goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

一人称

2022-01-20 | 思い出
閲覧数の神様は、何ごともなかったかのように以前のままの佇まい(閲覧数)。
むしろ下降。
もうどうでもよい。

さて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い話。
書いてどうなるものでもないが、書きたい時に書くのがわたし。

小姑は実家に来た時、自分のことを「○○」と名前を呼び捨てにする。
例えば、ルミ子だったら、「ルミ子、そう思う」「ルミ子の分も欲しい」という具合。
わたしは、あの一人称の呼び方が癇に障ってしかたなかった。
(「ルミちゃんねえ」「ルミたんが、ね)よりは、マシか)
誰も教えもしないのに、うちの3番目孫は3歳で自分のことを「わたし」と言うようになった。
ついでに、話は逸れる。
孫たちは親のことをパパママと呼ぶのだが、それは世間体を考えて。
ほんとうは、「おとうちん」「おかあちん」なのだが、皆んなと呼び方が違うのが恥ずかしいようで、親は決してお互いパパママと呼び合っていないのに、孫たちは世間の風に負けたようだ。
あっさり迎合している。
わたしは、おとうちん、おかあちんという呼び方が大好きなので、いまだにひとり、娘夫婦のことをおとうちん、おかあちんと呼んでいる。
家の中に世間の風は入って来ないから気楽。

それは脱線話であり、本筋に戻す。
孫が社会人にもなろうというのに、「ルミ子ねえ」は、なかろうとわたしは思う。
さすがに最近は言ってないかと思うが、30歳〜40歳の頃はそう呼んでいた。
ついでに、小姑は母親のことを「ママ」と呼んでいた。
ひ孫が出来ようが、これは今でもだろう。
各人、好きに呼べばよいと思う。
が、育成背景、環境を知っているわたしには、また違う響きを持つ。

国が違うと呼び名も違う。
だから、末端現象だけ捉えると、何の問題もない。
たんに、わたしが背景や方針が嫌いなだけだろう。
なぜこんなに、何十年経ってもブログにツラツラ書き連ねるほど嫌いなんだろう。
まあ、いろいろある。
過去の思いは、醸成され、違う質に変化している。
「美化」は、その反対語。
「思い込み」、あげくのはてには話を盛って無自覚捏造?

小姑自体はとても良い人、好人物。
意地悪されたわけでもなんでもなく、むしろ気遣いしていただく。
小姑自身を憎むことは全くない。
わたしに恨まれる筋合いは全然ない。
では何を?
おそらく、その背景、現象だろう。
誰も悪くない。
組織の力、全体責任、必要悪、愚衆、、のように、ピンポイントで人物を特定できない。
登場人物は皆、良い人。
時代の価値観やうねり、流れで、光の当たり方は変わる。
それだけのこと。

わたしはそれに気付いているが、小姑は気づいていない。
気付くのが良いかというと、決してそんなことはない。
気付かない方が、幸せなことは多い。
気付いたからといって、不貞腐れているだけで何もしないなら、気付かず明るく前向きに行くほうが、ずっとずっと楽しい。
気付いた側から気付かない側に何やら言ったところで、人の幸せを邪魔するようなことは、すべきではない。
対岸の火事、出来事。
「あなたのためだから」と一時CMで流行ったことがある。
全然、あなたのためでないことを皮肉る時によく使われたフレーズだ。
押し付けがましい主張の正当化。

気付いたり、憎んだりしても建設的でないなら、無意味だ。
改善に向けて努力、実践するならいざ知らず。
あ、そう、と軽く、人の人生には立ち入らないことが賢明かと思う。
自分には自分の人生。
人には人の人生。
お互いに楽しく時を重ねていけたらよい。

悪口を書いてスッキリする予定が、モヤモヤするだけになった。
他人を悪人にして、他人のせいにできると、モヤモヤしないのだが。
自分軸というものは、自分で落とし前をつけなければいけないので、厄介だ。

現実とお花畑

2021-12-24 | 思い出
最近、あまり夢を見ない。
若い頃は、子供時代の夢をよく見ていたように思う。
まだ自分も幼かった頃(推定)、印象に残る夢は、
田舎の実家の庭、子供部屋がある場所の屋外周辺。
窓の下近くで水のせせらぎ、、、(生物の自然現象、排尿)
気持ち良い瞬間に目が覚めると、夢時間と同時進行で、おねしょ。
そういう夢を見ている夢。何回も。
まだ未だに、おねしよ? 
さすがに、今の年齢ではそれはないのだが、将来はあり得る。
いや、時計を逆に回した、幼い頃の逆の時間に近づいてきているのか。
笑えない、、、この夢の話。

