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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

戦も終わってしまえば、夢の中。

2012-02-12 | 思い出

高目を狙うタイプと、確実路線、手堅いタイプがいる。

例えば、受験もそう。
就職もそうかも。
恋人、結婚相手も。

えいやっと、火事場の馬鹿力を武器に、ひとっ跳びでジャンプできる人。
逆に、日ごろの努力が活きず、本番に弱い人。
試合や試験には、この性格が大きく左右する。

度胸や馬鹿力も、能力のひとつ。
(かなしいかな・・・わたしには、ありません・・・)

わたしは、日ごろ、さぼっているのが、そのまま正直に出てしまうタイプ。
なので、馬鹿力は出ない。ごまかしも、きかない。
実力以上のことは出来ない。
実力以下のことも、多い。

年々、年を重ねる毎に、手抜きが、日常になってしまい、実力がどんどん低下し、
手抜き状態が真の実力になっている。
つまり、頑張れない。


わたしの第一希望は、十分、自分の力でやっていけそうな、難易度が低いところ。
第二希望は、さらにそれより低く、第三希望は、もう、なんでもいい。

背伸びができない。
上には伸びることはできないが、横には伸びることができるかも?
(カラダの話では、なくて)


長女は、いつも、高め設定の第一希望がクリアできす、泣く泣く第二希望に落ち着く。
本人は、いつも希望が叶わないことを経験し、なかばあきらめ、さめている。
そして、偶然、どれもこれも、学校も職場もマンモス、大人数のところばかり。

長男は、第一希望は、手を抜いて落ち、第二希望や第三希望は、すっとばし、
絶対確実、というよりは、なにもそこまで確実路線でなくても?という下の線で、落ち着く。

次女は、まったく周りから期待も想像もされない、かけ離れたところに、
ある日、突然、大転身する。

みんなギャンブラーにはなれない、リスキーな賭けに挑戦しない、守りタイプ。
おそらく、世の中には手堅く行く人も多いように思う。


合格した時や入社した時がピークだったら、
自分より優秀な人に囲まれ、これから長い期間、いっぱいいっぱいで、ふふーいって、
いつ緊張の糸が切れるとも限らない。
でも、人間は、楽なほうに流れるので、はじめから楽なほうを選ぶのではなく
まわりの優秀な人たちに刺激され、
仲間と同じ方向を向いて頑張る環境作りは、能力を上げるには大切なことだと思う。

ただ、その集団に入れるか入れないか、属することができるか、できないか、
それは、向上心を持つか、持たないか、本人の能力と努力にかかっている。

ちなみに、わたし本人に関しては、そういった集団とは、まったく何のご縁も、かすりもしないで・・・
評論家、批評家としての資格は、ゼロ。
(だから説得力なく、誰も聞いてくれないので、ブログで熱く力説するのみ・・・)
親の第一希望がわたしの実力とかけ離れていて、
わたしの第一希望が、親の意向に沿わなくて、両者が歩み寄り合意した学校を第一希望にした。
そこは、学力としては難易度が低くて、楽勝)
この話は、つまらない蛇足でした。


義母は、親がもっと子供の進学も就職もバックアップすべきだ、と主張する。
わたしは、義両親とはバックアップの方法が違うと思っている。
マザコン息子を再生するコースは、決して選びたくない。

本人の力を出せるようバックアップはするけれど、
それ以外のバックアップはする気がない。
自分たちの力でするべきだと考えている。

一喜一憂していた頃が懐かしい。
今では、もう夢物語。
すっかり過去のお話。

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過去があって、今があり、そして未来につながる。。。。
だけど、喉もと過ぎると、忘れちゃうんですよね。
思い出すのは、かわいらしい子供の頃ばかり。
親を踏んづけて肥やし(または、反面教師)にして、大人になって成長してくれたら、まあいいか・・・


