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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

笑う余裕はありません

2023-11-12 | 老い
いつも利用している私鉄電車の最寄り駅。
改札口で大きな怒鳴り声。

「ない、って言われも困るんだよ!」
自動改札機を通り抜けて外に出た50歳以上ぐらいの男性。
関西弁ではない、このあたりでは聞きなれない標準語のイントネーション。

改札口手前で身動出来ず、改札機に引き止められている状態で、初老の男性が足を止めている。
「だったら精算してくるしかないじゃないか!!」
と、また50歳代ぐらいの男性。
たぶん、親子で電車に乗って、先に息子が改札機を通り、次に父親が出る間際になって切符がなくなっていたのだろう。
改札機を挟んで、親子で押し問答。
怒り狂う息子と、困惑する弱々しい小柄の父親。
とてもよくわかる、切なく気の毒な哀しい場面。
多分、まだそういう状況に慣れていないのだろう。
親が失念する状態。
年齢的に見ると認知症の入り口付近。70代後半〜80代前半?
家の中での出来事なら影響はあまりないが、外で、外部を巻き込んで進行している状況は、周りに影響も与えるし、通常より冷静さを失う。
焦って集中力が飛ぶ。
何度かそういう状況に遭うと、親に注意を促すか、それでも頼りなければ、親の切符を付き添い者(子供)が持って、降りる時に手渡す。

怒りが起きるのはよくわかる。
親の認知症初期段階は、認知症だと気づかない。
いつものしっかりした親だと思っているから、現実を理解できず、受け入れられない。


ちなみに。
うちの家のお向かいさんの息子さんも、いつも大声で、認知症初期症状(と思われる)のお母さんを怒鳴りつけていた。

なぜ、しない?
なぜ、できない?
なぜ、こんな当たり前のことが?

なぜ、こんなことをする?
なぜ、いつものようにしないで、デタラメな、むちゃくちゃななことをすんだ?!

響き渡るような怒号が続き、気の毒な思いがした。
やがて、怒鳴る声は聞こえなくなり、愛犬に話しかける声だけになった。

お母さん、どこに行かれたのだろう?
この世にはおられるのだろうか?

この家のご主人だったお父さんは、明るく社交的な方で、いつも家の周りをホウキを持って掃除され、顔を合わす度に笑顔で挨拶され、わたしの子供達の相手をしてくれた。
よく散歩され、近所の子供たちにも声掛けされたりしていた。
当時は最も早い55歳で定年を迎えられ、家でリタイア生活をされている若い元気なお父さんだった。
娘さんと息子さんがおられ、かつて(35年ぐらい前)、「結納品の数々が届いたので、見に来てちょうだい」とお母さんに招かれ、お邪魔したことがある。
しかし、いつの日からか、息子さんだけが戻って来られ、家におられる。
お姉さん(または妹さん)は、ごく稀に車で実家に訪れて来られる。
大人しそうなお母さんは、ごくごく稀に道でお見かけしたことがあるが、やがて、怒鳴られる声だけになり、声も聞こえなくなった。
どこかの施設にでも入られたと推測した。
自治会もご主人が亡くなられたずいぶん前から脱会しておられるし、亡くなったとしてもわからない。
毎日暮らしている、真ん前の家のことなのに、まるで遥か遠方の地に住んでいる一家のごとく。


と、話は逸れに逸れている。
話を戻す。

駅の改札口で見かけた親子は、今からが大変かも。
ではあるが、認知症の症状を把握すれば対策も講じられる。
入り口、まだ序の口で、それ以上、進みは遅いかも知れない。
あるいは、進まないかも知れない。
誰にでもある失敗なので、初めて接した時は理解出来ず頭に来るが、そのうち慣れて来る。

昨日も、座り込んでバッグから一つ一つモノを取り出して周りに並べ、必死で探し物をしている高齢の女性と、その横で立って待つ高齢のご主人を見かけた。
その状況が痛いほどよくわかる。


子供叱るな、自分も来た道
年寄り笑うな、自分も行く道
そう言われるが、
子供ならぬ年寄り怒るな、自分も行く道

笑う余裕も、叱る余裕もなく、
怒らないで、諦観、達観と悟りの気持ちで受け入れてね、とお願いしたい。


おじいちゃん、おばあちゃん

2023-11-11 | 老い
昨今は、核家族が普通になっている。
多世代で同居している世帯は、進んで同居している場合と、やむを得ず同居している場合がある。
家族のうち、誰かが不満を抱えることがあり、家族内で内紛の種が生まれ育つ流れもある。
例えば、夫の親と同居して、妻と娘がグループ化して、「夫と姑」と対立するケースがある。
夫は母を孤立させないように母側に付く。
その一方で、妻は不満解消には、はけ口を子育てに向け、子供を味方に付ける。
すると家族内では夫は孤立する。
ギリギリのラインで家族は(表面上は)成り立っている。
難しい。

核家族が増えて一般的になると、嫁姑の争いや、嫁イジメなどの話は、小説の中の世界になりつつある。
家の中に主婦が二人は、紛争の元、確執の原因。
しかも、二人とも無職主婦なら、尚更。

