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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

神様は忙しい

2022-03-21 | 趣味
わたしは、家族はなるべくメンバーを変えたくない。
娘や息子の結婚や出産で、配偶者や子供が増える分には大歓迎だ。
だが、できるだけ配偶者は同じ顔ぶれであって欲しいと切に願う。
希望通りにいかないこともあるだろうが、極力離婚は避けたい。

結婚する時に、大まかなことはわかっているが、ある意味、賭けである。
吉が出るか、凶が出るか、、、。
お互い様であるが。

その点、家族以外は複雑だ。
簡単にメンバーをチェンジ出来そうで出来ない。
仕事関係、学校、近隣、趣味関係、、、
重要度が高い順に深刻さが増す。
(そういう意味では家族が1番深刻か)

1番、お気楽な例を出す。
趣味関係。
お気楽だが、複雑なのだ。
分かる人には分かり、分からない人には分からないだろうけれど。
山奥の洞窟で一人篭って一刀彫を趣味にしている人にはあまり関係ないだろうけれど。

話の流れの中で極端な例を出すと、最近、わたしの近くにいる人は怒り出す。
やりにくい、、、。
この人物、Aさんは趣味関係の人なのだが、著しく国語理解力、想像力に欠ける。
わたしの周辺にいる人々は、機転を効かしたり、今までの例を参考にしたり、想像力を駆使したり、、、で、理解してくれる。
頭の回転はかなり皆さん、速いのでそういう意味では助かるのだが。

Aさんは、頭がカチカチ、カチンコチン。
にもかかわらず、人をこき下ろす。
人のことを理解しようという姿勢はない。
かなり性格は悪い。
おそらく昔からだろうと想像する。
趣味関係のお付き合いだから、まあ趣味の面のみで接するとよい。
が、ご一緒する機会が増え、次第次第に我慢ならなくなり、どんどん嫌いになっている。
が、いないとわたしの趣味の質が一時的に落ちる。
代替えの人物が現れるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、じっと機会を待っている。
人の性格は直らない。  
変えようとしても変わらないなら、人間ごと入れ替えると手っ取り早い。
なので、首をすげ替えようと思っている。

好機が来るのを忍耐強く待っているのだが、なかなかその時はやって来ない。
頑張って耐えて待っていれば、やがて、、、と思っているのだが、、、
なかなかその時がやって来ない。
花が咲かない。
悪い時間を過ごすのは自分にとってマイナスだ。
芽を出すための土が腐る。
1秒も早くストップしたいところだが、、、。

神様はわたしを救ってくれるか?
微笑んでくれるか。

こんな大変な時代に、何をたわけたお気楽なことを言っているのだろう、、、わたし。
神様にお願いすることは、そんなことに使ってはいけない。
宝くじが当たりますように、、、とお願いするようなもの。
雨の日も風の日も嵐の日も、お百度を踏んで家族の病気が治りますように、、、などの祈願成就、祈りにも近い、もはや神聖な域に入るようなこと、、、ではない。
○○試験合格祈願も、やることをやってからお願いすべき。
しかも実力と程遠いお願いは、たまたま、まぐれ当たりでクリアしても、後で大変な目をすることになる。
どこかで、苦労する。

神頼みは、真の願い事のために取っておかねば。

抗生物質や劇薬をいつも服用していると、いざという究極の時に効かなくなるのでは?という恐れをわたしは持っている。
なので、神様には特別の際に働けるようパワーをチャージしていただいて、通常はあまり神頼みをせずに、自然体で行こうと思っている。
神様もしょっちゅう出番があると息切れする。
目一杯働いてもらおうとすると、それなりの力配分、案件配分、時間配分が必要かと。

というわけで、今のところは自力で時が来るのを待っている。
良い人が現れるまで、1年とか1年半ぐらい待ったという話を聞く。
出会う時には出会うものらしい。
まあ、気長に待つしかないか。

そのうちまた事態は変わるかも知れないし。
行き当たりばったりでもいい。
それが自然な流れなら。

万事を尽くして天命を待つ。






爽やかな人

2021-03-26 | 趣味
閲覧数の少なさなど、ものともせず、防弾チョッキも着けずに果敢にもまた今日もブログ更新する。
このエネルギー源は何なんだろう?
たまたま、である。
気分まかせ、風まかせ。

