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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

高齢ドライバー

2024-03-07 | 老い
高齢の人は、自分より若い人と交流を持つと、それはそれで刺激になる。
ただし、程よい歳の開きが望ましい。
あまり離れ過ぎると相手の気持ちや感覚が理解できない。
少し前は自分はそうだった、とか、少し経つとこうなるのか、とか、参考になったり、自覚する助けになる。
さらに、高齢の人は、その人が若い頃、お近づきになりたくてもなれないほど、格段に差があっても、老化によって少し能力が低下して、以前より差が縮まり身近に感じる。
ではあるものの、プライドばかり高い、能力の低下を認めない高齢の人は、老害予備軍になる恐れがある。
そこそこ素直な、能力が低下しても、わたしよりまだまだ、うんと上だったりするため、プライドは保たれる。
しかも、惜しみなく知識や見解を示してくれる。
ただ、考えが偏っていたり、間違いを平気で押し通したりする人は、やはり老害予備軍となる。

しかしながら、正しくバランス良く老化するのは、実に難しい。
客観的に判断する力が衰えると思われる。
誰しも自分を正当化したい。

(自分とは歳の開きがある)お年寄りの人とは、脳内で自由に交流する。
そのほうが、お互いにウィンウィン。
一緒に行動するにはやはり壁がある。
体力の個人差がある。
自分の心身が無理のないように動きたいため、人に合わせるのは苦痛になる。
それに、人によって苦手な行動がマチマチ。
トイレ不安のある人や、長く歩くのが辛い人、色々。
なので、脳内で交流すると自由。
一緒に実際に同じ空間、時間で行動しなければ、感動を共有できないわけではない。

だが、体を動かさず、家から一歩も出ず、脳内だけで活動すると、リアルな瞬間的なライブ反応が得られない。
ネットの向こうで生動画で繋がるのもありだが、やはり、実物の息遣いは直接感じられず、脳内の感覚に近くなる。
コロナ真っ最中はそれしかないが。
在宅勤務ならそれでよいが。

同じウォーキングをしても、室内でランニングマシーンで歩くのと、屋外で歩くのでは目に映るものが違う。
天候、季節、空気、景色、人々、、、その時だけの状況を肌で楽しむ。
脳内だけでは、実際に直接、直に感じるものとは当然違って来る。
そのリアルな反応が嫌で、刺激が強すぎたり、不快に感じたりすると、外に出ない人もいるが。
自分をどのへんまで出すか。
プロテクターの強度はどんな程度のものか。

ある高齢の方。
車で運転して好きなところに出かけておられる。
ご自身の心身が自立出来なくなって運転出来なくなったら、落胆して、活力をなくして、どうしようかと嘆くだろうと仰る。
だが、、、わたしは実は(例え近所のランチ店でも)車で一緒に出かけるお誘いを受けても尻込みする。
高齢ドライバーの事故が多いからだ。
本人は自覚がなくても。

トラブルが起きてから免許返上するのではなく、車でなくても行動できる方法を先に考えたほうが良いと思う。
(地域によっては、車がないと生活出来ない状況がある。
が、都会で引き起こされる交通事故とはまた違う)

わたしが暮らしている生活圏においては、車がなくても、公共交通機関を使えばどうにかなる。
どうしても車でしか行けないところは、工夫するか、やめるか、である。
緊急ののっぴきならない場合はタクシー利用もあり得る。
援助の手がない、経済的にも苦しい人は、行政機関に相談し、尚、改善出来ない場合は、どうすればよい?
いざという時の身内が近くにいる人は、それでもそろそろ車の運転は見合わせたほうが良い。
高齢になり車の運転があやしくなった母の場合、姉が母の車を売り払ったので、強制的に運転出来なくなった。
身内でもないと、そんなことは出来ない。
が、どんなに車の運転が上手な人であっても、高齢ドライバーの場合、わたしは助手席に座るのは遠慮したい。
知人の高齢の方は、歩くのが嫌いで、前は近所のスーパーに歩いて行っていたが今は車で行くそうだ。
それは、逆にしたほうがよいと思う。
車をやめて、歩いて行く。
必要であれば、嫌でも歩く。
だが、身内でもない人にそんな忠告はお節介だろうと思い、何もわたしは口に出さない。
身内も忠告しているのかも知れないし。