しかし、子供部屋があった、田舎の実家の様子は手にとるように瞼に浮かぶ。
子供部屋はリフォームしてから、我々3人きょうだいの部屋を新たに増築?改築?された。
最低一度は、蝶ブログにも書いている。
兄は、小窓がある面に勉強机。(窓の向こうは庭、小さい小さい人工ため池、その向こうには祖父が伏していた部屋があった)
勉強机が置かれた壁の続きにピアノ。
その面の壁は終わり、新しい直角に続く面になり、一面窓。(窓の向こうは庭を挟み、鶏小屋)
またその面が終わり、直角の面(ピアノが背面)、上半分窓。(窓の向こうは、自家栽培畑を見下ろす)
その続いた2辺の上半分窓の下あたりに造り付けの勉強用にカウンターのようなものが設てあった。
一面は、姉、一面はわたし。
カウンターは直角に続けて作られていた。
兄の机の背後に当たる面には、2人掛けソファが真っ白いカバーをかけられ置かれていた。
部屋の続きにはトイレ。
トイレのその続きには和室の縁側の一面に続く。(縁側の前は大正時代の庭=せんだい)。
兄の机がある方には、別の和室や2階への階段上り口に接していた。
その和室は納戸と呼ばれる部屋で、祖母の和ダンスや、階段下にはわたしの人形などオモチャを入れていた。
納戸ではあるが、天井近くから床まである掃き出し窓があった。
ガラス扉を開けて下に降りると、左に子供部屋、右手に少し行くと、小さい小さい人工ため池に進む。
その部屋は現在の仏間になる。

私が中学生頃(半世紀前)に大規模リフォームをして、子供部屋はなくなった。
子供部屋は代わりに何に姿を変えたのだろう?
たぶん中庭の一部になった?

祖父が晩年伏していた部屋は今もそのままで、男女別トイレは、バストイレに改装された。
さらに次のリフォームで、再度浴室は趣向を凝らしたものから明るい機能的なものへと変わった。
台所は、2度リフォームされたが、昔の釜戸、へっついさんなど、薪部屋、味噌部屋、その他は大正時代のまま。
建築当時、地元の学校に赴任してきた新任先生が住む小さな家も別に敷地内に独立して建てられていたが、わたしが知っている頃には二間?あった和室の畳をあげて、収穫したジャガイモを一面に並べてあった。
ジャガイモを取りに行くのは、畑の時もあるし、その家に取りに行くこともある。
その家に住んでいた若いN先生(会ったことがある)が後に結婚して、美しいウエディングドレスの結婚写真を見せてもらったことがある。
美人で溌溂としたキビキビ、スタイリッシュな先生だった。

わたしは家屋の歴史、移り変わりと同時並行して時代を進んできた。
大正時代に建てられた家に、生まれ育ち、やがて家も庭も変遷してその時間の推移と共に大きくなった。
家はリフォームやメンテナンスを重ね、風格を増していった。
だが、巨大化したマツシタPanasonic、中内さんのダイエーのように、維持することが、時代の流れに追いついていかなくなった。
コンパクトなものならエコ時代にマッチする。
が、生活費の比ではない維持費が必要となると、次世代には荷が重く、背負いきれない。

最初は静かなスタート、低空飛行で滑り出し、やがて一気に上昇し上空へ。
空を見上げたり、空から見たり、見下ろしたり。
これは田舎の実家家屋の推移と共に、わたしが学生時代を過ごした父の仕事場地域へと軸足を移し、変わりながら時間は流れた光景。
田舎実家と、市街地仕事場地域は、同時並行し、徐々に重心をスライドしている。
と同じ時期、戦後の高度成長期とも重なり、日本は大きく成長した。
が、、、成長の後に来るものは停滞、衰退。これは世の常。無常。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

美しい物を目の前で手に取り、見て、愛でて、心洗われる空間で過ごせた経験は、決して無駄ではない。
たとえ、消滅しても、こころの中には、はっきり肌感覚で生きている。
自分の手を離れても、美術館や旅先、街中で目に入ったり、その空間に佇む時間は至福のものとなる。
自分にとって最高のもの(自分比)を経験することは、幸せなことだ。
それを感じるのが実際のリアルではなくても、映像や音響であったとしても、自分の中に培われたものは一生ものである。
わたしの幸せのこころの素のところまで、導き誘引してくれる。
(家自体はまだ実在しているが、いずれは消滅するだろう)

これ以上のものを築きあげようという意気込みはない。
今まで体験や脳内でインプットしてきた材料を自分なりの、オリジナルな感性で作り直す、組み立てるのが、今後の楽しみである。
自分のこころの中は、とてつもなく深く広いので、まだまだどう変化させることも出来る。
暖かく、気持ちの良いもので満たしていきたい。


と、ここで予約タイムセットしてあるラジオが鳴り出した。
が、、、ジージーガーガーガー、、、雑音のみ。
あ、またもや孫の誰かがダイヤルをぐるぐる回したようだ。
おそらく、2番目孫(小学1年)だろう。
昨日、上2人小学生男児チームが来たから、(あとから保育所女児チームが来たが)、
その時にイタズラしたのだろう。
もう〜、まったく、、、!!
今日も早くから来て昼食から始まり、うちは(自分の孫のみ)学童保育場となる。
それにしても、キャーキャー走り回る4人に、うちは学童のみならず、ミニ託児所かと。
フローリング床も、べこっと凹んだ傷があちこちに付いているのを発見した。
お気に入りの木製、趣きある椅子も不具合が見つかった。
絶対、犯人は孫!!
ラジオは、なかなかお気に入りのいつものFM曲にチューニングできずに、嫌いな歌手(椎名林檎)の曲が延々流れ続けてイライラ。

せっかく夢のような気分でうっとりブログ遊びをしていたのに、現実に引き戻された。
この現実と夢を行ったり来たりの、脳内架け橋が、自分の蝶ブログである。

脳内遊びにお付き合い、お読みいただき、ありがとうございます。

さてさて、男児ギャング来襲時間を前に、準備までのあと少しの時間、1人遊びに耽ろう。
あ、もう残り時間がない!

