情なんて、じつに勝手なものだ。
ちょっとだけ居る、とか、たまに居るとか、時々顔を見るとか、自由度が高く、抜け感があるほうが、気持ち良い、心地よい距離感だと感じる。
べたっと一緒は、お互い疲れる。
夫婦も、親子も。
恋人も。

恋人なら、若い頃ならいっときも離れたくないだろうけれど。
今の年齢になると、時々、ドキドキで良い。
逢える日を待つのが長くて疲れる。
苦しくなるほど熱を入れると、苦しい。
呼吸困難は避けたいところだ。
相手よりも何よりも自分の身体が大事。
いいかげんなものだ。

だけど、いつまでもワクワクするこころは持ちたい。
などとムシの良いことを言う恥じらいの無さ、厚かましさ。
そうでもしないと繊細でナイーブでガラスのハートだと生きていけない。
生きるには、面の皮の厚さも必要である。
でも、可愛いくもありたい。
またまたムシの良いことを。

それにしても、夕飯、夫だけだと楽勝!
次女がいると、とりあえずいつも何かを用意しなければならない。
野菜だの、タンパク質だの、母乳の素になるものをせっせせっせと食べさせなければならない。
毎日毎日毎日毎日毎日。
わたしは自分1人だと、全く料理をしない。
家族や娘一家のためにしか料理をしない。
自分のために料理をするのは、手間がもったいない、惜しい、めんどくさい。
家族のために作った料理は、わたしは余った場合しか食べない。(まれに、好きなものだと、自分も食べるが)
せっかく作ったのに、自分で食べては何の意味もない。
そういうスタンスは、いったいどこから来るんだろう?
きっと料理が大嫌いなんだろう。
主婦の義務として作らなければならないから作っているのだと思う。

その割には、掃除は義務と感じていないようだ。
部屋が散らかっているからといって、死んだ人はいない。
が、ゴミ屋敷は嫌。
快適な生活をするほうが、快適だ。
不潔は不快だ。
当たり前だけど。

よくよく考えると、わたしは、あまり生活の快適な質を求めていないように思う。
自分の労力と快適をはかりにかけて、労力がかかる割に得るものが小さいと、手を抜く。

わたしが、どうしても手を抜かなかったことは何だろう?
ん〜〜〜?
思い当たるが、書かないことにしよう。
嫌な感じ、嫌味な人物と思われるかも知れないことをわざわざ自ら告白する気はない。
洗いざらい自己開示しない。
価値観、考え方の基準は、その、手を抜かない部分に存在する。
いわゆる核である。
その核はどんな人にも必ずあると思うが、自覚しているかしていないかで、違ってくることもある。
自覚していない人も多いかも知れない。
自覚するキッカケがないと、無意識なまま一生過ごす。
人に指摘されて気付くこともある。
無意識=無自覚=深層心理
こころの奥深くに眠っている場合もある。
知ったからといって、良かった、幸せとは限らない。

人として、多くの人と共通点を持つと考える。
良い面も悪い面も。
小説や映画、音楽、美術、、、なにかしら言葉に出来ないものを感じ取ることがある。
仕事や娯楽を通しても。
感覚をシェアする。
シェア出来ない場合も多々、多々ある。
いろんな人がいるから。
無意識のものを引き出されることもある。
わざわざ、わざと作為的に引き出すこともある。

なんだか、話しが抽象的、概念的になり、まとまらず、軟着陸できなくなってきた。
お読みになっていた方、途中でほってください。
迷宮話にお付き合いいただき、ありがとうごさいます、そして、すみません。



眠くなる話

2021-08-03 | 読む人々には興味ない話
疲れる毎日。
暑い季節はそれだけで負荷がかかる。
日本に住んでいたら宿命か。

さて。
ポスティングされていたミニチラシを孫が持ってきた。
毎日を楽しく過ごす極意、良いことが書かれていた。
写真に撮って、データ・キープしたわたしは、なかなかのものだと感激した。
まるで宗教への誘(いざな)いだ、と感心していたら、なんてことはなく、宗教だった。
あのチラシの文章の次には、どんな宗教が来ても、どんな会社案内が来ても、どんな倶楽部案内が来ても、どんな商品が来てもいけそうだった。
プレゼンの資料として保存しておくと使い道があるかも知れない。

