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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

友達がいない、、、

2020-11-09 | お付き合い
友達がいない、、、という内容の日記を某SNSで読んだ。
社会問題を含む深刻なものではなく、たんに、行動は一人ですーーというものだった。
友達が欲しいけれど、募集するのもナンだし、友達は作るものではなく、出来るものだ、との主張をされていた。

そうかな。
たしかに友達は自由。
義務でもないし、生活の手段でもない。
しかし、お一人様たちがネットワークを駆使し、独居住まいの万が一の時のために友達システムを早々と構築している人々もいる。
それは友達というよりは、互助会のようなものである。
ワーキングママ友のつながりにも似ている。
緊急、もしもの時の子供の預かり合い。
それは、真の意味の友達とは言えないが、まあ友達のうちの一つだろう。

困った時に、もたれ合えるのが友達?
それは家族?
依存し合う?
社会制度が整うと、受け皿やセフティネットが、国レベルで手を差し伸べてくれる。
が、なかなか、隙間や、こぼれ落ちるものもある。

わたしは、真の意味では友達はいない。
募集する気はさらさらない。
この指、止まれ!わたしと一緒に遊びましょう!
なんて、呼びかけない。

しかし、勝手にわたしから一方的に友達認定している人もいる。
支持者、ファンみたいなものか。
一対一の、面と向かってのお付き合いが苦手なので、どうしても一方通行になってしまう。
逆に「ファンです」と言われることも稀にある。
こういう、わたしみたいな人、意外と少なくないと思っている。

一人で行動する方が、意見を調整する必要がなくて便利だ。
が、不便でも一緒に行動することに意義がある。
だとすると、自然に友達が出来るのではなく、努力して作るものではないだろうか。
人に合わさず努力する気もないのに、自然に出来る友達なんかいないように思う。
喜びも悲しみもシェアするなら。
良いとこどりは、友達とは言えないのでは?
もたれ合わない、自立、独立した者同士の友達とは?
信頼は一朝一夕には築けない。
おいしいところだけ共有するのは、友達なんだろうか?

わたしは、基本的に人を信用していない。
裏切られたとしても、信じたのは自分であり、自己責任。
孤独と引き換えに自己愛が強すぎるのだろう。
頑丈な装甲車に乗って運転している。

自分から進んで行かないから、進展はない。
当たり前のことである。

ちなみに、、、
わたしは、独特の雰囲気を持っているらしい。
独自のもの。
そうだろうなあ、、、
出逢った人にはそう言われることがある。
これから先、益々年齢を重ねると、どんなおばあさんになっているのだろう。
童話に出て来る魔法使いのおばあさんみたいなかんじ、、、は、避けたい。


負けるが勝ちではなく、負ける一方

2019-12-29 | お付き合い
人付き合いの難しさ。
これが大の苦手で、わたしは家族&ほんの一握りの近親者以外とは付き合わない。

家族は固い結束があるので、それに安心しているため、あまり、それぞれの個人にズカズカ踏み込まない。
子育て期は、口出しするが、成人になり自立したら、皆さん、無罪放免。
両手でしっかり抱き抱えていた手を離す。
その代わり、各人、自分たちの巣を築き、(お一人様も含む)、緩やかな結束に変わる。

なので、わたしはこころ乱されることなく、安心、安泰の日々を過ごしている。

昨日の記事のKさんなどは、もはや人付き合いというよりは、降ってきたイベント。雨あられ嵐。
頻繁だったり、ハードだったりすると、負担だが、十分楽しませていただいている。
他にも、一生に一度か二度ぐらいしか、または一度も会わないかも知れないと思われる親友もいる。
(勝手に一方的にわたしが親友認定している。一種の心友)

まあそれは、それとして、、、

そういう、生のお付き合いが至って不得意なわたしなのであるが、、、

悲しいかな、趣味の関係で、必ず人と接することを余儀なくされる。
で、理解不能な状態に追い込まれる。

相手の言動に非常に傷つく。
相手は、わたしが何故傷ついているのか、全くわからない。
身に覚えもなければ、意識もない。
いちいち、あなたのここに、わたしは傷つきました、と毎度毎度、言っていたら、親睦が深まるどころか、ケンカになる。
いちいち、口に出して言わなければわからないような、意識自体に問題がある。