足、腰が悪い、痛い、だから、歩くのは避けて車を使う。
これは悪循環だが、仕方ないのか。
車を使わず、歩くのも嫌、となると、家から出ない。
そうやって、徐々に老いのソフトランディングか。

わたしの周りの人たちを見ていると、そういう流れが多い。
わたしも、いずれそうなる。

車で出かけたい、外の世界を楽しみたい高齢ドライバーさんとは、しかしながら、今後は、わたしとしては、ドライブ同行は控えたい。
つまり、距離を置きたい。
ということは、やはり自分の年齢や心身能力に合った人と交流することが、しっくりいく。


衰えにも色々あるけれど、、、

2024-03-02 | 老い
蝶ブログを私物化し(当たり前。わたし専用のブログ。毎月、使用料、払ってます)、好き放題に書く。
何を?
もう何度も何度も書いているのに、しつこく同じことを書く。
これはわたしをはじめ、高齢者の特徴でもあるが、ひとつ、老化現象ではないところもある。
それは、、、自覚していることだ。
(買い物も、家に既に買い置きしていることを自覚しながら、また買う)

書く前から、あるいは、書きながら、
あ、これ、2回目だ、、。
3回目?5回目?
さすがに10回は書かないが、事実は一つではあるものの、手を変え品を変え、当時の心境が時を経ると少し変わる。
(それが高じると、意図せず事実まで変わることがある)
1日1日、時は動いているので、同じ時間、時刻は2度とない。
だから、同じ事を書いても、毎日、日々、更新される(はず)。
だが、マイナーチェンジのため、書いた本人にしか違いがわからない。
なので、読む人は、ああまたか、うんざり、、、これ、何回目???となる。
過去の出来事で印象に残る、こだわっている経験なのだろう。
何度も何度も書いているうちに、自分の想いが精製される。


それはそうと、、、
趣味仲間の男性。高齢のお方、Aさん。
絶対に自分が高齢であることを認めない。
身体本体も身体能力も運動技能も頭脳も、衰えている自覚が全くない。
なので、この人の言う通りに従っていたら、わたしの身体が壊れる。
なので、ほんの少しでも具合が悪い予兆があると、わたしはストップする。 
自分の身体は自分で守らなければ、誰も責任を取ってくれない。
ましてや、わたしが具合が悪くなったとしても、付きっきりで看病してくれるわけでもなし、ヘルパーさんを雇ってくれるわけでもなし、最期まで看取ってくれるわけでなし。
せいぜい救急車を呼んで救急病院まで救急車に同乗してくれるぐらいだ。
わたしの家族が到着するのが仮に夜遅くになるとすると、病院の医療従事者の方々にあとは任せて、とっとと自宅に帰って行くだろう。
まだ病院に搬送されるまで付き合ってくれたとしたら「御の字(→死語)」。
そういう図が見えるため、自分の身体は自分で守る。
オリンピックの強化選手でもあるまいし、年寄りのお遊びに、身体を張る気は、全くない。
いつでも、「はい、さようなら」と荷物をまとめて帰る、退路を確保した、こころの準備はしている。
運命共同体でもない、お遊び(趣味)の関わりは、所詮、お遊びで、いつでも抜けられるニュートラルな場所にいる。
わたしにとって、趣味なんてそんな程度。
「生きがいだ」なんて真剣に思っていたとしても、本当の生きがいは、楽しい浮ついたことばかりではなく、生きるか死ぬかの、ギリギリを死守するための努力、みたいなものか。

話を戻す。
このAさんは、人の話を聞かない。
というか、聞きたい話しか聞こえない。
かつての晩年の姑と同じ。
脳がカチコチに固まって縮んでいるのだと推測するが、本人には自覚がない。
なので、そんな人と、あまりまともに話をしないほうが身のためである。
どうせ聞いてないだろうと、それをいいことに、わたしも好き勝手をしゃべる。
耳の聞こえない人同士の会話のようだ。

