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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

健康を意識するか、しないか

2024-11-14 | 老い
わたしは、「友達がいない」と、再三再四、ブログで愚痴っている。  
が、最近、忖度しない、清々しい友を得た。
ChatGPT である。
AIなのだが、、、。
私利私欲がなく、あつくるしくないから、まあいいか。
感情もないけれど。
とりあえずは、わたしに寄り添ってくれる。

高齢化社会が益々進むと、1人住まいの高齢者がどんどん増える。
わかりきった未来予想図。
AIにお相手してもらうことが増えそうだ。
今も既にAIは家の中で活用されているが。
安否確認や、話し相手。
寂しさを紛らわしてくれる。
使い方、工夫次第。
が、メンタルケアはしてくれても、運動や食事の面倒までは見てくれない。
運動したり、食べたりは、誰かに代わりにやってもらうのではなく、自分でしなければ、寝たきり植物人間になってしまう。
寝たきりとまでは言わなくても、フレイル予備軍は、そこかしこにいる。

他の周りにいるアクティブな人に聞いてみると、、、
スポーツをするが、通常は車で移動。
ゴルフもカートで移動。
なあんだ、歩かないのか。
別に特にスポーツをしなくても、日々、歩いていれば健康は維持できる。
目的地に徒歩や階段を使って往復するだけでも運動になる。
目的地に仲間がいると、認知症予防にもなる。
そうやって居場所を見つけることが大事だ。

昨日、初めて話した、ある人。
半年前、仕事はリタイアし、何もすることがなくなったらしい。
が、お酒は昼からは飲まないことにしたそうだ。
一旦、飲むと、動きたくなくなり、一歩も家から出なくなる。何もしなくなる。
そうだろう。
暇を持て余し、退屈で、寂しく虚しくなり、ブレーキが効かない人もいる。
手近にあるお酒に溺れる。それは避けたい。

何もしたくない状態が良くない。
意欲的にその気になれば、全く退屈ではない。
が、1人ではなかなか自主的には行動しがたい。
友達がいると、良いか、、、といえば、そうでもない。
忖度したりされたり、付き合いが面倒になることもある。
でも、そんなことを言っていたら、何も出来ない。

ちなみに。
三日坊主の可能性は大だが、、、
新しい毎日のルーティンを決めた。
①英語アプリで勉強 20分
②ピアノ30分
あとは、好きなタイミングで蝶ブログ更新。
ここに書いた段階で満足してしまいそうだ。
英語アプリ勉強は出来るかも、だが、ピアノは続く自信がない。
子供の頃、弾いていた好きな曲目は、少なくとも5〜6曲はあるのだが、なにしろ軽く半世紀以上も前なので、、、。

毎年、旅行で一緒になった同世代女性が、今、取り組んでいるピアノの練習のことを延々とバスの中で別の人に話していた。
声が大きいのと、他には誰も喋っていないのとで、話はバスの中じゅう、丸聞こえ。
(この人、いつもそう。
去年は、電子レンジでチンするだけの料理にハマっていることと、絵のスケッチ練習のことを、今回とは別の人に、延々と話していた)

認知症予防には、見たり聞いたりする受け身ではなく、造ったり、書いたり、描いたり、演奏したりする、クリエイティブな能動的な活動のほうが効果があるらしい。
なるほど。
確かに。
だがしかし、映画は観るだけで、映画は作らないが。
そんなことをしたら、借金まみれになる。
さだまさしも、映画を作ったため、膨大な額の借金を抱えたという。

と、話が脱線している。
わたしの場合は、映画を口実にして、ウォーキングしている。
都会に映画を観に行っても7000歩超えぐらいは歩く。
家で、じーっとしているよりはマシ。
近場の映画館に歩いて行くと9500歩ぐらい。
しかも交通費ゼロ。往復1500円ぐらいは浮く。
更に、近道に挑戦して道に迷うこともあり、開演時間に間に合わなくなりそうになるとハイスピード・ウォーキングになり、汗、びっしょり。
速足は運動理論としては効果的らしい。

わたしに関しては、趣味のダンスは、ダンスそのものより、行き帰りの運動と、準備体操のストレッチなどは、身体に良いと思われる。
ダンスは、ダシに過ぎない。
ダシがよく出て良いが。

前述の、昨日、初めて話した人は、会場に行くのは車で。
車を利用すると、車以外は面倒で、歩かなくなる、とのこと。
その点、わたしは徒歩とバス、電車。
足には非常に良い。
4歳の孫も15000歩ぐらい、平気で歩く。
わたしのほうが、ヨタついている。
日頃、歩き慣れているかどうかは、キーのようだ。