相手は、常に思ったことを口にして、その度にわたしは、グサグサ鋭利な刃物で切りつけられたように傷つけられる。

口に出さないでください、というのは正しいのか。
胸の中で思っていることをただ口に出さないだけ、というのは、常識としてマナーとしてはある。
親しき仲にも礼儀あり。

だが、「言うな」はわかるが、「胸の中で思うな」は、無理がある。
思ってしまうものは、思ってしまう。
外に出さないだけ。

相手は常に思ったことを口に出すから、わたしは、常に傷つく。
仮に口に出さなかったら?
傷つかないが、そんなこと思っているのかと、気もつかない。

口に出す前に、言うべきか、言わないべきか、一旦考えて、検疫通過、映倫通過になれば、口に出してもオッケー、というわけにはいかないのか?
言い方を熟考して、相手が衝撃を受けたり嫌な気にならないように、優しく説くとか、誘導するとか、そんな風には出来ないものか?
それは、相手に望みすぎだろうか?

コミュニケーションの難しさを痛感する。
思うな!って、ほんとに、難しいし、無理なこと。
思わせないようにしようにも、自分は自分で今まで生きてきた道があるから、そう簡単には変えられない。
お互い、自分を貫き通そうとすると意地の張り合いになり、やがて破綻する。
折り合いをつけ、折衷案で妥協しなければならない。
でもいつもわたしは、負ける。譲歩させられる。
誰とでも負ける。

逆の発想をすれば、わたしに勝つ人としか、わたしと付き合わないということだろうか。
わたしは、勝てる気持ち良さを相手に与え続けているということ。
わたしは負ける悔しさや悲しさと常に対峙しなければならない。
わたしはいつも負ける体勢が定位置か。
剛柔、強弱みたいに、正反対の組み合わせなのか。
わたしの持つ弱々しい性格ゆえか。
(そう吐露すると、大爆笑されることもある。Why?)

仮にわたしが勝つような相手だと、わたしは不甲斐ないと感じたり、それはそれで不足、不満が出るに違いない。
勝っても負けても、結局、満足しないという、収まりどころか。

わたしの相手は、強い人には平身低頭なくせに、わたしを相手にすると、偉そうにする。
相手を見て自分を出す。
人はみんなそんなものだが、極端な例や、いかにも感じ悪いのは、良くない。

わたしはどちらかというと、誰にも強く出ない。出られない。
だから負けるのだが、負けてばかりでは悲しすぎるから、作戦、策略を練る。
長期戦で巻き返しを図る。復讐の鬼となる。

長所と短所は表裏一体。
柔和に見えても、やられたら、やり返す。
ただし、基本的にはケンカはしない。
不戦勝。
(他人の場合は)全速力で立ち去るのみ。

立ち去らずに、傷ついて泣いているということは、まだ未練があるということ。
どうにか改善したいと願っているということ。
相手も謝ってきたし(ただし、どこが悪いのかさっぱりわからないようだが。それって、けっこう深刻なんだけど)
頑張ってみるか。そう思っている。


明日、会える?って、えらい急やん

2019-12-28 | お付き合い
師走も押し迫ったつい先日、出かける間際にスマホが鳴った。
また、母かな?
年末で、なんか思い出したのかな?
と画面を見てみると、なんと、お久しぶりの名前が現れていた。

元、仕事仲間K。
蝶ブログにも何回か登場する、頑張り屋さんK。
いつもながら、突然のアポ電だった。

「お久しぶり。Kです。明日、会える?」
え?と、なった。
いくらなんでも明日は無理。
「じゃあ、明後日は?」
と畳み掛ける。

なんで会えないの?
時間、取れないの?
と、やたら強硬姿勢。
わたしだって、年末、予定の一つや二つ、詰まってますわよ。(と言いたかったが、口に出せなかった)
年内に会いたいという。
年末残り少なく数えるほどしかない中で、Kが折れるかたちで、会える日時を調節した。
年内、ギリギリ滑り込みセーフ。

しかし、わたしは彼女とは、年賀状以外のやりとりは、ほとんどなく、長いスパンで、数年おきにポツリポツリと連絡が入る。
今22歳の彼女の末っ子が2歳ぐらいの時にも、チビさん連れで会った。
彼女と交友のある、ミャンマーで活動している女性の絵画展にも行ったなあ、、、と記憶断片を引っ張り出すために、脳ミソをぎゅーっと絞る。
ミュージカル「マンマ・ミーヤ」を観に行ったり、三田(兵庫県)あたりに芝桜を見に行ったり、いつも突然、思いついたように彼女がリクエストし、それにわたしが応える。
お互いの家に各1回だけ行ったこともある。
たったの1回で、何度も行き来しないところが、我々らしい。
いや、、、もう1回、彼女の家に行ったかも、、、上のお兄ちゃん(長男)が結構大きくなっていたから、2回行ったのかも知れない?
いや、1回だったか?
そんなレベルの記憶、やり取りである。

