なんでだろう?
ランキングに入らない時のほうが、高アクセス数って、どうして?
説明していただきたいものである。
自分のブログのアクセス数は、デタラメではないとして、そうすると、ランキング人気記事ランキングが、根拠なく適当ということだ。
もう何十回と同じ経験をすると、自分なりの考察が打ち出される。
あまりランキングには期待していないから、どうってことはないけれど。
さてさて。
話は変わる。
出入りしている趣味SNS。
そこで、昨日の記事に書いた、わたしに寒イボを発生させてくれるお方が、今度は超高齢のお母様の訃報を日記に上げた。
しかも亡くなった当日に。
経緯や心情も。
すると、会員の皆様方が一斉にお悔やみコメントを寄せる。
あれには、わたしは不思議で仕方ない。
自分の超プライベートなこと、しかも家族の生き死にを趣味がらみSNS日記にリアルタイムで公開するなどと、わたしには考えられない。
ママ、ママ〜と幼児のごとく。
幼児の孫がいるおばあちゃんが、自分のママに涙する。
(しかも、その、おばあちゃんの産みの親である超高齢母親は、わたしの理想とする最期、幕の下ろし方)
しかし、日記を読んだ人々は次から次へと続々とコメント。
今までも、この人は、他の家族や親しい人が亡くなると、よくリアルタイムで日記にする。
これで三度目。
知らない初めての人(面識もなく、これまでやり取りもない人)からも、お悔やみコメントが寄せられていた。
わたしは絶対にコメントなどするものかと思っていたが、SNSの狭い会員の世間体にとらわれ、しばらく考えてから、少し間をおいて、わたしらしくもなく、お悔やみコメントを寄せた。
しかも、私情は一切挟まず、お悔み文の例文みたいなものをぺたっと薄っぺらげに貼り付けた。
嫌な奴に成り下がった、と自分で思った。
ほんとうに情けない。
それには、じつは事情がある。
実際に知っている人が、その趣味SNSに混じっていて、しかも、その人に大変お世話になっている。(今後も引き続き)
その人に向けた、わたしは「付き合いの悪い変人ではない」という一種の自己PRのようなものである。
参加するコミュニティでは、それなりに人付き合いもするんだよ、という協調性があることを無理して演じた。
ああ、イヤだイヤだ。
こういう自分って、すごくイヤ。
自分の保身のために、嫌なことにでも迎合している。
反骨精神は、ぐにゃりと曲げ、にやにや薄気味悪い笑いを浮かべて、お悔みコメントを付けている。
ちょっと、(スマホ画面上に)人差し指を動かせば、コメントなどいともカンタンに打てるのだから、まあいいか、と気をとり直したり。
わざわざ会場に出向いたり、電報を打ったりするわけではないのだから。
嫌だけど意に反してお悔みコメントを入れるに際して、非常にビジネスライクな、まったく選挙活動の一環の議員さんからのお悔みみたいな文体に、あえてした。
どちらにしても気分が悪い。
理想や信念を行動上、打算してすぐに曲げる、中途半端な自分への自己嫌悪。
信仰心があると踏めない神様の踏み絵を(こころの中でべーっと舌を出して)一番先に踏んで逃げるタイプ。
と言いつつ、なんだっていいのだ。
どうでもいい。
わたしがこだわるのは、そんなことではない。
平気でこころを売っても、どおってことない。
協調性がないわたしが、頑張って世間(多数派)に迎合したわけだから。
元々の反骨精神自体が、普通の人と少しズレているのかも知れない。
わたしに寒イボを出させたあの人物も、かなり変わっているのかも。
同じ穴のムジナだろうか。
変人が集う趣味SNS?!