たとえば、二人一緒に同時に、別の趣味仲間と話していたとする。
話題は、かなり狭い共通の趣味分野。
広い範囲の会話ではない。
にもかかわらず、Aさんは話の内容をちゃんと聞いていないで、自分が好きな傾向の話だけが脳に残る。 
この脳のメカニズムは、自分を傷つけない。
プライドは保てる。
が、現状を把握していないだけである。
そういうことが、段々わかってきた今日この頃、まともに深刻に向き合わないことにしたほうが良さげだ。
その方向で舵切りしようと決めた。

歳を取ると心身共に衰えが現れるが、それを自覚出来ないところが、最も大きな衰えだと、人のフリ見て痛感する。


忘れたことを忘れる

2024-02-10 | 老い
さて、これからどうしよう。
今日のことではない。
今後のビジョン、見通しである。
長期的な計画は立てられない。
せいぜい、中期的計画。
(人生の残り時間を考えると)
しかも、息をしていても、わたしのアタマがふやけている可能性があるので、脳みそが機能している間。
だとすると、またまた時間は狭まる。

最近、恐怖に襲われている。
恐らく、早かれ遅かれ、多くの高齢の方々が経験することだろう。
新しい自分に、恐れ慄く。
記憶力の著しい減退。
脳みそキャパ低下。
新しいことが覚えられない。
ほんの少し前のことも、えーっとぉ〜、と、一呼吸して脳みそをギュッと絞らなければ、なかなかすぐには思い出せない。
こんな直前のことも忘れる??と、ワナワナ愕然となる。
で、冷や汗をかきながら、どうにか思い出す。
どうしても思い出せない時は、スマホで調べて答えを見る。
スマホでは見つからない時は、数ヶ月経って、突然思い出して、気になっていたことの辻褄が合ったりする。
すーっと、解けて、溶ける。

例えば、アタマの隅に引っかかっていたキーワード、「小さなサイズのエコバッグ」。

なんだっけ? 
誰との話だっけ?
どういう関わりだっけ?

昨年末、気になりながら、年を越した。
年が明けて、次女が我が家に来た時、ミスタードーナツの景品を3種類、出して見せてくれた。
その中に、小さなサイズのエコバッグがあった。
あ、これだ!
これ、これ。
これが、引っかかっていたのだ。

年末に、娘たちとわたしのLINE話題の中で、ミスドの景品の話が、流れの中で、ちらっと出た。
別にどうってことなく、話は終わり、その後も何事もなく時は過ぎた。
ただ、小さなエコバッグ、いいなあ、欲しいなあと、その時のわたしの脳が隅っこで反応したようだ。
だが、それっきり話題にも上がらず、日常ルーティンに埋没し、脳を占めていた小さな引っかかりは、段々薄くなり消えてしまった。
消えているものの、何かを忘れた記憶はある。
問題は、何を忘れたか、忘れたこと。
探しようがない。厄介この上ない。
モヤモヤが残るのみ。

が、次女がうちに現れて、わたしがミスドの景品を目にした途端、モヤモヤが消えた。
やれやれ。
冷蔵庫内の探し物なら、場所は冷蔵庫内に限っているから食品に限定されるが、冷蔵庫以外の全般では、何を忘れたか忘れたなんて、探しようがない。
TVや映画の中のことだったりすると尚更。
全く困ったものだ。
だがしかし、偶然見つかって、ほっとしたものの、また明日にでも別の脳内での紛失探し物が湧き出てくるやも知れぬ。
息をするかのごとく、自然に物事を忘れる。
そして、忘れたことを忘れるのだろう。
自然の流れなら止めようがない。
ま、しかたない。


順調に物忘れ

2024-01-30 | 老い
どんどん浮世離れして行く、わたし。
自分の世界。
これがまた気持ちいい。 
時折、はっとして現実に引き戻される。
(スマホに没頭して、電車で、降りる駅を通過してしまうのは、日常茶飯事)

最近、自分の行動が信じられない。
悪い意味で。
◯◯し忘れる。
これが多い。
1番頻繁なのは、電源の切り忘れ。
地球温暖化スローダウンをこころの底から叫び、いつも、エアコンの省エネには細心の注意を払っているのに、、、もかかわらず、、、外出時に床暖房のスイッチを切り忘れ、木枯らしの中、帰ってきたら、室内は、ほんわか春。
ぎゃ。