今は、女性も働き、共稼ぎ夫婦が普通になり、子供は0歳から保育所に預けることができる。
親が子供の世話を365日24時間、家でする時代ではない。
おばあちゃんが孫の面倒を、家で子供の勤務時間中、見る時代ではない。
(イレギュラーで見るケースはある)
しかも夫も妻同様に家事育児。
時代は確実に変わった。
女性の社会進出である。

昔は、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に生活していた。
ひいじいちゃん、ひいばあちゃんもいた。
小さな子供も老人と暮らしていた。
若いお嫁さん、その上のお嫁さん(若いおばあちゃん=姑)、そのまた上のお嫁さん(1番上のおばあちゃん=1番歳上の姑)、、、と家にお嫁さんが三人いることもあった。
夫のきょうだいも一緒に住み、一人一人独立していった。

老人は更に歳を取り、病気になり、家族に見守られ息を引き取っていた。
ずいぶん大昔のことのように思えるが、わたしの実体験、家族の原風景の一部である。

自分が歳を取ると、自分より上の世代のことが頭に浮かぶ。
あんな風に歳を重ねていき、あの世に旅立って行った、というパターン、実例をいくつも見ている。
ただし、地域限定。
世の中は、時代は同時代であったとしても、都市部と地方では違う。
職業によっても違う。

わたしの孫たち(姑のひ孫たち)は、元気な頃の姑とも交流がある。
姑が亡くなった直後の姑とも対面しているし、火葬された姑とも対面している。
小学生にもなっていない幼い子供にとっては、どう映るのだろう。
今は意味がわからなくても、その後、なんらかの記憶として残るだろう。
わたしの祖父が亡くなった時、わたしは3歳6ヶ月だったが、その時の様子を断片的に覚えている。
亡くなる以前、祖父が家で療養していたことも覚えている。
祖父の部屋は、内蔵に隣接する、蔵の前の廊下を進んで右にある独立した角の和室。
2方面L型に配置された障子を開けると両面が廊下と一続きになり、裏庭が見え、中庭へと繋がる。
部屋に遊びに行くと、祖父は病気のせいで片手が不自由になったため、歯で、お菓子袋を切って開封して、わたしにお菓子をくれた。
3歳でもちゃんと記憶はある。
そのシーンのインパクトが強いということは、よほどお菓子が嬉しかったのだろう。

この祖父の思い出の文章を書いていて、涙が溢れてきたのはなぜだろう。
涙が止まらない。無意識の涙。
これは、きっとセルフセラピーになっている。
涙を流すことは、癒されるらしい。

祖母は、祖父の世話を最期までし、その24年後に他界した。
長寿だった。
その時の祖母の長寿年齢を母はもう超えている。
そしてわたしは、祖父の世話をしていた頃の祖母の年齢に近い。
繰り返している。
重なり、オーバーラップする。
が、今は舞台は、介護施設、病院。

老いや介護、死は、生活シーンの中の一部には組み込まれていない。
別のところへ、アウトソーシング。
家族に代わる代行システムが整っている。
選択肢が増えた。
それによって得られたものは、女性の社会進出。
得られたものの替わりに、失われたものもあるはず。
何かを得るためには、なんらからの犠牲を要する。
何かを手放すことになる。

(老老介護や介護離職など、まだまだ課題山積)

時はどんどん進む。




元気なうちに

2023-11-10 | 老い
終活について、その2。
男性と女性では、終活の傾向が少し違うように思う。
男性は、書類、手続き準備、金融機関や、税金などの流れがわかるもの、主に事務的内容。
女性は、身の回りのモノや、不用品の処理など、固体物の整理。
男性で一生懸命、断捨離をしているブログは見たことがない。
女性がほとんど。
なぜなんだろう?

主に家に居て、モノを積み重ねていったのは、家事をしている女性だからではないだろうか。
(モノを捨てずに増やしていく戦中派世代に、ヘキヘキして反動で必要以上に捨てまくる人もいる)
わたしが知る男性たち(父、舅を含め)は、外回りの仕事や、庭、盆栽、畑の手入れをする人が多い。
家にじっと居る場合は、病気になった時。

シニアの皆さんのブログを拝見すると、なんやらかんやら健康なうちにと、なかば焦りながら追い込み、駆け込み活動をしておられるようにも受け止められる。
自然体で、というわけには行かないようだ。
残り時間は少ない、と、せき立てられる。
そして、人の行動の裏には必ずビジネスがついて回る。
人の流れは経済を回す。
溢れるばかりの旅の広告。
今、行っておかないと、いつ行く?
だが、外出中、トイレ不安を抱えながらでは楽しめない。
少しでも健康に翳りが見え始めると、途端に旅行どころではなくなる。
旅のために体調を整えなければならない。
結構、プレッシャーである。
プレッシャーがプラスの効果を表すうちは良いが、負担になると旅も億劫になる。
お金がなくて旅行出来ないのと、健康事情で旅行出来ないのと、家庭事情で旅行出来ないのとでは、どれが辛いか?
全ての条件をクリアしていても、旅行に行きたくない、というのもある。
趣味、嗜好の問題か、あるいは、こころの問題である。
何もやる気が起こらない、それが長く続くと精神的に疲れる。
こころは、厄介なものだ。

