goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログの見た目と、中身

2024-07-17 | ブログ
文章が上手い人がいる。
ぐいぐい引き寄せられる。
リズム感や、言い回しがテンポよかったり、微に入り細に入り、痒いところに手が届くようにツボを抑えた描写がわかりやすかったり、、、胃袋をつかまれる、、、(胃袋→嘘。悪ふざけ。すみません)
こころをワシ掴みにされる。
引き込まれて読んでいると快適な脳内環境になる。
のではあるが、、、プロ、作家はそうだが、素人ブロガーさんはそういうわけにはいかない。
文章の上手さに引き込まれたものの、よくよく他の記事も読んでみると、、、、
やはり、無料の素人のお遊びに過ぎなかった。
知って間もないブログには、軽い失望を覚える。
だが、お金返せー、にはならない。
無料なので。
投稿された全てが自分の好みに当てはまるとは限らない。
売っているモノ全てがストライクゾーンとは限らないように。
ではあるものの、、、、どうしても相入れない価値観が見え隠れしてしまうと、受容しがたくなる。
クセや臭いが鼻につくこともある。
その時はカンタン。
そのブログから離れるとよい。
誰をも傷つけない。
別に挨拶はいらない。

こうやって、長い年月の間に、わたしのブログからも何人何十人の人が離れて行ったことだろう。
第一、年がら年じゅう同じことを書いていたら、読む側はうんざり。
飽きる。
だとすると、やはりプロの作家さんは凄い。
プロにはプロのスキル、力量、能力がある。

書き方スキルもさることながら、やはり内容が重要だ。
どんなにキレイに書かれていても、中身が薄いものがある。
人間の外見と同じ。 
どんなに美しくても、肝心なのは、中身である。
ではあるが、容姿に惑わされることは、古今東西、人間のやらかすこと。

(ちなみに、ブログの別アプローチとして、写真で見せる、さらっと事実を紹介する、という手法もある)

魂の底から湧き上がってくるものを嗅ぎつける。
SNS新人プロフィールに、「ハマっていることは、海外旅行、興味あることはおカネ、グルメ、オシャレです」と自己紹介されていると、近寄りたくなくなる。
同じ海外旅行でも、バックパッカーだったり、多くの人は見向きもしないかも知れない、こだわりコンセプトがしっかりあるものなら、わたしは興味を抱く。
札束で頬っぺたを叩くような、お金さえジャブジャブ使えば、ゴージャスに楽しめる、というようなコンセプトのものは、軽薄に感じる。
「こんな(あり得ないレアな)ことに、こんなにお金や時間、労力を使うか?」なら、後学のために好奇心を抱くかも知れないが。
究極の未知への冒険を求めて、命を落とした人も少なくない。
命と引き換えにするほどのものは、どんなものか、知りたくなる。
が、研究不足、調査不足、準備不足、認識不足、甘く見ていた、などの理由で命を無駄にするは、イタイ。

もっと軽い分野では、、、
オシャレ女子が大人になって、身の丈に合った人生を楽しむは、素晴らしい。
のではあるが、、、ただ、超個人的わたしの趣味、好み、偏見からすると、外見、外側しか見ていないと思われる内容に触れると、ちょっとため息が出る。
浅い。薄い。軽い。
とは言え、自分の経験を通してしか深い考察が出来ないわけではない。
書物がある。
しかし、例え読書好きであっても、好きなジャンルは偏るだろうし、自分が求めている答え、言い切ってほしいものを探して本を読み漁ることもある。
やはり、個人的好みは人それぞれなので、自分が好きなものに近寄る。
わざわざ苦手なものを克服するより、得意分野を掘り下げるほうが楽しくいける。
そして、思考が浅いと感じるものに触れると、気づきに繋がる。
自分を見つめる、対峙する、内省する気持ちがこころの底にある人の書くものに共鳴を覚える。

それと、、、これは最近やっと目覚めたのだが、、、、想像力は大事、必要不可欠である。
自分以外の、人の気持ちになって考える、想像する。
頑張って想像出来ない内容もあり、それは、「理解できない」箱に入れる。
(悪い意味で)気になる場合は、蓋を閉める。
時が経てば気持ちが変わることもあるし、変わらないこともある。


それはそうと。
追記。
今日の蝶ブログ記事をアップしてから10時間ぐらい経った今、ふと思った。
今日の記事でまた、何人かの読み手でもあるブロガーさんたちが、蝶ブログから去って行ったことだろう。


