1つは断捨離を通して見る人生カウンセリング。
もう1つは、ポツンと一軒家。
さらに、もう1つは、東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞。
さらに、オマケの付録としては、若いイケメン社会学者のホンネトーク。
わあ、こんなにイッパイ!
夫が超絶、珍しく、お風呂→寝室という黄金コースを辿り(普通の家庭ではこれが普通なんだろうけれど)、早めに寝たため、わたしは、100%のチャンネル権を得た。
21時からのNHKスペシャルは、夫がテレビを観るリビングダイニング(可動式スライド扉一枚隔てられている)に隣接する部屋(大リビング)で観た。
22時までには夫は、寝室に移動したため、わたしも、それまで夫が見ていたリビングダイニングで引き続きテレビを観た。
(こんな長い説明、なんか意味ある?)
さて前置きは必要ないとしても、とりあえず、、、、、長々、導入部。
断捨離カウンセリングは、良いと思った。
モノと対峙することによって、自分の人生と向き合う。
しかし、教祖的な断捨離主宰者が、とても若い女性なので、歳をくっているわたしは、わたしの人生の半分しか生きていない人に、人生のナビゲートはしていらない、という気には、なったが。
生きてきた長さではない、質、濃さだ、としても、あの断捨離主宰者が、若いが例えば戦争経験者であるとか、重い病いを患っているとか、ハンディのある人だとか、特異な経歴の持ち主であるならいざ知らず、だ。
だが、わたしが納得するような説得力のある生き様であるなら、耳を傾けると思う。
しかし、どんな生き様であろうが、提唱している内容が共鳴できるものなら、別に誰が提唱しようが、関係ない。
提唱プロセス、内容は、非常に賛同できるが、導き出されようとする結果が、わたしの考えとは真逆である。
提唱者は、カウンセリング的な役をするだけであり、向き合い、考え、決めるのは本人だ。
わたしなら、家に溢れるモノを引っ張り出して1つ1つ、必要?不必要?と検証していくうちに、体力、気力ともにダウンし、どうでもよくなりそうだ。
人生対峙の途中放棄。
そこで止めるなら止めたらよいが、保留中のモノ、どうする?
捨てる?捨てない?
たぶん、捨てないでとりあえず、休憩となり、塩漬け、そのまま。
それが嫌なら、捨てたらよいのだが、捨てたくて捨てるのではない、ギブアップで煮詰まって判断能力を失っただけなら、捨てると悔いが残りそうだ。
わたしの人生の対峙は、体力、気力がないくせに、へんに底力があり、がんと動かない。
人に決めてもらうのではなく、自分で決めるわけだから、結局、全て捨てないことを選んだ場合、どうなるのか?
カウンセラーは、徒労に終わることになるのか。
時間と労力を割いての断捨離カウンセリングは有料だろうから、それはそれで、お互い納得出来るのではないだろうか。
人の力を借りなければ出来ないというのは、よほどのことである。
麻薬中毒やアルコール中毒など、重度の依存症で自分の意思ではどうしようもないケースだ。
あるいは、病気や身体が動かないために、人に動いてもらって片付けたり捨てたりする。
しかし、指図するのは、自分だ。
結局、究極は自分なわけである。
断捨離も自分と向かうための手段に過ぎない。
自分の人生なのに、自分の歳の半分の人からアドバイスを受けても、、、
そのモノにトキメクか、トキメカナイか。
それは本人の考え、感性に委ねるしかない。
が、認知症で考えや感性に問題がある場合は?
自己責任の範疇を超えている場合は、自分ではない他者に従うしかないのか。
しかし、認知症かどうか、分野的にまだらな場合は?
認知症だからと無理やり、こだわりの品を処分してよいのか?