※写真は孫の家の宿題。
10.506kg=?gが、どうしても不正解。








田舎生まれ、田舎&街育ち

2021-11-19 | 思い出
今日は、今まで何度も書いていることをまた書く。
何度も同じお店に入って同じ品を注文するように。
書くことで、自分の癒しになる。
が、同じ内容の記事が並ぶだろうけれど、投稿日が違うから、違うもの扱いということにしよう。


わたしが生まれ育った故郷。田舎。
江戸時代となんら変わらない田園原風景。
秋の米収穫が済むと田んぼには刈り取られた稲の束を斜めに交差させて立てかけたものが、稲の切り口も新しく点在する田んぼのあちこちに見られる。
その田んぼで遊んだり、どこからか草が燃える匂いがしたり、、、。

明治中頃生まれの祖母。
ジャガイモ、茄子、きゅうり、トマト?、玉ねぎ、ネギ、ほうれん草、ニンジン?、野苺、いちじく、グミ、、、などなどは、家の畑(家庭菜園)から採って食卓へ。
味噌は一から手作りで、大豆を茹でて、ずっしり重い鉄製の器具(手動ミンチみじん切り器)に入れて、横付けされたハンドルをぐるぐる回して荒いペースト状にする。
味噌を専用に入れて貯蔵する味噌部屋がある。
梅干しも外のムシロに何枚も広げて干す。
山の木々の小枝を切り集めた束の山が置いてある部屋があり、お風呂は、焚き木で焚べる。
家族が入って追い焚きが必要になれば、焚き木で祖母がお湯の温度を上げてくれる。
お米は釜戸炊き。
煮炊きものもへっついさん?に焚き火。
お餅は釜戸で炊いた餅米の入った米を杵と臼で、杵を振るう男性と、臼の中の米に水を回す手(祖母)、阿吽の呼吸で交互にペッタンこったん、つきあがると皆で熱々を手で丸める。
(その時に大根おろしでそのまま食べる人もいた)
猫と呼ばれる猫みたいな塊の形の、豆などの具入りお餅もあり、大きな餅専用の餅切り器でスライスする。

夏には井戸にはスイカを入れて冷やす。
洗濯は洗濯板でゴシゴシ。 
冷蔵庫がわりに、水屋?というのか、風通しの良い食器棚があった。
お風呂以外は、台所や味噌部屋など、今も全てまだその家に温存されたままである。
今、わたしが自宅で使っているガラスのサラダ大器のもう一対ペアが、その旧台所の食器棚にある。

先日、仏壇の引っ越しとともに、西洋スタイルの食器飾り棚や茶器も一緒に運び出したらしい。
さすがに誰も住まなくなって40年以上経つと、例え通いで管理していても、僻地にある家の仏壇の保持は困難になる。
この度、仏壇は場所を移すことになった。
家屋の中心から心臓部が外され、魂が抜けたわけだ。
引っ越し先である新しい家にはわたしはまだ行ったことがないのだが、わざわざ田舎まで行かなくても地理的にはものすごく至便になった。
新しい家といっても、わたしが生まれた時からある父の仕事場で、何度かの変遷後、この度、グランドリニューアルオープンといったところか。
銀行や企業の本店、支店が統廃合が行われるように、わたしの実家も統廃合が進んでいる。

わたしは幼い頃から、田園風景・大正時代築の家から、父の仕事場の家の間を通学していた。
(今時の幼稚園児なら字ぐらい読めるだろうが)
自分の乗るバスを見極めるため、わたしは、じーーーっと穴が開くほど、バスのフロントガラス上の行き先が書いてある文字を見つめていた。
が、行き先は漢字が2文字で3文字ではないのは、だいたいわかっていたが、2文字の漢字に当たると悩んだ。
たぶんその中には「回送」と書かれたものもあっただろう。
かわいそうな、わたし。識字じゃないってツライ。
行き先文字部には穴は開かなかったが、何度間違っても、痛い目に遭った切迫感が後押しもせず、あまり漢字も覚えなかったように思う。
苦痛と感じていない、全然気にしない、明るい幼稚園児だったのだろう。
その頃から精神的にタフ・キャラか。

正しいバスに乗っても、自分が降りる停留所近くになると、地元の子供達が学校下校時にはバスにどかどか乗り込んでくる。
それが嫌だった。
違う学校に通う大勢の地元の子供達。
明らかにアウェイ感。
明らかに、違和感。
別のものを奇異な目で見られ、態度、言動でも示された。

黒塗りの専用車で送り迎えしてくるなら素晴らしいが、庶民なので同じバス。
下手すると、無言で迫害?いじめられている?
アパルトヘイト時の黒人白人別々に乗るバスだとすると、自分は黄色人種?
とまあ、デフォルメ脚色して小説にでもする気ならその路線もないでもないが、田舎を行き交うオンボロバスの、のどかな風景の一つである。
たいして変わらないなのに、逆・自意識過剰。
だが、まだ子供だから世の中の仕組みもよくわからなかった。

