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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今日もブツブツ言ってます

2024-02-29 | ブログ
わたしは、こころの中でケシカランことをいっぱい思っている。
ただし、口には出さない。
SNSで誹謗中傷もしない。
自分の姿を隠して闇から人を罵るなんて、卑怯極まりない。
顔を出して意見を述べていただきたい。
かくいうわたしも、顔出しこそしていないが、特定出来ないように嘆きの愚痴をこぼす。

ちなみに。
さっき、自販機で電車の切符を買っていると、隣の自販機で同じく切符を買っている人が、大きな声で、
「あ〜、ビックリした!」
と、こころの声そのものを口から発している人がいた。
こっちは、突然のことで、ドッキリ。驚く。
発声先、ま横を見る。

切符を買う行為で、あそこまでビックリするには、相当、奇想天外の出来事が起こったのだろう。
しかし、想像の範囲は知れている。

自販機から「ご主人様、お呼びでしょうか?」と、アラジンが登場することはない(→登場してなかった)
自販機の故障でお釣りがジャラジャラ出てくる?(→出てなかった)
ゴキブリが出る?(→出てなかった)
ネズミが出る?(→出てなかった)

補聴器が、いきなり大音量になった?
コードレス イヤホンから、いきなり別の音が出た?
自販機と自販機の間の小窓から、駅員さんが急に顔を出した?(→出してなかった)
このあたりが、無難な路線か?

しかし、こんなこころの声を発する人は年配に違いないと思い、顔を見てみたが、そんなことはなかった。
若い人でも、こういうことはあるようだ。
時折、少し脳に特徴を抱える人が、電車内で奇声や大声を発している。
知らない人だと危険だと怖く感じるが、他人に危害を加えるわけでもない場合がほとんど。
が、やはり人によって出る行動がそれぞれ違うので、未知のものは怖い。

見ず知らずの知らない人が奇異な行動を取ると、つい身構えてしまう。
出来れば近寄らないのは、防衛本能からだろう。
そこまで深刻ではなくても、街で独り言を発する人はよくいる。
大概は年配の女性。
「あれ?」とか、「おかしいな」とか、「どうなってるの?」とか。
が、今回の例のように、そう年配でなくても独り言を言う人はいるようだ。
わたしも(家の中では独り言をよく言っている不気味な人間なので)外でも無意識に、何か言っているかも知れない。
が、人のフリ見て(独り言は)高齢女性にはよく見られる行動だとしても、あまりカッコよくないと感じたので、自分は気を付けようと思った。

と、小学校低学年のような日記になった。

それにしても、わたしのブログこそ、音声は発していないものの、呟き、独り言そのものだ。

それはそうと、どなたかが読んだ蝶ブログ過去記事。
目一杯、叫んでいる、わたし。
そうか、あの時、死んだんだ。
なるほど。
今は再生サイボーグ人間なのか。
生まれ変わったわけではなく、無機質なマシーンになったのか。
それも良し。
時折、部品を取り替えると、まだ機能する。



書くひと、読むひと

2024-02-15 | ブログ
嫌味、自慢と取られるかも知れないが、忖度せずに書く。
文章は書く人の性格が表れるとよく言われる。
小説家は空想、捏造の世界なので、よくわからないが、何作も書いている人は、それなりに作者の奥に流れているものを感じる。
ある意味、制作の原動力だったりする。
疑問だったり、怒りだったり、問題提議だったりする。

ただただ「嬉しい、楽しい」の作品は、つまらない。
見せ方、表現の仕方に工夫が要る。
共鳴を得る何かがないと、すぐに消えてしまう。

読む側、見る側は、楽だ。
好きなものを選別して、好きだ、嫌いだ、面白い、面白くないと、好き勝手に感じていればよい。
好きなものは追い求め、嫌いなものは避け、どうでもいいものは忘れ去る。
自分の感性に素直に従って楽しむ。
ある意味、暇つぶしである。
楽で楽で楽な暇つぶしである。
時間、お金、労力の中で、主に必要なものは時間ぐらいだ。
時間は誰にも平等に与えられる。
ただ、時間の中身、濃さは1人1人異なる。