昨日の閲覧数は結構少なかった。
記事紹介に現れる最初の一〜二行、文頭出だしによってイメージは変わる。
昨日は「NHKテレビ番組 プロフェッショナル」を冒頭に持ってきた。
続く内容は、お堅い雰囲気を醸し出している。
「サンドイッチマン」を冒頭に持ってきたら良かった?
閲覧数低迷の原因追求、推測、想像と結果論。
どんな文章が先に現れようが、たぶん、あまり変わりはない。
自己満足の世界だから自分が楽しめたらそれでよい。
そして、これも推測だが、読んでいただく方々は通りすがりの道行く人ではなく、同志、文章同好会の皆様だと(勝手に)思っている。

さて、うちにもピアノがある。
その話はまたの機会に。
何を焦っているのか?
出かける準備にかかる時間になったから。
ブログ続きは行きの電車で。


ちなみに、、、
話はころっと変わるが、
趣味の仲間で、めちゃめちゃカッコいい人がいる。
ルックスもさることながら、行動がスマート。
見た目は実年齢(70歳)より、確実に10歳は若い。
お目目ぱっちり、スラリと長身、センスも渋い。
関西弁で言うと、「しゅっとしている」。
会話もユーモアとウィットに富み、気負わず相手を褒める余裕もある。
モテただろうな、モテるだろうな。
何しろ爽やかである。
しかも身が軽い。フットワークも軽い。
こういう人は仕事も出来たのかな、と想像する。

先日、ワイシャツに刺繍ネームが入っているのを見て、それとなく尋ねてみた、、、。
ワイシャツ、スーツ、ジャケットはたくさんあり、全てネーム入りだとのこと。
「そのほうが、大切にするやろ」と、力まず、さりげなくこだわる。
自慢とは程遠い隠れエコ精神がキラリ。
職業は、サラリーマンだ!と瞬間的に思ったが、雇われていないサラリーマンかも知れない。
雇用主?
今は全然着ないということなので、現役は引退されたのだろう。

今、趣味を満喫されているが、まだまだお若いので、今後の動向に注視している。
あのまま、何も特別なことをせずに今の繰り返しでは勿体ないなあと。
いずれ、何かの趣味分野での展開で驚かせてくれると期待している。
とは言いつつ、内心、驚かせてくれない展開も望んでいる。
今のままで良いのだ。
これといった変化もなく、毎日が続編のような生き方は楽しい。
結論は要らない。
目標は、1日でも長く、今の楽しみが続くことである。

早々とわたしも、すっかりおばあさんになった。
「欲」「望み」のレベルが限りなく低い。
それはそれで、変化のないものは生きやすく安らぎを感じる。
歳を取ると守りにまわるって、このことだろうか。

行き先

2021-01-29 | 趣味
今日はまた寒いこと。
北風ビュービュー。
外出、、、行ってもよいが、行かなくてもよい。
さあどうする?

まず、行く場合の目標時間を設定する。
目的地到着時間から準備スタート時間を逆算して割り出す。
途中で遅刻、変更も可。
いっそ中止も可。
ふつう、そういう自由意思に任せると、たいがいはズルズルして行かない、行けない。
まして、コロナ緊急事態宣言下。
市のゴミ回収車から外出は控えるようアナウンスが聞こえる。

寒いし、アポ、約束もしてない。
ここのところ、外出続きでバタバタし、考えなければいけない案件もあり、家でぬくぬくしたい。
なら、答えは即決ではないか。

ところが、、、。
まず、第一関門。
外出前にはいつもお風呂に入る。
しかも今日はシャンプーする日。
で、お風呂を沸かす。
湯船に浸かりながら、今日の外出、取りやめてもいいなあ、、、と、あれこれ考える。
色々なことがアタマをよぎる。
舵を切ろうか、どうしようか。
これは外出のことではない。
今後の方針である。
自分の行く道、行き先を模索している。

お風呂は良い。
何かを考えるには、ぴったりだ。
アタフタ慌たゞしいのはNGであるが。
ぬるめの湯船を熱くしたり、また冷めたり、、、その繰り返し。
アタマはぬるいまま。

自分は自分以上の力を出すために、人の力を借りてきた。
相手もわたしの力を利用している。
お互い様の合理的互助システム構築
さあ、これからどうする。
そろそろ見直しの時期。
お互いの目的や目標はクリアか、あるいは方向転換か?
自分もステップアップしたので、その段階に応じた新たな相手に切り替えるか?
子供服が小さくなって次の大きさの服にチェンジするように。
あるいは、擦り切れたり破れたりした服を繕うのか、新調するのか。

相手も同時に成長していけば問題ないが、足並みが揃わない。
服ならサイズが合わない?
流行遅れ?
好みが変わった?