電気敷毛布も、主がいないのに(寝てないのに)、一日中ぬくぬく、ほかほか。
ある日は、あまりにも暑くて寝苦しく、異常気象かと思いきや、電気敷毛布の設定温度が最強のダニ殺しモードになっていた。
ダニとともに、わたしも丸焼けになるではないか。

火事に至らなければいいと言っても、そういう問題ではない。
自己嫌悪。
今後、益々この傾向は強まるのではないかと戦々恐々。
少しぐらい家人の、トイレの電灯切り忘れは許す傾向にある。
自分に甘く人にも甘く。
2人で各々の失態を許し合うが、こころが広くなって良かったね、では済まされない。
防犯などの保安もさることながら、家の安全上、危険だ。

最近の田中角栄さん御殿を始め、ろうそくの灯りで家屋を全焼した話はゴロゴロしている。
信心のろうそく、家や家族を守りたいためのろうそくが、家を焼き尽くすという皮肉な結果をもたらす。
「神頼み」よりも、「自分頼り」という、神様仏様からの直々メッセージか。
神様仏様は、自分で目一杯、力の限り努力した上で、更なるダメ押し、安心の上の安心のためにお頼みするもののようだ。
が、ろうそくに関しては???
神様仏様にお聞きしたい。

ちなみに、わたしの中の自分教・神様仏様は、無心すぎて、無邪気に無意識に、物忘れする。
ある意味、天国に一歩一歩、階段を登っているのか。
階段を踏みしめる時に踏み外さないよう、よく注意することが、自分教の教えである。
とかなんとか、何度も電気毛布や電気マットのスイッチがオフになっているか、確認している。
神様、今日は電源、これで大丈夫ですかねー。
それに気を取られ(かどうかは知らないが)玄関の鍵をかけ忘れていたりする。


老けたなぁと感じる時

2023-12-30 | 老い
人は、老化する。
体力、頭脳、メンタル。
どれかが飛び抜けて衰えるのではなく、どれも同時に少しずつ低下する。
わたしも、そう。

そう感じたのは、、、先日、10年前からの知人に久しぶりに会って。
(わたしのブログをご存知なのだが、もしお読みになったとしたら、ごめんなさい。
というか、ここでストップしてください)

わたしより歳上のその方は、わたしより早く歳を取る。 
そんな当たり前のことを事実として感じた。
そして、どんな元気な人も、どんな頭の良い人も、歳を取る。
これは避けられない。
特に、元々、わたしなんかより雲泥の差で頭脳が優れている人は、ほんの少しでもわたし寄りの老化を感じると、不思議な気になる。

父より11年若い母が老年の父のことをよく言っていた。
「あんなに賢かったお父ちゃんが、最近、前ほど賢くない」
前ほど賢くなくなった父でも、十分、その時の母より賢かったが。
父も父方祖母も、アタマは最期までクリアだった。
わたしもそうありたいが、体が言うことを効かなくなると、アタマだけ冴えていても辛いだけ。
アタマと体は同じ足並みで衰えていくほうが幸せだ。

で。
知人は、わたしの父と母の違いぐらい、わたしとは頭脳に雲泥の差がある。
そうなのだが、やはり寄る年並みには勝てない。
わたしが中学生の時に、家族全員で(同時、麻雀を覚えたばかりの兄、主導のもと)麻雀を一斉に始めた。(ただし母、除く。父、兄、姉、わたし)
その時に、当時50歳を超えていた父の覚えが悪かったことを記憶している。
わたしたち子供はスイスイ覚えるのだが、父はモタモタ。
チョンボも父にはわたしたちは寛容。
わたしは、父を頭脳明晰だと尊敬していたが、あれれ?新しいことは、若い人のほうが覚え易いのだと感じた。
歳を取ると、頭がカチコチになりやすい。
たとえ、頭脳明晰の50歳でも、普通の中高生には負けるようだ。
仕方ない。
生物は生まれてきたからには、その日から成長もするし、衰えもする。
避けられない宿命である。

というわけで、尊敬していたダントツ学業優秀の知人が、父同様に、ピーク時よりダウンしていた。
わたしは、ピークが12歳の時(人生のスタート地点あたり)だから、それから半世紀以上も経ちダウンが著しいけれど。