冒頭の、嫌味、自慢に話を戻す。
わたしは読み手ではあり、書き手でもある。
しかも、生まれつきの天然のため、あまり人の影響を受けない。
独自の自分コースを行く。
わたしの文章には、わたしらしさが出る。
(わたしテイストに対して感想を言われることも稀にある)
文章はテイストではなく中身だと思うのだが、わたしは中身をあえて書かない。
書くとすると、わりとどうでもいいこと。
肝心の具体的な部分は自己開示しない。
戦争体験者(従軍)が沈黙を破り重い口を開くように、いつか、あの世が目前に迫った時に書く日が来るかも知れないが、たぶん、来ない。(と、相変わらず大袈裟な、幻の文豪か)
自分の胸の中で収める。
日頃、書いている書きつぶしの山は、読んでくださる方には申し訳ないが、暇つぶしである。
本当に書きたいことは、書かない。
そのほうが、自分を守る。
防衛本能である。
言ってしまえばお終いなことは、言わない。
一歩手前で止める。
だから、トドメを刺さない、つまらない文章になる。
すみません、確信犯です。

どんな大きな出来事があっても、日常風景描写でそのままストーリーは終わりたい。
日常はまた続くから。
終わりがないまま、続いたまま終わりたい。

ちなみに。
わたしが一番重要だと感じるのは、生死。
わあわあ騒いでいるその問題は命まで持っていくか?
命の危機がかかっているかどうか。
が、自死は絶対に勧めない。(勧める人もないだろうけれど)
絶対に生きなければならない。
わりと些細なことに神経をすり減らすのは、命を削るから、やめましょうね。
(だが、仕事で正確さを求められる場合は、神経を集中させて頑張ることになる)
若い頃は、生命は無尽蔵にあると思っていた。
が、残り時間が狭まってきて初めて「生」の大切さを感じる。

※写真は、昨日、撮りたてほやほや。
11キロ、ウォーキング最中。


趣味は書くことです

2024-01-14 | ブログ
認知症予防のために、好きなことを書く。
自分はキモチイイ。
ほんとに、予防になるのか。
読む人は、、、自己防衛してください。
毎日、書き流しているので。

さて。
わたしは自分の日記をいくつも持っている。
SNSは、蝶ブログと趣味関連日記、合計2つ。両方とも大手が運営。
趣味関連日記は、リアル人でお互い顔も人物も知っている人も読むし、コメントのやりとりもする。
ただし、リアルタイムで閲覧数や拍手が公表されるので、恐ろしい。
恐ろしさよりアップしたい勢いが上回る時にしかアップしない。
リアル人も知っているという点では、蝶ブログと少し似ている。
なので、ほんの少しだけ、他人の目を意識する。
ただし、書いているうちに忘れることが多い。
リアル人は、自分のことがひょっとして書かれていては毒入り饅頭を食べた気になる可能性があるので、あまり読まない。
というか、長すぎてうんざりして読まない。
彼らは実生活に多忙を極め、他人の私生活や内面をのぞくヒマもない。
一年に一度、紙の年賀状で近況を一行報告する。

紙の日記は5年連記ハードカバー製本(記録用)と、文庫本サイズ1冊。
今年は文庫本サイズに期待して、人工革製ブックカバー(昔々の使い古し)を掛けた。
にもかかわらず、ちっとも進んでいない。
その文庫本日記の本の中に紹介されている、活用の仕方、書き方例が多岐に渡りすぎて、かえって書く気を削がれている。
メモがわりでもいいそうな。
しかし、誰の目にも触れないからお気楽だ。
とは言え、お正月以来、書こう書こうと思いながら書いていない。
蝶ブログの書き散らしで満足しているのだろう。

最近は、どんどん好奇心が薄れてきている。
興味のないことはパスするため、益々アタマの中は空白に。スカスカ。
数週間前のことはすっかり忘れ、脳内にあるのは、昔々の過去の出来事ばかり。
が、悪い面ばかりではない。
子供の頃に習ったことはよく覚えている。
インプットしてから一度も使わなくても(アウトプットしなくても)、時空を超えて突然、何かのキッカケで記憶が甦ることがある。
間違って覚えていたりすると悲劇だが。

生活に必要な基本的なことは、ほぼ小学校卒業までに習う。
プラス・アルファのオプションは義務教育期間に教えてもらっている。
あとは、自分で付け加える。
加算法。専門、応用編。
基本だけでも、付け加えなくても生きて行ける。

わたしは、10歳の時が人生で、どん底。
15歳は緊張MAX。多分、成長もMAX。
18歳で解放。
25歳で完成。再スタート。
35歳でリセット。
50歳で卒業。
現在、不惑の(40歳ではないが)老後。
自分を終わらせるまで、あと約25年。
選択肢がある間は長く感じる。
なかなか終わらないと思うから。
選択肢がなくなる時が勝負の時。