その宗教をググッてみると、新興宗教だった。
ちなみに、わたしは、宗教は毛嫌いしている。
大学をはじめ、政党まで持っている宗教もある。
絶大な力。

次女にミニチラシを見せたら、街を歩いていると、宗教の勧誘らしきものを何度か受けたことがあるという。
いつもは、「急いでいるので」と立ち止まらず無視するかっこうだそうだ。
だが、ある日、20歳ぐらいの純粋な感じの女の子が、ベテラン会員さんといっしょに勧誘活動をしていて、ちょっと話を聞いてみようかという気になったらしい。
聞けば、田舎から出てきて知り合いもなく寂しい状況だったところをその宗教に誘われて入ったら、寂しさも飛び、満たされた毎日に変わったとか。
その話を聞いた次女は、「その20歳ぐらいの女の子の母親に知らせてあげようかと思った」と言う。
まだ社会経験も浅いのに、都会で変な宗教に片足突っ込んでますよーー、と何も知らない親に注意を促す、、、。
本人に警笛を鳴らす以前に、親に知らせたいという次女だが、次女はすでに社会経験を少々積んで保護者の心境か。

一方で、親が信じる宗教に子供を巻き込むのはいかがなるものか。
洗脳に他ならないが、家庭内のことには外からは介入出来ない。
子供が成長して自分で考える力をつける前に、強制的にパワハラで子供を洗脳するなんてことは、自立を阻む。
良い教えだけを抜粋して正しい道徳心を植え付けるのなら悪くないが、行き過ぎ、エスカレートする危険性がある。
学校の倫理の授業のようなら良いが。

宗教には共通する教えはある。
だが、相容れないものもある。
偶像崇拝か、禁止か。正反対。
歴史的に重みのある日本古来の仏教も、日本でアレンジされたとしても、インドから始まり中国などの大陸経由で大筋やって来たのではないかと、うすぼんやりおおまかに想像している。

ある新興宗教の信者さんが不治の病にかかった。
枕元にはズラリとその宗教関係者が病人を囲んでお祈りする。
結局、その人はしばらくして亡くなった。
その様子を見ていた友人の人はつぶやいた。
「なんの力にも役にも立ってない」と。

しかし、本人にしてみれば、こころが救われたかも知れない。
周りから見ると、ばかばかしいとしても。
どんな悲惨な悲劇のどん底にいても、宗教が自分を救ってくれるなら、立派なものだ。

「あなたは、神の元に召されます」
そんな教えがある宗教があるとしたら、喜んで神の元に召されるのかも知れないが、悪用されると大問題、社会問題だ。
国ごと、一丸となって突き進んでいた時代もあった。
深刻である。

ある記事で紹介されていた話。
死ぬと、自分は死んだことがわからない。
客観的には、死は存在するが、主観的には死は無いそうだ。
だから、心配しても始まらないとのこと。
あっけらかんとして明るい。
ふむふむなるほどと納得できた。
考え方も色々。
自分が好きな考え方を選ぶとよい。
選択肢が多すぎて、眠くなりそうだ。
残された自由時間を使ってしまうには、あまりにももったいない。
不眠で睡眠不足の人にはちょうど良い睡眠導入剤になる。
わたしには、たんに集中力や緊張感が持たなくなるだけの話である。
眠るのが大好きで、大の楽しみ、というのも、立派な教え、生き甲斐の一つだとか。
(冒頭のミニチラシに紹介されていた)
眠り姫であるわたしは、「眠り教」の幹部ぐらいにはなれるだろうか?
否、なれない。
ただ自分が快眠を貪るだけで、人のことなど眼中にないから。