皆さんのブログ、楽しませてもらっています

2024-07-15 | ブログ
先週に初めて訪れた、令和元年スタートの40代主婦ブログ。
面白い、、、のではあるが、、、読み進めると、当たり前なのだが、意見や感覚の相違が見えてくる。
まずなんといっても、年代の違い。
育った時代背景が絶対的に違う。
時代や育成環境による価値観も違って来て当然。
何を隠そう、、、(隠す必要はないが、つい演出癖)、彼女はわたしの娘たちと同世代なのである。
個性はそれぞれだとしても世代は同じ。
わたしには娘は2人いて、お互いに逆の性格、行動パターン。
それから見ると、今回の主婦は、どちらにも偏っていないとは思えるが、共通点はあるし、相違点もある。
息子の嫁、みたいな感じか。
(嫁、いないが。兆しも全くないが)

まず、ブロガーさんがご自身を一言で表現するプロフィールが「主婦」であること。
兼業主婦の場合は、「兼業主婦」と明記すると思われる。
娘世代で専業主婦は、どれぐらいいる?
それを自分を端的に表すワードとして、一番前面に押し出す人は、どれぐらいいる?
ブログを読む限り、どうも専業主婦のようだ。
主婦はたくさんいる。
が、プロフィールとして専業主婦とするには、それなりの本人の自負があると想像する。
多分、「専業主婦」とは明記されず、「主婦」と書かれていたと記憶するが。
ではあるものの、ハウスキーパー的なプロ家事人的な面は感じられない。
仮にちゃんと家事はこなしていても、あまり精神的に力を入れていないだけかも知れないが。
美容やファッションには興味がおありなようだ。
まだお若いので、自然なことだが。
お子さんも大きいし、都会のマンション住まいの核家族。
有り余る自由時間をご自分のためにたっぷり使っているんだろうなあと推測する。
取り上げる題材には少々偏りがあるものの、人のことは、全く言えないわたし。
言う資格ゼロ。

娘たちとの大きな違いは、、、やはり、興味の対象が、彼女とは同世代ではあるが、わたしの娘たちが持つ興味とは違っていること。
時間の使い方が違うこと。
ではあるものの、膨大な自由時間を惜しみなく使って、いろんな考察、調査を交えた記事を書いてくださるので、わたしが調べる手間暇を割愛できる。
その中から興味ある部分をチョイスして、いいとこ取りをさせていただき、享受している。

わたしの蝶ブログはひどいものだが、それを自覚した上で、確信犯的に言わせていただくと、、、(言わなければよいものを)
と、ここで筆が止まる。(江戸時代的表現)

やっぱり、やめておく。
自己制御。
なんでも言えばよいものではない。
胸のうちにしまっておこう。
だがしかし、わたしの自分に対する理想は、この、ケシカラン感想が自分の内面から自然に湧いて出て来ない、器の大きな、こころのキレイな寛容な人間になること。
なれるかな?
生きているかぎり、自分の短所、欠けている面と格闘し続けるだろう。
それが「生きている」ということに他ならない。

なんて、すぐ大袈裟に大層に、締めくくろうとするのは、蝶ブログの軽薄さの裏返し。
とかなんとか、「卑下自慢」というのがあるらしい。
どきっ。
過度な謙遜は鬱陶しいらしい。
蝶ブログ全編、底流には卑下自慢が蔓延しているかも知れない。
見て見ぬふりをしよう。


共感と優越感は違う

2024-06-16 | ブログ
昨日、書いた記事がある。
が、また別の日にアップする。
なぜか?
全く別のことを書きたい気持ちがムクムク。

ブログ村エッセイに、わたしはセキ(席?OR 籍?)を置いている。
ブログは、goo運営のもので、毎月利用料金がかかかる、有料コースに設定している。
ブログ開設当初は無料バージョンにしていたが。
まあそれはよいとして。
つまり、2つの容れ物があるということ。

毎日、ブログ村エッセイで、ランキングされている記事を読んだり、
gooでお気に入りにしているブログの更新記事を読んだりしている。
その他には、まったくそれとは別に、個別にお気に入りブログが2つあり、訪れて読む。

それぞれのブログには特徴がある。
わたしと同じく孤独愛好家のブログがあり、毎日更新され、短文で、読みやすく、論調は哲学めいているのだが、、、
必ず絶対にいつも、自分と同じぐらいか、それより下の人々のことしか取り上げられない。
昔の過去記事にまで遡ってはいないから、上の人々のことに触れていた時期もあったのかも知れないが。
人には好みがあり、それぞれが好きなことを追求すればよい。
わたしは、上も下も真ん中も、あっちへ行ったりこっちへ来たり、わりと好きなものは偏っていない。
が、そのブロガーさんは、必ず最下層か、下か、同じぐらいの生活をしている人々だけに着目する。
そのブログ記事によって、わたしは、年金ギリギリラインの人々のことを知るのだが、上のほうの人々が空席。
なので、別のお気に入りブログに、上のほうのブログを選び、毎日拝読している。
わたしは、自分を軸に、自分より下、自分と同等、自分より上、を上下移動して楽しんでいる。
(人は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らないので、上下といっても、年収や属性で分けているだけ)