最後に会ったのは、いったいいつだっただろう???
国家試験に苦節何年もチャレンジ、最後あたりはメンタルをやられたらしいが、どうにかこうにか、試験に合格し、彼女は社労士として働き始めた。
何人もでやっている事務所に雇われていたが、人間関係で、ものすごくストレスを抱えていた。
そして、彼女は独立した。
偉いなあと感心していた。
あの頃、上のお兄ちゃんは大学院を出て、就職が決まった。
お兄ちゃんの今の年齢から計算すると、あれから更に10年も経つ?
え?もうそんなに経つ?

で、またまた彼女は仕事のストレスを抱え、行き詰まり、新たな出発をすることになった。
その間、悶々としていたらしい。
悩んで悩んで落ち込んで地の底を這って暗い時は、人に会いたくないそうだ。
やっと人に会おうという元気が出てきたという。

会いたい、行きたい、行動したい、と思ったら、その時にやっておかないと、一生、出来ない、と、タイミングや勢いを大事にすることをモットーとする彼女。
で、テレビで放送されていたお店に行きたい!と突如、思い立ったとか。
その店はわたしの住んでいるところから割と近いので、わたしに白羽の矢が放たれた。
えらく急いでいたのは、タイミングを逃したくないからのよう。

長々、説明した。
まだまだKさんの話は続くが、なにしろスマホ入力なので、手が遅い。
ユニークで刺激的で驚愕的なエピソードを満載した、体当たり旅のこぼれ話も、いっぱい聞いた。
書ききれない。

それに、今日は、別途、趣味関係で辛いことがあり、涙ぽろりん。
延々と入力する気力が失せている。
また、続きは次の機会に。

写真は、Kさんが行きたかったイタリア、シチリア料理のお店。

あ、ちなみにKさんは、蝶ブログを知っている。
が、忙しい人だから、読んでないだろう、きっと。


大嫌いな人に、無理やり擦り寄る

2018-10-31 | お付き合い
またまたブログ村人気記事ランキングと、アクセス数には、全く関係がない状態を実感する。
なんでだろう?
ランキングに入らない時のほうが、高アクセス数って、どうして?
説明していただきたいものである。

自分のブログのアクセス数は、デタラメではないとして、そうすると、ランキング人気記事ランキングが、根拠なく適当ということだ。
もう何十回と同じ経験をすると、自分なりの考察が打ち出される。
あまりランキングには期待していないから、どうってことはないけれど。

さてさて。
話は変わる。
出入りしている趣味SNS。
そこで、昨日の記事に書いた、わたしに寒イボを発生させてくれるお方が、今度は超高齢のお母様の訃報を日記に上げた。
しかも亡くなった当日に。
経緯や心情も。
すると、会員の皆様方が一斉にお悔やみコメントを寄せる。
あれには、わたしは不思議で仕方ない。
自分の超プライベートなこと、しかも家族の生き死にを趣味がらみSNS日記にリアルタイムで公開するなどと、わたしには考えられない。
ママ、ママ〜と幼児のごとく。
幼児の孫がいるおばあちゃんが、自分のママに涙する。
(しかも、その、おばあちゃんの産みの親である超高齢母親は、わたしの理想とする最期、幕の下ろし方)
しかし、日記を読んだ人々は次から次へと続々とコメント。
今までも、この人は、他の家族や親しい人が亡くなると、よくリアルタイムで日記にする。
これで三度目。
知らない初めての人(面識もなく、これまでやり取りもない人)からも、お悔やみコメントが寄せられていた。

わたしは絶対にコメントなどするものかと思っていたが、SNSの狭い会員の世間体にとらわれ、しばらく考えてから、少し間をおいて、わたしらしくもなく、お悔やみコメントを寄せた。
しかも、私情は一切挟まず、お悔み文の例文みたいなものをぺたっと薄っぺらげに貼り付けた。
嫌な奴に成り下がった、と自分で思った。
ほんとうに情けない。

それには、じつは事情がある。
実際に知っている人が、その趣味SNSに混じっていて、しかも、その人に大変お世話になっている。(今後も引き続き)
その人に向けた、わたしは「付き合いの悪い変人ではない」という一種の自己PRのようなものである。
参加するコミュニティでは、それなりに人付き合いもするんだよ、という協調性があることを無理して演じた。
ああ、イヤだイヤだ。
こういう自分って、すごくイヤ。
自分の保身のために、嫌なことにでも迎合している。
反骨精神は、ぐにゃりと曲げ、にやにや薄気味悪い笑いを浮かべて、お悔みコメントを付けている。