田舎ではアウェイ、通学先学校でもアウェイ。
逆に考えると、田舎では都市を知り、都市では田舎を知っている、文化バイリンガル。
というふうに、表裏一体、一長一短でも、自分が好きなほうを、良いように、長所をピックアップしたほうが人生楽しい。


お金

2021-09-28 | 思い出
秋。
良い季節だ。
と、なんのヒネリもなく書き始める。

夫の実家リフォームもひと段落したものの、まだ修繕部門が残っている。
が、第二弾、支払いも完了し、一区切りした後は、いたって財布のヒモが硬くなった。
全然緩まない。
しばらくはこのままで行く。
預金、大幅目減り金欠病との闘い。
畳みかけるように次の修繕ステップを促すリフォーム会社の担当者が、恨めしくさえ思えてくる。
あんなに楽しみをいっぱい詰め込んで運んでくれる人だったのに、まるで借金取りみたいな重さを感じる。
次の修繕段階の見積もりはもらったが、契約はまだしていないから、ね。
あまり詰め寄って来ないで欲しい。
好きなものも嫌いになってしまう。
何ごともタイミングは難しい。
お客さんの背中を押すのも、押しすぎると負担を感じる。
ほんと、これは何ごとにも言えるセオリーだ。

と、一方で、わたしの実家が動き出した。
来月初旬に引っ越し。
あっちもこっちも忙しい。
さらに、次女もやっとこさお引っ越し。
彼女は実家(わたしの自宅)を出る。
秋は引っ越しのシーズンなのか。
入れ替え取っ替え引っ替え、世代替わりが行われる。
わたしも歳を取るのは当たり前だ。
孫もあれよあれよと5人。
まだまだ毎日、孫たちには振り回されている。
静かな日常を迎えられるのは、きっと、わたしが老ぼれて使い物にならなくなった時だろう。


ちなみに、わたしがいつも利用する、遠方の電車の駅で高校生?の集団が乗り降りする。
男子高校生(または中学生)たちがワイワイしゃべっている。

A君「明日、○○(友達)は△△へ。□□は、××へ。明後日は、△△は、××に行くらしい。
おまえは?」
B君「ばあちゃんちに行く」
A君「明後日は?」
B君「ばあちゃんち」
A君「おまえ、ばあちゃんに金もらいに行ってるんか」
B君「うーん、、、違うけど、、、」
A君「金やろ、金しかない」
B君「・・・・・(肯定はしてないけど、強く否定もしてない??)」

この会話を聞いて、なんだか嫌になった。
今は幼い孫たちも、やがてこんな風になるのかなあと。

かつて蝶ブログにも書いた記憶があるが、30年ぐらい前、子供たちが小学校低学年だった頃、舅、姑と、我々一家で恒例のお食事会(外食)をした。
ある日、皆んなでディナーを共にしたレストランで、姑が何かの記念日に孫にと、お祝いを手渡してくれた。
(もちろん、剥き出しのお金などではなく、金封)
それを見た、隣の席の老夫婦の奥さんが、露骨に嫌な顔をした。
しかも、「ああ嫌だわ。お金を渡すなんて、、、」みたいなことを口に出した。
わたしは、結構驚いた。
その老婦人のリアクションに。
そして、なんて、気の毒な人なんだろう、と。
この人にはそういう発想しか出来ないのだなあと。

と同時に、感想は自由だが、マイナスの感情を我々を目の前にして何も口に出さなくてもいいとも思った。
ちゃんとしたフレンチレストランだったのに。
初老の婦人も我々の行動が嫌だったのかも知れないが、わたしはもっと嫌だった。
というか、嫌というよりも、そういう感想を抱く人が、レストランに夫婦で来ていることに驚いた。
今、レストランにご夫婦で来るということは、生活を楽しんでおられると想像するが、よほど嫌な思い出でもあるのだろうか。
ずいぶん、ひね曲がったものだ。
あの婦人に不快感を与えるような迷惑な行動を取ったかというと、思い当たる節はなく、インネンをつけられているかんじであり、そうせざるを得ないあの人の状況や深層心理はおそらく不幸なものなのだろう。

と、まあそれはそれとして。
30年経ってもわたしの記憶にしっかりと残るご婦人であった。
こんなことで、残像として他人の脳裏に残るなんて、、、。
秋の日に、この嫌な思い出が、またまたぶりかえしてしまった。


お世話するから飼いたい!