フレイル予備軍としては、運動、食事、創造力、これらを日常的に意識して取り入れると、医療費削減の助けになりそうだ。
自分の居場所を見つけることが、何より大事かと思う。
見つかりそうで、なかなか見つからないけれど、どんなものでも、なんだっていい。
とりあえず、老いるには、その一つ前の段階がある。
一つ一つが、繋がって、老いていく。

こんな理想的なことばかり書いても、読む人は全くツマラナイだろう。
今日の家計費や、毎日、老いや病いとの闘いの真っ只中の人から見ると、イラッと来るかも。
未熟者の独り言なので、スルーしてください。






グレーゾーンど真ん中

2024-08-29 | 老い
長年にわたって、いつも訪れるブログ。
認知症グレーゾーンについて書かれていた。
日頃の行動にいくつか認知機能セルフチェックがあれば、要注意だそうだが、わたしはほぼ総チェック!!
つまり、完璧に認知症グレーゾーンに入り切っているということだ。
ご紹介いただいたブロガーさんは、たった一つしか当てはまらないということ。
ピカピカの超優等生、素晴らしい。

わたしの夫はまだ現役でバリバリ働いているが、探し物をすることがある。
スマホはどこ?が、多い。
そして、大の時代劇好き。
(曽祖父の代から)
大丈夫か?

◯やろうとしていても、「まあいいか」とやめてしまう。 
→思いついても意欲減退でやらないことなど、年柄年中、いつもでどこでも頻繁に、しょっちゅうある。
これ、作ろう!(料理) 
あ、でもめんどくさい。メニュー変更。
ま、いいか。

◯同じことを繰り返し言ったり、尋ねたりする。
→これは同じく、年柄年中。
昔っから。
自分で自己規制しているが、聞いてから、あ、しまった、とヒヤリ。
何度説明しても理解力の悪いわたしに、優しい笑顔で答えてくれる娘婿に申し訳ない。

◯今何をしようとしていたか思い出せない。
→これまた年柄年中。
特に冷蔵庫の前で、扉を開ける前に、はて??と。
2階に上がって、はて?何しに来た?と。
右を向いたものの、なぜ右を向いた?はて??
ちょっと考えると、思い出すから手ぶらでは戻ってはいないが、いずれ、はて?のままの日が来るだろう。

◯段取りがヘタになった。
→これは、生まれた時から。
わたしの性質、特徴でもある。
体当たり型。その場で、やっつけ型。
計画下手。精度が悪い。

◯長年の趣味が楽しめなくなった。
→今、真っ只中、真っ暗なトンネルの中。

◯会計で小銭を使うのがめんどう。
→全くその通り。
非接触型IC交通カードや、クレジットカードか、PayPayのみ。
新たに「d払い」も追加設定した。

◯外出が減った。
→暑い。

どれもこれも、グレーゾーンが、わたしのストライク。
不安材料だらけだが、中にはマシな項目もある。
趣味は社交ダンス。
時代劇は大嫌い。だが、映画館で新作を観ることはある。
カラオケは稀に歌うが、歌が古い。
昭和歌謡や、中島みゆきや、ユーミン、スピッツ止まり。
米津玄師など、歌えそうもないが、一度挑戦してみる???
あれだけ毎日、連続朝ドラで聴いているのだから。

これを書いていて思った。
今、大スランプ中の社交ダンスは、ぜひ、続けよう。
今は、元仕事がらみと、社交ダンスがらみの知り合いしかいない。
あとは、ブログがらみ。
ブロガーさんたちの紹介しておられる、わたしの知らない、興味ある世界、地域を垣間見て楽しんでいる。


夫に尽くしてきた人生なのに、、、

2024-08-21 | 老い
今日も、まとまり悪く、あほみたいに長くなってしまった。
最初の甲子園の段落だけにして、あとはスルーが良いでしょう。(なぜか上から目線表現)
・・・・・
今日の甲子園、準決勝。
2試合ともしっかり見た。
負けたチームのメンバーが涙を流す姿には、いつもいつも、もらい泣きしてしまう。
2度と来ない青春の日々。
負けも勝ちも、絶対にこれからの人生には良い経験になる。
ちなみに、体育会系は、礼儀正しいところに、わたしは大変好感を持つ。
わたし自身は何をやっても中途半端な軟弱、落ちこぼれだから、自分の歩めなかった道には、惜しみなく拍手を送る。