何度も書くようだが、毎日訪れるブログの肝は、短文であること。
わたしのように、毎日、長文は、毎日重いと思われる。
が、次から次へとおしゃべりが止まらない。
よほど、内向き気質で、ヒマなんだろう。

それはそれとして。
今日、新たなブログを初めて読んだ。
グチグチブログ。
内容が、わたしのグチと瓜二つ。全く同じ。
「あなたも愚痴って、こころの老廃物を出し切ってください」と、紹介文に書かれていた。
が、わたしは、わたしの代わりに愚痴ってくれるブログに、ひたすら溜飲を下げるのみ。
全く同じ内容の愚痴のところには、割れんばかりの拍手を送っている(胸の中で)。
ブログは、娘さんが書く、自分の身の回りのことを全くしない父に対する愚痴なのだが、「父」を「夫」に変えるだけ。
家事だけでなく、他の全てのことに、母任せの父、よく離婚せずに持っていると思う。
「仕方ないのよ、昔の男は」とお母さんは諦めているようだ。
一度、離婚の相談を娘さん(ブロガーさん)にしたことがあるが、娘さんはその時は応じなかった。
それを今は悔いているとのこと。
しかし、世の中の大半の高齢者夫婦は、似たようなものだと想像する。
わたしが尊敬する友人の夫でさえ。

知人の同世代夫婦で離婚したという話を耳にすると、なぜかわたしは、すごくウキウキ、イキイキする。
そうだろうなあ、そうだよねー、やっぱりねー、と、よく経緯を知らないくせに、夫婦の現状や離婚原因をまるで真横で見てきたかのように想像する。
しかも、心躍りながら。

離婚する人、できる人は少ないだろう。
壊すのは、エネルギーがいる。
作る、造る、創るときとはまた別の、無機質ながら膨大なエネルギーを必要とする。
現実問題として、メリット、デメリットを秤にかけると、かなりデメリットが大きい。
LINE婦人公論の記事などで紹介されている、高齢・団地一人住まい、イキイキ暮らしのお手本みたいな人は、女性ばかり。
(媒体が婦人公論だから、読者は女性)
登場する人は死別が多いように思う。

高齢になって離婚はやはりハードルが高い。
経済だけでなく、健康、介護が関わってくる。
しかし、まだ70歳になるかならないかの、健康な、家事をしないリタイア夫は、妻には重くのしかかる。
「昔風で古い」では片付けられないが、別れることも出来ない。
生きている間だけじっと我慢すればよい、とは言っても、どちらが先にあの世に行くのかわからない。
グチグチブログのブロガーさんのように、本当にそんな父(夫)を持つと気の毒だ。
自分の代わりに愚痴を吐いてくれてスカッとする一方で、自分の夫はあの男性よりはずっとマシだなあと、へんに安堵したりする。
下には下がある。

自分より下の生活をしている人ばかりをとりあげるブロガーさんと、同じ心境か。
上を見て、羨ましくため息をつくのは嫌なのだろうか。 
私は違う。
なぜなら、自分より上の人は、その状況に適した能力なり人格なりの人であることが多い。
自分より格段に優れている人を見て羨ましがるのはおかしい。
その人の器や能力に見合った状況だから。
それに、今の状態が未来永劫に続くとは限らない。

羨ましがる場合は、現況が自分の能力に見合っていないと感じるからだろう。
わたしは、かつては姉の夫さんは「夫の鑑」だと羨ましいと思ったこともあったが、姉のレベルに相応しいのであって、わたしレベルには高望みしすぎだ。
同級生の夫さんや家も羨ましいと感じたこともあったが、今では全然、比較したりしない。
隣の芝生は青い、という面もあるだろうし。
それに、異質のものは比べられない。

とは言え、、、
グチグチブログ、読んだ瞬間は、スッキリしたのに、しばらくすると、自分のほうがまだマシか、と胸を撫でおろしたり、無意識に比較している小さな器の自分を発見する。

なので、わたしは、上や下や真ん中や、いろんなブログを読む。
向学心、向上心を刺激するものも好きなので。
走ったり、ジャンプしたり、転けたり、休んだり、、、いろいろしながら、毎日を生きる。
というか、たんなるブログオタクだ。