2021-09-22 | 思い出
我が家の庭に咲く曼珠沙華2輪。
これはウチで生きていた小さな魂が花に姿を変えて、現れたと、わたしは思っている。
埋めた木の下に咲く2輪。

1輪は、長女が小学生の頃、仲良しだった同級生の〇〇ちゃんが引っ越し、転校する頃。
転校するまでに、〇〇ちゃんにぜひ、見てもらいたい、見せたいから、と、長女にセキセイインコを買ってくれとせがまれた。
生き物の世話は大変だからと、わたしは躊躇していたが、世話はちゃんとするから、どうしても、と言う。
根負けしてセキセイインコを買い、どうにか〇〇ちゃんが引っ越すまでに彼女に見せることは出来た。
水と餌を毎日やるのだが、餌をチェックするとまだ餌入れには入っていたため、補充されていて大丈夫かな、と、そのままにしていると、ある日、セキセイインコは動かない姿になった。
餌は、餌がまだあるように見えていたが殻だけが残り、実際には中身は食べてしまっていたことに気がつかなかった。
長女は多少はしょんぼりしたように思うが、〇〇ちゃんに見せてからは、興味は明らかにダウンしていたことは確かだ。
仕方なくわたしがセキセイインコを紅葉の木の下に埋めた。
ある日、同じ場所に白い百合が咲いたこともある。

また別の年には、金魚とかも埋めたような、、、。
うちには生き物は飼う資格がない。
ほとんど飼ったことはないが、ごく稀に飼うとすると、あまり情熱もなく勢いと流れで飼っているように思う。
白百合や曼珠沙華になって、小さい生き物ながら、訴えているのかなあ、、、と。
たとえ小さくても少しでもご縁のあった生き物、生きている間にもっと手をかけ大切に育てるべきだったのか。
安らかに眠ってね。

しかし、これ、人間にも大いに言える。
何げなく暮らしているが、愛情を込めて丁寧に一日一日を過ごすことが、幸せなんだよ、と、静かにひっそり咲く曼珠沙華が語っているように思う。

暑い夏の思い出

2021-08-05 | 思い出
わたしはエコ主義。
余計なエネルギーは極力使いたくない。
最小のエネルギーで、目標に近づけるよう、手抜きに関しては最大の努力をする。

お金で時間や労力、技術を買うこともあるが、生まれつきドケチ。
よほどのことがないとお金を使わない。
自己擁護すると、倹約家、節約家なのである。

ちなみに、わたしは、田舎育ちなので自然派でもある。
が、虫は苦手、大嫌い。
最近、1番の幸せを感じる瞬間は、猛暑なのに一瞬、自然の風が吹き、風を肌に感じる時。
わあ〜と、理屈抜きで感激する。

わたしが幼い頃、過ごした田舎では祖母が季節毎に、暑さ寒さを凌ぐ工夫をしていた。
夏には打ち水、御簾、風の通り道に、涼しげな色柄の、のれん、、、。
(母は、夏の建具、調度品に交換)
子供の頃は祖母が我々きょうだい(孫)の世話をしてくれた。
井戸水をスイカと共に汲み上げる。
冷えたスイカだ!!
子供ごころに、わくわく。
土間の食堂でガブリかぶりつく。
夏野菜、キュウリ、茄子、トマトを畑から採ってきて食べさせてくれた。
が、子供のわたしは、またぁ〜と、げんなり。
とは言うものの、季節ごとの野菜を食べさせてもらったのが、今の健康な身体の基本を作っていると感じる。
ただし、野菜ばかりでうんざりしたけれど。
だが、そのなかで、祖母の作るコロッケは大好物だった。
それと茄子の素揚げも。
おばあちゃん、ありがとう。

明治25年生まれの小柄で無口な祖母だった。
大人しいが忍耐強く、芯は強い、明治の女性。
(嫁である母とは真逆。
強いところは同じだが)
88歳まで一人で田舎の家を守っていた。
祖母は「88歳になるまでは一人で頑張る」と言っていたが、その信念は貫いた。

わたしに長女が生まれてから7ヶ月後に、この世を去った。
小さいけれど、頑張り屋さんだった。



お笑い少女

2021-01-14 | 思い出
わたしは小学中学時代は、お笑い系女子だった。
お笑いが好き、というのもさることながら、ただ観る側だけではなく、演じる側でもあった。
小学校の学期末にクラスで行われるお楽しみ会では、モノマネをやっていた。
身近な人物の形態模写。
あれは、マネされる方は傷ついたかも知れない。
当時は全くそんなところに気が回らなかった。
傷ついたかも知れないと推測する根拠としては、わたしがターゲットにした彼はいまだかつて、一度も同窓会に姿を現したことがない。
限りなく音信不通の最たる人物。
わたしのせい、、、?ではないと思うが、、、。

モノマネはふとしたことでクラスでやったらウケて、リクエストに応じて再演(大げさ)した流れになる。
中学になると、モノマネ対象は、同級生だけではなく国語の先生などにも及んだ。

だいたいのクラスメートは、わたしのことを「面白い人」と言っていた。
何か話すと、よくゲラゲラ笑われたりした。
それはそれで悪くないのだが、高校に入ってお笑いは封印した。
なぜか?