気分の良い晴れた日に、近所を散歩するのは快適だ。(今は、近所はしないけれど)
少し足を伸ばして植物園を歩いたり、ハイキングしたりすると高揚する。(旅先などで)
気分がイマイチの時は、自宅に篭る。(イマイチでなくても、篭る)
雨なら映画でもよい。(晴れでも行く)
読書もよい。勉強もよい。創作もよい。
だが、そんなことが大嫌いで苦痛の人もいる。
それぞれが自分が楽しめることをして、好きなようにすればよい。
(わたしは、自分は何が好きなのかを探す行動が好き)

こんなことばかり書いても、何の薬にも毒にもならない。

ちなみに、わたしは、終活、たっぷりすべきことがある。
あまりにもお尻が重く、全く手を付けていない。
モノが捨てられない自分が変わるのを待っていては、終活しないまま、あの世に行ってしまう。
終活しない人は羨ましい。


自分を優しく受け入れる

2023-10-22 | 老い
楽しくない娯楽性のないウォーキングではあるが、良い面もある。
それは、、、休日に寛ぐ家族連れや恋人、友人たちが秋の気候に誘われて、賑やかに繰り出してきている場面に出会うこと。
日常には顔を合わさない人々と同空間、同時間を共にする。
しかも美しい景色、爽やかな季節。

そして、1人で公園を無計画にぶらぶら散歩するのもいいかも知れないが、1人なら面倒になり、わざわざ電車を乗り継ぎ都会や遠方にまで足を延ばさないだろう。
家の近所、近場で済ましそうだ。
参加者は全員おひとり様なので、なんだか寂しくなく、団体戦的パワーを生み出す。
(歩く距離は離れていても)

悪くない。
問題は、さあ参加するぞ!と、自分の背中を押せるかどうか。
自由参加であるし、予約も要らないので、自由意思に任せた気ままな決断となる。
「いつでも行ける」は、「いつでも行かない」になり、かえって制限があるほうが、行動のモチベーションになる。
「最後の一個」だとか、「今月限り」だとか「先着〇〇名限り」だとか、そういうのに弱い。
販売促進の場合はその心理を利用して、あまりその気でなくても、購買意欲を喚起させる。

べつにモノを買うわけではないので、しかも、ご褒美がもらえるわけでもない、承認欲求も満たされない、となると、なかなか潜在欲求そのものもが薄いところを更に呼び起こすには、それなりの強い動機付けが必要だ。
誰にでも出来る、特殊技能や能力は要らない。
(病気や怪我の人、どうしても時間が取れない人、それどころではない緊急事態の人もいるが)
ただ単純に自分の足で歩くだけ。
それに意義を感じるには、考え方そのものを変えなければならない。
「健康」だけでは、ぼんやりしすぎて、重いお尻を上げるには、ぼやけてしまう。
そこに付加価値を付ける。
美しい景色だの季節感だの、明るい人々や街並みの光景だのと。

だが、若い人には全く魅力を感じないように思う。
わかる。
エネルギーの発露の仕方が違う。
方法も違う。
同じお一人様なら、1人で登山、マラソン、キャンプなど、もっと高みを目指すことだろう。
三浦雄一郎さんじゃあるまいし、若い頃からスキーをやってないと、老年になっていきなりスキーでは、骨でも折ったら大変。

リタイアして、あり余る時間をどう使うか。
行きの電車の中で、競艇だか競馬だかの新聞を広げて熱心に予想している男性がいた。
わたしの昔のイメージでは、先入観で特定の層を当てはめる。
耳に鉛筆を挟み、野球帽、グレーの緩い超普段着の中高年男性。
「矍鑠(かくしゃく)とした」の真逆イメージ。
それはそれで、好きなことに熱を入れ上げるのだから、他人がどうこうと口を出すものではない。
そういう使い方もあるわけで。
生活や家庭が破綻しない範囲内で楽しむには結構なことである。
(わたしの身近にはいないだけで)

話を元に戻す。
今回の160人超えの「歩く会」参加者。
季節、天候、場所、コースに、人が集まる原因があり、人々の参加意欲を促したのだろう。
この数は、盛況な時の社交ダンスパーティと参加人数が似ている。
年齢層もほぼ似たり寄ったり。(ダンスのほうが少しだけ若い)
だが、社交ダンスは、三浦雄一郎ではないが、ある程度、キャリアを必要とする。
70歳から始めても絶望的である。
習得するのに時間がかかる。
今から社交ダンスを始めようとしている方には申し訳ないが、雪を見たことがない南国生まれの人が、70歳から初めてスキーをするようなものだ。
この独特なカースト的偏重、閉鎖感が、社交ダンスをまた敷居の高いものにしている。
社交ダンスではなく、社交ダンス的ダンス、社交ダンス的軽体操、フォークダンスのようなものであるなら、なんの問題もない。
老人ホームなどで音楽に合わせて楽しみながら体を動かすには最適である。