方向性がややズレている。
同じ方向を見ていることは見ているが、目標が遠すぎてフォーカスがぼやけ、途中の道のりに食い違いが生じている。
行先は同じだが、プロセスが違う。
ここで、セパレートするか、踏ん張るか。

仮に服なら、次の服を探して、見つかるまで今の服で辛抱する。
いよいよ取り替える服を手に入れられないなら、自分で作る。
手作り。
中途半端な其の場凌ぎのものは要らない。
でも今、舵切りで悩んでいるのは服ではない。
モノではない。
人。
正解や近道はない。
自分がどう納得するか、だ。

お風呂の中で、真ん中あたりまで考え、そのまま目的地に直行。
真ん中から先は、よくわからない。
毎日、事態は動いている。
動き続けているものには、結論なんか無いのかも知れない。




褒められなれてない

2021-01-17 | 趣味
ここのところ、口がむずむずする。
愚痴を溜め込んでいるわけではない。
愚痴の場合は、むかむか、か?
褒められるまくっているのだ。
喜びまくっている。
豚がするすると煙突に登っていっている。
天にも届く勢い。
で。
その思いのカケラを趣味系、別SNS日記でチョロっと書いた。
ハッピーな発展続編があるノリで。

が、、、
次の日は、楽しい報告が出来そうなワクワク感が期待出来そうだったにもかかわらず、幼児向けミニジェットコースターのごとく、いそいそと喜んだ塊を胸に抱いたまま、前につんのめった。
じゃっば〜ん、とミニ小川に突っ込む。
がっかり、、、。

しかし、別SNSで浮かれた具体的な内容を書かなくてよかった。
蝶ブログでも冒頭、口から溢れ出るのを抑えるのが、やっと。
むずむずに打ち勝った!

自慢ほどカッコ悪いものはない。
しかしどちらかというと、わたしは自己評価が低い、過小評価気味なので、たまには浮かれてもいいかも。
ではあるが、あまりにも極端に褒められると、さすがの豚も、あれ?豚にそんなに褒めてどうする気?と、気づくというものだ。
現実離れしている。
冷静に考えたらわかるはずだ。

複数の人に次々と褒められると、脳をやられる。
だが、わたしの脳は日頃、わたしに厳しく躾けられているので、少々褒めらても、客観の目を必ず持っている。
現実と乖離したことを口に出すというのは、何か意図があるということだ。
これ、行動心理学。
一人だけなら変な人と思ってスルーするとしても、複数、連日となるとスルーできなくなる。
価値観か、ものの見方、受け取り方、評価基準を変えたほうがよいのかも、と思えてくる。
あるいは、わたしはこの歳にして世間知らずのお嬢様なので(はい、お笑い系女子ですから、ここは笑うところです。笑笑笑)、お世辞や社交辞令を真に受けているのだろうか。

豚は「ジャックと豆の木」のジャックのように、一旦、天まで登り、鬼が持つ「金貨を産む鶏」を見つけて、とりあえず手ぶらで、またするすると下界に降りて行くのだろうか。
下界では、お母さんが待ち受けていて、その後またジャックは天に行き、金貨を産む鶏を持ち帰り、幸せに暮らすのだが、、、
元々、その金貨を産む鶏は、ジャック家にあったもので、鬼に盗まれたという設定になっている。
(これは孫に何度も読んだ絵本)

と、話は逸れに逸れ、、、。

一旦、天まで登って、天国のようすをチラ見して、また下界に降りてくるのが良さそうだ。
天で見た光景は、幻、白昼夢かも知れない。
わたしのまわりにいる皆さんが、わたしに夢を見させてくれるようだ。

最終ランナー

2021-01-09 | 趣味
最近、趣味分野(社交ダンス)で、自信がやっと湧いてきかけている。
遅い!
この趣味、スタートしたのが40歳代ギリギリ最後からだったので、かれこれもう15年?ぐらいは経っている。
50歳代でも最初はまだ若い部類だった。
今はわたしは60歳代まんなか。
しかし中堅ではなく、まだ若いほう。
どんだけ平均年齢が高いか。
どんだけ若い新人が現れないか。
高止まりならぬ、老い止まり状態。
いや、どんどん平均年齢は上がる一方だ。