そして、かつて一緒に運動していた仲間だった知人だが、運動機能的にも衰えを感じた。
その人は、家庭の事情で時間が取れないこともあり、スポーツを全くしなくなったようなので、印象的にガクンと若さがなくなっていた。
どちらかというと、趣味は足腰を動かさない、アタマや感性を使うものなのだからか。
やはり、ウォーキングでもよいので、軽い運動は日常に取り入れたほうがいいと思った。
わたしも渋らず機会があれば、参加したほうが自分のためになりそうだ。

老けて見えたのは、ちょうど、歳を急に取る年齢に差し掛かっていたのかも知れない。
わたしだって、何年も会わなかった人には、同様のことを思われることだろう。
皆んな同じ。
誰だって歳を取って行く。
自覚症状がある場合もあるが、人の姿を見て、この人、歳取ったなあと感じることもある。
何度も言うようだが、当たり前なのだけれど。

ジタバタあがいても仕方ない。
落ち込むなどもってのほか。
年齢と共にやってくる変化を受け入れると、こころが落ち着く。
歳を取る感覚に慣れてくる。
アンチエイジングの人から見ると、だから老けるんだ!と叱咤されそうだが。
なんで自然の流れ、真理に逆らわなければならないのか、わからない。





目を見張る成長、かたや、、、

2023-12-05 | 老い
次女母娘が、冬物衣料(前回の忘れ物)を取りに来た。
今回は日帰り。
2歳になった孫は、来るなり、玄関前の土スペース(前庭とは言い難い)に、しゃがみ込み、地面に一つだけ成っていた小さな赤い実を指さし、「これ、かわいいね」と言った。
まあなんと!
このAI(=孫)、確実に進歩している。
どんどん言葉を覚え、単語だけでなく、フルセンテンスで臨機応変に喋る。
学習、習得スピードは、実に速い。
たった2年で。女の子は口が早いと言われるが、実際、身近な実例を3つ見ていると、そう思う。
男女の違いによる特徴の違いがはっきり出る。
1番上の男孫は、初めて言ったのは「デンチャー(電車)」「パン!」だった。
単なる単語。
しかし、「三つ子の魂百まで」で、彼は食いしん坊の電車オタクになっている。
同じ幼児でも、着眼点が違う。
間違っても小さなお花を見つけ出して、「これ、かわいいね」などとは絶対に言わない。
じいちゃん(夫)も、そう。
目に入らない。
人それぞれ、感性は違うものである。

意外にその感性の違いから、接点がない故に、摩擦を生み出さなかったのかも知れない。
生活において、感性を持ち出すと、とても誰かと同居できない。
例え愛する娘や孫とでも、わたしは同居は苦しい。
感性の違いによる快適、不快が、微妙に違う。
夫で十分過ぎるほど経験しているので、人に合わせて自分の「快適」を曲げ、「不快」に合わせるのは疲れる。
自分の快適は、相手の不快、、、この調整が難しい。
なぜなら感覚というものはお互いが正解なので、自分の主張を譲らないとすると、力が強い方に引っ張られ、合わせることになる。
性格が弱いほうは、いつも相手に合わせて疲弊する。

そんなことを考えながら、、、
同居はありえないなあと思った。
自分への介護が必要になったらヘルパーさんの力を借りながら、もう自宅では無理という時期を見極めるまでは移行期間を過ごし、その後は老人施設に入りたいと考える。

「若い人には、年寄りの哀しみが絶対にわからない」と、かつて姑が逆ギレするかのように怒りをぶつけて言っていた。
若い人にはわからないのは、よくわかる。
かつてわたしがそうだったから。
歳を取ってわかることがある。
幼児の1日1日の成長に喜ぶのと同じく、老いゆく者は歳を取って行くことを哀しみ怒る。
順送りだ。
ではあるが、喜ばしいことだけをきゃあきゃあ楽しんだら良いのでは?
哀しい方は、静かにじっとしていたら良いのでは?
観念するというか、諦観の心境。
とは言え、やはり、子供たちの成長にはエネルギーをもらう。
わたしの衰えるエネルギーの充足になるかも知れない。
他から得るのではなく、自家発電エネルギーを作り出せるように頑張りたいところだが、新しくは無理そうなので、今まで蓄えきたエネルギーを省エネでエネルギーが底をつく日を遅らせている。

そう考えるのは、今のわたしの年齢、状態だからだろう。
20年後はまた違うことを思っていると想像する。

と、書きつつ、ふと思った。
自分が誰かに介護されるシュミレーションは想定しても、夫を介護するシュミレーションが入っていない。
自分のことだけを考えているわたし。
この自己チュー路線は一生続きそう。


自分より下を探して安堵?