田舎の親戚の法事に出席した。
そこで、感じたことは、
男性たちが話す話題と、女性たちの話す話題の違い。
わたしは、女性テーブルにいたのだが、話すことがなかった。
ここで、一言、言いたい!と思っても口をつぐむ。(立場上)
隣の男性陣での話題は、さらっとした、企業の話、業界や組織などの社会系のものだったので、聞きやすかった。
この春から社会人1年生がいたので、配属先や寮のこと、
そこから、ゴルフやら、なんやらかんやら、社会の先輩たちに囲まれ、話題が盛り上がっていた。
もちろん、わたしは口を挟まない。
いろいろと、しがらみが、あって、話す内容が限られる。
で、出された料理の感想や、食材についてなどを述べるに留まる。
その他は、若い人とは、デズニーランドやら、デズニーシーのことやら、地下鉄のことやら、
なせか東京タワーやスカイツリー、あべのハルカスやら・・・
当たり差し障りのないことばかり。
農協のバス旅行で行ったとか、仕事で修学旅行で行った、とか、たわいもないけれど、悪くない話題だ。
年齢の高い女性たちの話は、半径5キロ以内のことばかり。
だが、濃厚に密度高く、人生が詰まっている。
同じテーブルにいた、法事の主催者の家に生まれ、同じ町内に嫁いだ年配女性は、
生まれた家と、嫁いだ家は、なんと、2キロ~3キロぐらいしか離れていない。
主催者の女性は、もっとすごい。
生まれてからずっと今も同じ家。
(今春、社会人になる息子さんが、赴任先の東京から、定年まで帰ってこないのではないかと心配されている)
生まれた環境と、嫁いだ環境の地理的距離の近さたるや・・・
半径5キロなんてものではなく、駅直結型の傘いらずのマンションみたいなものだ。
スゴイとしか言いようがない。
地元の寺院仏閣を改修するにあたって、地元住民、各世帯あたり、大きなお金を徴収される。
よく皆さん、まじめに、支払うなあと感心する。
地域に根ざす古くからの同じ宗教だから、問題がないのだろう。
その地にある家に嫁ぐと、家の宗教のみならず、地域の宗教にも大きく左右される。
わあ。
宗教の非難はもちろん、感想も述べたりしたら、あとでなにを言われるかも知れない。
なので、ひたすら、「この西京漬けは、おいしい」とか、「生麩が入っていてコンビネーションが絶妙」だとか、
どうでもいいことばかりを言って、時間稼ぎをしている。
なんといっても、その地域に住んでいないので、住民ではない。
住民ではないが、よそ者のような、よそ者でないような。
あえて、問題を発生させるようなことは言わず、
地下鉄の値上げがどうとか、そういうことを言っているほうが良い。(ただし、若い人には)
年配の人は、地下鉄なんか乗らないので、やはり、春野菜のてんぷらの話題などを選ぶ。
あるいは、足が痛いときの、座り方を指導してもらったりもする。
事なきを得ることが大事。
地域には地域の文化がある。
そおっと、壊れないよう、次の人にそのまま渡す。
次世代へのバトンタッチは、繊細で微妙である。
さて、今や軸足が二つある、うちのイエは、どうなるのだろう・・・。
同じSNSで共通の知っている人の悪口を陰でこそこそ言い合う、陰湿仲間からメールが来た。
「思い詰めるのは、よくないですよ」
その人は、ご親切にお心遣いのアドバイスをしてくださる。
あらま、わたし、別に思い詰めてなんかいないんだけど・・・。
わたしの書き方が、やっぱりいけないのだろう。
見て聞いてきたように、見ても聞いてもいないことを真実であるかのように書くから。
落語家のごとき、語り口??