そもそもこの趣味、なぜもっと早く始めなかったのか。
いかにも老人臭くて、取り掛かる気がしなかった。
いずれしよう、いずれ、、、とスタートを先送りにして、ズルズル延ばしていた。
カルチャーセンターや、教室のレッスンでは、わたしは一番若かった。
お局様(15歳ぐらい?歳上?)に意地悪されたような不快な雰囲気を感じたが、若くて上達が早い、後から来た人に対する僻みだろうと、あくまでも、いたってわたしは楽観的。
で、自分が一番若いまま、お稽古事としては最後の世代となったような気配だ。
これは、いつまでも最若手でいられると喜んでいる場合ではなく、廃れていっているという現実。
良い面ばかりを捉えて気を良くしていてはいけない。
けれど、、、。
最後の世代ということにしておこう。
この分野、未来永劫に続かなくてもいいと思っている。
流行り廃りはあって当然。
自分の下の世代、自分の後には誰もいないなんて、なんだか最終ランナーみたいで、悪くない。
未来に望みは繋がなくてもいい。
若手育成とか、しなくていい。
後終い係。

なぜ、そんなに冷たいのか。
若い時に始めた人か、あるいはお金がたっぷりある人を優遇してきた、閉鎖的で一部の特権階級しか踊れないカースト制度のような仕組みは、改善しなくてよい。
黄金のリタイア趣味生活を夢見る新参世代をあっさり切り捨てる、厳しく冷徹な世界。
良くないものは、無くなる運命。
閉鎖特権がまかり通って、そうしてきた前の人々に責任があり、歴然とした結果がある。
最後の人として、終わりを見届けよう。
特権を享受できなかったわたしは恨みがましい、数々の苦い経験を積んできたため、黒歴史を塗り潰すかのごとく、わたしが踊れなくなる日と同時に葬り去りたい思いもある。
負の遺産は消えるほうが後世のため。
キレイに改善して若い人に受け継いでもらおうという気はない。
ゴミ処理や後片付けをして最後に戸締りして家を出る人の気分かな、と。

ヒネクレ恨み節になってしまった、、、。
熱い想いばかりあるのに思い通りにならないと、こんな風になる、、、。


マザコンでテレビっ子

2020-11-04 | 趣味
なんで男性はこんなにテレビ(インターネット配信ドラマ含む)が好きなんだろう?
わたしの周りの男性、限定か?
孫達がせっかく一家で揃って遊びに来ているのに、ケーブルテレビのヘビーローテーション時代劇にかじりつく夫。
生放送ライブの大事な試合や選挙速報だとかならまだしも。

なぜ?なぜ?と必死で理解しようとするが、「理解できない」ということを理解するにとどまる。

それは夫だけかと思いきや、、、趣味分野でペアを組んでいる人物もそう。
大の動画好き。
依存症ではないかと思うぐらい、片時もスマホやテレビやタブレットから離れない。
自分から何も考えずに、ただただ与えられるものを楽しんでいることの、どこが悪い?
いえ、悪くないです。
視聴者やユーザーの存在によって経済は成り立っているのだから。

しかし、、、
孫や、目の前にリアル人がいるのに、そんなに動画が大事なのだろうか。
たまたま、わたしの周りのコア・メンバーはそうだったが、現代人の皆さんはこんなかんじで、これは世の中の縮図なのか?

自分が理解できないからといって、認められないのはおかしい?
相手だって同じように感じていることだろう。
認められないことを認めて、日々、同じ空間で暮らす、行動するのは、ある意味、今後の社会を生きるトレーニングになるかも知れない。

それと、この2人にはまだ共通点がある。
マザコン。
ああ、またもや。
なぜ、わたしが選ぶ人はマザコンばかり?

マザコンではない、もう一世代上の男性は、これはまた頭が古い。
ジェンダーって何?の世界。
わたしは、時代の変わり目の隙間世代なのだろうか。

マザコン男性は、甘い。
わたしは、自分が甘いため、相手が厳しい人だと着いていけない。
なので、結果的に甘い人を選んでしまうのか。
割れ鍋に綴じ蓋。

かといって、知的水準がわたしより下は嫌。
最低でもわたしレベル。
だから最低同士が釣り合うのか。
しかし、ママになるのは嫌だ。
甘えっ子の母親になどなりたくない。
可愛くもなんともない。
それよりもなによりも、甘えっ子と縁がある自分が許せない。
自分も甘えっ子だということを自覚せざるを得ない。
わたしの相方、1人だけならまだしも、2人とも、マザコンでテレビっ子。
これは、自分が変わるしかないのか。
自分が上に引き上がるが、下に引き下げられるか。
あるいは、変わりたくないなら、現状を受け入れて諦めるしかないのか。