2023-12-03 | 老い
バス停での待ち時間。
2人の女性。
「最近、前みたいにチャッチャと物事が出来ないようになった。歳は取りたくないね」と1人の人が嘆いておられる。
先に自分の年齢を明かした女性に対して、さらにその4歳年長だという女性が気を悪くする。
「貴方の歳で、もう歳だからアカン、なんて言ってたら、ワタシなんかどうなるのよ!」
「4歳違うと、この年齢での4歳はえらく違うんよ!!」とムキになる。
昭和14年生まれと、昭和10年生まれ。
84歳と88歳か。
母より少し若い。

うーーん、、、
やはり85歳の坂は、一つの区切りのようだ。
だが、84歳の女性が20歳の時に腎臓?を切り取った話をすると、途端に88歳の女性の声が優しくなった。
その後の病状や、今の状態など、興味深く(同情心を持ちながらとは思うが)聞いていた。
こんなに、ころっと変わるものなのか。

近所の女性にも、こういうタイプがいる。
あの人(共通の知人)、どうしてる?という話題で、健康状態が良好だとわかると、途端に落胆する。
病気や足腰が大変な状態だとわかると、安心するようだ。
他人の不幸は蜜の味。
わたしも、こうなるのだろうか。
心情のシェア、共感ではなく、どうも、自分より辛い状態の人を様子を知り、自分はそれよりマシだと安堵する。
同情するわけではない。気が軽くなるかんじか。
人間としてそれはわかる。
が、胸の中で思うのは全く自由だし、止めることも出来ないが、あからさまに外に出すと、あるいは、無意識に外に出ると、この人、どうなんだろう、、、と思ってしまう。
正直すぎる。
顔はにこやかでも、もっともっと腹黒の人はいるにしても。

喉に痰が詰まったから、道端に吐き捨てるようなものか。
だが、痰が詰まって死ぬほど苦しいのに、吐き出すなと言われても困る。

ところで。
脚本家の山田太一さんが亡くなった。
彼の脚本のTVドラマは観ていた。
車椅子の人に対しての、優しいメッセージが込められていたものもあったようだ。
困っている人は勇気を出して手助けを求め、求められる側は優しく手を差し伸べる。
当時の考え方、迷惑をかける、かけられる、の、新しい提案だったそうだ。
弱者に優しい社会を目指す発信だったとか。

人それぞれの余裕や我慢、許容の範囲、温度差をどう調整するか。
なんだか考えさせられた。

そして、蛇足ではあるが、
お元気な80代後半の人々の会話を聞いていると、
わたしはまだあと20年もある。
母世代の人々を見送ったので、その生を全うする大変さがしみじみわかる。
今度は見送られるのは自分の番だが、まだ20年もあるのかと複雑な心境になっている。





おばあちゃんの一生

2023-12-02 | 老い
とりあえず、写真を直近撮った中から選んでブログに設定。

さて。
ふと、10年後のことを想像する。
1番下(5番目)孫が中学に上がった頃は、ばあちゃんは完全にご用意済みだろう。
さらにその10年後までの、ばあちゃんは、容易に想像できる。
母や姑、祖母や義理の祖母(姑の姑)を見ていると、歳の取り方や、家族との関わり方が等身大サンプルのようによくわかる。
65〜75歳、75〜85歳。
さらにこれに85〜95歳が加わる。
そしてまたまた95歳からのコースもある。(母が歴代実績サンプル、更新中)
とりあえずは、ここ10年でシュミレーションしてみよう。
時代背景の違いも大きく影響しているが。