※追伸。(個人的伝言)
裕さんへ。ブログ中、名前の漢字、間違い。「裕」を「祐」と書いていました。
(訂正済み)

人より上だ、下だ、標準だ

2024-01-13 | ブログ
わたしのブログは、(一般的な方々には)不人気。
なぜか、よくわかっている。
わたしは、真ん中がなく、最上とボトム(最低)の2つしかない。
平均値は真ん中、中央値ではあるが、自分自身には真ん中がない。
この上と下の差で、ずいぶん苦しんできた。
まあ、わたしの個性だからしかたない。
なので、普通の人の感性と一致しない面が多々ある。
第一、具体性のない個人のつぶやきは何の役にも立たない。

他の人気ブログが注目されて出る度に、ため息を通り越して、やっぱりね、と納得する。
正しい常識的な内容が書かれていると感じる。
しかしながら残念なことに、ちょっと見かけたブログは好きであり続け、興味を持ち続けるのが難しいことがある。
飛びつくと、冷めやすい。
わたしにとって、安定のブログが長持ちする。

で、裕さん。
デビューの時は桜色のほっぺ、ワクワクしました。
でも、先輩風、吹かせる気はゼロ。1μもない。
彼の独特の目線、感性。
シャープでキレが良く直球。
あの方、IQが高い。なおかつ、とてもナイーブ。
わたしとは正反対。というか、異次元。

ちなみに。
一般の方々を見て、自分より上と感じる方々や、自分と同じと感じる方々、自分より下と感じる方々がいる。
どの面、どの分野に焦点を当てるかで違ってくる。
くくり方による。

大枠、地球上の生物。
少し縮めると、地球上の人間。
もう少し縮めると、同じ国、同じ地域、同じ職場、同じ学校、などなど。
で、居合わせる人々をどう感じるか。
環境、DNA、能力(身体、技能、頭脳)、実績、評価、性質、、、などなど。
同じレベルだと、トラブルが起きやすい。
うんと違っても、トラブルが起きる。
人間関係は、トラブルの巣窟。
大会に出て競える分野なら良いが、そうは行かないものもある。

人は上も下もなく、皆、平等。
福沢諭吉さんの教えを今頃、紐解いてみる。
ところで、保育所や小学校での運動会のかけっこは、名前順でもなく、身長順でもなく、能力別に分けられ競う。
大きく優劣がつかないように横並び配慮がなされている。
ある意味、不思議。
全員、鶏口牛後。
いくら隠しても、差はじわりじわり出てくるのだが。
差イコール違い。違っていて当たり前。
それが個性。
でも、それを受け入れられない人は大勢いるように思う。
受け入れられないのも個性だとしたら、個性って何?
よくわからなくなってくる。

自分と関わりがあるかどうかがキーになってくる。
自分にどう影響するか。
関係なければ、どうってことがない。
関係あるからこそ、波立ったり、励ましあったり、ケンカしたりする。
他人事とは思えない事態(災害など)には協力を惜しまない。

上だ、下だ、同じだ、と分けても、将来はどうなるか、わからない。
過去は良くても悪くても、将来が安泰だという保証はない。
一寸先は闇。
なので、あまり一喜一憂していては、先が持たない。
まだ今後の後半がある。
時間や健康の調整は出来ても、調節は出来ない。
とかなんとか、先はわからないなら、それなりに自分が納得できるような今を過ごせば良い。
アリになったり、キリギリスになったり。
上だ下だの、こだわりもメリハリ。
人それぞれ。なんでもありだ。

羨ましいとは思わなくなった

2024-01-08 | ブログ
今日でお正月モードもお終い。
今日は成人式だとか。
わたしは成人式は1月15日という思い込みがある。
いつから1月8日になったのだろう??
1999年までは1月15日だったようだ。
それ以降は、第2週目の月曜日になったとか。
年齢も少し修正されたようだ。
2023年以降は20歳の集いになったらしい。
成人対象者が18歳に引き下げられたものの、18歳はまだ高校生だったりして忙しいという配慮。