と、話は相変わらず逸れている。

カラオケ同様、誰にでも気軽に幅広く参加出来るものは、重宝して有り難い。
そこから派生して、レベルアップしたりする必要もない(中には歌謡教室に通う人や主宰する人、歌手目指す人、自称歌手、とりあえず歌手もいるが)、いつも毎回完結が気楽で良い。
最初のスタート門戸が広い。
だが、その気楽さはかえって、特別なモチベーションを引き起こさない。
パラドックス。

ではあるものの、プライドの高い人、負けん気の強い人がありがちな、誰でも出来ることを軽く低く見る、そういう変な自意識は捨てるのも、ひとつの自分の殻を破ることになる。
「誰でも出来るのに、自分は出来ない」についての解釈。
「しようと思えば出来るが、そんな程度の低いことは、ばかばかしくて出来ない」と自分で高めから見て選択しているつもりでも、実際は、「しようと思っても能力が追いつかず出来ない」という、選択肢がない状態に陥っていることがある。
出来ないことを本人は気づかない。
「出来るが、しないだけだ」と思っている。

そうやって、どんどん歳をとって行く。
少しでも自覚しているなら、自分の行動を見直すチャンスでもある。
見直してそのまま、の場合は、自分の効能書き、性能も書き換えた方がいい。
「しないのは、能力的に出来ないから」
「プライドが邪魔して恥ずかしくて出来ない」という局面から、「実際に出来ない」と移行していることがある。
「やったら出来るがしない」から「やっても出来ない」へ。

ではあるものの、しなくてもいい、出来なくてもいい。
別に命まで取っていかない。
自分はどうしたいかは、自分が決める。
わたしに関して言えば、今までの自分よりランクを落とすことを受け入れている。
有名な高僧のように生きながら成仏はできない。
(なんて、高くなったり、低くなったり、例えが極端)

今まで価値を見出さなかったことをもう一度見てみる。
新しい自分に、新しい景色が広がる。


下山迷路

2023-08-25 | 老い
下山。
膝に悪いらしい。
登山、行きは苦しいけれど、頂上に登る使命感、期待、楽しみがある。
なんと言っても、これまで耳にしている、まだ見ぬ景色が見られる。

途中までしか登らず下山するのも勇気が要るそうだ。
有名な登山家がそう言っていた。
一番大事なのは、自分の命を守ること。
そのためには、勇気を振り絞って下山する。
危険な山を登るのは勇敢で脚光を浴びる。
逆に途中で降りるのは、不名誉で臆病者のレッテルを貼られる。
それでも理性を振り絞って下山する。
一旦、スタートすると勢いが付いて、なかなか進路変更しにくいものだ。
まして下山など、プライドが許さない。

自分の命を犠牲にしても挑戦したい魅力があるだろう。
自分との闘いになる。

それは冒険家の挑戦。
一般人でも、危険な魅力は身近にたくさんある。
日大生の麻薬然り。
手を出すと危険だが自己責任でスリルを味わう。
手軽で日常生活的で、そんな大それたことだという、あまり自覚がない場合も多い。
法律に触れなくても色んな誘惑はある。

下山の話が、またまた脱線している。
自分の意思で、自分の状況を見て下山する。
が、姥捨山に連れて行かれようとすると、全力で抵抗する。
そんなに悟りを開いている人はいない。
まして、自分の命と引き換えに。
命の灯火を自分で消したくなる、こころの病気もある。
ふと死神に呼ばれる。
いつも家族は目が離せない。
そういう家族を抱えると、家で1人にさせられず外出もろくに出来ないという嘆きを何人か直に聞いたことがある。
大変だ。

と、またまた下山から話が逸れた。
人生の下り坂を降りる下山。
生物は生まれて死ぬのは、当たり前。
生命は生まれ、いずれ消滅する。
にもかかわらず、生きていて元気なのに、下山。
だが、摂理である。

いつまでも嘆き苦しみ執着するより、あっさり捨てると楽。
だが、そんなに教科書のように簡単にいかない。
過去を捨てろとは言わない。
捨てる必要はない。
過去は過去で、それを積み重ねた結果、今を形作っている。
良いことも悪いことも、過去を受けいれ、これからの時間に目を向ける。
悪い過去なら捨てて無かったことにするのは合理的だ。
が、良い過去にいつまでもしがみついているのが厄介だ。
損切りか、勝ち逃げか。英断しなければ終わらない。
宴は延々と永遠には続かない。
時代が移り、過去の栄光は消えて、虚無感に襲われる。
良い目をした人ほど、過去に縛られる。
ま、仕方ない。
そういうものだ。
悪い過去でなかっただけマシだ。

住まいや生活も縮小しダウンサイジングする人がいる。
省エネ。
大きくするのは大変だが、小さくするほうが楽かも。
無理やりではなく、自然に徐々に成り行きにまかせてが良いのでは。
歳をとると食が細くなるように。
いつまでも大きいままが良いなら、そうすれば良い。
規定やルールは個人個人によって違う。
(周りに多大な迷惑をかけなければ)
自分が良ければそれでいい。