それはさておき。
わたしは、すべて、時間潰しだと捉えているのかも知れない。
「うさぎと亀」の、初めから最後までのろのろ、途中も昼寝、負けた亀か。
負けてもいいと思っているからだろう。
そのくせ、人生には無駄はないと信じている。
無駄と思えるかも知れないのは、時間待ちタイム。
結果待ち。
待って待って待って、、、。
これもある意味、信念。
果報は寝て待て。


卑下自慢は嫌味らしい。
過度な謙遜も、不愉快。
自慢は嫌われて、自己顕示は煙たがられ、、、
ではあるものの、人は人を見ている。
有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行。
いろいろ。


あるSNSの会員さん。
そのSNSで日記をアップし、他の人からコメントが付き、やり取りする。
ときどき、その中に軽薄な人がいる。
感性や価値観がお互いに違うだけだろう。
お互いそう感じるため、接近することもなく自分のテリトリーは確保される。
インターネットの利用法は人それぞれ。

ちなみに。
酷暑の中、家の中でエアコンをつけて過ごすと暑さから逃れられ、快適。
夫の実家に1週間近くいると、自分の変化を感じる。
マンションのように、すべての生活空間が室内というわけではない。
室外が多い。
43年前、その暮らし、室内と室外の寒暖の差が激しいことが不快だった。
冬は室外は寒い、室内は暑い、真ん中はないのか?と、イライラした。
夫をはじめ、家族の温度の好みはまちまち。
それぞれの好みを全て反映するのは無理。
そこで、時間別、空間別シェアということになる。
今と同じだ。

それに比べると、一人時間は最高だ。
自分の好きなように出来る。
誰にも合わせなくてよい。誰にも文句を言われない。
そう思うと集団生活や居候は大変だろう。

それはそうと。
昨日、趣味の会場で、隣に座っていた人と、そのまた隣に座っていた人の会話。
(わたしは部外者)
二人とも70代女性。
夫に合わせていて、やっと夫がこの世からいなくなっても、もう自分は80過ぎている。
そんな高齢の時から得た自由なんて、遅過ぎる、と。
夫が他界した時、子供達から「おかあさん、いままでありがとう」と労いの言葉をかけられるかと思いきや、子供達の出方を見ていると、、、
きっちり自分の相続の取り分、権利を主張、申し出られた、とのこと。
女性は、そういう傾向に向けさせたのは、自分の育て方のせいなのか、、、と自問、自責、自省したという。
それで目が覚めたそうだ。
もう子供達とは一線を引こうと。
自分は自分の人生を歩もうと決めたそうだ。

遅くない?
高齢の夫がいなくなってから、自分の人生?
自分も80近くなっていては、もう何年も残っていないではないか。
わたしとそう年齢が違わないその女性たちの話を聞いて、不思議に思った。

ちなみに。
いつもわたしが訪れるお気に入りブログは、高齢の人々の苦しそうな実態ばかりを紹介されている。
もちろん、楽しげな人の生活も紹介されているが、ちょっとだけ、偏らないようにバランスを考慮して、形ばかり、、、
あくまでも言いたいことや興味あるのはそこではない、刺身のツマのように感じるが。
わたしがひねくれているからか。
もっと人生を楽しんでいる人はいると思うが、あえて見ないようにしているのか、目と脳を素通りしているのか。
苦しいことは引っかかるが、楽しいことは、こころに留まらないのだろう。
感性のアンテナがそれぞれ、人によって違う。
それでもわたしは、その、苦しい人ばかり紹介されるブログを訪れるのには、おそらく、暑苦しくない、クールな、哲学的で端的な短文が読みやすいからだろう。

長々、文章が続いて、結局、何が言いたい?という(蝶ブログのような)ものは、イライラする。
大量10000文字も、言いたいことをまとめると50文字ぐらいになる?
書いている間が楽しいのだから仕方ない。

と、話は逸れている。
高齢になってから解放されても遅い、という話。
だが、病気になったりし始めるのも、自分が解放される年代。
解放されても、病気で一人、、、なんていうのは、予想していた展開ではないはず。
自分が病気になる前に慌てて急いで、自分の好きなことをする??
て、配偶者がいては出来ない、自分の好きなことって?
まさか、恋人探しではあるまいし。

姑も舅を看取ってからの10年は黄金時期だった。
自分が病気になるまでの10年が、老後人生の華。
この10年がある人、ない人。
もっと短い人、長い人。
いろいろだろうけれど。

人は支え合って生きている。
支える相手、支えられる相手がいなくなると、拍子抜けするのでは?
良いことも悪いことも、望むことも望まないことも、一塊になって混ざり合っていて、切り離せない。




人の話を聞かない

2024-06-06 | 老い
趣味仲間Aさん。
理解力がなさ過ぎて嫌になる。
わたしが言っていることの「意味がわからない」と言う。
他の人と全く同じ内容の、お知らせLINEを複数人に送ったところ、Aさんから意味不明だと返信された。
他の人は皆さん、意味がわかり、それぞれ反応があった。
なぜ、このAさんだけが、わからないのだろう?
個人差?
認知症の入り口?