わたしの脳内カレンダーは、1999年で停止していると思われる。
24年目にして更新、アップデートしよう。
て、わたし、社会性ゼロ。

それはそうと。
トップ画像は、お菓子の重箱。
長女一家が、4つのバラバラに離れた県を転々と、長い移動の日程を終えた最終日に、帰りに自宅を目前にして最後の乗り換え駅で買い求めたもの。
ほっとしたのだろう。
自分へのご褒美、お土産。
あちこち、行ったり来たり、ご苦労様。
一昨日は朝4時、始動。東京から移動。
4人の子供を引き連れ(1番下は3歳)、皆タフだ。
若いということはパワフルだ。
長い長い年末年始モードがいよいよ終わる。

さて。
gooブログ、アピール記事で紹介されているブログを時々、拝読する。
その中で素晴らしい生活をされていて、写真と共にそのゴージャスでハイスペックな家族の皆さんの暮らしぶりが惜しげもなく披露される。
そう言えば、かつて、そういうブログに触れて同じような心境に陥ったことがある。
その素晴らしさに、うっとりを通り越して、複雑な想いに駆られた。

が、今は気持ちが変化した。
16年の間に少しずつ変わったようだ。
足元にも及ばない質やレベルの高さに、憧れとも違う、もちろん嫉妬などとんでもなく、ただ感心するものの、自分とは違う道を感じた。
そして、興味や好奇心の対象にはなる。
違いをはっきり自覚したが、別に卑屈にはならない。
お手本にしようと熱心に、かぶりつかない。
真似はしない、したいとは思わない。
はっきり違うことに対して、別に歩み寄る必要はない。
背伸びする必要もないし、崇め奉る必要もない。
人は人。
各人の持つカラーである。
自分には自分に合った快適、満足がある。

しかしながら、こういうタイプのブロガーさんは、似たようなトラブルに巻き込まれる。
過去にブロガーさん同士、ケンカをしておられるる。
何故なんだろう?
自分を防御しないからか。
何かが飛んで来るかも知れないから、家の外では身をかがめて歩くほうが無難だ。
身の安全は自分で守る。防御する。
まあ色々な人がいる。

人のことは羨ましくないということだ。
他人は自分ではない。自分は自分。
羨ましいと思うなら、努力すれば良い。
努力もしないで羨ましがっても意味がない。
(もちろん、災害や不幸は突然、努力とは関係なく訪れるので想定外)

老年になると、他人や自分の過去と比べず自己肯定。
ありのままの自分を受け入れる。
それが明るい老後を築く。





一般的人気ブログを読んで

2023-12-07 | ブログ
裕さんブログ。(※一般的ブログではありません)
極寒のなか、部屋に電気なし。
長年連れ添ったご夫婦で、ほのぼの、赤ワインと蝋燭で一夜。
家族愛、絵が浮かびます。

さて。
ブログについて。
ブログは色々ある。
タイムリーな情報が役立つもの、気づきを得るもの、クスッと笑ったり、ほんわかするもの、元気になれる活力があるもの、刺激を受けるもの、、、
読み手は求めるところに行って(読んで)なんらかのものを得る。

その中で気づいたことがある。
お隣の奥さん、同僚、たまたまそこに居合わせた人、出先で出会った人、、、
ふらりと立ち寄った先での触れ合い。
中でも、常識人で経験値も高く話題も豊富、角がない丸い人には、人が集まり易いように思う。
いわゆる人気ブログ。

視点も要。
常識が難なく備わった人格者とでもいった人が、直球で真っ正面から素直に捉えている記事は、安心して読める。
博識ブログも、読むと自分が瞬間的に物知りになったような気になる。
大多数の人が不愉快にもならず、反感も覚えず。
毎日服用するサプリメントの一つのようなかんじか。
人の数だけブログがあり、各々好き嫌いがある。
飽きたりすることもある。
何かほんの些細なことで嫌いになったりすることもある。
それはそれで当たり前。
好きなものを好きな時に好きなだけ、接する、食べる(読む)のが宜しいかと。

なんの責任も義務もない、自由な世界。
さらっと上部の良い一面だけを享受できるなんて。
とは言え、根の部分での繋がりも薄い。弱い。

ちなみに。
読み手と書き手は、違う。
受ける側と、発する側。

人気ブログはたくさんあるが、核となるエネルギーに自分と同じ匂いを感じる人は多くない。









衝撃的記事は非公開にする理由

2023-11-29 | ブログ
裕さんの「ふがふがハナシ」はブログで何度か拝読して知っている。
歯無しにインスパイアされ、歯に関する衝撃的実話を書いたが公開するのはやめた。
閲覧数稼ぎに他人を巻き込む自分のエピソードを切り売りしたくないし、自分だけの胸におさめたいこともある。
かなりその記事はインパクトがある面白い出来だったと自負しているが、やはり公開を躊躇する何かがある。
生乾きのものが乾いた(干からびた)頃にアップするかも。
わたしのブログは実話エピソードや本音から成っているため、こんなブログでも、作り事がない分、けっこう、自分にはマジメに向き合っている。