なので、もう陰湿ごっこはやめましょう、と、悪口ストップを提案した。
陰湿決別・終結宣言。
自然解消でもなく、建設的な方向でもなく、
意図的解消という流れか。
わたしは、いつも、自主的にものごとを進めるタイプではない。
相手がなにか言ってきたり、提案してきたりすると、それにリアクションをするだけ。
攻防でいえば、守るタイプ。受身。
なので、メールも頂けば、お返しするが、
メールの内容によっては、コース変更する場合もある。
ラリーの応酬もさかんに・・・とは行かなかった。
やはり、悪口では最初は良くても、二人だけの密室では、盛り上がりっぱなしにはならない。
公にすると、炎上となるのだろうけれど。
つまらないことに時間を割くのは、お互い、つまらないので、
これからは、建設的な傾向に進んでいくことを期待している。
が、自然消滅もありえる・・・。
またまたお葬式に出席することになった。
式場が、遠い・・・。
といっても、今回はまだマシで、何時間も電車に揺られ、延々・・・とまではいかないが。
でも、県をまたぎ、片道1時間半以上はかかる。
(徒歩~バス~電車2本乗り継ぎ~タクシー)
朝の早くから用意して・・・あああ。
今度は、顔を知っている人。遠い遠い親戚だ。
法事やお葬式で、数回ちらと顔を合わせたことがあるので、顔は知っている。
話したことはないけれど。
以前、半年の間に3回連続列席した、遠い遠い遠い遠い親戚は、
[夫(義理)の、オバの、夫(義理)の、兄弟やその配偶者(義理)]
会場も、遠く遠く遠く、それはそれはそれは、イヤになった。
もっとすごいのもある。
[夫(義理)の、オバの、息子の、妻(義理)の、親]
それぞれお互いに、住んでいる場所もかけ離れた遠くの場所(聞くまで、どこに住んでいるのかも知らない)、
日ごろの付き合いはもちろん全くまるでしてないし、
顔も名前も、なにをしている人なのかも、列席当日まで知らない。
あまり近くない親戚でも、お世話になった人とか、小さい時から知っている人、つながりがある人なら、
感情移入できる。
が・・・当日、はじめてお顔を拝見する人には、感情移入のしようがない。
・・・・・
自分の葬式は、前もって、遺言しておきたい。
終活スタート。
白洲次郎が、葬式無用だか、戒名無用だか、言ってた。
自分の遺志としては、「葬式いらん」、だが、残された家族の社会的立場もあるだろうし。
「わたしは、出来れば葬式は家族葬でこじんまり、
他県から、『あああ・・・遠い・・・(距離も、関係も付き合いも・・・)』とか思われて来ていただきたくない。
でも、残った皆の好きにしてちょうだい」
という柔軟性のある遺言にしておこう。
それにしても。
すべての用事をキャンセルして、ああ、お葬式って、辛い・・・。
義理の関係なもんで、義務感のみ。ノリが、いたって悪い。感情移入ゼロ。
地元議員さんなら、ここぞとPR活動の場とばかりに顔を出すだろうけれど。
総務部の仕事だと思って、頑張って行って来よう。
「学生時代とかの友だちは、どうなったの?」
上娘に聞かれた。
うーーん・・・
どうなったのだろう・・・
みんな、すべて消えた・・・。
というより、わたしは、偏った人間なのだろう。
歪(いびつ)な性質ゆえ、友だちが出来ないのだろう。
友だちといっしょに過ごす時間を作るのことに、非常に消極的である。
お誘いがなければ、いつまでも、ずっとずっと、永遠に、会わない。
超・受身姿勢である。
友だちがゼロ人になって久しいが、ある日ふと、こりゃいかんと、
学生時代の知人を頼って、友だち付き合いを復活させてみたものの・・・
やはり、わたしには無理だった。続かない。
なぜか・・・?
理由は・・・付き合っても面白くないのである。むしろ、めんどくさくて苦痛である。
なぜ、面白くないのか?
なぜなんだろう?
べつに、楽しいわけではない。
みんなの近況を聞いたところで、べつに、わあっと、ならない。あまり興味がない。
自分の近況も、さして伝えたい心境にならない。
知って欲しいとも思わない。というか、知って欲しくない。
これは、明らかに、おかしい・・・。
学生時代、我々仲良しグループと時折合流していたグループに、無理やり後から入ろうなんて、了見が甘いのだ。
学生時代からの交流、交友の積み重ねが、直接的にはないのに、
ぽつんと時間をあけて突然、割って入っても、楽しみを共有できるわけがない。
一時的にでも入れてくれただけでも、ありがたく思わなければならない。
仲がいいから友だちなのだ。
親密でも友だちでもないのに、友だちにしてくれ、って、順序がおかしい。
友だちになりたいなら、もっと積極的にならねば。
たいして友だちになりたくないくせに、友だちがいないからって、友だちになりたがる、その考えは、へんだ。
というか、学生時代の友だちたちとは、わたしの価値観や意識が、すでに変わってしまったのかも知れない。
わたしは、もともと変わっている??