ブログが好きなんです

2024-06-05 | ブログ
ブログは面白い。
書きたい欲求が、ムクムク。
たいして書きたくなくても、毎日更新したほうがいいかも?と、誰も望んでもいないのに、自分だけの気持ちから頑張る。
趣味とは、そんなもの。
気持ちの張りを作る。
これが仕事だとそうは行かない。
義務感、悲壮感が漂う。
だが、達成感、充実感はすごい。

わたしは仕事はもうしない。
卒業した。
というか、結婚するまでの期間は実家で過ごした。実家暮らし。
稼業手伝いで、一生分の仕事は為した気分。

一人住まいの経験なし。
わたしのほうが夫より長生きすれば、憧れの一人住まいが出来る。
でも、独居老人枠。
同じ独身でも人生のスタート時と終了時ではえらく違う。
まあ、生まれる時も死ぬ時も一人であるが。
孤独死や、入院中でも家族と同居していても、死ぬ瞬間には誰も周りにいないことはある。
とは言え、生まれる時は介添人がいる。
トイレなどで人知れず一人で産む女性もなかにはいるけれど、レアケース。
あ、一人っきりではない、、、産まれる時は赤ん坊は、必ず母親がいる。母から産まれてくるから。
母も一人で産んでも、産んだ子供が最低一人(多胎児なら複数)必ずいるのだから、介添人がいなくても、当事者と子供、合計すると母と子、一人ではない。複数人。
(とは言え、時間差はあるものの、多胎児の場合、体外に出てくるのは同時に何人もではなく、一回につき一人づつ???)→シツコイ


わたしは、蝶ブログに関しては、ごくごく限られた人以外には、なんの関わりもない。
書きっぱなし。
長年、このスタンス。
無名の、何の特徴もない一般人の個人ブログに、よくぞお越しいただきました。
と言っても、少し読むとすぐ飽きられる。
これは事実である。
無常。無情ではない。
その中でも繋がり続けている人がいるのは奇跡だ。
適当に読み飛ばすか、ワンクリックして開くだけにしておくのも、アリ。
肉親、血縁者を含め、世界中のナニビトたるも全員が自分と全く同じ考え、感じ方、意見で、全てを受け入れ賛同、なんてあり得ない。
全てを重ね合わせるのは無理。不可能。
が、無関心が一番キツイ。
攻撃されるよりマシか。
各人、棲み分けが行われ、自分のテリトリー内で機嫌良く暮らせたらよい。
つまみ食いして、シェアできる部分だけを楽しむ。

あ、それと。
毎日、訪れたいブログの必須条件は、、、短文であること。
長文は、アウト。
これを十分承知の上で、自分の気分にまかせて長文を綴る愚蝶ブログは、一般的にはウケない。
自分の救済に徹底しているが、救済の中には、読んでくれる人がいるという実感も含まれる。
一役買っていただき、ありがとうございます。

優秀DNA

2024-05-23 | ブログ
わたしがいつも訪れている、あるブロガーさん(高齢女性)のブログを読むと、優秀な遺伝子は遺伝するということがよくわかる。
そのブロガーさんの血縁、親、子、孫へと直球ストレートに遺伝している頭脳を知ると、今更ながら、自然界の事実を受け止める。
環境も大事ではあるものの、生物、自然科学のなせる技かと感じる。
こういう遺伝子は、生殖医療ビジネスでは高い値がつくのだろう。 

ちなみに、NHK TV火曜ドラマ「燕は戻ってこない」(原作・桐野夏生)、毎週楽しみに見ている。
えげつないセリフを吐かされる黒木瞳さん、役者として別の切り口で芸域が広がる見本のよう。
番組ではいまのところ、生殖医療ビジネスサロンの担当者役の(初めて見る)女優さん、一番おいしい役だと感じる。
意図して、気持ち悪く感じ悪く大袈裟に演じておられるのだろうけれど、インパクトありすぎ、印象に残りすぎ。
奇をてらう、わざとらしい不自然な大袈裟ぶりが特に。
役者冥利に尽きる役。

と、相変わらず話が逸れている。

凡人がアタフタ、アクセクして無理して頑張るのとは違い、最初から涼しい顔の飛び抜けて優秀な人々はいる。
その優秀さをどう活かすかが、次の重要な課題となる。
なかなか活きないこともあるが、全てが上手く行くとも限らないのが人生。
挫折に対応する能力は、自然に備わっているわけではない。
特に無理やり頑張って手に入れた秀逸ではない先天的なものの場合、つぶしが効きにくい。
ただの人に戻るだけなら良いが、へんに潰れたりすることもある。
そうなると、強い種が生き残るということになる。