恥ずかしいからだ。
乙女の恥じらいが、遅くにやって来た。

急に恥ずかしくなった。
今まで海外を飛び回っていた人が、急に飛行機が怖くなるかのように。
笑われる自分が嫌になった。

で、おとなしくなった。
無口。
何も喋らない。
周りの生徒のカラーとも合わなかったせいもある。
それまでは、独特の鼻に付く雰囲気の出身中学校が好きだった。
先輩、後輩も個性派揃い、魅力的でユニークな人が多くいた。
だが、高校は、皆さん、とても真面目でおとなしく、品行方正な生徒が多かった。
地元の公立高校だったせいもあり、特徴としては地に足ついた質実剛健風かも知れない。
叔母も同高校出身で、同じ社会科の先生に教えてもらっていた。

わたしは、合わないのだ。
普通の真面目な生徒、校風、、、。
面白みを感じなかった。
それなりに進学校でもあったが。
型破りやトンがったものがなかった。
きれいな河原の石のよう。

トンがった生徒は、越境して他校に行ったり、私学に行って、抜けてしまった。
数年下の学年には、現在、経済産業界では知らない人はいないだろうと思われる有名な人もいたようだが。
3学年以上、下のため、在籍中には顔を見たこともなかった。

中には大器晩成型の生徒がいた。
中学では異端児、高校では埋没、、、であったが、勉学に励み、国内外で経験を積み、眼を見張る躍進を遂げていた。
彼はわたしとは、親や親戚の仕事の関係で、ある地元食品ブランドで繋がりがあり、その話で盛り上がる。
彼は、もう一人、沖縄に嫁いだ女子とも、別の地元食品ブランドの話で盛り上がる。
我々は地元食品ブランド仲間である。
彼は流通側、沖縄女子とわたしは、生産メーカー側といったところか。
と、わかりにくい書き方をした。
(すみません。ワザとです)

彼は社会人になってからは、わたしが思い描く理想的な活躍をしていた。
立派だ。
が、中学の時は受け入れられていたかどうかというと、、、
半々か。
高校ではどうだったか?
わたしは、あまり覚えていないのだ、、、。
進学大学からみると、ちゃんと勉強していたようだが。
(なんでこんなに上から目線なのだろう、、、わたし)

て、お笑い系から無口系に転じたわたしではあるが、高校時代は完全に自分を塗り潰したようなかんじか。
黒歴史というほどでもないが。
お笑いやっていた自分が、なんだか懐かしくもあり、そんな過去はなかったような気もする。
今は単なるおばあさん。
まあ、いいんじゃない?と思ったりしている。

オチが無い話になってしまった、、、。
いつまでも、だらだら終わらない。

地味な道

2020-08-21 | 思い出
今朝、地区指定日のゴミ出しをした後、汗をかき、タオルで顔を拭いた時、顔が痒かった。
何かにかぶれたのかな、と、ふと鏡を見た。
痒い部分は少し赤くなっている。
触ると益々痒くなるので気になるものの、我慢した。
と、それはまあいい。
マジマジと顔を見た。
うーーー、、、ん、、、

絶句、、、

シミだらけ。
もし、わたしが女優なら有り得ない。
なんと醜い顔か。
こんなに素顔が汚いとは。

しかし、女性はメークで化けることができる。
ましてや、今は、マスク。
ほとんど顔がわからない。
わたしのようなシミや斑点だらけの顔の男性を身近に知っている。
男性は通常、お化粧しないので、そのまま現れる。
悲惨に見えるか?
わたしはその人を見ると、よく見るとシミはあるが、あまり気にはならない。
俳優ではないので。
誠実で柔和な良いお人柄が滲み出ている。

ただ、最近、その人は体調不良で入院したりしている。
顔色は良くない。
元気もない。

わたしの顔。
シミやら斑点やらは賑やかだが、血色は良い。
張りもある。
シワは歳相応にあるが、お化粧をしなかった中高生の頃も、こんな顔だったような、、、。
美的面では最低だが、健康面では最上。
まあいいかーー、、、と、なる。
見かけにも色々。
コンセプト、斬り方によって評価は全く違ってくる。

まだ子供が小さかった若い頃、夫の転勤で東日本に住んでいた。
証券会社の営業マンが、飛び込み営業で当時住んでいた家をアポなし訪問してきた。
今なら絶対に、玄関チャイムが鳴っても宅配便や郵便配達以外は、応答しない。
その頃はまだ30歳手前?
はーい、と、ドアを開けていた。

今思えばオレオレ詐欺まがいの強硬なやり方で、言われるままに、はいはいと定期預金をさせられたりしていた。
しかし、わたし自身には被害者意識ゼロだった。
当時の社会はバブル真っ只中、右肩上がりの経済の影響を受けていたのかも知れない。

飛び込み営業マンは、新卒新入社員で飛び込み営業は、初めての経験だったらしい。
いくらかの金融商品を買ったのだが、その後、彼は別支店(西日本)に転勤になった。
それがまた奇遇にも、わたしの実家の隣の隣。
実家に帰ったついでに、手続きでその支店に寄って彼と再会した。

その時、彼はえらく驚いた。
「まったく印象、見た目が違いますね。こんな方だったとは、、、」
子育て中の地味な女性は、意外に別の顔から発するオーラを持っていたことに、若い彼はびっくりしていた。
見かけだけなのだが、人は見かけで変わる。
見かけや住まいや環境に、先入観を持つ。

あれこれ想像力や創造力を駆使すると、いろんな展開があり得るが、実際にはわたしは地味な地道な平凡な生活を送った。

わたしって、結構、真面目なんだなあ、、、と振り返って思う。
目立たない地味が好き。
目立つと、小説や映画のようなストーリーになることもあり得る。
読者や観客として観るのは好きだが、自分が演じるのは好きではない。
そして、この、自分の地味な道、とても気に入っている。