ちょっと、(スマホ画面上に)人差し指を動かせば、コメントなどいともカンタンに打てるのだから、まあいいか、と気をとり直したり。
わざわざ会場に出向いたり、電報を打ったりするわけではないのだから。

嫌だけど意に反してお悔みコメントを入れるに際して、非常にビジネスライクな、まったく選挙活動の一環の議員さんからのお悔みみたいな文体に、あえてした。

どちらにしても気分が悪い。
理想や信念を行動上、打算してすぐに曲げる、中途半端な自分への自己嫌悪。
信仰心があると踏めない神様の踏み絵を(こころの中でべーっと舌を出して)一番先に踏んで逃げるタイプ。

と言いつつ、なんだっていいのだ。
どうでもいい。
わたしがこだわるのは、そんなことではない。
平気でこころを売っても、どおってことない。
協調性がないわたしが、頑張って世間(多数派)に迎合したわけだから。
元々の反骨精神自体が、普通の人と少しズレているのかも知れない。
わたしに寒イボを出させたあの人物も、かなり変わっているのかも。
同じ穴のムジナだろうか。
変人が集う趣味SNS?!

一生、同じ処に棲むという暮らし

2015-03-18 | お付き合い

田舎の親戚の法事に出席した。

そこで、感じたことは、
男性たちが話す話題と、女性たちの話す話題の違い。

わたしは、女性テーブルにいたのだが、話すことがなかった。
ここで、一言、言いたい!と思っても口をつぐむ。(立場上)

隣の男性陣での話題は、さらっとした、企業の話、業界や組織などの社会系のものだったので、聞きやすかった。
この春から社会人1年生がいたので、配属先や寮のこと、
そこから、ゴルフやら、なんやらかんやら、社会の先輩たちに囲まれ、話題が盛り上がっていた。
もちろん、わたしは口を挟まない。

いろいろと、しがらみが、あって、話す内容が限られる。
で、出された料理の感想や、食材についてなどを述べるに留まる。
その他は、若い人とは、デズニーランドやら、デズニーシーのことやら、地下鉄のことやら、
なせか東京タワーやスカイツリー、あべのハルカスやら・・・
当たり差し障りのないことばかり。
農協のバス旅行で行ったとか、仕事で修学旅行で行った、とか、たわいもないけれど、悪くない話題だ。


年齢の高い女性たちの話は、半径5キロ以内のことばかり。
だが、濃厚に密度高く、人生が詰まっている。
同じテーブルにいた、法事の主催者の家に生まれ、同じ町内に嫁いだ年配女性は、
生まれた家と、嫁いだ家は、なんと、2キロ~3キロぐらいしか離れていない。
主催者の女性は、もっとすごい。
生まれてからずっと今も同じ家。
(今春、社会人になる息子さんが、赴任先の東京から、定年まで帰ってこないのではないかと心配されている)

生まれた環境と、嫁いだ環境の地理的距離の近さたるや・・・
半径5キロなんてものではなく、駅直結型の傘いらずのマンションみたいなものだ。

スゴイとしか言いようがない。

地元の寺院仏閣を改修するにあたって、地元住民、各世帯あたり、大きなお金を徴収される。
よく皆さん、まじめに、支払うなあと感心する。
地域に根ざす古くからの同じ宗教だから、問題がないのだろう。

その地にある家に嫁ぐと、家の宗教のみならず、地域の宗教にも大きく左右される。
わあ。
宗教の非難はもちろん、感想も述べたりしたら、あとでなにを言われるかも知れない。
なので、ひたすら、「この西京漬けは、おいしい」とか、「生麩が入っていてコンビネーションが絶妙」だとか、
どうでもいいことばかりを言って、時間稼ぎをしている。
なんといっても、その地域に住んでいないので、住民ではない。
住民ではないが、よそ者のような、よそ者でないような。

あえて、問題を発生させるようなことは言わず、
地下鉄の値上げがどうとか、そういうことを言っているほうが良い。(ただし、若い人には)
年配の人は、地下鉄なんか乗らないので、やはり、春野菜のてんぷらの話題などを選ぶ。
あるいは、足が痛いときの、座り方を指導してもらったりもする。

事なきを得ることが大事。
地域には地域の文化がある。
そおっと、壊れないよう、次の人にそのまま渡す。
次世代へのバトンタッチは、繊細で微妙である。

さて、今や軸足が二つある、うちのイエは、どうなるのだろう・・・。

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陰湿終了

2014-08-26 | お付き合い

同じSNSで共通の知っている人の悪口を陰でこそこそ言い合う、陰湿仲間からメールが来た。

「思い詰めるのは、よくないですよ」

その人は、ご親切にお心遣いのアドバイスをしてくださる。

あらま、わたし、別に思い詰めてなんかいないんだけど・・・。
わたしの書き方が、やっぱりいけないのだろう。
見て聞いてきたように、見ても聞いてもいないことを真実であるかのように書くから。
落語家のごとき、語り口??