嘘は書かない。
が、書かないだけのこともたくさんある。
わざと書かない。
それを「嘘」という捉え方も出来る。
とは言え、真実を曲げてまで書かない。
だが、意図して真実は書かない場合がある。
とかなんとか、そんなたいしたものではない。
ではあるが、「それを言っちゃあオシマイ」というようなことは、身近にも世の中にも結構ある。
真実は必ずしも正しいこととは限らない。
人によって真実の捉え方が違う。
真実は一つだ!!と声高に叫ぶ人がいるが、その人にとっての真実だったりして、確信するあまり聞く耳持たない場合は、わたしはあえて触れず、触らぬ神に祟りなしで行く。
核心を突くと、途端にキレることがあるので、近寄らない。
誰にもこころの奥に大切にしたいことがあるようだ。

「あ、そうなんですか〜、ところで食べ物は何が好き?」
と、話題を変える。頭のスイッチ、切り替え。
何かしら食べないと毎日が進まない。
現実が大事。
信念を貫いて生き仏になるならいざ知らず、自分が出来もしない現実離れした中途半端な理想なら無い方が潔い。
と、これはいつも自分に対して思うこと。
あれやこれやモンクばっかり言って、理想ばっかり追求するくせに、自分は何にも出来ない、していない。
そういう自分を恥じることがある。

自分以外のことを誇りに思い自慢したがるくせに、自分自身、自分本人は、なんの自慢出来ることもない。
むしろ、他の皆さんのようにちゃんと出来ない。
この矛盾を無くしたいと日々思っている。

一昨日放映のNHK TV番組、超多様性トークショー「なれそめ」の出演者が、「普通」という枠を外すと、ぱーっと目の前が明るくなり視野が広くなったと話していた。
これでなければいけない、と自分で決めつけていた考えを取り除くと、とらわれていたものから解放された、と。
納得。その通り。
自分は自分。
価値観や基準も、自分で決めて、自分で変える。
それでいいんじゃないかと。
今更ですが。




書くとスッキリする

2023-11-14 | ブログ
わたしのブログ。
①長い。②面白くない。
この2つの、決定的特徴がある。
特徴というか、欠点である。

ふぅ〜。
にもかかわらず、書き続けるには、それなりの理由がある。
理由は、明らかに承認欲求ではない。
想いをアウトプットすることによる爽快感、自己満足である。
心身、快適、快調。
根性なしなので面と向かって言えず、毒吐きの場合もある。

どこかで取り揃えたか、持ち帰ってきたか、いただいたお花を満足できるように器に生けることが出来た直後の嬉しい気持ち、に似ている。
他者基準ではなく、自分基準。
料理がとても満足できるように作れた感覚とはまた違う。
料理はその場で胃袋に入ってしまえばお終い。
刹那的なところがある。
あまり食に関心や追及心がないのかも知れない。
それに料理は自分でしなくても手に入る。
だが、少し手を加えると美味しくなる。
食は、生きていくために必要不可欠。


それにしてもまあ、こんなに長いのは何故か?
もやもや疑問は湧き上がるものの、自分で何が言いたいのかわからなくなっているため、書いて、答えを見つけようとしている。
なかなか自分を納得させる答えを掴めないと、延々と書き続ける。
(料理ならメンドクサイから、素材のまま手を加えず食べることもある)
自分が満足出来るような答えを導けたら、実に気分スッキリ。
導けなくても、書いている途中にランナーズハイ的に昇華されて余計なものが取れ落ちて気持ちが上向く。
それに付き合わされた皆さんは、それはそれはお気の毒である。
ごめんなさい。

しかし、ブログに自分は救われている。
救われないのは、読まされる側の皆さんでありますが、目に付く単語だけ拾って、ざざざーっとスクロールしてください。

ブログを読む楽しみ

2023-10-13 | ブログ
わたしがもし、人に騙されるとすると、、、
オレオレ詐欺は、あり得る。

息子だというだけで、頭のヒューズが飛ぶ。
大いにあり得る。
だが、現金を袋に詰めて郵送はしないだろう。
紙を長方形に切って重ねて束にして、「認知症新薬を買うつもりで貯めていたお金です。薬が買えず認知症が改善されず残念です」とメモを貼り付けて送ってもいいが、時間とお金がもったいない。