100歳の目標を立てよう

2023-08-01 | 老い
「裕」さん。
芸名がある人物。
わたし独自の力で生み出した、わたしに関する彩りの一つ。
インターネット繋がりの皆様、これまたわたし独自から発信したところの繋がり。
こころの宝物である。
電子上だけでなく、リアルにも登場する。
実際に皆さん生きているLive繋がりなので、これまたリアルタイム、リアル繋がり。
毎日、生きていることを実感する。

ところで。
トム・クルーズ。
母のところに2時間かけて行った帰りに、映画館に寄って、彼の最新作を観た。
ミラクル超人だった。
ハリソン・フォードの80歳超えとはまた違う現役ぶりを発揮していた。
スゴイ。
厳しく自分に課した日頃の鍛錬、トレーニングは想像に難くない。

ちなみに。
自分独自に関しては自慢できることはないが、リアルで繋がり交友関係にある人はまあまあいる。
満足している。
趣味を通じてのお付き合い。
仕事では偉業を成し遂げなかったが、家族をつくり、それぞれの足は引っ張らなかった。
縁の下から地味に後押しした。
と自分では思っているが、家族には、「どこが?」とあきれられることだろう。

それはそうと。
素晴らしい100歳の皆さんが登場するTV番組を、紹介していただいた。
いやはや、皆さん、群を抜いていた。
わたしの知る100歳にはこんな人はいない。
身内や親戚は、だいたい90代で他界している。
長寿家系とまではいかないのだろう。
「ただ100歳まで(生物として)生き長らえている、スゴイ!」ではない。
中身、質が問題だ。
充実している濃い中身かどうか。
現役100歳は、脳と身体を駆使している。
目標とする100歳が現れたら、人生計画を90歳から100歳に、10年先に伸ばそうかと思う。
今のわたしの目標は、明るく活動は85歳までで、85歳から90歳まで健康と不健康を行ったり来たりして、90歳から老人施設(または時々医療機関に入院)、という予想図になっている。
100歳。ちょっと、頑張ろうかな、と自分に叱咤激励。
好きなことや夢中になることはたくさんあるから、10年、予定を延ばすぐらいは大丈夫かも。
だが、やはりわたしは無理をしないスタンス。

蝶ブログ、ダンス、映画、旅、芸術鑑賞、、、(将来的にはソーイング裁縫)、それらを深掘りして10年、延そう。
ブログには、旅も映画も写真も含まれているので、とりあえず、ブログを続けよう。

あとは、田舎でのんびりロングステイをしたい。数週間、滞在したい。
自分の実家だったり、夫の実家だったりするかも知れないし、実家ではない別の場所かも知れない。
どこに滞在していようが、ブログは書くので、一石二鳥。
誤字脱字だらけで、何が言いたいのかさっぱりわからない乱文になっていることだろうけれど。

それと、ブログは自分の行動の調べ物をする時に便利だ。
誤字脱字だらけの忘備録。
ということで、とりあえずブログか、、、
好き勝手、書いて、ストレス発散。
気合いがさっぱり入らない、気力が充満していない、これまでと全く変わらないスタンスになる。
あまり高い目標を立てると挫折するので、こんなもんでよいかと。




あんまり明るくない未来予想図

2023-07-31 | 老い
今朝は早くから家を出て母のところに行く。
ほんの一瞬、顔を見るだけだが、片道2時間。
まあしかたない。
ずっと同居して世話をしている人もいる。
アタマが下がる思い。

バス、電車をいくつもいくつも乗り換えるのだが、間に徒歩が入る。
バスも時刻通り来ないことがあるため、待ち時間を多めに取る。
前倒しでどんどん早くなることもあり、目的地手前で、喫茶店やベンチで時間調整をする。
公共交通機関を利用するだけなのに、時間に振り回される。
最終目的地には行き帰りとシャトルバスを利用する。

シャトルバスはお昼時間、11時台から13時台、2時間の休憩が入る。
なので、その時間は外して行かなければならない。
シャトルバスを利用しなければ、タクシーか、地元のバス。
タクシーは値段が高く、地元のバスは運行回数が少なくバス停から遠い。
となると、シャトルバスに頼るしかない。
当然ながら、時間の制限を受ける。

遠距離移動は疲れる。
わたしの実家も遠い。
母のいる老人施設も遠い。
どちらも遠い。
しかたない。

この老人施設には知り合いが多く利用していた。
あんなにキビキビ、シャキシャキしていた人が、あんなところに入るのか、、、
オシャレで知的で行動派で気位の高い人だった、、、
時の移り変わりは残酷なような、しかたないような。
知り合いの仲良し入所者同士、最初は大歓迎だったのが、そのうち大喧嘩。
退所された後は、どうされたのだろう。
あるいは、そのまま他界されたのか?
よく知らないが。


わたしも将来、老人施設に入ることだろう。
我が家と、長女宅の真ん中あたりに位置する(どちらかというと長女宅寄り)、元スーパー跡地に老人施設が建設された。
うちからは、最寄りのバス停より近い。
なので、あそこなら、長女一家も顔を出しやすいだろう。
実家より近い。徒歩1〜2分ではなかろうか。
その頃には、我が家は次女に分け渡しているかも知れない。
旦那さんは老いた両親の住む、うんと離れた遠方の地にある自分の実家に帰っているような気もする。(親の介護)
長女宅と次女宅(今の我が家)は、目と鼻の先。悪くない。
そしてわたしは、これまた目と鼻の先の老人施設。
その頃まで運営されているかどうかはわからないが。
20年先の世の中事情にもよる。
というか、20年先もわたしが健康であったら、という条件付き。