なので、もう陰湿ごっこはやめましょう、と、悪口ストップを提案した。
陰湿決別・終結宣言。

自然解消でもなく、建設的な方向でもなく、
意図的解消という流れか。


わたしは、いつも、自主的にものごとを進めるタイプではない。
相手がなにか言ってきたり、提案してきたりすると、それにリアクションをするだけ。
攻防でいえば、守るタイプ。受身。

なので、メールも頂けば、お返しするが、
メールの内容によっては、コース変更する場合もある。

ラリーの応酬もさかんに・・・とは行かなかった。
やはり、悪口では最初は良くても、二人だけの密室では、盛り上がりっぱなしにはならない。
公にすると、炎上となるのだろうけれど。

つまらないことに時間を割くのは、お互い、つまらないので、
これからは、建設的な傾向に進んでいくことを期待している。

が、自然消滅もありえる・・・。

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総務部のお仕事

2013-08-28 | お付き合い

またまたお葬式に出席することになった。

式場が、遠い・・・。

といっても、今回はまだマシで、何時間も電車に揺られ、延々・・・とまではいかないが。
でも、県をまたぎ、片道1時間半以上はかかる。
(徒歩~バス~電車2本乗り継ぎ~タクシー)
朝の早くから用意して・・・あああ。

今度は、顔を知っている人。遠い遠い親戚だ。
法事やお葬式で、数回ちらと顔を合わせたことがあるので、顔は知っている。
話したことはないけれど。

以前、半年の間に3回連続列席した、遠い遠い遠い遠い親戚は、
[夫(義理)の、オバの、夫(義理)の、兄弟やその配偶者(義理)]
会場も、遠く遠く遠く、それはそれはそれは、イヤになった。
もっとすごいのもある。
[夫(義理)の、オバの、息子の、妻(義理)の、親]
それぞれお互いに、住んでいる場所もかけ離れた遠くの場所(聞くまで、どこに住んでいるのかも知らない)、
日ごろの付き合いはもちろん全くまるでしてないし、
顔も名前も、なにをしている人なのかも、列席当日まで知らない。

あまり近くない親戚でも、お世話になった人とか、小さい時から知っている人、つながりがある人なら、
感情移入できる。
が・・・当日、はじめてお顔を拝見する人には、感情移入のしようがない。

・・・・・
自分の葬式は、前もって、遺言しておきたい。
終活スタート。
白洲次郎が、葬式無用だか、戒名無用だか、言ってた。
自分の遺志としては、「葬式いらん」、だが、残された家族の社会的立場もあるだろうし。
「わたしは、出来れば葬式は家族葬でこじんまり、
他県から、『あああ・・・遠い・・・(距離も、関係も付き合いも・・・)』とか思われて来ていただきたくない。
でも、残った皆の好きにしてちょうだい」
という柔軟性のある遺言にしておこう。

それにしても。
すべての用事をキャンセルして、ああ、お葬式って、辛い・・・。
義理の関係なもんで、義務感のみ。ノリが、いたって悪い。感情移入ゼロ。

地元議員さんなら、ここぞとPR活動の場とばかりに顔を出すだろうけれど。
総務部の仕事だと思って、頑張って行って来よう。

 

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あなた、どこの誰?

2013-05-19 | お付き合い

「学生時代とかの友だちは、どうなったの?」

上娘に聞かれた。

うーーん・・・
どうなったのだろう・・・

みんな、すべて消えた・・・。

というより、わたしは、偏った人間なのだろう。
歪(いびつ)な性質ゆえ、友だちが出来ないのだろう。

友だちといっしょに過ごす時間を作るのことに、非常に消極的である。
お誘いがなければ、いつまでも、ずっとずっと、永遠に、会わない。
超・受身姿勢である。

友だちがゼロ人になって久しいが、ある日ふと、こりゃいかんと、
学生時代の知人を頼って、友だち付き合いを復活させてみたものの・・・
やはり、わたしには無理だった。続かない。

なぜか・・・?