胸が痛いことばかり

2012-02-11 | 思い出

昨日のブログは、ほとんど詐欺といっていい。

ダスキンモップの交換時間が、家を出る前に迫っていたこともある。
しかも、同じ時間帯に、NHK朝の連ドラの「カーネーション」のヒロイン女優が、
NHKの「あさイチ」に出演していて、めちゃくちゃ見たかったのだが、
ぐぐぐっとこらえて、ダスキン掃除を選んだ。

究極の選択は、2つではなく、3つの中から選ばれたわけだ。
しかも、いちばんキライなこと、義務感にかられて、ダスキンモップを選んだ。
前日にすませておけばいいものを、ダイっきらいな掃除は、ついつい後になる。
モチベーションを高めるために、事前に封筒に、レンタル代金を先に入れて用意はしていたが、
実際の掃除には、やはり好きなことを削ってでしか、出来なかった。

ブログの内容があまりにもヒドイので、事務所で手を加えよう、と思ったが、
また消えてしまっては、こころもダウンしそうなので、放置した。
で、あんな、タイトルだけが重々しい、詐欺まがいのブログになってしまったというわけだ。
ごめんなさい。


あ、話は、変わりますが・・・

うちの息子、あちこち、いろんなエリアにわたり、中学受験した。
試験の結果発表は、遠いA校は、同じ塾で、同じ学校を受けたH君のお母さんに、頼んだ。
結果は、H君は受かって、息子は落ちた。
わたしは軽い気持ちで(いつものように、手抜きで)頼んだのだが、
H君お母さんは、たいへん、気の毒がられて、
しかも、あからさまに、気の毒がるのは失礼だろうと気を使われ、とても申し訳ないことをしてしまった。

言葉もじつに慎重に選ばれていた。
「お聞きしていた受験番号は、見つけることができませんでした」
と。
わたしは、まるで気にしなかったが、彼女のことを考えると、胸が痛い思い出となった。

もう一校、これもはるか遠方のB校。
これは、義母に見に行ってもらった。
同じ学校を受験したM君のお母さんに、
「うちの義母が、発表を見に行くんで、いっしょに見てきてあげましょうか?」
と、これまた、自分で行くわけでもないのに、
お気楽に、まったく深く考えずに、M君のお母さんの労力削減のために、提案した。

こんどは、またこれが、ややこしいとになった。
義母によると、うちの息子が受かっていて、M君が落ちていた、という。
その旨をM君のお母さんに伝えると、A校のわたしの時のような、
気に病むこともなく、あっさりした反応だった。

ところが、なにを思ったのか、M君のお父さんが、夜に、車を飛ばして、はるばるB校に合否を確認に行くと、
なんと、M君は受かっていたらしい。
義母の見マチガイだったようだ。
義母は、何度も、受験番号を、他のその場にいた人に見せて、
「この番号で合ってますよね」と念を押し、確認したという。

でも、他人なんて、自分の子供のことで必死で、
そんなに一生懸命、人の番号なんて確認してくれないに違いない。
そして、年齢とともに、いくら気合を入れても、チェックミスなんて、ありがちなこと。

この件については、わたしも、夫も、M君のご両親も、だれも、義母を責めなかった。
むしろ、義母の善意に甘えて、軽く頼んだわたしに責任がある。(しかも、M君の分まで)
関係者一同、わたしを責めることもなく、わたしは、自分の過ちにもほとんど気付かずにいた。
あれが、もし、M君のお父さんが確認に行かなかったら、M君の人生が大きく変わっていたかも知れない。
(結果的には、M君もうちの息子も、B校には進学しなかった・・・)

善意って、どんなところで、逆の方に向きを変える危険性もはらんでいるのか、予測できない。

登場人物は、全員、善人で、気持ちも、全員、善意。

その後の人生が、うまく行っていれば、笑い話になるが、
そうでない場合は、逆恨みされたりするのかも知れない。

たまたま、わたしが、よそ見しながら渡った綱渡りが、偶然、綱が切れなかっただけで、
一歩間違えると、痛い目に遭っていたことだろう。

わたしのまわりが、たまたま善人しかいなかったから、よかったものの・・・。

 