中学生だった、わたし

2020-07-26 | 思い出
今回はタイトルから先に来た。
あるブログのタイトルを見た瞬間に、「ソレ!」と、お題を頂いた。

現在はおじさんになっている、元中学生だったそのブロガーさんの懺悔記事を読んだ。
それ、それ、そのまんまです。
わたしは中学の時に感受性の強いナイーブなこころを悪たれ男子に傷つけられた。

当時の悪たれ男子、Y君が、前回の同窓会で謝ってきた。
「ごめんな、傷つくってわかっていながら、止められへんかったんや」

なんや、この子、自覚があったのか!?
そのほうが、驚きだった。
確かにわたしのこころは、ズタズタ。
でもティーンエイジャーはあんなかんじ。
大人への発展途上の子供は残酷。

もっと小さい頃。
わたしが小学校低学年ぐらいの時、その場所を通らないと家に帰れない避けられない道で、悪ガキに生きたカエルを投げつけられそうになって、死ぬほど怖かった。
この世の地獄。
まあ、一回限りだからよかったが。
悪ガキは本当に悪ガキである。
小さな(かわいい)女の子にカエルを投げるなんて。
しかも、結構、大きかったような気がする。ガマガエル系。
ああ、田舎の子供は野蛮、、、。

しかし、それはまだマシ。
家族旅行でグァムだったかに行った時、テニスをした。
テニスコート一面に大きなカエルがいっぱいいて、踏みそうになった。
カエルを避けながらのボールを追いかけるテニスプレーはなかなか難しかった。
カエルは嫌いだ。

踏まないように細心の注意を払う、、、一歩一歩、足元に。
そう言えばパリも2011年に行った時は、街中が犬のトイレと化していた。
衛生的にどうなの?
花の憧れのパリ!!お洒落な街なのに、目をキラキラさせて前を向いて歩いていたら、えらいことになる。
そういう衛生観念文化なのかなあと不思議な気がした。
しっかり下を見て歩かないと、ベチャっと踏んづけてしまう。
だが、注意を怠るほうが悪い。
自己責任。
2013年に行った時は、それらは、なかったように思う。
2011年から2013年の間のいつかに、厳しい法令でも出来たのだろうか。
(記憶違いかも?)

と、相変わらず、話は逸れに逸れている。
話を戻す。

中学の時だけでなく、幼稚園と、小学校高学年は、クラスメイトの悪ガキに悩まされた。
じっと我慢して、卒業する日をひたすら待った。
わたしは当時から忍耐強かったようだ。

中学はさほど我慢を強いられたわけではない。
嫌な悪ガキもいたが、面白い子もユニークな子も、存在感ある子も、大人みたいな子もいたので、まあ良しとしようというところか。
わたしたちは、悪ガキ軍団に対抗して、悪女子軍団を作った。
クラスには二つの軍団。
だが、作った当初は対抗していたかも知れないが、男子軍団と女子軍団は、敵対していなかった。
男子軍団の敵は男子、女子軍団の敵は女子。
男子軍団の味方も男子、女子軍団の味方も女子。
たんなる二大派閥だっただけか。
勢力はクラス内に留まらず、他のクラスへも、学年全体へも影響力を持った。

この二大派閥は、体も大きく成績もさほど悪くなく、運動もそこそこ出来て、活発なメンバーたちがグループの構成員。
先生も一目置くような、力のある子たちが集まっていた。
このグループに属していないと不利益を被るだとか、いじめを受けるとか、そういうことはない。
明るい二大勢力だった。

もちろん、わたしも入っていた。
どちらかと言うと、先鋭隊を動かすほうで、自分は動かない。
まあ、中学生のかわいいお遊びであり、陰湿ではなかった。

にもかかわらず、Y君には思春期の乙女心を踏みにじられた。
一生、忘れない、、、たぶん。

男子は自分はどうってこと思わなくても、女子は傷つくのだ。
代償として、Y君には一生、反省していただく。

とかなんとか言っても、中学時代が一番、成長期で刺激的で、多感な年頃で、激変時期、色々あった。
中学時代って真剣勝負で全力でぶつかった時期だった。
懐かしいというよりは、今とは何か切り離された時代のような気がする。
だが、あの時代が原点なのかも知れない。



フラッシュバック

2020-07-22 | 思い出
今日は、自分の評価を下げることがはっきりわかっていながら、黒い感情が抑えられない。
なので愚痴る。
吹けば飛ぶような、わたしの評価など、どうでもいい。

つい先日、なぜか夫が、トイレットペーパーの1ロールをトイレ内の補充棚に入れようとする流れがあった。
「ここ?」と、トイレ掃除器具が入っている収納スペースに入れようとした。
そこは、液体掃除薬剤や、水回り掃除用具が入っている場所なので、ビニール袋で覆われていない、個別のむき出しトイレットペーパーを入れると濡れる恐れがある。
第一、棚の高さは30〜40センチあり、1ロールずつ並べるには、高い。
トイレットペーパーは、その隣にある、一個ずつ並べて入れるトイレットペーパー専用に作られた、スライド扉のある棚にいつも入れている。
もう20年前からそこ。定位置である。