そうかも知れない。
前述した通り、わたしは歪なのだと思う。
人間が、アンバランスなのだ。
器と中身が、合っていない。
ここでいう器は、見かけのことではなく、入れ物、枠。
中身は、内情、実生活のこと。
ギャップがあり、器の中は、スカスカ。
器が大きすぎて、中身が小さすぎる。
大きな器、大きな中身の人たちとは、自分の中身が追いつかない。
小さな中身、小さな器の人たちとは、自分の器が意外に大きくて、違和感を感じる。
じゃあ、小さな器で、大きな中身の人なら合うのではないだろうか?
それには、わたしの中身が小さすぎて、わたしの器が大きすぎて、やはり合わない。
自分の器を少し小さくして、中身を少し大きくして、
器と中身がぴったりになるよう、調整する工夫、努力をすべきだ。
調和していない部分を見直し、エコ人生を送るべき。
不動産物件の例でいうと・・・(例が、合ってない・・・)
広さ、立地、利便性、集合住宅なら何階、どの場所か、築年数、日照などの条件、近隣の建物事情、土地の特性、土地柄・・・、
そういった点を考慮して金額が決められている。
どれかひとつでも特に気に入った事柄があれば、それで決める人もいるだろうが、
大きな欠点がなければ、それでよし、ということもあるだろう。
バランスの取れているものが、一般的であろう。
また、用途が、住居用なのか、事務所なのか、店舗なのか、週末用なのか、一時住まい用なのか。
なにを指針にするか、である。
仕事も、結婚相手も、友だちも、それに似ている?
トータル総合得点が、合っている人同士、グループが、友だちとして、すんなり行くことだろう。
いや、そうでもないか。
ここで、発想を転換してみる。
学生時代の友だちにこだわっているから、ややこしいのだ。
もう、学生時代はどうでもいい。
これから先、仕事社会から退いた世界での友人ができるといい。
どこの誰で、なにをしている人で、学歴はどうで、なんて、細かいデータは、一切いらない。
属性なんか関係なく、単体でつながる、そんな友だち。
そう考えると、友だちはいなくもない。あの人、この人、あ、その人も。
どこの誰かもわからないけれど、顔しか知らないけれど、さらっとしていて、いいのかも?
それって、友だちとかではなく、たんなる顔見知り?
まあ、「顔見知り」を、「友だち」と呼んでもいいのではなかろうか。
(実際、ちょっと挨拶程度、話したことがあるだけの関係の人を「あの人とは、友だちなんです」と
堂々と他人に明言している、そういう人もいる)
「仲間」的な感覚だろうか。
力まず、焦らず、気合を入れすぎず、前のめりにならず、
軽く、薄く、お気軽に。
友だち100人できるかな?
わたしが知っている人のなかに、数少ない「暗い人物」がいる。
彼女、Sさんは、職場の後輩で、年は、わたしより6~7歳、年下。
彼女が入社した時から知っている。
彼女は、イマドキの人のようで、先輩であろうが、年上であろうが、タメ口をきく。
わたしとSさんは、職場の昼時間にランチに行くようになった。
毎回、ランチに行っているうちに、ついには、
「あんた、今日は、なに食べたいん?」
と言うようになり、タメ口もここまでくると、わたしの許容範囲を越え、
その日を境に、こころの距離を置いた。
次第に、彼女とのランチの回数を減らした。
「先に行って。わたしは、まだ、ちょっとすることがあるので」
とかなんとか、適当に理由をつけた。
だんだん、まったく一緒にランチに行かないようになり、彼女も気付いたことだろう。
彼女は、わたしの上司でもある人物にも、呆れられるような失態を仕出かしていた。
べつに業務的に損失をもたらしたわけではないが、
仕事がらみの、とあるコトで、上司の面目をつぶし、嫌われた。
「もうしないから・・・、もうしないから・・・」
と、彼女は必死で謝っていたが、上司は、クールだった。
ランチをいっしょにしていた頃、
独身である彼女に、結婚相手・候補として知人を紹介した。
いわゆる、カジュアルなお見合いである。
場所は、我が家。
彼女は、いつになく、ハイテンションで頑張っていた。
かなり無理をしているようにも思えた。
結果的には、うまく行かなかった。
彼女のその後の言葉は、いまでも忘れられない。
「スローさんは、自分だけ幸せになって、ズルイ・・・」
当時、同じ案件を担当した営業の人たちと、皆で打ち上げや、ランチに行っていたこともある。
営業のA氏に言われたことがある。
「スローさんと、Sさんとじゃあ、ちょっと、キツイですねえ・・・」
いろんな解釈の仕方があるだろう。
Sさんは、地の底から地響きのするような、うめき声が聞こえるような、ものすごい迫力のある暗さを持っていた。
べつにわたしから質問したことは、ひとつもなかったが、
彼女は、いろんなことを話した。
怨み話が多かった。
「わたしが、いい大学に行けなかったのは、
そんな大学があるということを教えてくれる人が、まわりに、いなかったから。
なんで、わたしに、教えてくれないの?」
(成績が悪いからではなく、まわりが、悪いってことか?)