理由は・・・付き合っても面白くないのである。むしろ、めんどくさくて苦痛である。
なぜ、面白くないのか?
なぜなんだろう?

べつに、楽しいわけではない。
みんなの近況を聞いたところで、べつに、わあっと、ならない。あまり興味がない。
自分の近況も、さして伝えたい心境にならない。
知って欲しいとも思わない。というか、知って欲しくない。

これは、明らかに、おかしい・・・。

学生時代、我々仲良しグループと時折合流していたグループに、無理やり後から入ろうなんて、了見が甘いのだ。
学生時代からの交流、交友の積み重ねが、直接的にはないのに、
ぽつんと時間をあけて突然、割って入っても、楽しみを共有できるわけがない。
一時的にでも入れてくれただけでも、ありがたく思わなければならない。

仲がいいから友だちなのだ。
親密でも友だちでもないのに、友だちにしてくれ、って、順序がおかしい。
友だちになりたいなら、もっと積極的にならねば。
たいして友だちになりたくないくせに、友だちがいないからって、友だちになりたがる、その考えは、へんだ。

というか、学生時代の友だちたちとは、わたしの価値観や意識が、すでに変わってしまったのかも知れない。


わたしは、もともと変わっている??
そうかも知れない。

前述した通り、わたしは歪なのだと思う。
人間が、アンバランスなのだ。

器と中身が、合っていない。
ここでいう器は、見かけのことではなく、入れ物、枠。
中身は、内情、実生活のこと。
ギャップがあり、器の中は、スカスカ。

器が大きすぎて、中身が小さすぎる。
大きな器、大きな中身の人たちとは、自分の中身が追いつかない。
小さな中身、小さな器の人たちとは、自分の器が意外に大きくて、違和感を感じる。

じゃあ、小さな器で、大きな中身の人なら合うのではないだろうか?
それには、わたしの中身が小さすぎて、わたしの器が大きすぎて、やはり合わない。

自分の器を少し小さくして、中身を少し大きくして、
器と中身がぴったりになるよう、調整する工夫、努力をすべきだ。
調和していない部分を見直し、エコ人生を送るべき。


不動産物件の例でいうと・・・(例が、合ってない・・・)

広さ、立地、利便性、集合住宅なら何階、どの場所か、築年数、日照などの条件、近隣の建物事情、土地の特性、土地柄・・・、
そういった点を考慮して金額が決められている。
どれかひとつでも特に気に入った事柄があれば、それで決める人もいるだろうが、
大きな欠点がなければ、それでよし、ということもあるだろう。
バランスの取れているものが、一般的であろう。
また、用途が、住居用なのか、事務所なのか、店舗なのか、週末用なのか、一時住まい用なのか。
なにを指針にするか、である。

仕事も、結婚相手も、友だちも、それに似ている?
トータル総合得点が、合っている人同士、グループが、友だちとして、すんなり行くことだろう。
いや、そうでもないか。

 

ここで、発想を転換してみる。
学生時代の友だちにこだわっているから、ややこしいのだ。
もう、学生時代はどうでもいい。
これから先、仕事社会から退いた世界での友人ができるといい。

どこの誰で、なにをしている人で、学歴はどうで、なんて、細かいデータは、一切いらない。

属性なんか関係なく、単体でつながる、そんな友だち。
そう考えると、友だちはいなくもない。あの人、この人、あ、その人も。
どこの誰かもわからないけれど、顔しか知らないけれど、さらっとしていて、いいのかも?
それって、友だちとかではなく、たんなる顔見知り?

まあ、「顔見知り」を、「友だち」と呼んでもいいのではなかろうか。
(実際、ちょっと挨拶程度、話したことがあるだけの関係の人を「あの人とは、友だちなんです」と
堂々と他人に明言している、そういう人もいる)
「仲間」的な感覚だろうか。

力まず、焦らず、気合を入れすぎず、前のめりにならず、
軽く、薄く、お気軽に。

友だち100人できるかな?