それにしても、大事な息子の合格発表を人に任せるなんて、その根性が終わっている。

よくよく考えると、自分の学校の合格発表も、いっしょに受けた友人に頼んで、ついでに見てもらい、
わたしは、自宅で、結果待ちをしていた。
運良く、ふたりとも、受かっていたからよかったものの・・・
その頃から、手抜きで、いい加減な人生をひた走りしていたんだなあ・・・と、反省しかり。

いちど、綱から、ずっどーんと頭から谷底に落下しないと、この病気、治らないのかも知れない。

 

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落ちることにも、麻痺しているかも・・・


きらりメモリアル

2011-11-26 | 思い出
どうして、わたしは、パリにこだわったのか。



次は、イタリアやドイツ、スペインあたりがいいのでは?とススメてくれる人もいるけれど、

わたしは、どちらかというと、狭く、深くのタイプ。



自分が生まれ育って、住んでいる町の50キロぐらいまでしか行ったことがなかったわたしが、

いきなり、はじめて海外に行ったのは、イギリスだった。

(○十年前)



島国で、保守的ということで、とりあえず、日本に似てるかなあ・・・というのがチョイスの理由。

ホームステイ3週間に加え、帰りに、パリと、ローマ、ポンペイに寄った。



次は、まるっきり正反対の、新しい国、ということで、アメリカを選んだ。

これは、イギリスから15年経った頃、2週間、メキシコ国境に近い街、サンディエゴに滞在した。



それからかなりの年月が経った。

3度目は、パリ。



その間に、海外には度々、旅行した。

(5年前にもパリには駆け足で訪れている)



パリを選んだ理由は、小さくコンパクトにまとまった街であること。

その中に、濃厚なエッセンスがぎゅっと詰められている。

一人旅を目標に計画を立てていたわたしが選んだのは、一人で歩いて、回れる街であることが条件だった。



方向音痴なので、電車やバスは、乗りたくなかった。

それと、歴史、伝統ある美しい街であることは、周知の事実。

美しいだけじゃなくて、あらゆる分野で、憧れの街。

プラス、英語圏以外がいいかなあと。(英語もろくすっぽできないのに)




わたしの、これまでのホームステイは、まるっきりのお遊び。遊学。

英語力なんて、(もともとヒドイのに)まったく上達せず。

だが、節目節目のメモリアル・イベントとして、わたしの宝物になっている。



今回のパリも、こころの宝石箱の最も大きな宝石となって、光り輝いている。

時間が経てば経つほど、輝きは増すことだろう。


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なによっ、それって、余裕があるだけやんっと、
お思いになる方もあるでしょう・・・
外国の文化に関心があったり、海外旅行をする人は、経済的に余裕がある場合が多いそうだ。
フランスのアンケート結果だったか、なんだかに、そう書いてあった。
わたしのブログをお読みになる方は、・・・
うーーん・・・なんというか・・・
ま、こういう、世の中の動きとはちょっとズレている人も、ひとりぐらいいても、いいのかも・・・
人は人、ですから。

またまたうんざりする、海外旅行ネタで、あらら、墓穴。







月曜日は、元気?

2011-02-14 | 思い出

このトップ画像をご覧になった方は、「またかいな」と、うんざりされたことでしょう。

あえて、内容を読む気にもならない、おなじパターンの写真。
ひょっとすると、おなじ写真を使い回しているのか?という疑惑さえ抱かれそうです。

いえ、生活なんて、人生なんて…おなじことの繰り返しの連続。
日曜のあとには、必ず、おなじように月曜がやってくるのです。


説明するまでもないが、というより、説明する必要もないが、(→だれも興味ない)
木曜日・夜に、河内ワイン1本(赤)、辛口フランス白ワイン半本、
金曜日に、辛口白ワイン半本、河内ワイン(赤)2/3本、
(このほかにも、日本酒、ビール、ハイボール、と、追加あり)
土日は夫は不在で、日曜、夜に帰宅後、河内ワイン(赤)1/3本、
合計、ワインだけでも3本を消費した。