またまた長いだけの、睡眠導入記事になってしまった。


思い通りには行かない

2021-07-25 | 読む人々には興味ない話
さて、と。
寡黙な個性的キャラの長男は今朝、家を後にし、午前の飛行機で帰った。
息子と、昨夜からお泊まりの孫たち(小学生男児組)と、帰り際に玄関で記念写真。
次女と新生児も一緒に、ハイ、チーズ!
若い世代の一家、まるで5人家族のよう。
パパママ、小学生男児2人、新生児女児。
実は、パパとママは兄妹で、子どもたちはいとこの、寄せ集めチーム。
5人家族は収まりが良いので、なんだか一家族のような、まとまり感。

その写真は、一足先に自分の家に夫と下2人(保育所女の子組)を連れて帰った長女からのLINEでの要請。
で、写真に撮って後から見たら、息子の目が笑っていた。
なんだか救われた。
ああ、良かった。

今朝、これで最後と、やっと夫が息子に切り出した。
言いたいこと、聞きたいこと、話したいことがあっても、なかなか言い出せない夫。
自分の仕事上の進路について、将来の計画のため、息子の意向を確認した。
「最終だけど」と念押し。
だが、自分の期待した答えは得られず落胆していた。
わたしや次女が、息子側の意見に同意を示すと、「俺の周りは全員、敵や」と、しょげかえっていた。

「意見が違うのは別に敵ではないよ。
クロかシロか、0か100か、そうハッキリ判定しなくても良いのでは」
と、わたしの意見を言った。
何ごとも強制は良くない、と、次女も言っていた。
孤軍奮闘している、寂しい気分を味わっているような夫。
妥協案とか、一気にではなく徐々に移行していく案もあるのに、なぜ、あんなに結論を急ぐのだろう。
試行錯誤という方法もある。
道が整備されて自分の意見はいつも通るか、あるいは、意見が全くない夫。
今までの歩みが影響している。

わたしは最初から、ある見通し、予測をしている。
でも言い表さない。
対策も取らない。
時が来れば事態は動くと思っている。
ジタバタしなくても自然に道は絞られてくる。
ぱぁっと拓けるのか、萎むのか、閉まるのか。
それだけの違い。
もうわたしの年齢になると、右肩上がりは無理はわかりきっている。
なだらかに終わりに向かって店じまいする方向。
夫はまだ若いというか、見切りがつかない、というか、往生際が悪い。
黄昏から夜に向かう心準備ができていない。
いつまでも、自分の思いにしがみついていては、前にも後ろにも行けない。
とりあえずは、絡まった糸を解いて、冷静によ〜く考えてみる。
自分の思い通りにならないからといって、いつまでも執着するのは良くない。

とかなんとか、言うは易し、行うは難し。
なかなか、そうカンタンには行かない。


○○夫人

2021-07-20 | 読む人々には興味ない話
ブログを書くモチベーションは、何か?
なんなんだろう、、、
皆さんのブログを読んでテーマのヒントをいただいたりするものの、、、
気力が衰えるのは、低迷する閲覧数にも影響がある。
気にするな!他人軸!
とは思うが、モチベーションの元の元に顔を覗かせるのは、やはり自己表現することが、ささやかな自己実現の一つかと思ったり。

最近は自己顕示欲は、なりを潜めた。
自分をアピールしても、自分の根本はよくわかっているので、自分独自の力、能力をアピールしているのではなく、自分の周りをアピールしているに過ぎない。
恥ずかしい。真っ赤になる。
運と要領だけで生きてきた自覚があるため、「いいえ、わたし、努力してます」と言い張るとすると、その努力は、客観的にみて胸を堂々と張れないものがある。


自分の力でもないのに、自分の特権を余すことなく使い、なおかつ、意識的にアピールしている人がいる。
○○夫人。
○○を取ると、ただの何の特権もない人。
○○が付いている人ほど、○○の名に恥じぬよう、ヘマをせず、見本となるような行動をしなければならない。
一般人なら、たんなる朗らかな天然さんだったとしても、国の長ともなる人なら、夫人の行い一つで、命を絶たなければならないような苦境に追い込むことがある。
自分の行動には影響力があるという自覚が必須。