というか、よくよく考えると、同じようなタイプばかりを選ぶ原因はわたしにあるのかも知れない。
マザコン、、、これは逆に考えると、自分の考えはなく、人の言うままに支配されるということ。
ママの代わりをわたしがして、デメリットと共にメリットを享受すればよいのでは。

テレビ人間、、、これまた、自分では何も生み出さないが、飽きることなく延々と時間を潰していく名人である。
じつに安易にイージーに束の間の幸せを手に入れる。
羨ましい限りだ。

おまかせ受動テレビに救いを求めざるを得ないほど、それぐらい、日々の生活に心身を磨耗させているのだろう。
もし、入院したり老人施設に入所しても、退屈することなく、毎日を過ごせる。

しかしながら、本当に深刻な病状になると、テレビを見る気にもならない実例をいくつか知っている。
テレビを見るということは、まだ興味や好奇心があり、こころが生きている証拠だ。
こころの病気になりにくいとすると、素晴らしい効果だ。

なんだか否定から肯定へ、この流れ、(若手漫才の)「ぺこぱ」のネタのようだ。

いやいや、テレビ人間を肯定したくない。
だが、認めないと自分の狭量、懐の小ささがバレてしまう。
まあ人の好みなど、なんだっていいのだが、自分と身近に関わる人だとある程度の距離感が保てずどうも気になる。
ぐーんと、こころから離し、お互いが邪魔にならないよう、刺激し合わないよう、透明人間のように接するか、、、。
最も身近な人々なのに、、、?

よくわからなくなってきた。


立ち直れない

2020-07-06 | 趣味
わたしは小説を読まない。
専門書も読まない。
漫画もほとんど読まない。
読書をしない。
人の書いたもの(一部を除いて)を読まない。
たぶん、脳のキャパの問題だろう。
集中力が続く時間が限られている。
ウルトラマンのベルトに付いた、光るスイッチボタンを押してから活躍出来る時間、、、5分?3分?
(完全なる昭和世代)
わたしの脳みそ緊張キープ状態はあんなかんじか?
おそらく、脳みそ、そのものが悪い。
それで親を恨んだことはなく、ああ母親の血を受け継いでしまったなあ、、、と、生物学者になったような無感動に近い感慨に耽る。

母には感謝している。
こう一行書いただけで、もう涙腺が緩んでくるあたり、かなりわたしの涙腺は壊れかけている。
いや、壊れている。
しかも、母の顔を見に行こうと思えば行けるのに、会いに行っていない。
自粛が緩んだ最近では、会いに行かない怠慢をコロナ事情を理由には出来なくなってきている。
第二波が来る前に行っておかなければならないのに、、、。
涙を流している場合ではない。

で、、、
感謝の理由は、、、
最近の若い人がよく口にする、「生んでくれて、ありがとう」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
それに近いかなあと。

そのフレーズを耳にし始めた頃は、違和感を覚えた。
何を眠たいことを言っているのだろう、、、と。
激戦を生き抜く世代にとっては、生ぬるい言葉として甘ったるさが残る感じがした。
でも、不戦勝(不戦負?)ではあるが、戦い終わって、毎日の悩みは「老化と向き合うこと」となった今、時計の針が逆戻りしている。

おかあちゃん、わたしを生んでくれてありがとう。

ああ、そう書いてまた涙が意味もなく、ベルを鳴らされた犬状態。条件反射?

こんな、へんちくりんなわたしを生み育ててくれた。
でもね、おかあちゃん。
へんちくりんの半分くらいは、あなたからのDNAですよ。
まあいいか。
残りのもう半分は父からのDNAだから。

でも神様のイタズラで、わたしの先天的脳みその99パーセントは母からとなっている。
思考は父譲り。
足して3で割ってちょうどか?
(あえて2では割らない)

老化のせいなのか、母からのDNAのせいなのか、わたしは今、窮地に追い込まれている。
趣味分野のことなのだが。

右足、左足、前進、後退、右足バランス、左足バランス、右足で右回り、右足で左回り、左足で右回り、左足で左回り、左足に乗って右に傾く、右足に乗って右に傾く、右足に乗って左に傾く、、、
左に偏り顔は右向く、右に偏り顔も右、手は右上げる、左上げる、、、
一歩二歩三歩、ヒール、トウ、トウ、トウ、ヒール、、、

はい、最初から、今の、やってみて!
なんでこんなカンタンなことが出来ない?
「決して難しいステップではありませんよ」と、何度も先生はため息。
「ほんと、スロー(わたし)はアホなんだから」と、練習相手。