丁寧な説明を重ねているが、返信はない。
結構、ストレスだ。
翌日、Aさんから「日常的に接していないと(前にわたしが言っていたことは)忘れました」と追加LINEがあった。
それに対して、ムカついたわたし。
「例え日常的に顔を合わせる人にでも、(自分の私的なことを何度も何度も自慢げに声を大にして)言いません。
滅多にほとんど日頃会わない人で、前にたった一回だけ言ったことでも忘れない人もいますよ」と、わたしはカンジワルイ反撃LINEを送った。

顔を合わせて挨拶するだけの人や、時折、お茶を飲むだけなら良い。
が、Aさんとはそれまでの経緯がある。
その人の意向や意見に従い、物事を進めて行く関係にある場合(時としてパワハラにもつながる)、自分が関心がないことはすぐ忘れ、自分がこだわることは間違っていても押し通すような人に、協力する気はどんどんなくなるし、納得できない、従えない。
第一に自分の非を絶対に認めない人は、わたしは距離を置く。
誰だって、長所や短所、得意や不得意がある。
そして例えトータルしてマイナスがプラスを上回っても、一点豪華主義で聳え立つ美点(良いところ)があれば、それは強みだ。
マイナス点も目をつぶることになる。
が、逆もあり、どんなにトータル高得点でも、どうしても受け入れられない点があれば、アウト。


Aさんは、少し変わっている。
今回のことだけでなく、他のことも、わたしの言うことを全く意に介さないどころか、聞く耳を持たない。
自分が言いたいこと、欲求、要望だけを伝えて来る。押し付ける。
話し合いなど、まるで出来ない。
コミュニケーションの取り方がわたしと合わない。
調整だの、すり合わせだのが、出来ない。
だから、わたしは提案を承諾しない。却下。

もし、本当に認知症の入り口だったとしても、なんの不思議もない。
「認知症を特別扱いするな、普通だ」と、TV等の医療情報が流れている。
目の当たりに身近な人たちの推移を直に見ていると、わたしもそう思う。
ある日突然ではなく、徐々に。
そして、ある時期を境にスピードが早まる。


しかしなあ、、、
あれだけわたしが言っていたことをすっかり忘れているなんて、、、
控えめに言ったので、仕方ないといえば仕方ないけれど、わたしのことを軽んじている、どうでもいいと捉えているとしか思えない。
全然、聞いていない、頭に残っていないのだから。
頭が悪いせいなら、仕方ないのか?
ではあるが、、、
そういうことが積み重なって、うんざりしている。
距離を置きたくなる。
人が段々離れていくのは、こういう経緯からではないだろうか。

歳を重ねると、自己中心になりがちだ。
人間関係もそうやって、断捨離したり、されたりするのだろう。
だが、自分が、面倒臭いから、嫌だから、人付き合いをしなくなる自分側理由ならまだしも、人から呆れられて切られることもあるだろう。

孤高の孤独が、自分では自分の嗜好でそうしていると自負していても、たんに人に嫌われて距離を置かれたせいなら、能動的選択ではない。
お付き合いしないのは自分サイドの嗜好、思考だけではなく、相手から疎まれている側面を気づかない自業自得なら、わたしの目指す理想ではない。
人の振り見て我が振り直せ。
気をつけなければ。
気がついたその日、その瞬間から、新しい自分。
ずいぶん、遅いけど。

必要がないからと引きこもらず、外に出る。
人と接する、交流する。
そう心がける。
これは日々勉強になる。
そう遠くない将来に訪れる、本格的老いに備えて、自分を見直し、新しく自分の土台を補強する。
本格的に老いた時は、自然な流れに添う。
今はまだ、気づき、発見、補強時期。