その時期になれば、周りは本人にわからないように処分していけばよい。
本人にとって、知らないことは、なかったことと同じ。
へんに、神経に障るようなことはしないほうがよい。
ということで、断捨離は自分でします。
ほっといて、ちょーだい。
自分が向き合うべき、問題が詰まったまま、解決を先延ばしにしている人生ではないので。
自分と向き合っても、自己肯定しかない。
じゃあ、公共の場にモノを積んで皆さんに迷惑かけているわけでもないのだから、断捨離しません。
1つ目の番組感想だけで、こんなに書いてしまった。
しかも、眠くなってきている。
わたしの人生対峙は、眠気との闘いかな?
なんて、お気楽なんでしょう。
眠気が襲うというのは、脳がもう受け付けないということだ。
いたって容量の小さな脳に、わたしは救われていると多分思う。
テレビでは、震災特集が続いている。
ある被災された人は、行方不明の夫に対して、胸のうちを書き綴っているという。
書くことによって、思いを吐くと、気持ちがすっと楽になるそうだ。
ある意味、ライティング・セラピーだと思う。
書くという方法でなくても「話す」というアウトプットも有効だ。
あるエリアでは、思いの丈を話せる、公衆電話のようなボックスが設けられていることが紹介されていた。
わたしは、いつもブログという、とても素晴らしいツールを使わせてもらっている。
落書き、いっぱい、だ。
こころのなかの、もやもやを吐き出してる。
といっても、わたしの場合、自分の考えや気持ちを整理するために書いていることが多い。
たんに、悪態をついたり、愚痴を言ったり、悪口を書いても、ちっとも自分が救われたような気がしなくて、満足できない。
マイナスの気持ちの原因を追究し、マイナスからゼロへと転換させるための、自分を説得させるための、あーだこーだを書きながら考えをまとめている。
自分のブログを改めて読んでみて、なるほど、と、まるでニーチェの言葉のように(すんません、言い過ぎてます。わざとです)
もう一度、答え合わせをするかのように、自分に言い聞かせ、
これでいんだ、進んだ道、選択は間違ってないよ、と、自分の背中を後ろから、自分で押している。
母も、現実と非現実を行ったり来たりしはじめた頃、すぐ直前の記憶が飛んでしまうため、忘れないように、と、現実のことを無我夢中で書きとめていた。
「これ、読んでちょうだい」、と、人に迫るが、「自分で読めば良いのに」と言っても、どうも、書いた時点でエネルギーを費やしてしまっているのか、読む気力がないようだ。
すぐ直前でなくても、覚えていることを書き留めているのはよいが、客観的な記録だけでなく、
主観的な気持ちも同時に散りばめて書いているので、読まされるほうとしては、良い気がしないことも多々ある。
なので、わたしは、魚嫌いな人が、骨付き丸ごとの魚を食べる時のように、ちょっとだけつまんで、あとは、突くだけで放置する。
このあたりに、危険そうなものが詰まっていそうだと感じたら、飛ばす。
読まない。
自分を守るのは自分しかいないので、悪いものでお腹を壊さないよう、防衛手段だ。
書くことで、救われる。
ただし、読むほうは救われないかも知れない。
セラピストや、カウンセラーや精神科、心療内科の医師などが、患者さんのマイナス部分に触れて、精神のバランスを狂わせられないようにする、テクニックや努力が必要なように、
ブログも、読む側には自己責任が伴うかも知れない。
といっても、わたしの場合、そんな、鬱陶しい、ややこしいブログは読まない。
母親の書きなぐりメモでさえ、まじめに読まないのだから、他人さんの、不穏なニオイがしそうなものは近寄らない。
怖いもの見たさで近寄る趣味は、得るものより、弊害のほうが大きいので、卒業した。
ハイリスク・ノーリターンである。
ちょっと考えたり、笑えたり、明るい気持ちになれたり、う~ん、お見事、と唸るような、そんなのがいい。
今夜のNHK、21時からのニュースウォッチ9で、俳優の伊勢谷友介氏が言っていたが、