2人に事実を言われ、涙目になった。
すぐに出来ないけれど、一生懸命出来るように、頭と体のシナプスがちゃんと繋がるように頑丈な強烈なロープでぐるぐるがんじがらめにしている。
思いが裏目に出て「カチカチになっているよ、もっと力を抜いて!」と言われる。
でも、そういう問題ではないようだ。

動画を見てすぐに再現できるのなら、ジャニーズに入れそうだ。
年齢を差し引いても、ジャニーズシニアとは程遠い。

頭から自分の能力を全面否定されると、さすがのわたしも悲しくなる。
人格や人生そのものを全否定されたような気になる。
(よく陥るコース)
窮鼠自分を噛む。
で、DNA説を持ち出し、母を逆恨みする。

しかし、、、母は、自己中で超楽天家だった。
暗い面が全くない。(そりゃそうだ。尻拭いを周りがやっているから)
その楽天家要素もわたしは受け継いでいるようで、こころの病気にはならないと思われる。
悪く言うと、懲りない。反省が活きない。
七転び八起きするものの、前進というよりは、一歩進んで二歩下がる。
(ちなみに、水前寺清子の人生の応援歌、三歩進んで二歩下がるのだったか??ああ昭和世代、、、)

後退しているのは、老化のせい、ということにカンタンに済ませると、老人鬱から遠ざかるのか、はたまた老化鬱に接近しているのか?
答えは、あまり追求しないこと。
一人一人、答えは違うと思う。

こんな建設的ではない独り言を綴っている間も、甚大な自然災害を被っている人々がいる。
頭の中で、行ったり来たり。
まるで落ち着きのない子供のようだ。

今朝は強く降る雨に、こころを痛めている。
雨が不安を掻き立て、たぶん、昨日のレッスンの後遺症から立ち直れていない。



下手の横好き

2020-06-27 | 趣味
昔は読み書き算盤が社会で生きていく上での基本だった。
が、なんでもAI、直近では演算スピードを誇る計算能力パソコン、世界一の座を射止めて素晴らしい!の一言である。
なのではあるが、いくらスマホ決済で現金不要といっても、街でちょっとしたお釣りの計算ぐらい出来ないと話にならない。
(わたし、計算しないで相手を信じる、ズボラタイプ。
ますます脳が錆び錆び)

で、今日は短めの助走、序章。

わたしは、ミュンヘンブロガーさんの熱愛的ファンのひとりであるが、またまた共通点を見つけて狂喜している。
(年齢はおそらく二回りぐらい違うとは思うが。もちろん、わたしが歳上)
育成時代が共通しているとは思えないが、なぜか幼い頃のお稽古ごとが同じだった。
日本では20年ぐらいそういう時代は続いたのかも?

つい最近、テレビドラマで、「子供がピアノを習っている家はお金持ちの象徴だった」と、犯罪に巻き込まれる青年が言うセリフがあった。
あんな若い青年の言うセリフではないと思う。
作者か脚本家は何を意図していたのだろうか?と深読みしてしまった。
ワザと?
あるいは、何かの間違い?
または、脚本家の書くストーリーには監督やプロデューサー、スポンサーも不可侵、内政不干渉?
あのセリフの青年が熟年以上ならわからないでもない。
が、すでにわたしと同じシニア世代でも、「ピアノ=お金持ち」の絶対的な定義は違うと思う。
団地にピアノ、という同級生もいたし(だが、後に、音楽、ピアノの道に進んだ)、
東京(の)藝大教授に毎週新幹線で通うなら、お金もかなり必要だ。
後にピアノの道を挫折した小中高時代の元同級生が、輝かしいコースに乗れるのは「強力なコネ」だと悔しがっていた。
親が音大出身、あるいは、音楽家の子供はそれなりの専門的教育を受けている。
が、その後はイバラの道が待っていることもある。

なので、前述のドラマの青年のセリフには補足が必要である。
ピアノ=お金持ち、だから、どうした?の話だが。
ピアノ<お金持ち、かなあと。

まあドラマ脚本家がどんなセリフを言わせようが自由なのではあるが、あの回の、あのストーリーにおいては、ちょっと違和感があった。
まじめに見てなかったせいもあり、なんであの青年がドラマ内で殺されたのか、よくわかっていない。
まじめに見ていても、よくわからないことは多々あるが。