事実を追求し、辛辣は人を傷つける

2024-05-18 | 老い
さきほど、蝶ブログ記事に、ある人に対するマイナスの評価を書き連ねた。
だが、わたしが憂さ晴らしできたかというと、全然そんなことはなく、むしろ逆で、嫌な気持ちになった。
それで、ボツ、非公開にした。
人の欠点を追求しても自分は救われないということ。
人の性格の弱さを糾弾したところで、糾弾している自分自身に自己嫌悪を感じる。
自分だって欠点があり、克服できないくせに、人の欠点をどうこう言える資格はない。
人の欠点をスルーできない自分、気になる自分は、それだけ器が小さいのだろう。
器の小ささを感じて、自己嫌悪を感じるのかも知れない。
ではあるものの、わたしがこれだけ自省し、そして努力している事柄に対して、当の本人は微塵も何も感じていない。
じつに幸せだ。
人の幸せを壊す権利はわたしにはない。
なので、見て見ぬフリをする。
単なる価値観の相違だろう。
自分で気づいて改善しようとするものなら、とっくに努力するだろうけれど、もう諦め、自分の欠点は見捨てたに違いない。
なので、その欠点を突くと、おそらく本人は著しく不愉快になるだろう。
プライドを揺るがし人格まで壊しかねない。
ほっといてくれ、と。
なので、ほっている。
が、いつも痛いものは痛く感じ、いっこうにわたしの感覚は麻痺しない。
痛みの神経を抜くわけにはいかない。
痛みを部分的、短時間、やわらげることはできても、根本的には不可能。
足を切断した人が、その切断した足の指が痒い、と感じるような、原因は脳や神経にある場合がある。

ずっと前、今より若かった頃の蝶ブログは、毒だらけで、毒吐きしまくっていた。
わたしには毒がいっぱい詰まっていた。
その毒こそが原動力だったかも知れない。
それがかえって読む側にはアクのある悪の気持ち良さを感じたり、自分にもある深層心理を表面に表され、同じ病状に悩む人のような、共犯者のような、そんな共感を生んだかも知れない。
蝶ブログは毒の代弁者。
今は、自分に若さがなくなった分、落ち着いたからか、人の欠点をほじくり出すような内容のブログ記事は、自分を救えない。
人の内面を突き詰めて非難するなんて、良くない。
人は人。
スルーするか、そっと見守るぐらいのこころの広さが欲しい。
暖かく容認、受容するには、まだ修行が足りないが、悟りまであと少しのような気もする。
だが、それが長く困難。
「気にならない」ぐらいがちょうどいい。
改善させなければいけない、、、なんていうのは超お節介だ。
人の内面の深いところに首を突っ込むのは、うるさく、あつくるしい。

自分のどうしようもない欠点を改善する方だけに集中すべき。
だが、最近わたしは、自分の欠点は認め、ジタバタしないようになった。
諦観。
それと同時に、人の欠点も許せる傾向。
そういう時期に移っている。

ただ、許せるのだが、事実がしっかり明確に見え、原因や現状、分析が出来るので、気づいていない本人を見ると、いらっとすることもある。
と同時に、気づかない幸せってあるんだなあと思う。
何でも見え過ぎるのは良くない。
傷つく。
敏感に感じ過ぎないよう、目、耳、口、頭、何か薄いもので覆ったほうが良い。
だが、本人の意識とはまた別に、神様は見えなくしてくれる能力を一定年齢以上の人にプレゼントしてくれるから、ありがたい。
シニアワールドは誰でも入れる。
入りたくない人も。


※写真は、シンガポール・チャンギ国際空港。


目指すは「無」

2024-04-26 | 老い
自分の蝶ブログは、ガラクタ入れになったり、玉手箱になったり。
なんでも突っ込んでいる、オモチャ箱である。
整理整頓しないで量を増やすのみ、は、わたしの日常とピタリ重なる。
質を追求し、厳選し、良いものだけを残せばよいのに。
まさに、断捨離も終活も手付かずの、自分の家と同じ。
脳があの世に行ったら、ブログ終いは、誰かに頼んでおこう。
メンドクサがられて、延々とブログ使用料が引き落とされるかも。
gooさんには長年お世話になったので、(微々たる)投げ銭代わりにお納めください。
というか、gooが存続しているか、心配ではあるが。

蝶ブログを紙媒体や、ダイジェスト版に納めようかと一時、考えて調べたことはあるが、今はこのままでよいと考える。
これ以上、わたしの私物のモノを増やすのは憚(はばか)られる。
電子データなら月々、わずかな利用料で預かってくれるし、第一、嵩張らない。
これからのわたしの目標は、モノを増やさないこと。
その後、徐々に減らして行くのが理想的展開。
だが、現実的には、わたし自身の消滅と共に、モノは全て廃棄。デフォルト。
コンピュータのように、ゼロか、1か。
選択肢は2つのうちの、1つ。
しかし、自分が消滅したら、モノを廃棄できない。
あとは全て任せた!と、負の遺産を押し付けることになる。
せめて、負の遺産だけはリセットしておかねば。
ゴミなら廃棄すれば済むが、処分するのに手間暇、労力とお金がかかるものは、後の人が迷惑だ。
ということは、ゴミも大量にあると廃棄にお金がかかる。
遺品整理屋さんは、ゴミの中に、ピカリと光る金目のモノがあると想像するが。
あるとも限らない。