国の長などは、その時々には1人しかいないから、そう大勢ではない。
選び抜かれた人なので、脇はしっかり固めていることだろう。
が、天然夫人には政治生命の命取りになる。

と、トップはそう。
下々の○○夫人。
野球選手夫人には超美人が多い。
なぜなんだろう。
理由は想像するが、書かない。

今の世の中、美人だけでは、ダメだ。
最近亡くなった、アイドルメーカーの名プロデューサーが言っていた。
黙って可愛いだけ、はダメ。
発信力が必要と。
なるほど。
○○夫人もそうなのではないだろうか。
お金の匂いプンプンの発信力は、とても恥ずかしい。
本人は自慢しているのだろうが、わたしは真逆に捉える。
イタい。みっともない。品がない。
無知。認知力なし。
社会活動、奉仕活動、ボランティア、寄付なら悪くない。
が、世の中、お金の力で行うことは多い。
アイドルが売れるのも最初はお金の力。
時代を読み、原石を見つけるプロデューサーの眼力、手腕が問われるところだが。

なので、わたしは今時、○○の妻でゴザイマス、は時代遅れだと思う。
今は、○○はわかったから、で、「あなたは?」となる。
○○の資金力や影響力、権限で行っている活動なら、そのまま評価しがたい。
素のあなたは?

しかし、有名人の子供が親の七光りを避けて下積み生活を経て、ある程度力をつけたところで、実は親は○○で、、、と公表するケースもある。
これは芸能界の話だが。
芸術家の子供が親の七光りで芸術家として大成する話はあまり聞いたことがない。
(例外もあるが。上村松園→松篁→淳之)
(歌舞伎や能などの伝統芸能はまた別枠)

親とは全く違う畑を歩む子どももいる。
あんな風になりたい、か、あんな風になりたくない、か、、、親の背中の写り具合は、いろいろか。
親自身が自分の進んだ道は辛いから、子供には勧めないケースもある。
いろいろ。

わたしが、ヒシヒシ感じるのは時代の流れ。
素の自分の力でしていることは、何か。
そこが問われると思う。
なので、自立していない席は、安泰の座ではないのだ。
それと、資産や収入に応じた品格、人格が求められると思う。
なので、成金は、成金を卒業しないと、成り上がりのレッテルはいつまでも剥がれない。

宇宙教

2021-04-22 | 読む人々には興味ない話
半世紀以上生きてくると、だいたい自分の人生はどんなものか想像がつく。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測する。
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ。

わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生。
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。

元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。

既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。

必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できない。

例えば、恥ずかしくても命まで取られない。
何度も書くが、ふてぶてしく、当然の権利とばかり開き直り、更に逆ギレされるのは、嫌悪するが。
不運は自分のせいではないにしても、人のせいではない。
誰のせいでもない。
だが、不運がやってきているのは、隣の人ではなく、自分。
なんで?
となる。

宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい。
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。

あの母にして、この子(わたし)あり、だ。
兄妹は、姉だけしっかり者で優れていて、兄もわたしも、もはや、いるのか、いないのかわからないぐらい、もうこの世には生きてない感じである。
とりあえず、わたしは、子供や孫たちを遺した。
(あ、わたしはまだこの世を去っていないが)
それだけが、生きていた実証かも知れない。

とか言いながら、まだ、子育て後方支援係を任命されている。
はやく引退したいのだが、もうじきあと数十分で、ドヤドヤとタスクの山が押し寄せてくる。
早めにブログ遊びは終了し、お役目、お仕事、スタンバイしなければ。
これもスパイスか。
(その割に、予定スケジュールを乱され、疲労感が伴うが)

ということで、早く終えてサボりたい一心で、タスク処理に着手します。
(て、食事準備にかかるだけなんだけど。相変わらず大袈裟)