水回り掃除器具入れの中にトイレットペーパーを入れようとする夫を見て、愕然とした。
(入れなかったけれど)
入れる場所が違う、間違っている、とかではなく、この人は20年間、一度もトイレットペーパーを交換したことがないのだという事実に衝撃を受けた。

昔の男性は、台所に入ってはいけないとされ、また、家の中のことは全くわからないことが男の甲斐性であるかのごとくだった。
男はシゴト。女は家庭。
夫は今でも、ゴルフの用意をしてくれる奥さんがいるゴルフ仲間を羨ましがっている。
その奥さんはゴルフをしないにもかかわらず旦那さんのゴルフ用意をいつもする。
奥さんがいないと、下着の場所すらもわからない。
なに、それ?


夫は、母親である教育ママゴン(姑)に男としての何かを潰されている。
母親(姑)も、息子である夫も、お互いそれで良いのだが、後を引き継いだ妻(わたし)は、忌々しく苦虫を噛み潰している。
舌打ちどころでは到底収まらない。
なぜ、あんなにスポイルし、家事が全く出来ないハンディキャップ人間に育ててしまったのか。
出来ない以前に、意識の問題。
何か意図、目的があるのか。
あるとしたら、何なのか。

夫は大学が遠隔地にあったため、実家を離れ一人住まいをしていた。
せっかく家事能力を身につけることが出来るチャンス、良い機会があったのに、みすみす取り上げて潰されてしまった。
犯人は、母親。
家事電化製品は一通り揃えてもらっているのに、炊事洗濯掃除などする由もなく。
姑は、近くに住む夫の父親(舅)の姉妹に対価を支払い、息子が自分ですべき家事を丸投げサポート依頼していた。
(この話、蝶ブログに何度も何度も書いているが、黒煙立ち込める火事は鎮火せず気が収まらない)
まったく気が知れない。

夫は家に洗濯機があるのに、わざわざ車で隣の市まで洗濯物を持って行って洗濯をしてもらっていた。
寝たきり病人か?
バリバリに若い自由な学生なのに!
ご飯をよばれ、お腹もこころも満たされ、寂しくないように配慮されていた。
有料で!!しかも、親のお金と采配で!!

まったくそれが当たり前のことだと心底思っていただろう。
家事は誰かにしてもらうもの、と。

オバさんが洗濯や家事をしてくれるのを、単身住まいの可愛い甥に対する単なる好意だと思っていたことだろう。
嬉しい自主的ボランティアだと。
裏では取引が成立していた。

だが、登場人物全てが満足しているのだから何の問題もない。
しかし、そこに問題がある。

母親はなぜ、息子に自分の身の回りのことを自分でさせない?
一種の逆ネグレクトではないだろうか。
過干渉。
自立の芽を摘む。
何のために、自立の芽を摘むのか?
息子のため?
どういうことが、息子のためなのか?
さっぱりわからない。まったくわからない。
オバさんも文字通り、喜んで引き受けていただろう。
別にお金目的ではないだろう。
全然、お金に困っているわけではない。
オバさんの息子たちとも年齢も近いし、親戚の暖かい仲良い交流に、誰が異議を唱えることだろう。
(オバさんの夫)オジさんも、息子たちと同じ年頃の甥の来訪には喜んでいたと想像する。
一族が全員、楽しく幸せなのに、わたしがなぜ、ひとり、こんなに腹を立て怒らなければならないか。
まるで、平和な街に現れる札付きの悪モノのようだ。

田舎で見守る両親、祖父母。
都会で迎えるオバ一家。全員が幸せ。
そこには崩しようがない幸せ構図があり、完結している。
なのに、である。
わたしは、その中で孤軍奮闘していた。
虚しい、やるせない、腹立たしい、悔しい、馬鹿らしい、どうしようもない思いに駆られていた。

時の経過がそれらの感情を封印していたが、ひょんなことから、当時の断片に接することがあると、一気に堰を切ったようにヘドロが溢れ出す。

たった一つの小さなトイレットペーパー1巻で。
コトっとドアが開き、溢れ出る思いに飲み込まれそうになる。
当時の思いはドアの向こう側で膨れ上がり増長し、化け物になっている。


・・・
と、文章はここでコト切れていた。
「憤死」というものがある。
まさに「憤爆睡」。
(こんな言葉はあるのか、ないのか知らないが)
幼児が泣きながら寝てしまうように、怒りながら寝てしまった。
しかし、目が覚めたら、また気分スッキリ。爽快。

そう言えばブログ、どうなってたんだっけ?
アップした?
消えた?
居眠りヨダレの跡形は見当たらなかったが、書きかけのものをほったらかして憤りながら寝入るのは、初めての経験。
これからも、こういうことはあるのかも知れない。
脳が長時間、激しい感情に対応出来ず、パタンと蓋を閉めてしまうのだろう。
安物の脳を持つと、後を引きずらないから良いような、良くないような。
モノゴトの解決や追求には向いていないようだ。
寝てしまうなんて、自分でも笑ってしまう、、、。
わははは。

こうやって着々と確実に歳を取って行くのだろう。