明治維新など、、、世の中がひっくり返る時、いかにチャンスをものにするか、運もあるが、能力も必要だ。
これからの子供達は、どうなっていくのだろう。
つつがなく、生きてほしい。
発展途上国ではなく、衰退途上国となっても、江戸時代のように、、、といっても無理だろうけれど。

ガス、電気、水道がないと生活できない。
暮らしは便利になったが、後戻りできない。
当たり前のことが、当たり前でなくなったらどうなるのか。
地球規模でものごとを考えなければならない。
蟻になったり、象になったり。
蝶にはならない。

ちなみに、バズっておられた、わたしが更新通知にチェックをいれている、あるブロガーさん。
またまたバスり、2日目を迎えられているようだ。
成り行きを興味深く注視したい。
わたし、好奇心旺盛な外野の住民。野次馬なのだ。



バイタリティ

2024-05-21 | ブログ
愚蝶ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
(今日は「蝶」に「愚」をつけました)
毎日更新されている他のブロガーさんのブログを読むと、具体的に閲覧数を紹介しておられ、その多さに驚く。
ご本人は「少ない閲覧数であるが、それでも(挫折せず)毎日、更新している」と書かれている。
いえいえ、全然、少なくないです。
愚蝶ブログなど、よくまあ毎日更新するモチベーションはいったい何だろう?と、研究の対象になるぐらいの閲覧数である。
(数に関わらず、訪問いただき有り難く思っています。これは、はずせない)
自己分析によると、自己愛。
ひたすら自分を愛していることが自分でわかる。
(引きこもりの特徴?)
愚かであろうが、自己陶酔していようが、その根底には自己愛がある。
でなければ、こんなに毎日毎日、べらべらダラダラ書かないと思われる。

ブログ村エッセイにランキングされている旅ブログがある。
いやはや脱帽。
若さと熱情以外の何ものでもない。
わたしも訪れたことがある地であっても、あんなに深掘りし、身を挺して旅をするなんて敬服する。
わたしには絶対に出来ない。
が、擬似体験する思いで、(精神的に)汗や脂汗を流しながら、拝読している。
(一部、このGW旅に参考にさせていただいた)
それにしても、若さは、スゴイ。
バイタリティたるや。

ではあるものの、わたしは枯渇しているわけではない。
井戸は枯れていたかも知れないと思っていたが、そうでもない。
水道水ばかり使っていたからか。

バイタリティ溢れる旅。
応援しながら楽しみにしている。

※ついでに、
NHK夜ドラマ「VRおじさんの初恋」は毎日の楽しみ。
今、FMラジオで聴き慣れた番組テーマ曲が流れている。
ちなみに、お笑いコンビ「ガクテンソク」は、新しい名前として脳に刻む、、、のは無理っぽいので、冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーの余白に記しておいた。

あら、このひと、大丈夫?

2024-05-01 | ブログ
昨日、頑張って家のハナミズキの花びら掃除をしたのに、今朝はまた、はらはら花びらが散っていた。(※トップ写真)
これなら昨日掃除せずに、ある程度、散り切るまで待って、まとめて一気にしたほうが能率が良い。
家の前の公道にも、派手に花びらが散らかり落ちている。
今まで、あまり気にしなかったのだが、公共の道路に、私邸に咲く木の花びらが散り落ちるとなると、迷惑かも、と気が気でない。
風が吹くと、どこかに吹き飛んで行くと思われるが。
花びらも、傍迷惑な個人ゴミか?
今まで気にならなかったのは、目が見開いていなかったのだろう。

ちなみに。
旅のほぼ準備は出来たが、激しいマリッジ・ブルーならぬジャーニー・ブルー。
いつも旅行の前は落ち込むが、今回は特別、元々、深く落ち込んでいるところに更に旅前ブルーが重なっている。
なぜ、こんなにブルーなんだろう。
バチが当たる。
まるで、手が込んだご馳走を前に、胸焼けや吐き気がして、一口も手をつけないかのごとく。
この心理は、自分でも分析できない。
まだ自然に満ちていない、万を期していないのに、押し出されるような感じか。

おそらく、満を持して準備オッケーとなった頃には、事情が許さず、旅に行けないことだろう。
だからといって、無理やりのような感じで行く。
贅沢者であり、愚か者である。
今、行かずに、後の行きたい時には行けないのは、もっと愚かかも知れないが。