「僕は、未来のことしか考えないんです。
今が良くても未来が悪いことは、良くない。
今が悪くても、未来が良いことなら、悪くない」
(ちょっと聞き間違ってるかも知れないけれど)
彼は、顔だけでなく、言うことも良い。
今が悪いと、良い未来は想像しにくいことは確かだ。
が、悪いことは続かないと信じたい。
良いことも続かないかも知れないが、続くと信じたい。
と、ここで、〆の一言を書きたいところだが、
どうも、偽善的な言葉で飾る可能性がある。
なので、最後のまとめ、〆は、今日はナシにしておきます。
昨日、テレビで流れているニュース。
内縁関係にある女性を殺した男性。
これだけ聞くと、よくある話だ。
殺害当時、内縁の妻、82歳。
男性は、自首した現在52歳ということだから、当時50歳。
32歳の歳の差。30年に及ぶお付き合い、同棲。
女性が認知症状が出てきて、それもあってか、寝ていた枕で口・鼻を押さえ窒息死させたようだ。
犯行当時は事件として扱われていなかったと見られる。
2年経った今、男性が、殺した女性が夜な夜な夢枕に立ち、仕事が手に付かない、と自首した。
自首した時の男性は、青ざめていた顔から、ほっと安堵の表情に変わったとか。
男女の年齢が逆のケースは、よく見られる。
女性20歳、男性52歳。
東南アジア外国人妻を持つ、日本人男性は、こういう年齢。
知人の知人(まったく知らないアカの他人)で、
フィリピンパブに通う男性が、二人目のフィリピーナと結婚するとかしないとか。
(ちなみに、わたしは、そういう傾向の男性を苦手とするし、わたしの人生において全く接点がない)
もっと男性のほうが年齢が上の場合もある。
経済的に貧困にあえぐ発展途上の国々で聞いた話では、赤ちゃんが生まれると女の子だと、とても喜ばれるそうだ。
これといった産業も無いので、女性がおカネ持ちと結婚して一家を繁栄させる。
ビジネスとしての結婚。
「本妻業」「後妻業」の、事件沙汰にならない、殺人が絡まないバージョンか。
が、今回の事件は、男女の年齢が逆。
若干20歳の若者が、52歳の熟々の熟女と出会い、ずっと一緒に住み、内縁関係を続ける。
母親より年上である。
よほどマザコンだったのか、特別な事情があったのか、捜査が進むにつれ、詳細は明らかになることだろう。
・・・
ここで、蝶ブログ記事を終えるという方法もある。
が、自分の感想を書きたくて、うずうず。
一般論として、年下の男性をゲットできるのは、「女の甲斐性」「女性が憧れる女性像」みたいに捉えられている面もあるが、
わたしなら、年下男性は、NG。(同世代程度の年下なら問題ないが)
50代で20歳の男性など、とんでもない。
お小遣いを渡して、サービスしまくって、気を使いまくって、
若い女性では得られないプラス面、優遇サポートを必死で与えようとするだろう。
人生で進みたい道を切り開くお手伝いをしたり、その道で活躍する方法をアドバイスしたり、なんらかの形で、
キャリアの無い若い年齢では体験できない、社会の先輩としての、特権みたいなものも、振りかざすかも知れない。
ある程度、育ってくれて、自立したその時には、男性の年齢に相応しい女性と結ばれるだろう。
それをにこやかに応援しながら、「わたしを卒業、おめでとう」と祝福するなんて、出来そうもない。
(自分の実の子供に対しては、すんなり「おめでとう!」で、やれやれ、肩の荷が下りたけれど。
責務を果たした安堵感はあるものの、それに対して見返りは期待していないから)
世の中には、こういう男女、けっこうあることかも知れない。
ドラマではこのネタ、嫌というほどお目にかかる。
ストーリー的には、おカネや愛憎が絡んで、ろくな展開になっていない。
社会バージョンを絡ませない、家の中だけに集約するとしても、
男性と女性、同じ年月を過ごすと、同じ年齢を重ねる。
当然、歳の差は縮まらない。
老いの実態、哀しみなんぞ、絶対にわかってもらえない。
仲の良い親子でも、親の老いの実態に、驚愕するのに。