さて。
裕さんの「連載 フランスと日本」。
シャープにキレが冴え渡り、面白い。
こんなキレ味鋭いと、自分の刃で自分が傷つくリスクがある。
だが、読み物としては、「無料で読ませていただいていいの?」の世界である。
世の中に出ている著書、役立つものもあるが緩いものもある。
無料のものほど、なかなか発掘、確保しにくい。
書く人は、なんの縛りも制約もない。
だが、ご本人が、書く意欲が減退することがある。
じつにセンシティブな問題だ。

長年のブログ友はさておき、ブログ散歩をしていると、いろんな人がいる。
たまたま、ここgooのアピール記事に出会い、知ることがある。
ブログ村エッセイつながりではなく、gooつながり。
比較的ご近所に住んでおられ(同じ大阪府下)、おひとり様生活をアクティブに満喫されているご年配ブロガーさんを今日、見つけた。
こんな人と知り合えたらいいなあ、、、と思った。
が、「いいね」をつけただけ。
またアップされたブログでお目にかかることを楽しみにしている。


悪い縁はすぐ切れる

2023-10-11 | ブログ
SNSは、短所も長所もある。
ある大手SNSの新人コーナーに新会員さんが日記をアップされていた。
で、ふと(魔が差したのか)コメントを付けた。
すると、なぜか新人さんの怒りの鉄拳を喰らってしまった。
理由は無い、、、ということはないはずだが、わたしは悪気があったわけでも、言葉の奥に暗に批判を匂わせたわけでもないのだが、「論点がズレている。不快だ」と反撃された。
しかも、わたしのことを、年配の人がいかにもわかったようなことを言うのが頭に来るらしい。
わたし、年齢は明かしてないんだけど。
まあ実際に年配ではあるが、そのサイト自体が年配向け。

具体的内容を説明すると、新人日記をアップしたところ、出会い系と思われ、不愉快なコメントを寄せられた、というもの。
わたしの何気ない「目的を明確にするといいですね」(だかなんだか、文章は忘れた)というコメントに、誰かが拍手した。
これに、新人日記の主が逆上し、「自分でコメントもつける勇気がないくせに、人のコメントにこっそり拍手するとは、言語道断!!(TV時代劇・水戸黄門風)」とコメントした。
なんやらかんやら、あちこちからコメントが増え、わたしは、咄嗟にコメントと共に姿を消した。
言いがかりをつけられたり、危険な人と関わったりするのは嫌なので。
跡形もなく去る。

世の中にはちょっとしたことでキレる人がいて、それに便乗して面白がる人がいる。
よほど退屈なんだろう。
通りすがりに、真っ黒いへドロのような感情を吐き捨てる人もいる。

ちなみに、この新人さんは、何度もハンドルネームを変えて登録しているような雰囲気の人。
わたしは、新人さんをあまり信用していない。(よほどインパクトある面白い人は別だが)
コロコロ名前を変えて再登録して、それまでの黒歴史をリセットする人は少なくないようだ。

わたしは、変な人は近寄って来なかった。
相手を特定せず不特定多数の人に送られてくると思われるコメントは、無視。
縁もゆかりもない人から明らかに言いがかりをつけられたコメントもあったが、差し障りないコメント返しでスルー。
ケンカには乗らない。
のらりくらり。
手応えがなくて面白くないのだと思う。

わたしは、あ、この人、ダメ、と直感で臭いを嗅ぎ分ける。
この人は信頼できる人だ!と、かなり目の細かい網目に残るのは、16年で2〜3人。
これはある意味、スゴイ。
もう少し緩めると、5〜7人??
わたしがいかに用心深く、非社交家であることが、窺い知れる。
鉄のカーテンで覆われている。
(鉄のカーテン※は、違う意味で使われるようだが。
※冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩、だとか

わたしは、変に真面目で頑固で面白くないから、悪さして遊ぼうと思っても悪い方の遊びに発展しない。
おそらく遊びそのものが、お硬い論議だったりする。
そんなものを面白がってくれる人は、稀(マレ)。
だから、全然、チャラ男さんや、チャラ子さんとは接点がない。
人を攻撃してくる人に対しても、関わりを持たない。
知り合いは、穏やかな人が多いように思う。

悪い縁は自然に切れて、良い縁は繋がるんだそうだ。
振り返って思えば、そういう気がする。