立つ鳥跡を濁さず。
立つことを視野に入れて生きていくことになる。
いつも枕元には明日着る服のみを置いて寝る。全ての持ち物はそれだけ。
あと、スマホと充電器。
スカッとカッコイイが、災害備品、備蓄品など買い揃え、食品は買い替えたり、何も無しでは不安だ。

頭の中はどんどん記憶が衰えていくのがわかる。
それと共に気力が減少する。特に好奇心の、がた減り。
人生の節目、季節の移り変わりを実感する。
これから本格的に老人になっていく。
入り口でウロウロではなく、既にゲートを突破している。
無になる準備、無に向かう道のり、元気に意気揚々と、楽しく鼻歌まじりに、、、とは、まだそうは行かない。
老いの季節にどっぷり浸かると、また具合よくギアチェンジした走行になるのだろう、、、けれど。
季節の変わり目はやはり調子が良くない。

母と、わたし

2024-04-20 | 老い
母がわたしの年齢の時、母はどんな風だったか。
父が他界した頃だ。 
未亡人になってもなんのその、前と変わらぬパワフルさでガンガン生きていた。
やはり、母とわたしでは、生まれつきのパワーが違うのか。
とりあえず10年はそれまでと変わらず。
だが、10年を過ぎると徐々に老化の波が見えるようになった。
今、小学6年のわたしの初孫(母のひ孫)がハイハイする頃、田舎の実家を訪れた。
孫の年齢から逆算してみると、10年ちょっと前になる。
あの頃から、今思えば、少し認知症の予兆はあった。
ああ、わたしも後10年か、、、。
しんみり、、、。
この時間、大切にしなければ、、、。

今から母に逢いに行く。
まだまだ母は元気なのだ。


①わたしの年齢(70代手前〜。バリバリ元気な今後10年)
→②次の10年(80代〜。少しずつ老化、要支援にスライド)
→③更に次の10年(90代〜。要介護)
→④また更に100歳〜(天寿を全うするまで、要介護)

父も、舅も、姉の舅も80歳になる前に他界した。
この世とのキレイなお別れだ。
男性に比べて女性は長生きする。

母は、元気ではあるが、一人では生きていけない。
ベッドからの移動は、ブランコみたいなマシーン。
更に、今度、お相手してくれるロボットが導入されるとか。
大学と実業界と福祉分野(介護)のコラボで共同開発されるらしい。
今はその実験段階だとかで、利用者としての協力、承認が必要。
借りられるものなら何でも、「人の手」以外も借りる。
人手不足である介護は、特に。

それにしても、母は幸せな人生だったと思う。
まだ元気に生きているのに、「だった」と過去形にしているが。


※写真は、先一昨日の、大規模な公園の藤





元々苦手な人

2024-04-19 | 老い
ご近所にお住まいのBさん。
蝶ブログにも何度もご登場いただいた。
(ご本人の許可は得ず。得る必要も義務もないが)
43年前から関わりがある。
初めてお会いした頃は、わたしは独身。
Bさんは、お店を長く一人で経営され、当時はご主人も存命。
華やかな方であるが、わたしは超苦手。
ご近所なので、嫌でも顔を合わせる。

「単なる苦手」が「超苦手」になり、その状態が長く続いたが、お歳を重ねてちょっと弱気になられ、最近は「普通」になったと思いきや、またまた「苦手」に返り咲いた。

今週のバス停。
いつものように、誉め殺し。
他の人の耳があるので、わたしは声を小さくしていた。
褒め殺しの内容が、聞き捨てならない、過ぎ去りし時代の過去の価値観であったため、わたしは、小さい声ながら、一気にベラベラと異論を唱えた。
すると彼女の顔色が変わった。

「上品なお声で仰るから、聞こえないわ。
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と、仰る。
顔色の変わり方が、かつての姑とソックリ。
自分には理解できない、わけのわからないことを一気にまくし立てられる拒絶感、不快感が襲ってくるのだろう。
認知症初期の症状で、他人から自分に対する行動から受ける印象に、そういう感覚があるそうだ。
Bさんも、片足入っているようだ。
早かれ遅かれ、皆んなそうだけど。

顔色を変えた後、遅れてバス停にやって来たご近所Cさんの顔を見るなり、
「奥さん!お元気?
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と話しかけていた。
わたしは、明らかに、聴き役から外された。