そのうち、わたしが飲んだのは、せいぜい、半本ぐらい?
夫、飲みすぎ。

「酒飲み」という人種、わたしは、身近には結婚するまで縁がなかった。
母方の親戚で、飲む人はいたが、お正月や仏事の時に飲んでいるのを、子供の時に見たぐらいで、
「うわ、酒くさっ。どよ~んとした雰囲気」って思うだけで、
こちらが訪ねて行った先のことだし、直接、影響があるわけじゃなし、どおってことなかった。


わたしの父は、お酒は1滴も飲まなかった。
(お酒が大嫌いだったので、おそらく下戸だったのだろう)
ついでに、タバコも吸わない、ギャンブルも、女遊びもしない、聖人君子。
趣味は、仕事。その超多忙の合間をぬって、
展覧会に出すぐらいの見事な菊作りや、畑での果物作り、
庭作りにも熱情を注ぎ、かなり早朝に起きて、仕事前に水まきをしていた。
写真撮影や、文筆も好んだ。
愛車でドライブもした。
仕事が多忙なので、旅行は、あまり多くは行けなかったようだ。

部屋がホコリっぽくなってきたと感じると、自分で掃除機をかけ、車も自分で洗車し、
結構、マメにやっていた。

美術品愛好家でもあり、また、少しの時間があれば、映画も、観ていた。
財テクにも力を入れていた。

友人はとても少なく、派手なことや、見栄っ張りなことが、大嫌い。
家父長制の考えが隅々まで浸透し、短気で気難しい一面もあり、
わたしは、父がいると怖くて落ち着かなかった。
家を一歩出ると、のびのびした気分になって、自分らしく振る舞えた。

子供の頃、わたしが品のないことを言うと、咎められた。
誉められたことは、なかった。
「なんだ、そんなことも知らないのか」と、よく叱られた。

「だって、学校で習ってないもん」と、いつも、口をとがらせて、わたしは言った。
母にも「あんたは、なんのために学校に行ってるんや」と、怒られた。
その度にわたしは、「教養を身につけるためやん」と、ろくすっぽ勉強しないくせに、反論した。

結婚して、そんな、堅苦しい家から出られて、とても嬉しかった。
しかも、夫は、おおらかな人で、お酒を飲むと、ますます、おおらかになる。
細かいことを、あれこれ言って、怒られる心配もない。
気を使って、びくびくする必要もない。
あーー、よかった!!

と、・・・しばらくは、思った・・・。

 
どっちが、いいか?だ。

怒られる側と、怒る側。

怒られるのはイヤだけど、怒るのもイヤだ。

几帳面で厳しい人に怒られるのと、だらしない大酒飲みを怒るのと、どっちがいい?

夫を父親と比較するのは、あまりにも気の毒なので、あえて、比べない。
夫だって、あの出来た、おかあさま(姑)と、わたしを比較しないんだし。

昔のひとは、すごかった。頑張りのスケールが違う。
時代が違う。育てられ方も違う。だから、比較しても意味がない。

たまたま偶然、父も夫も、とても真面目な働き者で、勤勉だった。
そして、心身ともに健康で、壊れにくい身体を持っていた。

ひとを選ぶときの、着眼点。
特に、人事採用担当者や、結婚相手を選ぶ際には、一番、それは大切なポイントだ。
ついでに、コミュニケーションがとれるかどうか。(言語が通じるかどうか)