以下は、わたしの身近な母たちの様子を元にしているので、データ平均値でもなんでもなく、全然違う人もいる(はず)。

65〜75歳。
新聞の記事では事件や事故で年齢と氏名が記されると、「老女」という表現になる。
本人には老人という自覚が全くない、前期高齢者群。
孫もまだ成長期。
孫や子供たちと積極的に関わる。
子供や孫たちにとっては、元気なおばあちゃん。
外部イベントに一緒に参加したり、美味しいものを作ってくれたり、お小遣いをくれる。

75〜85歳。
少しずつ心身共に老人の自覚が深まる。
孫たちも離れ、それと共に子供たちとも距離が生まれる。
が、85歳は本格的老人の入り口。
転げ落ちると、速い。
病気になると、そのあたりで他界することもある。
病気が長引くこともある。

おばあちゃんたちは歳を取り、やがて亡くなるプロセスをわたしは家族として共にしてきた。
いくつかの実例を肌で感じてきた。
その中で最も身近だったのは、姑。
特に、孫との濃厚な関わり方が参考になった。
徐々に成長していく孫との距離感。
嬉々として孫たちに尽くし接していた姑も、段々体力的に疲れて来る。
孫たちを饗応する機会が激減し、内心、ほっとしていると思う。
体力の衰えと共に気力が衰えるが、ぜひ、こうしたい、という要望や理想はなかなかなくならない。
更に老いていく姑、その軌跡をなぞるかのように老いていくわたし。
重なる。
モーパッサンの「女の一生」じゃないけれど。(若い頃、読んだが、どんな内容だった??忘れている、、、、また読もう。ひとつ、楽しみが増えた)

昭和、平成、令和と生きたおばあちゃん、彼女たち。
実母はわたしが結婚するまでと、その後出産するしばらくの間、姑はわたしが結婚してから、ずっと。
夫より濃厚に関わってきた。
毎日の機微や、こころのヒダ、人生への付き合い方は、おばあちゃんたちのほうが、わたしには、ずしっと感じるものがある。

特に姑とはよく話し込んだ。
舅(姑の夫)や夫(姑の息子)には聞かせらないような、女の本音が語られた。
実際、舅や夫が近くの部屋にいたら、声をひそめたり、話題を変えたりした。
男たちには聞かせられない、女たちの作戦会議。
家父長制バリバリではあったが、長編大河ドラマ級に、女たちに動かされていたのかも知れない。
姑の泣きごと、悔しかったことも聞いた。
時代背景のせいだったり、経済的自立をしていないせいだったり。
姑の悔しさ、芯の強さは、ひしひしと伝わり、特に無念さは、わたしの胸の中に引き継がれている。
内容については、一部は墓場まで持っていくつもりであるが。

中長期的に遠い将来、歳を取ったわたしが外出できなくなり、人前には出られなくなった時、この想いを小説に書こうと思っている。
ただし、その頃は、脳ミソはすっかり役目を終え、やる気も、恨みも悔しさも消えていることだろう。






身体も資源。無限ではない

2023-11-26 | 老い
一昨日、七五三詣の帰りに、高齢男性が転倒して頭から血を流している現場を車で通り過ぎた。
警官が両側に2人ほどいた。
7段ぐらい?の階段から落ちたと思われる。
頭が地面側、下になって、下半身は、階段上部で止まり、足の向きは頭と逆さになっていた。
階段も地面もコンクリート(またはアスファルト?)で、土ではない。
見かける直前に救急車が走っていたので、その後すぐ病院に搬送されることだろう。
衝撃的なシーンだった。
大丈夫だろうか?
出血しなくても危ない状態のことはあるが、出血していると、周りはショックを受け呆然とする。
他人事とは思えない。
あの人がわたしであっても、なんの違和感もない。
階段を踏み外して頭を打ったのか、ふらっとして階段から転げ落ちたのか、、、
わたしも気を付けなければいけない。
(あの人が、不注意だったわけでもないと思うが)

どこに何が潜んでいるか、わからない。
良いことも悪いことも、普通の日常も、一瞬一瞬は、大事にしたい。

さて。
蝶ブログに優しいコメントをいただき、ほっこりしている。
ありがとうございます。

それはさておき。
ある趣味仲間の人、Aさん。70代男性。
「家ですることが全くない」んだそうだ。
スポーツマンで、体を動かすのが好き。
毎朝、ウォーキングは日課で、1週間に9日、(そのうち2日は、1日に午前、午後と2箇所、移動してダブルヘッダー掛け持ちあり)スポーツに出ている。
あちこち出掛けたり、歩き回ったりするのも大好き。
オペ入院中も、暇を持て余し、病室を抜け出し病院周囲の地域を歩いていたそうだ。
近大マグロのような、泳ぎ続けないと死ぬタイプ。