と、これは寄り道、道草。
中途半端ですみません。
ピアノ、算盤、習字。これにバレエ。
最後のバレエこそが、本日の本題。

バレエには苦い思い出がある。
わたしの思い出は、たいがい苦い。
輝かしい思い出はほぼ皆無。
(安心してお読みください)

ある日、母にバレエを習いたいと告げた。
姉は無関心。わたしだけ。
母の返事はノー。
わたしの根性の薄さを見抜いているのだろう。
伊達に母親業をやっていない。

だが、少しわたしは粘った。
ピアノ、習字に加え、小学校高学年の同時期、更に別の習い事希望の算盤は二つ返事でオッケーだったのに、バレエはダメ。
なんでやー。
それはわたしが一番よく知っていた。
たんなる憧れだったからだ。
薄い薄い浅い浅いミーハーのわたし。
ほんとうに、漫画チックな憧れ。
なんの素養もないのに、単に憧れた。
(次女が高校ぐらいの時に少林寺拳法に憧れて、地元のクラブに入ったのと同じぐらいの、実のない憧れ。
すぐに辞めるのは目に見えていたが渋々許可した。
案の定、道着は汚れもせず美しいままである)
そういう時期は誰にでもある。
ただし、姉の琴線には触れず、バレエのどこがいいんだか?と無関心、無反応。

近所の商家の娘さんたちも同じ教室に通っていた。
学年3才ぐらい上と、3才ぐらい下。
二人ともとても別嬪さんだった。
今、思い出すと、小学校の同じクラスの女子もたまたま同じバレエ教室で習っていたような、、、。
才能どころか、向き不向きで大別すると、間違いなく不向きに入るだろうバレエをわたしが辞める日はすぐ来ることは、誰の目にも明らかだった。

発表会ではチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「花のワルツ」を踊った。
今でもこの曲が流れると懐かしい。
というよりは、自分の浅はかな憧れは、まだしつこく尾を引き、じつのところ、今も懲りずにやっている。
さすが種目はバレエではなくシニア向きにシフトしているが、音楽に合わせて身体を動かす踊りには変わりない。

なんだろう?
上手くなりたいだとか、綺麗に踊りたいだとか、そういうのではなく、理屈抜きで楽しい。
好きなんだろう。
小さい時から客観的結果にとらわれないミーハーだったようだ。
これを自己満足という。

趣味にも承認欲求がある場合とない場合があるが、わたしは見事にない。
ただそれだけの、オメデタイ人間である。

あの頃のキラキラはすぐ色褪せたが、懲りずにまだやっているわたしは、芸事の超えられないところまで突き進んで追及して挫折したパターンとは真逆。
大衆の浅いお遊びなんだろう。
挫折を味あわせたくないから習わせない方針の親もあれば、その一方であんまり何にも考えていない親もいる。
どうしてもやらせたくない事は禁止するだろうけれど、わたしの親はだいたい何でもオッケーだった。
きょうだいみんな、それぞれ趣味を見つけ、生きがいにしている。
あくまでも趣味。 
だが、下手の横好きではあるものの、大好きな趣味と出会えて良かったとしみじみ思っている。

怨みが晴れるのは離別の日

2020-06-11 | 趣味
昨日アップした写真は小2孫Aが写したものらしい。
後ろにぼんやり写るのは娘のよう。
娘婿かも知れないとも思っていたが。
娘に著作権と肖像権の侵害乱用と、訴えられた。
わたしが写す写真とは目線が違い、なかなか斬新な切り口だったので、無断転載させていただいた。
著作権と肖像権は、ストロベリーケーキ贈与で交渉してみよう。

ちなみに、、、
全く話は変わるが、、、

いきなり、深刻なテーマに。
自分ではどうしようもないことに対して抱く劣等感をどうやって克服すればよいか。
たとえば、わたしは若くない、老年に差し掛かっている。
でも、若い女性は素敵だ、男としてワクワクする、とわたしに言う男性。
特に肉体的に。
精神的には、こころの持ちようでどうにかなるような気がするが、弾むような若い肉体はどうしようもない。
対抗できるわけがない。(対抗しようという考え自体が間違っている)
もちろん、若い肉体が持つ機能、運動能力には敵わない。
機能美も然り。
次々と現れる有望若手選手に、アスリートが早々に引退するのもわかる。
指導側に回る。
だが、人数的にも指導者は限られていて、教えることに秀でていることが絶対条件だろう。