くしゃみや咳ひとつするのでも、年寄りじみたその仕草が、カンに障るかも知れない。
食器の洗い方があまりキレイになっていなくても平気だったり、部屋の掃除やお風呂も、清潔ではなかったり、
若い頃とは違う、そういう自分の身の回り全部に、気を使ったり、理解できないだろうと思ったり、
そんなことを毎日感じながら、とてもいっしょに生活できない。
これは、「老い」バージョンであるが、
「男女の愛」熟女バージョンの時は、まあ、それなりに若い女性にはない良さもあることだろう。
が、若い女性には、女性としても、能力としても、絶対に負ける。
閉経後は、子供も生めない。
むしろ、そんな自分と別れない、うら若き男性がいるとすると、理解の範疇を超える。
だから、そもそも接点はないと思われる。
社会的なことを目当てに擦り寄ってきたとすると、こちらが警戒してシャットアウトする。
なので、自分にはありえない展開の事件、組み合わせとして、この事件は興味を引いた。
世の中の人も同じようなものだろうと思われる。
昨日は祝日であるにもかかわらず、家人がゴルフがなく在宅だったため、テレビ垂れ流し。
その中での、ある朝の民放・情報番組で、このニュースをわざわざクローズアップし、取り上げていた。
どんな新しい情報が加わるのかと一生懸命見ていたが、(わたしもヒマジン)
なんてことはない。
すでに報道された、ほんのわずかな情報を、ただただ大きな文字で、大きなボードに貼り付けているのみ。
表にするといっても、文字を、枠に入れたのみ。
わざわざ文字にする必要がどこにある?
別に複雑な内容を時系列に沿って説明するために、補足として必要とか、そんなことは、まったくない。
ボードを指差して、なにか詳しい説明があるかと思いきや、まったく、一切なかった。
しかも、コメンティター的な人が何を言うのかと思いきや、
考察も分析もない、こころにもアタマにも、まるで響かない、ただ、テレビの前の視聴者同様、したり顔で説明を聞くだけの、のぺっとした対応だった。
ほんの一言でもコメントを発して欲しかった。
(ホンネや好きなことを言うと、叩かれるから、言う前に口にチャックしているのだろうけれど。
あるいは、無関心、興味なしで、時間が過ぎればよし、とコメンティターとしての意識が低いか)
で、朝の情報番組をいつも見ている視聴者の平均像が予測できた。
そうとう、なにもすることがない、テレビしか見ない、かなり高齢の方々のようである。
番組制作者から、なめられている。
適当な生ぬるい、いいかげんな番組でも、テレビを見ることしかしない視聴者は、見る。
テレビからどんどん人は離れていき、どんな番組でもいいから、それでもテレビを見る人だけが残る。
質は低下するばかりだ。
(ううっと唸るほど、良い番組もあるが)
が、こういうことを長々、延々と書くわたしも、テレビを見るしかすることがない皆さんと、あまり変わりがないと思える。
めくそ、はなくそを笑ってはいけない。
そんな資格は決してない。
同じ穴のムジナ。
近頃の恋愛・結婚事情、昨夜、NHKの番組を観た。
恋人がいない人にアンケート調査すると、半分に近い人は、恋人は、いらないらしい。
とても、若くてかカワイイ社会学者が出演して、解説していた。
まるで、メードカフェのウエートレスか、コスプレのアイドルみたいな、そんな、現役教授だった。
彼女のルックスの意外性に、そっちのほうが、驚いた。
社会学には、ぴったりかも知れないが。
まあ、それはヨシとしよう。
レポート、取材、解説、一字一句を聞き逃すまいとして、
食い入るように30分間、集中力をかき集め、脳みそに流し入れた。
そんなに頑張る必要はまったくないのだけれど。
たんに、興味ある分野なだけなんだが。
要は、面倒なんだそうな。
恋人になるまでの駆け引きやプロセス、
告白して、振られたり、うまくいっても別れたり、・・・付き合っていても、相手に振り回されたり。