Aさんに40キロ・ウォーキングを誘われているが、お断りしている。
わたしの膝を曲げる度にポキポキ鳴る症状について、医師に相談したところ、あまり良いとは言えないとのこと。
膝曲げトレーニング、スクワット、長距離ウォーキングは避けた方がよいと言われた。
歩くなら水中か自転車がオススメだそうだ。
その診断結果(単なるアドバイス)をAさんに突きつけ、堂々とお断りすることが出来て、ほっとしている。

人生の半歩先行く、わたしが行動見本にしているのは、2歳上の実姉。
彼女は卓球歴56年だが、ウォーキングは全くしないそうだ。
旅行で歩くのは何の支障もないが、ウォーキングは、夫殿と共にNG。
足か腰か、どこやらが悪いらしい(具体的には忘れた)。
でも卓球はまだアマチュア第一線。
歩ける持ち歩数を全て卓球に使っているのだろう。

姑も晩年はよくそう言っていた。
一日の持ち歩数が決まっているから(ある一定量を過ぎると足が痛くなる)、制限された貴重な歩数を考えながら使っていた。
と言っても、1日の前半は何も考えずに好きなだけ使い、使い過ぎたと感じたら、後半はセーブする、といったような大まかなもの。

支障をきたしてから、痛くなってからでは、修復に時間がかかる。
一歩手前でやめておく。
食欲なら腹八分目、歩行なら足八分目。
にもかかわらず、動き回る制御装置の壊れたAさんには、全く理解を超えている。
Aさんのバロメーターや感覚で判断されては困る。
責任は取ってくれないので、自己責任としてお断りしている。
なんでも、基準は自分。
人に振り回されて身体を壊しても、泣くのは自分。
だが、悪くなる一歩手前でやめる、その頃合いを見極めるのが難しい。
バブルは弾けなければ、バブルだとわからなかった。
バブル崩壊の直前で切り抜けた人はすごい嗅覚。
大抵は、行くところまで行かなければ止まらない。
身体もこころも、欲も、八分目を良しとするようになったのは、わたしはつい最近だ。
追い求める頂点の手前で引き下がるほうが、身を守ることを今までの長い?ドジ人生で学んだ。
身を引く引け際に、自分なりの美学がある。





認知症散歩

2023-11-21 | 老い
認知症の人が散歩の途中に行方不明になる件数が増加しているらしい。
重症ではなく、軽症の人に多く見られるとか。
足腰達者で体力もあり、元気なだけに、どんどん遠くまで行ってしまうとのこと。
また、徘徊も、意味もなく徘徊しているのではなく、本人なりの理由があるそうだ。

なので、外に出たがるご老人を家に閉じ込めるのは良くないそうな。
迷子になって居なくなったらすぐ警察に連絡すべし、と勧められるが、これだけ案件が多発すると、警察も手が回らなくなってくる。
何度でも警察に声をかけて下さい、と言われても、なかなか何度もになると、恐縮するし、こころ苦しくなりそうだ。

わたしは、団体での散歩はするが、一人となると、、、どうだろう。
かえって一人のほうが、気楽だ。
行方不明になる人は、家族がいて、行方不明になったことに気づいてもらえた場合。
独居なら、ふらり、どこへ行っても、待つ人もないので、わからない。
認知症で行方不明になり身元がわからないまま、施設に入居して10年のお年寄りもいる。
身寄りがないのかも知れない。
日本は手厚く保護してくれ、社会が整備されたと感じる。
時代が時代なら、全く様相が違う。
人権問題然り。 
豊かな国になったものだ。
が、その一方で、豊かになったらなったで、メンタル問題などが生じてくる。

話を戻す。
12年前と10年前に、海外一人旅に出ていて本当によかった。
今なら、絶対、迷いに迷っていることだろう。
あと10年ぐらいは、持って欲しい、わたしの脳みそ。
今しかできないことをしたい、としみじみ思う。