ルックスの優先順位は、どんどん下がっていってしまうのは、しかたがないこと。
それは、お互いさまですし。

新聞に、「おやじの背中」という連載記事がある。
あれは、なかなかおもしろい。


あんなに出来た父親なのに、息子(兄)は、正反対に育ってしまったし、
うちの、あの、おおらかすぎる大酒飲みを父親に持つ子供たちは、その割には、かなりまともに育ったし、
うまい具合に(よくない具合に)、メリハリ、強弱つけられて、繋がっていくのものなんだと、感心する。 

 

 

 

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ということで、大酒飲みも、まあ、大目に見ましょうか、今日のところは。
バレンタインデーですしね。
ただし、行き過ぎると、また、打ち捨てたくなるのですが。


むかしばなし

2010-12-01 | 思い出

今日こそやめようと思いつつ、またもや入力体制に入る、わたし。

そもそも、この世界。
20年以上前からチョコマカやっているので、趣味というか、ライフワークのようになってしまっている。

インターネットが普及する前は、パソコン通信といって、一部のマニアックな人々が
地味にゴソゴソやっていた。

主に、コンピューター関係や、機械関係の理系の人々と、
文章関係の文系の人々が、パソコン、またはワープロ(なつかしい響き!!)を通して、つながっていた。


以前、わたしが勤めていた会社の、とある社員T氏が、
なにやら、大それた超・極秘トップシークレットでもあるかのように、こう言ったのを思い出す。

「大きな声では言えませんが、いまに、スゴイことが起きます。
それは、インターネットです。世界中が、つながるんです」

ふーーん、そうなの・・・。へぇ~。
わたしは、ぼんやり、彼の神妙な顔を見ていた。

彼は、眉間にシワを寄せて、いかにも、という面持ちだったが、でも、得意げな顔にも見えた。


その彼は、もともとは、新聞記者だったのだが、
わたしの以前いた会社に入ったものの、
ちょっと毛色が違うためか、左遷されて、まるで畑違いの部署にまわされた。

「こいつは、ビンボーな家庭に育ってなあ・・・」
と、社内の兄貴分の先輩S氏にいつも、からかわれていた。

「オトコは、オシャレに気を使わないとだめです」
と、雑誌などで、情報を取り入れ、熱心に研究していたT氏。
その後、福岡に飛んでしまったけれど、今頃どうしてるだろう?


当時、うちのパソコンは、モノクロで、(価格も、ごくフツーのものなのに、なんと50万円を超えていた)
ややこしい英数字を、長々とパチパチ打ち込んでいかなければならなかった。
いまみたいに、アイコンやら、わかりやすいマーク(?)やらをドラッグするだけなんて、夢のよう。
送信された圧縮ファイルを解凍するやり方を、長々と教わったり、
純正・文系のわたしは、けっこう手こずっていた。

夫は、三日三晩、パソコンの電源をつけっぱなして、夜を徹してゲームに熱中していた。
寝ている時に、わたしが電源を切ろうとすると、怒った。
仕事もあるのに、若かった。

わたしは、はじめて、メールをもらったのが、香港の15歳の男の子だった。
チャットも夜通し、なんてこともザラ。
やっぱり、若かったんだ。


それも、むかし。
いまでは、なつかしい思い出となった。

 

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万年18歳らしいですが。

2010-11-22 | 思い出
ある方のブログを読んで、母のことをあれこれ思い出した。

この世にいる場合と、いない場合。
元気な場合と、病気の場合。
仲がいい場合と、疎遠な場合。
その状況によって、いま、現在のリアルタイムの思いは違ってくるだろう。

過去の姿は、いまが、どんな状況であっても、同じかも知れない。
若いころの母は、どんなにいま、年がいっていても、思い出の中では若いままだ。


母は、わたしが固定観念として描く、母、嫁のタイプとは違っていた。

わたしが小さいころの、頭に焼きついている思い出の数々。
強く、いちばんに思い出すのは、過激な喧嘩シーンばかりだ。


夫婦喧嘩で父の指にガブリと噛みつき、まだまだ炎は燃え上がる一方で、
祖母が周りをうろうろして止めようとしていた。
「もうやめとき」と、おろおろ。
おばあちゃん、かわいそう。
(父は、その後しばらくの間、包帯を巻いていた指が痛々しかった)