自分の時間を削ってまで、相手に合わせてまで、犠牲を払っても得るものは、犠牲には見合わないそうな。
現状で、いっぱいいっぱい、あるいは、たいして現状に不満を感じない。
今は、価値観が多様化して、これという強固な強烈なモデルサンプルが見つからない。
情報過多、溢れる情報の海で、取捨選択できない。
擬似恋愛的ゲームやアニメも充実し、
経験していないのに、経験した気になって、もういいや、お腹いっぱい、となる。
手のかかりそうな相手と付き合うぐらいなら、自分の趣味や好きなことをするほうが、充実している。
あるいは、恋愛でなくても、「別れた」だのなんだの面倒くさいものよりも、友達として長く付き合いたい。
取材されていた、ある大学院・男性は、両親の離婚を経験し、愛を維持する生活は不可能だと体感したようだ。
そういう話はよく聞くが、逆に「僕は、だから家庭を思いっきり大事にしたい」という人もいる。
が、トラウマみたいになっていると、ちょっと根治しにくいかも。
恋人がいない、恋人もほしくない、そんな男女がウヨウヨいたら、そりゃあ出産率は低下する。
イマドキの若い人々は、あんまりガツガツしないようだ。
淡々としている。
(それに比べて、中高年のギンギンギラギラなこと)
ん~・・・そんなものなのか。
お見合いさせたパンダのカップルを同じ檻の中に入れても、ちっとも二匹の行動に変化はない、ってかんじか。
男性が淡々としていたら、女性としては、非常にやりにくい。
餌をまこうが、香水を振りまこうが、突っつこうが、擦り寄っていこうが、
その気ゼロで、逃げられてしまうと、ほんと、どうしようもない。
女性も、また、男性に寄っていかないらしいので、これは、発展しようがない。
かわいこちゃん教授が、番組の最後に言っていた。
(冒頭ならまだしも、番組の最後なので、
わたしの集中力が続く持ち時間ギリギリだから、ちゃんと理解できていないかも知れないが)
自分が楽しめるコトに没頭するのは悪いことではないので、おおいに楽しめばいいけれど、
自分の内へ内へと向くのではなく、外側に向って、趣味なりボランティアなり、好きなことをしていけばいい。
すると、いずれは自然なカタチで社会の中での、楽しい過ごし方が見つかる。
異性を交えた中での楽しみ方を覚えると、良い方向に向っていくのではないだろうか。
というニュアンスだったと、解釈した。(わたし流・解釈)
今朝、出かける次女(未婚)に、
支度している横から、昨日の番組内容や、教授の論説を一生懸命、伝えると、
「聞いてないからね」
と、つれない言葉を残し、あたふたと出ていった。
【ついでに、補足】
結婚は、見合い結婚から恋愛結婚に移行。
一昔前は、男らしさ、女らしさが、キーだったが、
高度成長期以来、フィーリングが合うかどうかが基準になってきている、とか。
なるほど・・・。
社会的男女役割(ジェンダー)の意識変化である。
ちょうど、わたしの世代は、その移行期(後半)にあり、
女性の意識は先行しているのに、男性の実態は、旧来のまま。
そのあたりにも、夫源病の発生原因も隠されているようだ。
昨夜、ロンブーの田村淳 氏の対談番組(NHK)を見た。
お相手は、新鋭・デジタル・クリエイター、猪子寿之 氏。
お笑いやトークのプロ、田村淳 氏は、さすがにテンポの良い「しゃべくり」である。
トークのプロではない人が同じテンポで、ぱぱぱっと切り返すのは、無理。
だが、専門分野、光と映像のデジタルクリエイトでの自己表現は、さすがのもの。
淳 氏は、わかりやすい言葉で話してくれて、とても好感が持て、言っていることが理解できた。
小学校でのゲスト講師としての授業も、効果的だったと感じる。
間口の広い、コミュニケーション能力の養い方、コミュニケーションの取り方を
具体的なノウハウを示して、伝える。
相手がなにを思っているのか、なにを欲しているのか、それをくみ取り、リアクションする。
コミュニケーション能力とは、聞き取る力、伝える力。
耳を澄まして聞き、理解しやすく噛み砕いて、伝える。