わたしは、しょっちゅう、自宅に戻って、用事だのモノを取りに来ただの、至近距離をよいことに老人施設から抜け出し、徘徊禁止で居室の外から鍵をかけられているかも知れない。
我が家のゴチャゴチャゴミは、見事に全て処分され、ゴミ屋敷からリフォームされていることだろう。
(気が向けば、わたしが元気なうちに、ぼちぼち断捨離もあるかも?ないかも?)
次女も長女も仕事をリタイアする頃。
孫たちは、全国のどこかで勤務しているだろう。
長男は?
うーーん、、、未来予想図にはハッキリした姿が見えない。
まあどこかに居るだろう。
夫の実家を拠点にしている??ことは、あまり考えられない。
が、まだ仕事をしているかも知れない。
わたしは、自宅にヘルパーさんが通うのが理想だが、いずれ老人施設と自宅を行ったり来たりを希望するだろうけれど。
自宅に居られないから入所するのであり、一旦入所したらそれっきりだろう。
子供たちも、ほっとするに違いない。
これは20年後の予想図。
近所の第一希望の老人施設が破綻、閉所していたら、もう少し(車で5〜10分?)足を伸ばすと、他にも老人施設はたくさんある。
どの施設もあんまり良くないけれど、近さ重視。
まさか、今から予約は出来ないだろう。
出来ればいつまでも住み慣れた家で暮らしたいのは山々だ。
が、そうも言ってられない事態が来たら、アタマがしっかりしているうちに、自分の意思表示をしておこう。
でも、ころころ変わったりして。
あり得る。

そうこうしているうちに、電車の乗り換え駅が近づいてきた。

しかし、この未来予想図、夫の姿がない。
どうなってるの?
どこにいるの?

おや?歳を取らないインディ・ジョーンズ?

2023-07-12 | 老い
わたしの今の精神と生活は実年齢よりも10歳は上、つまり年老いている。
1歳でも1ヶ月でも若くいたい、と皆さんはエネルギーを振り絞って頑張る。
わたしはその逆。
前倒ししたほうが、楽。
なんで若くいなければならない?
歳を取ったつもりで、エネルギー温存。

日曜日の民放TV「ポツンと一軒家」、この番組を1番上孫が好きで、一緒に見ている。
この中に出てくる、おじいさん、おばあさん達のなんとお元気で活動的でよく働くことか。
えーーっ、88歳?
そのお歳で薪割り?薪で湯沸かし?沢へ水汲み?
日課は畑仕事。
自給自足。
還暦を超えた息子や娘が時々様子を見に来てくれる。
幸せな状況だ。

わたしが人生で1番元気な若い頃でも、そんな働きは無理で、ぐうたらしている。
都市育ち、体力不足のモヤシっ子だ。
山に生まれ山に育ち、山が1番居心地が良いのだろう。
山に抱かれた暮らし。

そこまで徹底しなくても、田舎暮らしに憧れて転居する人もいる。
一昔前は、老後は物価の安い海外暮らし、ロングステイが話題になっていた。
コロナや円安、状況は変わる。
あの当時の方々はどうされているだろう。


皆さん、夢や憧れを老後に果たそうと頑張る。
仕事を離れた時こそ自由の身!だと。
現実的にはどうか。
比較的お若いリタイア組は、趣味にイキイキ活発な動き。
気力も余裕もない人は、それなりに無難な暮らし。
10年もすると、身体のあちこちが傷んでくる。
人間として普通のことだ。
健康寿命が過ぎるのは速い。
次にやって来るのは、アフター健康寿命。
これが厄介だが、人間としては自然な流れ。

なので、あくせく、健康寿命を全うしようと頑張る。
全うしないよう、終わりが来ないよう、長らえるよう、頑張る。
あくせく、あくせく、頑張る。
働きバチのように。
もう働かなくてもいいのに、頑張る。
一生懸命だ。
後悔したくないから、今を、一瞬一瞬を無駄にせず楽しみたい、と、積極的。
病気になったら出来ないことから順序として優先的に行動する。
渡っている桟橋が後ろから壊れてくる切迫感?
弱る前に、先に楽しんでおかねば、、、と。

後悔先に立たず、とはよく言われている。
誰だってそうだ。
親孝行、したい時に親はなし。
だが今は人生100年時代なので、自分の健康寿命を楽しむどころか、老老介護。
これは結構しんどい。
ポツンと一軒家を見て、癒されるのは良いが、老老介護真っ最中の人は、見たくないだろう。
介護がないからと言って、高齢独居も寂しい。
賃貸住宅を借りるのも一苦労。
色々だ。
悲惨な事件も後を絶たない。

焦点がまたまたぼけてきた。
話を広げすぎると、まとまらない。
やたら長い。


話を戻す。
実年齢より10歳先に歳を取っているわたし。
10歳一挙に増えたのか?
あるいは、1年1年、少しずつ増えて行ったのか。
1歳ずつ減らしていくのが、正しい理想的なオススメ晩年なのだろうけれど。