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暗いひとを救えなかった、後味の悪さ

2013-01-22 | お付き合い

わたしが知っている人のなかに、数少ない「暗い人物」がいる。

彼女、Sさんは、職場の後輩で、年は、わたしより6~7歳、年下。
彼女が入社した時から知っている。

彼女は、イマドキの人のようで、先輩であろうが、年上であろうが、タメ口をきく。
わたしとSさんは、職場の昼時間にランチに行くようになった。
毎回、ランチに行っているうちに、ついには、
「あんた、今日は、なに食べたいん?」
と言うようになり、タメ口もここまでくると、わたしの許容範囲を越え、
その日を境に、こころの距離を置いた。

次第に、彼女とのランチの回数を減らした。
「先に行って。わたしは、まだ、ちょっとすることがあるので」
とかなんとか、適当に理由をつけた。

だんだん、まったく一緒にランチに行かないようになり、彼女も気付いたことだろう。

彼女は、わたしの上司でもある人物にも、呆れられるような失態を仕出かしていた。
べつに業務的に損失をもたらしたわけではないが、
仕事がらみの、とあるコトで、上司の面目をつぶし、嫌われた。

「もうしないから・・・、もうしないから・・・」
と、彼女は必死で謝っていたが、上司は、クールだった。


ランチをいっしょにしていた頃、
独身である彼女に、結婚相手・候補として知人を紹介した。
いわゆる、カジュアルなお見合いである。
場所は、我が家。
彼女は、いつになく、ハイテンションで頑張っていた。
かなり無理をしているようにも思えた。
結果的には、うまく行かなかった。
彼女のその後の言葉は、いまでも忘れられない。

「スローさんは、自分だけ幸せになって、ズルイ・・・」


当時、同じ案件を担当した営業の人たちと、皆で打ち上げや、ランチに行っていたこともある。
営業のA氏に言われたことがある。
「スローさんと、Sさんとじゃあ、ちょっと、キツイですねえ・・・」
いろんな解釈の仕方があるだろう。

Sさんは、地の底から地響きのするような、うめき声が聞こえるような、ものすごい迫力のある暗さを持っていた。
べつにわたしから質問したことは、ひとつもなかったが、
彼女は、いろんなことを話した。
怨み話が多かった。

「わたしが、いい大学に行けなかったのは、
そんな大学があるということを教えてくれる人が、まわりに、いなかったから。
なんで、わたしに、教えてくれないの?」
(成績が悪いからではなく、まわりが、悪いってことか?)

「わたしは、モデルになろうと思っていたけれど、身長が160センチしかないので、18歳の時にあきらめたの」
(意見や、見た目に関する率直な感想を言い合う友だちはいなかったのか?)

「どこどこの誰々(名のある企業や団体の偉いさん)の娘と友だちなのよ」
(友だちって、知り合い?ってことか?)

「わたしは、いつも、そう・・・哀しいことに慣れているの・・・。
辛い目にばかり遭ってきたの」
(反省するときは、自分は悪くないのに、まわりが悪い、という分析結果に常にたどり着く)


後々、思えば、ひとつの方程式が、びしっと確立されている。
モノゴトを振り返り、うまく行かなかったことの原因は、自分ではなく、まわりにある。
不幸な運命にある、可愛そうな自分。
ふっとため息をつき、あきらめたような、暗い目で視線を落とす。

不幸を呼び寄せているのは、自分なのではないか、と、
誰一人、親身になって彼女に忠告をする人はいなかったようだ。
まわりでは言っていたかも知れないが、非難されていると感じていたのかも知れない。
聞く耳を持たず、なのだろう。
自分で気付くしかない。

わたしも、彼女にもっと働きかけるべきだったかも知れないが、
お見合いを設定した程度にとどまってしまった。
(でも、お見合いって、いま、思えば、
オススメの人物を紹介するべきであり、引き合わせる人物を吟味するのが紹介者の義務なのに、
さして、知らないまま紹介してしまったという、反省に至る)

いやはや、暗くてネガティブな人を必死で立ち直らせようとするほど、
わたしは、余裕があるわけでもなく、立派な人物でもなく、・・・
至らないことを自覚させられるようで、自分に返って来るような気がして、後味が悪い。

しょせん、わたしは、凡人、小市民。
自分の幸せを守ることに精一杯。
それに、職場は、友人作りの場ではなく、仕事をする場である。
常識をもった個人が、仕事をするために集まるのが、職場だ。


不幸なひとを救い、明るい方向へと導くのは、
わたしごとき小者が思い上がったとしても無理がある。
自己犠牲や、無償の愛を唱え、実践されている、
素晴らしい人格の、熱心なボランティア奉仕家さまや、崇高な宗教家に、お任せしよう。

 

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無教養

2011-12-29 | お付き合い

年賀状を今朝の明け方まで書いた。
その中の一人、中学時代の友人Sちゃん。
「ブログ見ました。写真のせいか、イメージが違ってました」
と今年もらった年賀状に書いてあった。