自分がいったい何を思い、感じているのか、意識していない人も、
相手がそれを読み取り、相手からのリアクションを受け、
はじめて自分の思いを再認識でき、しかも受け取ってくれ、心地よさを感じるかも知れない。
双方が、心が通う瞬間だ。
かたや、デジタル・クリエーター 猪子寿之 氏は、感性で伝える。
口や言葉ではなく、行動や、直接、脳や心に働きかける。
現在の広告は、ひと昔前と違うという。
飾ったもの、表面だけに現れた部分の質を上げたもので、人々の興味や共感を得るのではなく、
本質そのもので、伝える。
他者からの押し付けではなく、自分で感じてもらう。
口下手の人が、自分のことを言葉でうまく伝えられなくても、
別の、例えば、音楽や絵画、得意分野や好きなこと、創造したもので伝える。
無意識の深層感性で嗅ぎ取ってもらう。
淳 氏が「人の心を読み取って、求められるリアクションをする」、というスタンスに対して、
猪子氏は、「自分が面白いと思ったものは、人も面白いと思うに違いない」、と、
相手ではなく、自分に軸がある。
この考え方は、わたしと同じだ。
が、わたしの場合、人の心も気になる。
自分の感性や能力に、そこまで絶対的な自信がない。
そして、受け入れられるかどうか、バランスを考える。凡人だから。
自分は面白いと思うけれど、人は思わないかも知れない。
そこらあたりが、まったくのズブの素人、一般市民。
しかしながら、能力に秀でた人は、多くの人々の賛同、共感を得る。
ただ、一過性のものは、単なるブームである。
一発屋でなく、持続させるのが困難であるが、ひとつの時代を築き上げるだけも、たいしたものだ。
裏打ちされた努力や、研究、技術開発も必要だ。
国際化、情報化が謳われて、かなりの時間が経過した。
今の若手にとっては、インターネットは日常の風景であり、おんぎゃあと生まれたときからパソコンは、生活の一部。
そういう彼らの考え出すことは、(意外に)、現実にとらわれず、夢があったりする。
既成概念にこだわらないモノづくりに対して、
わたしは、ほほぅっと、業界のドン老人のように目を細め、うなずいた。
淳 氏の、まじめに取り組む、コミュニケーション能力も、不可欠で素晴らしい。
(ひとつの道を長く歩いていると、試行錯誤し、そこそこ考えは集約される。
41歳にもなれば、ある程度のものごとは、見えてくるだろう)
が、それにさらに加えて、
クリエーターの創り出すものには、ぽ~っと開いた口がふさがらない感動を覚える。
(実際に現場でリアル体験していないが、想像するに)
創造性というものは、生み出すにはかなりのエネルギーを必要とする。
自分に対しての欲求を受け取り、お返しする、淳 氏と、少し似ているが、似ていて非なるものである。
どうだ!!と、無から投げかける能力は、受けて返すのとは違う。
が、スポンサーがいなくては、仕事にならないし、単なる自己満足になる。
需要と、供給。
自己表現と、影響。
淳 氏と、猪子 氏。
面白い対比になった。
その後、さらにNHK番組、「知の巨人たち」で三島由紀夫をやっていた。
それを延々、夜中に暖房もつけず見ていたら、底冷えがした。
朝、起きると、なんだか、アタマが騒いでいた。
昨日は日常のルーチンワークしかしていないのに、なんのイベントもないのに、なぜだろう?
誰ともディスカッションもしていないのに、お祭りの後のようなかんじだった。
なぜだ、なぜだ・・・。
と、記憶のページを時間軸で遡ると・・・ああ、そうだった、テレビ!
寂しい老後も、テレビが救ってくれるかも?
いや、そんなことはない、たまたま、あれはニュースソースがテレビだっただけだ。
深夜とは言え、受信料を払っているだけあって、NHKは面白い番組を作る、と、
少し受信料のもとをとったような気になった。
日ごろ、我が家で、だらだら垂れ流される、安モノ・バラエティ番組とはえらく違う。
やはり、同居人とは、別の視点で別々に生きるのが、ベストだ。
英語教育。
小学校からスタート?