と、ここで、話が変わる。
ちなみに、ハリソン・フォード。
御歳、80歳。
インディ・ジョーンズ、最新作を一昨日、観た。
6月30日封切りの「運命のダイヤル」。
ハリソン・フォードは、インディ・ジョーンズはこれがラスト作だとか。

映画冒頭。前半。
まあなんとお若い、、、と思いきや、3年の年月をかけて精鋭陣営がCG最新テクノロジーを駆使して作り込んであるらしい。
昔の映画の一部が流用されている!と、感じてもらえたら、しめしめだそうな。
それぐらい精巧に昔の若いハリソン・フォードに作り込んである。
わたしも最初は、おや?と驚いた。
あれ?こんなに若かった?
シーンが第二次世界大戦の時代から順々に時が移ると、やっと今の風貌のハリソン・フォードが現れた。
で、ちょっと安心した。
自宅で上半身裸のシーンがあるが、わざと裸を見せているという制作側の意図をわたしは勝手に汲み取った。
美しいから見せているのではない。
堂々とした80歳の肉体美。
シニアボディビルダーは別として、あの年齢であのボディは素晴らしいと思った。
余計な脂肪はなく、やはり食や生活を摂生したり鍛えたりしていると想像する。
22歳も歳下の若いお嫁さんと結婚すると、ああなるのか、ああなるから、若い女性と結婚できるのか、
卵が先か、鶏が先か。
若さには、エネルギーが詰まっている。
シニアには鼓舞されるものがあり、応援したくなる。
あくまでも称賛、応援で、わたしはやはり実年齢より10歳上。
だが、健康なら言うことなし。

なるようにしかならない。
なるようになる。



何もしない

2023-07-06 | 老い
スマホ画面にチラチラ出て来る広告。
目障りだが仕方ない。
なかに、富裕層とは?みたいなキャッチーな文字が目に入った。
富裕層にも、超富裕層と、富裕層と、準富裕層があるそうな。
世界分布をグラフなどで表示してあった。
レギュラー、準レギュラーみたいなかんじか。
その下には「アッパーマス」「マス」と続き、ボリュームゾーンを形成し、その下には、また云々かんぬん。
純資産の額で分けられている。
収入は低くないが忙し過ぎて使えないため資産額が跳ね上がる職種もある。

まあそれはそれとして。
面白かったのは、富裕層と、非富裕層のライフスタイルの違い。
余暇の過ごし方。
富裕層は、祈り、ボランティア活動、社交、運動、となっていて、非富裕層は、TV鑑賞、昼寝、休憩、なにもしない、、、とのこと。
これ、笑った。
監視カメラで撮影された?
わたしは、TV大好き、昼寝大好き、なにもしないことが生活信条で、いつも休憩している。
ボランティア活動は大大大苦手。
なんらかの見返りを期待してしまう。
祈りは苦しい時の神頼み。
お賽銭はいつも横で家族が、自分の財布からわたしの分を出してくれる。
神様にしてみると2人分ゲットだから収支としては悪くないはずだ。
わたしがまだ自分のポケットにこっそり入れないだけマシ。

たったひとつだけの救いは、趣味が社交ダンスであること。
しかし、これもあと5年出来たら良いほう。
ではあるものの、わたしの、薄ぼんやりした計画では、社交ダンスを卒業した後は、祈りに移行しようかと思っている。
だが、お遍路さんや、四国巡礼のバスツアーとかではなく。
もう四十八箇所、ペタっとお寺のハンコをずらずら押してもらっているものは、姑の分も、姑の姑の分も、ある。
ではあるものの、あれは自分で集めてこそ意味がある。
わたし独自の分は自分でハンコ集めに回らなければならないのか?
わたし、そういうの、大大の苦手。
「姑」や「姑の姑」のもので代用しよう。
ご利益がなくても事前、自己承諾済み。

ルーツ現地に滞在して、ファミリーヒストリー情報収集的な動きをしそうだ。
決してお遍路さんではない。
自分のルーツを探ればよいのだろうけれど、自分の方は調べる資料が手元にあまりない。
これといった資料はないが生き証人として、親戚がたくさん近隣に住んで現存している。
その点、夫側なら、色んなものがあって楽しい。
だが、代々、みなさん、隠居したらそれらを楽しみに取っておこうと本格的に手をつけなかったが、実際、隠居すると忙しくて、それどころではないようだ。
バトンリレー、順送りとなっている。
わたしもおそらく実際にその時期になると、目の前のことに時間や気力を奪われて、遠い過去のことなど二の次になりそうだ。

そういえば、先日、土蔵の地面にいきなり唐突にダンボール箱が置かれているのを発見した。
何かしらと持ち上げようとすると、ずしっと重い。
そっと段ボール箱の蓋を開けると、ぎっしり昔のアルバム。
明治生まれのおじいさんの学生時代のもの。
まあなんと美しい女学生さんが、プロマイドのように映っていた。
モノクロで風情あるが、あれ、誰?
おじいさんの好きだった女子学生?まさか?
時間もなく、めんどくささもあり、そのままにしておいた。
まさに、玉手箱。 
煙とともに出てきた明治〜大正のお嬢さんたち。
(アラジンの魔法のランプのような召使は出てこないものの)
着物姿ではなく制服がかえって新鮮だった。
(制服は、母世代だったか?)