あれから、わたしはまた、ブログ写真のイメージを変えた。
書く内容も、日常の、食べたこととかは、あまり書かなくなった。
自作のヒドイ画像をヘーキでアップするようになった。
年々、羞恥心は薄れ、子供返り。
なので、Sちゃんの知っている、あほな恥知らずの中学時代のわたしに、戻りかけている。
でも、もう、ブログは読んでくれていないかも。

Sちゃへの年賀状には
「ブログ、まじめに読まないでください」って、最後に書き添えた。
またまたSちゃんの顔まで想像しながら書くと、書く内容が狭まりそうだ。


まったく関係ない話だが・・・
3年前から知っているけれど、今年、知人から友人に昇格した、新顔・友人Kさんに、
「あなたは、友達が少ないって言うけれど、プライドが高いからじゃない?」
と言われた。
そうかなあ・・・
たんに、人付き合いが面倒なだけなんだけど。
そして、常識があまりないのと、人に合わせるのが苦手なのと、(→典型マイペース人間)
グループによっては交際費がかさむケースがあり、単なる交際そのものにお金をかける気がないからだ。
たとえば、慣例となっているようなお土産のやりとりとか、「○○の会」の義理でのお付き合いとか集まりとか、
皆でお祝い金や、お礼金を集めて渡すとか、
そういう、実体のあるような、ないようなことに煩わされるのが嫌。
(ただし、自分の親族のお付き合いは別。身内びいき。身勝手です)

父もそうだったが、ハイソなサロンが嫌い。
あの、鼻をつくような、ぷーんとしたおカネのニオイが嫌い。
(実際は、おカネは大好きなんだけれど、おカネの現れ方、使い方が、嫌い)
学生っぽく、労働者っぽく、安酒場で、酩酊・空(から)理論で、クダ巻いているほうが、性分に合っている。
プライドが高く、教養がある方は、そんな下町の安酒場になんぞ行かないんだろうけれど。


ちなみに、ある方のブログで「プライド高く教養がある」という文字が目に入った。
そんな女性は、出会い系にはいない、と。
はい、わたしの知る限りでは、絶対に、いません。
理由は、出会い系に顔を出す必要がない。
プライド高く教養がある場合、お金もあることが多い。
自分に稼ぎがあるか、配偶者に稼ぎがある。あるいは、両方、ダブル・インカム。
なので、おカネのやり取りが暗黙の条件である、出会い系には行く必要がない。
映画「昼顔」や、東電女性社員事件のようなケースは、特殊、稀だと思う。
万が一、お金がなくても、プライドが高いと、お金がないことを堂々と表さず、恥じる。

条件は、違っても、人間であることには違いない。
でも背景が違うと、共通言語がないかも知れない。

「ふつうの学歴」と、「高学歴」は違うそうだ。
いまは、たんに4年制大学を卒業していても、高学歴とは言わないらしい。
大学のランクや、高い学力、勉強した内容、得た知識、専門性などが備わって、はじめて高学歴というそうな。
わたしなどは、まったく、その範疇には入っていない。
なので教養があるわけではない。
プライドが高いわけでもない。
あるのは、ひがみ根性と、楽天的資質。
(相反しているけれど、人生は矛盾で出来ている・・・と思っている・・・)

でも、出会い系に出入りしたいと思ったことは、若い頃から今まで、一度もない。
男女の出会いの場としては、あまりにも直接的すぎて、オブラートに包んだものがない。
そして、男女の関係のみを追究していて、口説く手間もあまりいらず、ハナシがまとまりやすいのだろうけれど。
結婚を目的にする正式な場ならいざ知らず。
(それでも、トラブルはけっこうあるようだ)

一番の理由は、動機がないことだ。
男女の出会いは、出会い系でなくても、ふつうにまわりにある。
(職種や職場、状況によっては、異性と出会わないケースもあるようだが)


ニーズの一致、需要と供給のバランスで、市場は成り立っている。
なので、どんな市場も、需要と供給が釣り合っている限り、活気がある。
パリのマルシェも、各々特色があって、需要に合わせたモノを揃えている。
お値段も、とうぜん、モノ、品質に比例している。
モノもヒトも、共通したものがある。(共通していないこともあるけれど)

女性の価値を経済に例えた、おもしろい例があるのだけれど
もうタイムオーバー。
またの機会に。


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年末、さて、これから田舎に帰って、働きます。
お正月は、田舎で迎えます。
でも、ノートパソコン(WiFi付き)を持って行くので、更新できるかも?です。
そんなことするヒマがあったら、もっと働け~と、神の声。