制約、制限や障害物があってこそ、実現できない事態は、やりくりして努力してクリアさせると、やりたいことは光り輝くのだろう。

ところで。
他の方のブログ記事を読む。
やたら長く8000文字近かった。
わたしごときの頭脳では、集中力が続かない。
良いこと、役に立つことが書かれているのに、好奇心減退か。
また別の、お気に入り登録しているブログ。
更新されると、自動的に自分の編集画面の下半分に記事と写真が現れる。
尊敬してやまない人生の先輩、高齢の主婦の鑑の方なのだが、、、。
ものすごく仰々しいタイトルで、いったい、どんな一大事かと思うと、、、気が抜けるほど、どうってことのない、当たり前の、何を今更的な内容だった。
騙されるわけでも、悪意があるわけでも、損をするわけでもない。
だが、、、大丈夫??と、ふと首を傾げた。
これまでの内容からしてみると、明らかに、濃さや重大性が違う。
小さな小さなことに気づきを得て、幸福感を得るのはとても良いことだ。
むしろオススメ、絶賛。
わたしなども、その小さな小さな発見を長々しく仰々しく文字に並べて納得、感激、自己満足しているのだから、同類のようなものだ。
だが、、、わたしが深く尊敬申し上げるあの方が、、、あの内容の気づきかあ、、、と驚いた。
ではあるが、決して他人を傷つけるものではない。
各人、自分を幸福に導く要因は人それぞれ、千差万別。各人が持っている。
客観的に見て、誰もが羨むような光り輝く黄金の人生を歩んで来られた方が、不満ばかりをツラツラ書くのではないのだから、良いではないか。
とは言え、、、
(これは比喩表現ではあるが)まるでノーベル賞に輝いた人が、幼児のようなことで喜んでおられるのを読んで、、、うーーーん、、、複雑な心境になった。
大丈夫??
いえ、小さな幸せを感じる毎日を過ごせる努力は素晴らしい。
とは思うものの、わたしのブログもそうなんだろうなあ、、、と、我を振り返る客観的な目になった。
ブログを継続して読むと、その人の自己満足の推移がわかる。
何ごとも変わっていくということだ。

わたしも、そうなるのであれば、自分のブログは、キリの良いところでやめた方がよいかも。
自己満足にも美学がある。
なんて、どの口が言うのだ??
散り際が、肝心。
でもわたしは元々、小さい頃から、若い頃から、こういうキャラ。
最初から電源がオンになったりオフになったりコントロールできず壊れかけているので、ちゃんと動かないのが日常。
と、自己弁護、自己擁護してみた。

完璧主義の人も、いいかげんな人も、同じように変化していく。
それを「衰え」というのだろうか。
自分が終わりに向かう「遊行期」に移行するまで、あと7年ちょっと。
祖母や母、姑たちの歩んできた移り変わりをしみじみ感じるようになった。



現実と本質

2024-04-25 | ブログ
最近、やりとりしている趣味関係のリアル人に、「ブログを17年やっている」と打ち明けると、「ぜひ、そのブログを教えてほしい」と頼まれた。
が、絶対に教えない。
先方も無理にとは言わない。
なので、そのままにしている。

わたしのブログなど、つまらない、退屈しすぎて、例え牢獄の中に収監されていたとしても読む気がしないと想像する。
なので、何がなんでも知られたくない。
ここまで強く思うには理由がある。
かつて、リアル人にブログを教えて欲しいと言われて知らせたところ、いったい何人の人が蝶ブログにヘキヘキして脱落したことだろう。
数えてみよう、、、。
1人、2人、3人、4人、5人、6人、、、。
わたしが中学生頃や、若い独身の頃から直接関わりがある身近な人々や、身内。
そのうちの2人は、ほんの最初の記事数本、サワリのあたりで脱落。
ティストが嫌いなのだろう。
実際に知っているわたしとは違うんだそうだ。
更に2人は、数ヶ月でドロップアウト。
長文すぎて、読むのがメンドクサイのだろう。
あとの2人(身内)は、偵察隊のように、わたしの日常を知ろうと、まともに読んでくれていたが(読まれたくなかったが)、そのうち飽きてきたよう。
というよりは、自分のことが忙しくなり、人のことに首を突っ込む余裕がなくなったと想像する。
というわけで、お互いをよく知るリアル人が読む可能性のある蝶ブログであるが、いまや誰も読んでいないのが現実である。