「わたしは、モデルになろうと思っていたけれど、身長が160センチしかないので、18歳の時にあきらめたの」
(意見や、見た目に関する率直な感想を言い合う友だちはいなかったのか?)
「どこどこの誰々(名のある企業や団体の偉いさん)の娘と友だちなのよ」
(友だちって、知り合い?ってことか?)
「わたしは、いつも、そう・・・哀しいことに慣れているの・・・。
辛い目にばかり遭ってきたの」
(反省するときは、自分は悪くないのに、まわりが悪い、という分析結果に常にたどり着く)
後々、思えば、ひとつの方程式が、びしっと確立されている。
モノゴトを振り返り、うまく行かなかったことの原因は、自分ではなく、まわりにある。
不幸な運命にある、可愛そうな自分。
ふっとため息をつき、あきらめたような、暗い目で視線を落とす。
不幸を呼び寄せているのは、自分なのではないか、と、
誰一人、親身になって彼女に忠告をする人はいなかったようだ。
まわりでは言っていたかも知れないが、非難されていると感じていたのかも知れない。
聞く耳を持たず、なのだろう。
自分で気付くしかない。
わたしも、彼女にもっと働きかけるべきだったかも知れないが、
お見合いを設定した程度にとどまってしまった。
(でも、お見合いって、いま、思えば、
オススメの人物を紹介するべきであり、引き合わせる人物を吟味するのが紹介者の義務なのに、
さして、知らないまま紹介してしまったという、反省に至る)
いやはや、暗くてネガティブな人を必死で立ち直らせようとするほど、
わたしは、余裕があるわけでもなく、立派な人物でもなく、・・・
至らないことを自覚させられるようで、自分に返って来るような気がして、後味が悪い。
しょせん、わたしは、凡人、小市民。
自分の幸せを守ることに精一杯。
それに、職場は、友人作りの場ではなく、仕事をする場である。
常識をもった個人が、仕事をするために集まるのが、職場だ。
不幸なひとを救い、明るい方向へと導くのは、
わたしごとき小者が思い上がったとしても無理がある。
自己犠牲や、無償の愛を唱え、実践されている、
素晴らしい人格の、熱心なボランティア奉仕家さまや、崇高な宗教家に、お任せしよう。
年賀状を今朝の明け方まで書いた。
その中の一人、中学時代の友人Sちゃん。
「ブログ見ました。写真のせいか、イメージが違ってました」
と今年もらった年賀状に書いてあった。
あれから、わたしはまた、ブログ写真のイメージを変えた。
書く内容も、日常の、食べたこととかは、あまり書かなくなった。
自作のヒドイ画像をヘーキでアップするようになった。
年々、羞恥心は薄れ、子供返り。
なので、Sちゃんの知っている、あほな恥知らずの中学時代のわたしに、戻りかけている。
でも、もう、ブログは読んでくれていないかも。
Sちゃへの年賀状には
「ブログ、まじめに読まないでください」って、最後に書き添えた。
またまたSちゃんの顔まで想像しながら書くと、書く内容が狭まりそうだ。
まったく関係ない話だが・・・
3年前から知っているけれど、今年、知人から友人に昇格した、新顔・友人Kさんに、
「あなたは、友達が少ないって言うけれど、プライドが高いからじゃない?」
と言われた。
そうかなあ・・・
たんに、人付き合いが面倒なだけなんだけど。
そして、常識があまりないのと、人に合わせるのが苦手なのと、(→典型マイペース人間)