まあそれはよい。
問題は見た目。
若い肉体、張りのある肌、弾力ある筋肉、、、逆さになっても絶対的なものには打ち勝てない。

そんな不可能なことに執着するのは不幸かも知れない。
アンチエイジングは、しないより、したほうが若々しいだろうけれど。
手を離した途端に、みるみる老人に、、、
が、ホンモノの若さは手に入れられない。

不老不死の薬を手に入れた「時の権力者」は、一生死ねないで(へんな表現)、かえって苦しむ。
失い蘇らないものをいつまでも喪失感に苛まれ嘆くのは、人間らしいといえば人間らしい。
そういう煩悩を克服できないからこそ、いろんなサプリや健康グッズなどが売れる。
いっそ放棄すれば?とは思わないが、克服出来ない自分が情けない。

忘れてしまえばよいか。
♬いーなくなれ、いーなくなれ、そーんなわたし。
と、あいみょんと平井堅が歌っている。

しかし、ここで逆怨みのわたし。
若い子はいいなあ、と嬉々とわざわざわたしに喜びレポートをする人を前にわたしは、ズブズブ暗い深淵に落ち込む。
男性として若い女性に無条件にパワーをもらいエネルギッシュになるのは種の保存セオリーとして当たり前だ。
が、それをしゃあしゃあと言われるほうの絶望的な気持ちを思い遣ったことがあるのか?
なんでもかんでも思ったことを口にするのは、正直者ではあるが、口に出す前に考えてほしい。
年がいっていると、若いぴちぴちには戻れないのは当たり前のことなのに、わざわざ知らしめなくてもいい。
思い遣りも思慮のカケラもない。
(わたしは思っても口にしない)
聞かなかったことにすれば良いのだろうけれど、、、

一種のハラスメントだ。
シニア女性に向かって、若い女性はええなあ、と鼻の下を目の前でダランと伸ばされると、鬱積解決の出口がなくなる。
その分野には無視してい続けたらそのうち、気にならなくなるか?
そういうものでもない。
わたしはきっと死ぬまで無理だろう。

仮に配偶者や恋人が、若い子に走ったとしたら、、、もう戻って来なくてよい。
二度と顔は見たくない。
退路を絶って片道切符で行ってほしい。

女性に対して、相手はいくつであろうと女性として扱えない男性は終わっている。
落第。
気がつかないからといって、わたしを女性として気を使ってよ、とは口に出して言えない。
口に出さないとわからないような男性は、そもそも論外。
こころの中で、わたしはばさっと斬り捨てている。
が、必要な分野もあるので、我慢している。
が、無神経な部分に接する度にキリキリ痛く、決して慣れることはない。
そのうち、怨みに変化して溶解できなくなる、そんな日まで、一緒にはいたくない。
別の人に乗り換えるその日までの辛抱である。

大変な事態になっているのに、、、

2020-02-29 | 趣味
世界中で大変な事態になっている。
超大変な事態を回避するための措置だから、まあ最悪ではない。
イベント、集会、学校、中止や休み。
子供たち、家に閉じ込められて、平気か。
案外、自宅でネット遊びや映画などを見て、退屈ではないかも知れないけれど、勉強、出来る?
まるまる勉強は2週間、お留守になるかも知れないけれど、まあ致し方ないか。
全国一斉になら、不公平感もなさそうだ。
私立学校や、県の対応によって、多少違ってきそうだが。

ちなみに、、、
わたしは、趣味会場難民になっている。
公営の市民スポーツセンターや、市民センターは、軒並み、開催中止されている。
そりゃあそうだ。
締め切った会場で、腕より近く接近する、濃厚接触。
なぜ、いち早く中止にならなかったのか、不思議だった。
だが、開催されている会場を目指して、趣味難民が押し寄せる。
わっしょいわっしょい、おしくらまんじゅう。
皆さん、高齢者が多いのに、なんであんなに元気なんだろう?
世界の七不思議。(昭和の表現です、はい、それが何か?)

開催されているのは、ちょっと僻地にある会場なのだが、市内では他には開催されている会場がないため、市外へと愛好者が押し寄せてくるかと思いきや、それほどでもなかった。
やっぱり、そこまで偏狂的な酔狂者は、人数が限られているようだ。
わたしも、そのうちの一人ーだが。

しかも、明日も行く。
ほとんど病気だ。
まあ、この歳になって、それほど好きなことがあるのは、幸せだ。
2週間以内に、体調が変化しないことを祈る。
皆さんがそう祈るのと同じように。

明後日から、小学校は休校。
小学一年の孫、一人では留守番出来ないが、さて、さて、、、