えらいこっちゃー。
でもまあ、英語は、イギリス~アメリカの過去~現代の歴史からすると、
今は、国際共通語になっているので、使えるようになるほうがよろしい。(あたりまえか)
シンガポールや、その他の国みたいに、国民が一般的に使えると、なにかと国際社会の中で生きるには、
はずせない重要なキー、今後の発展につながる。
などと、浅い薄い、当たり前のことを恥ずかしげもなく書いてみて、ちょっと恥ずかしくなった。
コミュニケーション能力は大事。
国際社会においても。
同じ民族、同じ言語同士でも、親子間でも伝わらない。
(さっき、上娘に「おかあさんとの会話、コミュニケーション不可能」と言われた・・・)
根底に、相手をわかろう、お互いに理解しようという気持ちがないと難しい。
ずいぶん前、サンディエゴ(アメリカ)に、ほんの短期間滞在したとき、
わたしは、自分はこの国では、人並みに達しない人間だと実感した。
地域に、なんのかかわりもない人間である、わたしのコミュニケーション能力のなさに対する、地元の人々のリアクションに、
自分は、プライドのカケラも持てないと、ひしひしと感じた。
そして、世界中のどこの国においても、自分は言語が使えない、絶対的ハンディのある人間だと思った。
つまり、母国語しかちゃんと話せない、コミュニケーションがとれない。(あ、母国語も話しベタ・・・)
ちいさい、ちいさい島国でしか生きることができない。
たとえ、海外に出ても、即、日本に引き返してこなければ生きていけない、まったく自立できない人間である。
ということで、英語なり、なんなり、言語を、母国語以外に習得することは、すばらしい。
仕事につながれば、なおよし。
直接つながらなくても、自分のために、悪いことはない。
資料を読むにも、ニュースを知るのも、
世界の出来事を直接、日本のメディアを通さず入手する必要性を強く感じる。
(日本を経ると、意図的に操作される恐れがある)
その意味においても、生きた英語は必要だ。
ぜひぜひ、頑張ってもらいたいものだ。
・・・と、他人事のようなわたしは、もはや蚊帳の外。
黄金のオールドアワーに棲息する人間は、
日本語しか話さない、読まない、話せない、読めない、聞けない、
いや、最近では日本語すら、聞こえなくなってきている。
しかしながら、
自分にとって都合のいいことだけ、何語であっても聞こえる、すばらしい耳の持ち主である。
あるブログに、久しぶりにお邪魔した。
最近は、ご無沙汰気味なんだけれど、今日は、なんとなく。
「婚外恋愛 被害者の会」のような 暗黙の結束を感じるブログなので、
わたしは、まったく部外者なのだが、ブロガーさんの文章表現が面白いのと、
わたしが、別の関係ない分野で、
(例えば、知人に、「こんなこと言われました~、わ~ん」、とか、子供じみた落ち込み)
弱気になって、ウジウジしているときに、ちょっと励ましてもらったりして
元気を分けていただいている。
最近、落ち込むようなこともなく、わたしは、いたって快調なので、あまりお邪魔することもなかった。
このブロガーさんは、ご主人の度重なる婚外恋愛で、深く傷つき、辛酸をなめたものの、
健気に立ち上がり、再生されたキャリア、ノウハウを、同じような目に遭った奥様方にレクチャーされている。
ご自分の経験に基づき、同じ立場、目線で、問題解決をサポートする、ボランティア・カウンセラーみたいなものだ。
なので、ブロガーさんをはじめ、ほぼ全員が、夫に浮気された、被害者の奥様方。
痛みを分け合い、目線が、ひとつの方向に、全員一致で向いているところが、スゴイ。
法で保護された「正妻の座」ということで、
何が何でもすべて正しいのは、奥様という黄金セオリーで、始終一貫、統一されている。
加害者(夫と、相手)は、悪、被害者(妻)は、正。
被害者にはなんの落ち度も、なにひとつとしてない、・・・・ように見受けられる。
夫が婚外恋愛に走った家庭の原因究明などは、いっさい行われないところが潔い。