グループによっては交際費がかさむケースがあり、単なる交際そのものにお金をかける気がないからだ。
たとえば、慣例となっているようなお土産のやりとりとか、「○○の会」の義理でのお付き合いとか集まりとか、
皆でお祝い金や、お礼金を集めて渡すとか、
そういう、実体のあるような、ないようなことに煩わされるのが嫌。
(ただし、自分の親族のお付き合いは別。身内びいき。身勝手です)
父もそうだったが、ハイソなサロンが嫌い。
あの、鼻をつくような、ぷーんとしたおカネのニオイが嫌い。
(実際は、おカネは大好きなんだけれど、おカネの現れ方、使い方が、嫌い)
学生っぽく、労働者っぽく、安酒場で、酩酊・空(から)理論で、クダ巻いているほうが、性分に合っている。
プライドが高く、教養がある方は、そんな下町の安酒場になんぞ行かないんだろうけれど。
ちなみに、ある方のブログで「プライド高く教養がある」という文字が目に入った。
そんな女性は、出会い系にはいない、と。
はい、わたしの知る限りでは、絶対に、いません。
理由は、出会い系に顔を出す必要がない。
プライド高く教養がある場合、お金もあることが多い。
自分に稼ぎがあるか、配偶者に稼ぎがある。あるいは、両方、ダブル・インカム。
なので、おカネのやり取りが暗黙の条件である、出会い系には行く必要がない。
映画「昼顔」や、東電女性社員事件のようなケースは、特殊、稀だと思う。
万が一、お金がなくても、プライドが高いと、お金がないことを堂々と表さず、恥じる。
条件は、違っても、人間であることには違いない。
でも背景が違うと、共通言語がないかも知れない。
「ふつうの学歴」と、「高学歴」は違うそうだ。
いまは、たんに4年制大学を卒業していても、高学歴とは言わないらしい。
大学のランクや、高い学力、勉強した内容、得た知識、専門性などが備わって、はじめて高学歴というそうな。
わたしなどは、まったく、その範疇には入っていない。
なので教養があるわけではない。
プライドが高いわけでもない。
あるのは、ひがみ根性と、楽天的資質。
(相反しているけれど、人生は矛盾で出来ている・・・と思っている・・・)
でも、出会い系に出入りしたいと思ったことは、若い頃から今まで、一度もない。
男女の出会いの場としては、あまりにも直接的すぎて、オブラートに包んだものがない。
そして、男女の関係のみを追究していて、口説く手間もあまりいらず、ハナシがまとまりやすいのだろうけれど。
結婚を目的にする正式な場ならいざ知らず。
(それでも、トラブルはけっこうあるようだ)
一番の理由は、動機がないことだ。
男女の出会いは、出会い系でなくても、ふつうにまわりにある。
(職種や職場、状況によっては、異性と出会わないケースもあるようだが)
ニーズの一致、需要と供給のバランスで、市場は成り立っている。
なので、どんな市場も、需要と供給が釣り合っている限り、活気がある。
パリのマルシェも、各々特色があって、需要に合わせたモノを揃えている。
お値段も、とうぜん、モノ、品質に比例している。
モノもヒトも、共通したものがある。(共通していないこともあるけれど)
女性の価値を経済に例えた、おもしろい例があるのだけれど
もうタイムオーバー。
またの機会に。
年末、さて、これから田舎に帰って、働きます。
お正月は、田舎で迎えます。
でも、ノートパソコン(WiFi付き)を持って行くので、更新できるかも?です。
そんなことするヒマがあったら、もっと働け~と、神の声。