そういう経緯から、蝶ブログをお知らせしても、やがて見捨てられるのは時間の問題になるのは目に見えている。
火を見るより明らか。
それはそれで、肩の荷が降りるものの、期待を裏切る自分のブログに対して、ブログがちょっと可哀想になる。
いくら暇つぶしの、憂さ晴らしとは言え、長くわたしが慈しみ育んでいるものの一つとなっている。
具体的な誰かに向けたものではないにしても、自分の生活やこころを切り取った断片を散りばめている。
とは言え、書き散らしているだけだが。
本来、ゴミ箱に入れるべきものを捨てられず大事にお取り置きしていると、なんだか愛着が湧いてくる。
ガラクタ、コレクターか。
自分からの愛情を自分に向けている。
延々とそれが続くと、読む側は、そりゃあイヤになるのはよくわかる。
なので、マイナスの先が見えているため、誰にも蝶ブログは教えない。

リアル人にブログを知らせるのとは逆に、WEBから知り合うケースもある。
こころの叫びが先なので、実際のリアル実態は少しイメージが違うことがあるが、だいたいは想像の延長上にある。

今、NHK TVの夜ドラで、「VRおじさんの初恋」という番組を放映中である。
放映時刻が遅いため、見たり見なかったりしているのだが、ほぼほぼ見ている。
今日で終わり?まだ続く?
今調べてみると来週もまだ続くようだが、GWは見られなさそうなので、ストーリー展開の先が気がかりだ。
インターネット繋がりのバーチャルと現実を混在させたストーリーで、今時の人なら誰しも経験があるかも知れない。
だが、インターネットのない時代でも似たような心情はあった。
文通している、まだ見ぬ人と会う、、、ロマンチック。
ツールが違うだけで、共通の心境だろう。
ちなみに、今更ながらだが、VRとは、バーチャル リアリティ、仮想現実で、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」とのこと。

わたしは、本質だけを表すと、どちらかというと、クールな人のよう。
WEBでやりとりしている趣味関係の人と実際にお目にかかると、「イメージは、もっと怖い感じかと思ったけれど、実際は優しそうな人」と言われた。
本質と現実では多少ギャップがある。
が、同じでもある。
誰の目も気にしない、忖度する必要がない蝶ブログはまさに、本質そのものだ。
ではあるものの、本人(現実)を知っている人でも、本質は知りたくないことがある。
触らぬ神に祟りなし。
予期せぬ毒にあたるのは避けたい。

誰しも嫌なことには目を背け、楽しいことを求めるのは当たり前だ。

※写真は、昨日、夕方、雨がぱらぱらする中、急いで撮った、近所の道端。





WEBの向こう

2024-03-25 | ブログ
わたしが自分のブログに何度も同じことを書くのは、自覚している。
既に購入済みのものが家にあるのに、自覚せずに、何個も同じ歯磨き粉を買って来るというパターンとは、似て非なるもの。
だから何?
内情は違っても、外から見える見かけは、同じ。
現象は同じ。

例えば、、、ギャンブル依存症だから、病気だから、ギャンブルが人に被害を与えたり、常識をはるか超える非合法範囲であっても、認められるというものではない。

自分のブログに何度も同じことを書いても、飽き飽きヘキヘキする人は、読みに来なくなるだけであり、わたしはブログの広告収入をあてにしているわけでもなんでもないので(第一、広告は設定していないし)
たんにアクセス数が減るだけである。

自分の蒔いた種、自業自得。確信犯。
ではあるものの、ウケを狙ってスベるよりは、苦痛が少ない。
ウケを狙わないでスベることを承知の上でスベっているのだから。

と、開き直り、相変わらずマイペース。
可愛げがない。

ちなみに。
ある趣味サイトの60代の女性が日記をあげている。
60代と70代の、合計3人で、スポーツジムの後、食事に行く話。
待ち合わせ時間、場所にうまく3人が揃わないという話を延々と経緯を書いておられる。
(延々という点では、わたしも人のことは言えないが)
LINEでお互い約束、待ち合わせしていたところ、途中に時間が微妙に変更になって、LINEで知らせても既読にならなかったり、携帯電話をロッカーに入れていたり。
なんやらかんやらで、無駄な労力、待ち時間を過ごしたことを書いておられる。
思わずわたしは、よせばいいのに、その日記にコメントを付けた。

「スゴイです、わたしならとても出来ません。
自分の時間が減るので」

わたしは、嫌な奴だろう。
一人単独行動をボッチだと思わない。
ジム仲間と雑談をするために、わざわざ労力と時間を割いて苦労する気になれない。
本当に人それぞれだろうけれど。
人の好みはマチマチ、千差万別。
どの行動も正解であり、間違いなどはない。