仕事が超多忙のため、滅多に顔を合わせられない父と母。
いつも、父を見つけるなり不平不満&文句を機関銃のように浴びせていた。
わたしが、「そんなにいきなり文句ばっかり言わんでも・・・」と言うと、
「なかなか会えないんだから、会える時に、言っとかんと、次はいつ言えるかわからんから」
と、母の論理。
ひょっとして、正論かも。


ドタンバタンと2部屋を転げ回り、マンガみたいに派手に繰り広げられる
取っ組み合いの喧嘩を目撃して、わたしは怯えていた。
姉たちは、けっこう、冷静だったように思う。

熱血夫婦なのかなあ・・・

その割に、けろっと「おとうちゃん、好きやー」
なんて、母は父に言う。
子供たちの目の前で、いちゃいちゃ、でれでれ。

別のシーンでは、
父はしょっちゅう、「おかあちゃん、大キライや。離婚したい」と、こぼす。
それを横で母が「わははは」と大笑いし、
「そんなこと、考えたこともないわ~」
と笑い飛ばす。
これは、いつもの定番シーン。

でも、ある時、父が、冷えたトーストを出され、たまたま虫の居所が悪かったのか
トーストを室内で、野球選手のように遠くに投げた。
わたしはそのとき、ひゅーんとまっすぐに飛ぶトーストを見て、マンガみたい、と思ったかどうか、
それはともかくとして、
ただ客観的にシーンとして、ミニ動画が映像として頭に残っている。

行き倒れのように、意識不明のまま寝る。
これが、ある超・多忙時期の、母の寝方だった。
「人間は1週間ぐらい寝なくても大丈夫」と豪語する母。
実は、本人は1週間ぶっ続けで起きていると思っていても、無意識のまま爆睡して、
睡眠がとれていたのだろう。
ガス欠になり、動かなくなって止まったときが、睡眠の時だったようだ。


時代のせいといえば、それまでだが。
とにかく父と母は、よく働いた。
いまは、そういう激務は誰もやりたがらないので、社会問題にもなっている。


学友の家に行くと、三食昼寝つきの専業主婦のおかあさんが、実にだらしなく怠け者に見えた。
そのおかあさん達は、家事を終え、休憩タイムだったのかも知れないが、
いつも、だらけた雰囲気がしていた。
子供の目は鋭いから、例え、子供と言えど侮らないほうがいい。
何十年たっても、(きっと一生)、子供の学友に、その姿を鮮明に覚えられていたりする。
いつもは、だらけていても、子供の友達が来た時は、取りつくろうぐらいが、無難だ。


父(享年78歳)を亡くしたあと、母は、ぽつりと言った。
「こんなにおとうちゃんに支えられていたなんて、いままで気付かんかった」

なに言ってん?
わたしは、冷静な気持ちで思ってしまった。
いまごろ、なに言ってん?
自分ひとりの力だと思ってたん?

万年18歳を自称する母。
そこで、母の年は止まっているそうな。
父と結婚した年齢だ。
80を超えているのに、
「おかあちゃん、このごろ、顔にシワが出てきてなあ・・・。なんでやろ、年なんかなあ」
と言う。

なんなんだ? このひとは?

力は100万馬力。いまでも、いまの私よりずっと力はあるし、働き者。
いくつになっても、母には負ける。

最近、掃除やら作業、力仕事をすると、
ちょっと、人並みに老化の波が押し寄せている様子だが、
さすがに本人は18歳のまま、とは言わないようだ。



今日も実家で会合があり、母と会うのだが、
フルーツ・アラカルトやら、なんやらかんやら用意して、待ってくれている。

「あんたのその服、また変わった服やなぁ。
そんなんが、流行ってるん? いったい、どこが、いいん?」
なんて、また、どんな文句を言われるんだろう。


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