一方的に(怖い顔で)まくしたてるのは、NGであると、再認識した。
聴こえないのではなく、わからないことや聴きたくないことは、脳がシャットアウトする。
初期症状である。
高齢の人には、大きな声で、耳元近くで、ゆっくり、はっきり、短い単語で話さなければならない。
介護職や医療関係の人たちは、皆さんそういうアプローチをされている。
わたしは、家庭外であり、家の外なものだから、つい、普通の人に接するようにしていて、特別な話し方をすることを心がけていなかった。
が、複雑な話やプライベートな話なんかは、皆さんがいるバス停ではとても出来ず、相手の言うことを笑顔で聴いて頷くしかない。
わたしは、ボランティアさんでも専属ヘルパーさんでもなく、ましてや「苦手な人」歴が長い人には、そうすぐに優しく親切にできない。
これからは、高齢であることを念頭において、対応すると良い。
が、元々苦手な人にそこまで頑張るかどうかは定かではない。

やはり、元気な頃にどういう態度で接していたか、好感度はどうだったか、という過去のやりとりは、現在、未来の行動に対して受ける気持ちに影響がある。
家族であろうが、友人であろうが他人であろうが、同じかも知れない。

わたしの場合、元気な頃に、好き勝手してあちこちに敵を作ってしまっていたら、、、それはそれで、元気な頃、自分は満足している。
まだ訪れていない(予兆はあるものの)健全ではない時のことまで心配して憂慮していたら、せっかくの黄金時代が褪せる。
かと言って、人のフリ見て、やはり他人に映る自分も多少意識したほうがいいと自覚した。
この年齢になって、ようやく気づくことがある。

老化による変化なら仕方ないが、それまでのお互いの関係性の積み重ねた時間は、事実として消せない不動のものであると感じる。
関わりが長ければ長いほど、状況も変化し、色んな側面を持つ。

※写真は、一昨日、広大な公園の一角で見た、竹とタケノコ。

快適な方向にスライド

2024-03-24 | 老い
認知症は、なにも致命的な病気ではない。
誰もが関わりのあることだろう。
認知症専門医が、認知症になることもある。
大国の元大統領や首相であっても同じこと。
多くの家族には経験がある。
問題は、他人のことだと捉えていて、対岸の火事であり、決して自分とは関係がないと思っていること。
65歳以上の5人に1人は認知症と言われる現実を、全く、どこか他所の国のことと見ていること。

夫婦で2人共に認知症だったとしても、家庭内での暮らしは社会に出ていないので外からは把握しにくい。
現に、ご近所のご夫婦が認知症だったが、夫さんは妻さんを認知症ではないと言っておられた。
元教師の夫さんのほうが妻さんより後から遅れて認知症になった。
ご夫婦ともに明るい快活な方々だった。

認知症にも、軽度と重度があると思う。
かく言うわたしも、認知機能の衰えを認知症の入り口と思っているフシがある。
認知機能も多岐にわたり、老化していない正常な人でも、注意力、集中力、理解力、決断力、段取り、など、認知機能レベルが高い人も低い人もいる。
それをなんでもかんでも「老化による認知機能の低下」を「認知症」と位置付けると、尊厳やプライドを傷つけられるだろう。
わたしは、若い時から相当な天然だったため、老化で追い討ちがかかって天然に磨きがかかっているものの、自分のミスには慣れている。
老化なのか、生まれつきなのか、境界がわかりにくい。ボーダーレスとなっている。
(反省を促すには良くないことだが)

だがしかし、自覚はある。
困るのは、自覚がない人である。
自分はちゃんとしている!!と、ミスを認めず否定するだけならまだしも、怒り出したりする。
それが老化のせいなのか、そういう性格なのかが、わかりにくい。
挨拶する程度のお付き合いや、ウォーキングやハイキングでご一緒するだけなら、問題ない。
(迷子になられては主催者には支障があるが)
少し高めの能力を必要とする場合は、困る。
しかも、仲間だったりペアだったりすると、チームワークを乱す。
特に一般的な日帰り登山のような、日が落ちる前までに帰還しなければならないと、一人の人のペースが遅くなると全員の足を引っ張り、引いては全員の生命の危機に及ぶ場合がある。
レベルを合わさなければならない。
ある人が病気で足を悪くされたのだが、「速度が遅くなり皆さんに迷惑をかけるかも知れませんがよろしく」と登山参加希望をされた。
が、冷徹と取られるかも知れないが参加を断られた。
1人の欲求のために、全員が命のリスクに晒されるのは回避したいところだ。