ジムが終了しても行き違いで、なかなか逢えない人たちと苦労して逢って、何が得られるのだろう?
雑談するらしいが、楽しいのだろうけれど。
その雑談をするために、同じ時間帯にジムに行っている人となかなか上手く(事前に約束をしていても)逢えない、その時間は、ロスではなく、雑談のための必然的努力?
が、何でも効率を考えるのは、ビジネスでもないのだから、意味がない。
タイパ(タイムパフォーマンス)が悪すぎると思うが、別に急ぐ用事もない、後に何が控えているわけでもない、そういう立場なら、まったくお構いなしだろう。
タイパがどうこう気になる人は、そもそもジム帰りの雑談の会には参加しないと思われる。
しかも、ささっと落ち合えないような段取りの悪い人々とは。
ではあるものの、逆に、いつも段取り悪くモタモタし合って、それを許し合っている、ユルいお付き合いが快適なのかも知れない。
四角四面のキッチリした無駄のないお付き合いは、かえって疲れるのかも知れない。


しかしなあ、、、
人のこと言ってないで、自分のことをもっと注意したら?と嫌な人だと思われそう。

ある趣味サイトの人に、「あなた、人のことばかり気にしないで(観察しないで)、自分のやるべきことをやったら?」と、わたしの趣味日記にコメントされたことがある。
しかも、度々。
わたしから見ると、「あなたこそ、自分が精一杯やるべきことをやっていたら、人のことなんか気にならないのでは?」と思ったが、
丁寧に失礼のないようにコメント返しをした。
マイナスの感想を本人に直接言うか、土に穴を掘って言うか、その違いがある。
皆さん、それぞれ、いろんな方がおられる。
が、この人のこの行動(度々のコメント)は、まだわたしの胸の奥底にわだかまりとなって残っている。

わたしが観察しているのはリサーチのためもある。
サンプルとして叩き台の見本や気づきになる。
何かを考える時は、わたしはフォーマット(土台)が必要で、それに手を加えたり改良したりする。
だが、何にも意識しないのに、どんどん目や耳に入って来ることもあり、アイマスク、耳栓が必要かも知れない。
嫌な奴にならないために。




書いても書いても非公開

2024-03-21 | ブログ
非公開記事が3つ続く。
書いても書いても非公開に。
しょうもない個人的内面を綴っているだけなのだが、突き詰めて本音を書けば書くほど、公開できない。
ブログとは、、、だれかに読んでほしくて書くのではなかったのか。
自分の内面に向かい合い、直視し、自問し、ある程度の解析が出来た。
それは、自分だけの心情であり、他の人には共鳴されないことは、ハッキリわかっている。
人は怖いもの見たさに、自分とは違う考えや感性に触れたいこともある。
が、そんな痛い怖い、「番町皿屋敷」のサンプルのようなものをあえて公開したくない。
これまでのわたしは、自嘲、自虐趣味があるため、それである意味、ヒリヒリした快感を覚えていたのかも知れない。
が、歳のせいか(そうとも言えない)、自分のこころの深いところのものは人には見られたくなくなった。
かと言って、嘘やねつ造はしたくない。
(誇張、比喩表現や演出は、多々あっても)

自分のアイデンティティを探り見つめ、深掘りし、認識した結果、それは、自分の理想とは違うものだった。
今からアイデンティティを変えるわけにもいかない。
せいぜいマイナーチェンジ、部分的調整ぐらいだ。

時代が変わっている。
自分は時代のギリギリ最後尾にいると思っていたが、そうではない。
時代から隔離している。
落ちこぼれているわけではない。離脱している。
「置いてきぼり」だとは、へんな自尊心があり、思いたくない。認めたくない。
乖離というようなマイナスイメージではないものの、痛い老人の仲間入りをしている。
いつの世も、それが老人というものだが。

理想を追い求めていたら、どんどん理想ではない方向に行っている。
その複雑な本音は、表現しにくい。
過去の成功体験の上に築かれているものであり、
明らかに、古い感覚、考え方、価値観であり、
そうであるとわかっていながら、旧態然とした価値観や様式に固執している。
ノスタルジーと新生様式、感覚の間に横たわるものに、微妙な違和感を感じる。
調整出来ない。
もう手を離れ、自分ではどうにも出来ないのに、自分が自由に出来るものだと思い込み、こだわる。
過去の価値観を大切にし過ぎて、現実と融合できない。
ではあるが、おそらくあと少しで、生臭みのない、にこにこおばあちゃんになれると思う。
スッキリ爽やかな。
とは言え、そうなるには、過去を超えるには時間がかかる。

ところで。
「極端な例を出して、シラケられるとは思うが、、、
自分は世界史を彩った悲運の◯◯◯◯でなくて良かった」
などと最後に追記入力していたが、
◯◯をwikipediaで調べてみて、慌てて一文を削除した。
じつに恥ずかしい。
おぞましき、笑えない悪趣味。
明らかに自分のいる位置と距離感が取れていない。