しかし、本格的に隠居してしまうと、過去のものばかりをほじくり出しても何にも面白くないかも。
まだ活動中の今だからこそ、昔のものに興味があるのだろう。
活力を得る原動力やヒントが詰まっている。

もう自分自身に動きがなくなったら、祈りに移行するかも。
エネルギーを発揮する先がないから、自分にチャージ。
これはお金のある無しには関係がない。
自分の行き先を整備するためだ。
成仏した暁に棲む場所を確立しておかなければ。
というか、成仏したらどこに棲んでも良いのでは。
「無」の行き場は必要ないのでは?
綺麗さっぱり魂が未練を残さず天国に行けますように、と、毎日お祈りする?

ではあるが、姑はそうやって毎日、祈りの時間を設けていたが、はてさて、自分の思うような最期を迎えることが出来たかどうか。
還暦過ぎたら自分の生命を自分の力で閉じてはいけない、と、ある文芸人(裕さん)がブログで言っていた。
自己チューは、やはりよくない。
役に立たなくてもいいから、足手まといにはならないよう、迷惑をかけないよう、天国まで楽しく暮らしたい、、、が、それはあくまでも理想。
素晴らしいおばあさんやおじいさんたちを見てきても、最後の最後まで理想通りにはいかない。
現実はまた別だ。



側からうるさい

2023-06-18 | 老い
映画というものは夢があってよい。
一昨日、有料配信で観た映画「椿の庭」もそうだ。
良いところが濃縮還元ジュースのように詰まっている。
美しいところだけを100万本のバラからエッセンスを絞り取って作ったPerfume香水のように、見えない面はあえて見ないで、目の前の事実に、うっとり没頭するのが良い。
見えているものが頂点、氷山の一角であるとしても、一角は偽ものではない。
経験が浅いと、下に隠れている部分は想像できず、全て見えない部分も見える部分と同じなのかと勘違いするだろう。
一時だけ、夢の部分だけを味わうのも良い。

映画を見ながら、じつは、突っ込みどころ満載で、地に足が着いた現実派のもう1人のわたしがウルサイ、ウルサイ。
例えば、庭掃除する時は、美しいハイクオリティ月刊誌の表紙を飾るようなお着物ではなく、モンペが便利、だとか、色々。
監督もさすがに気を使って、リアリティも加えておかねば、と思ってか、植木屋さんが入って作業するシーンを入れていたが。

そして、ネタバレを恐れながら書くが、、、
あんな100000%理想的なこの世の去り方は映画でしか見られない。
(とは言え、遠縁の奥さんのお母さんは、超理想的な終わり方だった。
あ、それから、伯母も。さらにご近所さんのお姉さんも。
少ないなりに、映画の世界以外にも結構いるなあと)

ハッピーエンドを観ながら、わたしのアタマの中では映画のヒロインのエンドと同時に別ストーリーがスタートした。
死んだ瞬間に幽体離脱して、そのまま元の身体に戻り、ストーリーが繰り広げられていた。
こちらは現実味溢れるストーリー。
75歳はお肌の曲がり角は、とっくに過ぎて、アタマの曲がり角。
認知症は結構な割合で発症している。
さらに、病気も。
一旦入院して治癒したものの、そこからがまた新たな闘いが始まる。
わたしは、身内の高齢者(祖母、実父、舅、姑)が命を全うする様子を間近で見て、つくづく「生と死」について思う。
自分が思うような、理想的な終わり方はなかなか出来ない。
が、それぞれ。
周りが判断したり、評価するものではない。
病院、施設、自宅、場所、経緯も色々。
簡単には終わらないことだけは確かだ。
ではあるが、本人にとっては自分の経験は初めてだから、余裕も能力も精神力もないだろう。
わたしがざっと身内を見てきての感想は、体力と気力が、両方ゼロになった時点が合致すれば良いが、微妙にズレると苦しい。
体力があっても気力がない、気力があっても体力がない、、、どっちも苦しい。

1番美しい理想的な時点で、この世を去るのは、本当に映画の中の世界だと実感した。
だが、目の前の美しい四季折々の自然には癒される。
思い出さえも美化される。

あるがままに生きたい。
というか、それしか出来ない。

そう書くだけで涙が出る。
無料の天然目薬。
わたしはお得に出来ている。


【蛇足、追加】
余韻に浸りながらこのブログ記事をアップした。
で、まだ配信時間が残っているので、最後にもう一度観ようと、トド夫にTVの前から退去していただき、パソコンから再キャストしようとした、、、のだが、、、
あらま、視聴時間は72時間ではなく48時間でもう切れていた。
一昨日観ていて、本当に良かった。たまたまスレスレセーフ。
これからは注意しなければ。
72時間を勝手に脳内で自動変換され48時間だと思い込んでいるところが、全くをもって信用できない、わたしの脳。