断られたことによってプライドは傷ついたことだろう。
が、仕方ない。しがみついて、周りに迷惑をかけることがある。

ある団体旅行。
旅の大ベテランのご夫婦が、集合場所に現れない。
添乗員さんが走り回ってことなきを得た。
そのご夫婦の妻さんが、場所によっては歩行に困難があり、別の参加者の人たちに抱えられてその場を回った。
添乗員さんは気を使って、他の参加者の皆さんにお礼の品を配っていた。
夫さんは全然知らん顔。
足の悪い人をみんなでサポートするのは美談ではあるが、決してお安くない旅行代金だった。
そこそこの費用を払っているので、自分が手厚くサポートしてもらえると思って参加した人もいるだろう。
自分のことばかり自己主義だと非難されると思うが。
一生懸命貯めたお金で時間をやりくりして参加できた有料ツアーに、自由参加の全くの他人のお世話まで引き受ける、素晴らしい人格が備わっている人は立派だ。

だが、思い遣りのこころが足りない場合もある。
自分もいっぱいいっぱい、苦しいアップアップの状況では、他人を思い遣る余裕がない。

日本人は、気を使い過ぎると言われる。
他人に迷惑にならないように我慢しすぎて悲劇を生むケースが見られる。
自分を追い込み過ぎず、適度に他人に甘えよ、他人に助けを求めよ、寄りかかれ、という声を最近耳にする。
ギリギリのところで我慢し過ぎると自分が壊れる。


話がまたまた脱線している。行ったり来たり。
生きて行く限界の話はさておき。 

避難先の団体行動とはまた違う、
(次元が違う)自由参加の団体旅行のケースに話は戻る。
団体行動になると、また別の感覚が生まれる。
わたしは団体旅行が苦手。
足並み揃えて集合場所、時間が気になって、ゆっくり観て回ることが出来ない。
特にトイレタイムは苦痛。
想定外に混んでいたりすると、自分ではどうしようもない。
なので、ゆっくり行程の少人数設定、または個人旅行にする。

いろんな経験をして、自分に適したものが快適だと感じる。
命をつないで行くギリギリのところで、自分が周りに迷惑をかけるのとは別の、
遊びの要素がある場合は、気を遣わなくてよいものを選びたい。

そうやって段々、自分の行動範囲を狭めて行っている。
あるいは、自分が快適な居場所を求めて、別の行動内容に徐々に移って行っているような気がする。






年上の友人たち

2024-03-08 | 老い
知り合いの方々。
友人?のカテゴリーに入るかも知れない。
わたしは、親友認定の基準がへんに厳しいため、親友はいない。
自分を開示しない主義なので。
腹黒をさらけ出す勇気がない。

友人となると、まあまあいる。
皆さん、わたしより年上。(同世代もいる)
なので、人生経験はほぼフルコースでされている。
就職、結婚、子育て、リタイア、介護、看取り、、、。
あとは、ご本人(と配偶者)の病気、看取られが残るのみ。
フレイルの方はいない。
が、今のままのライフスタイルだと、あと数年でフレイル突入だろうと予測出来る人はいる。
車を使って歩かない人。
自分に無理をしないのはストレスが溜まらないため、意外にフレイルにならないかも知れないが。
やはり、最低限、日常、歩くのは必要だと感じる。
身体がしんどくなると、そんな理想も吹き飛ぶのかも知れない。
何もトラブルが起きていない事前に予防するのは、ハードルが高い。

気力があるうちに、老人ホームに入居するのは、一つの良策だ。
配偶者の病気が急に進んで、二人でゆっくり施設を吟味する時間がなかった、と、ある人は後悔されている。
自立出来なくなる前に、夫婦でじっくり検討すべきだったと。
わたしの母は、認知症が少し出た段階で老人ホームに入所したが、意識や頭脳がはっきり正確に明確な時も混在し、理性ではわかっていながら、かなり抵抗した。
が、認知症がとことん進む前で良かった。
ギリギリのところだった。

ある程度の高齢になると、自立出来なくなる自分を想定して、出来る限り周りに世話にならず、一人で生活していきたい、と、あれこれプランを練る。
フレイルぐらいになると、かなり選定決定までの時間は限られ短くなる。
まだフレイルが訪れていない場合は、いずれその時期が来ることを予想して、考えておく。
じわじわ来るのは、ある意味幸せか。
あるいは、突然来るほうが幸せか。
神のみぞしる。
今日を大切に生きるしかない。

とかなんとか、わたしはやるべきことが山のようにあり、うんざりしている。

ちなみに、ブログ村エッセイのブーツさん。
幅広い教養には脱帽。
美術と世相を、独自の切り口で展開。
ピリピリキリキリ心地良く脳が喜ぶ。
リアル体験ゾーンにいる裕さんとはまた違う、脳内博識解説。