もちろん、ご主人の家庭復帰、家庭回帰、家庭再生を目指し、
同時に、奥様方の精神的ダメージの軽減を目的としている。
サンプル・イメージや、話の登場人物モデルが、非常に統一感がある。
なんというか・・・うーーーん・・・なんというか・・・その・・あの・・・・・うーーん・・・
わたしが小さいころ?(若いころ?)読んだ漫画か、テレビドラマの雰囲気と少し似ている。
そして、いま、昼メロで、ウケ狙いがありありとわかる、デフォルメされた、演出、脚色の、愛憎劇、
あのテイストに共通するものがある。
事件が繰り広げられる舞台が、都心部とは、けっこう離れた長閑(のどか)な地であること、
地域的な特徴も加味されているのかも知れない。
べつに、わたしが、自分は都会の洗練された人間だと言っているわけではない。
わたしも田舎もんだし。
田舎もんが、悪いといっているわけではない。
田舎もんには、田舎もんの良さがある。
わたしのまわり近親者は全員、生粋の田舎もん。
なので、わたしも当然、田舎もん。
みなさん、田舎もんだと自覚していないみたいだけれど。
ま、それはそれとして・・・
そのブログに話を戻そう。
地域性だけでなく、わたしが理想としてる描いているイメージ、方向性と、真逆なわけだが、
いくらアタマで考えても、現実とはこういうものだろう。
フェミニズムの権威で、社会学者の上野千鶴子さんは、
あくまでも学問として、女性を社会的に研究する人だ。
実際の家庭や、職場での現状を目の当たりに見て、肌感覚で知っておられるわけではない。
学問と現実には、大きな大きなギャップがあるということだ。
だが、このギャップを、知ることから始める。
一朝一夕には、埋めようもない、大きな溝ではあるけれど、
知ると知らないでは、大違い。
ただし、義務を放棄して、権利ばかりを声高に叫んでもだめ。
自由ばかりを求め、責任を放棄しては、片手落ち。
やることをやってこそ、目いっぱい、口いっぱい、言いたいことが言える、というもの。
言いたいことを言ったからといって、その要求が通るなんて思ったら、これまた甘い。
それから、イバラの道が待っている。
やる気がないんなら、現状で満足すべき。
やる気があるけど、行動、実践しているけれど、現状に満足できないなら、継続すべき。
継続しているのに、現状に満足できないなら、別の手を考えるべき。
知力、体力、精神力、フル回転すべき。
それでもダメなら、時機を待つ? 時代の到来を待つ?
待ってたら、死んじゃいます。
あるいは、待ちに待った時機が来ても、もはやヨボヨボで要介護の身。
アタマはもちろん、耳も目もかすみ、気力も失せてることでしょう。
そうなる前に、渇望したまま、志を、貫き通すことが出来ないまま
かっと目を見開いたまんま死んだほうが、まだまし?
いえいえ、別の人格になり、こころ安らかに、余生を送るのも悪くないかも。
ただし、QOL(Quality of Life 医学的な意味での、「生活の質」)は、維持したいけれど、
ままならないこともあるでしょう。
おっと、またもや、話が逸れてます。
同じ女性でも、いろんな人がいるってことです。
いろんな場所で、いろんな生き方をしている。
環境は、考えを左右する。
同じ立場ではないのに、同じ意見や感想を求めることは不毛。
なので、サラダボウルのように、いろんな野菜たち、混ざらないけれど、
色とりどり、いろんな種類をおいしく食べて、健康になればいいなあ、って、
そう思う。
人種の坩堝(るつぼ)のアメリカ、いろんな人種が共通文化を形成し、
サラダボウル(salad bowl)に例えられるそうだが(なかでもNY)、それは、
「混ぜても決して溶け合うことはない」 という共存共栄のスタンスかららしい。
さまざまな人々の調整、協調が、これまた難しいんだけれど。
で、話に、まとまりがなく、長いだけになったけれど、そういう日もあるってことで、
ここで、おしまいです。
みなさん、がんばりましょ。