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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ノーベル賞

2015年04月14日 | 日記


ダイナマイトの発明で金持ちになったアルフレッド・ノーベルには、兄ルードウィッヒがいた。スェーデンの発明家で、経営する会社も順風満帆であった。ところが、1888年4月12日のことである。兄のルードウィッヒがカンヌで心臓麻痺で急死した。この死をフランスの新聞がアルフレッドの死と誤報して、見出しに「死の商人、死す」という言葉が踊った。アルフレッドは図らずも自分の死亡記事を読むことになった。同時に、「死の商人」と呼ばれていることに困惑した。爆薬や兵器の生産で富を築いたことに対する批判が、このような記事を書かせたのであった。

自分の発明が人類にとって、負のイメージで受け取られていることに気づかされることになったのである。それ以来、アルフレッド・ノーベルは、何とかこのイメージを変えたいと考えるようになった。彼は遺言にノーベル賞に創設を書いた。物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られることになった。学問や研究で人類のために功績を残した人への賞の創設は、ノーベルのイメージ転換の目的はみごとに達成されたと言ってよい。
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蒲公英

2015年04月13日 | 日記


3月の気温が高かったせいで、今年は春の動植物の初見が早い。新聞の報道では、気象台が観測したところでは、軒並み例年より早まっている。スイセン3月30日で例年より15日、サクラ4月10日で5日、ツバメ4月6日で3日、モンシロチョウ4月4日で5日早いといった具合だ。雑草地に蒲公英が咲いて、モンシロチョウが飛んでいる風景はやはり春の風物詩と言っていい。

蒲公英も最近ではセイヨウタンポポが主流だが、早春には丈の低いニホンタンポポが見られる。この地方では黄色がほとんどだが、四国、九州では白花のタンポポがあるらしい。

たんぽぽや日はいつまでも大空に 中村 汀女

蒲公英の花は、かって子どもたちの格好の遊び草であった。花のついた茎の切り口を裂いて水につけるとクルクルと反り返って花のような形になる。そのタンポポを見ながら、囃し歌を唄う。

タンポポタンポポ
わげー結って
爺がとけ嫁に行け

野原にはそんな子どもたちの遊ぶ声がいっぱいあった。野原を歩いていても、子どもたちが遊んでいる姿はめったに見かけない。淋しいことだ。
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春の夜の夢

2015年04月12日 | 日記


平家物語の冒頭は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」という名文句で始まっている。学生時代に、この句を暗誦したものは、筆者ばかりではあるまい。「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と続くが、この春の夜の夢は、桜の花をシンボルとしていると言ってもいいのではないか。



ほんの先週まで固い蕾のなかにあった花は、時節を得て、すでに爛漫と咲き誇っている。平家が清盛という頭領を得て、極めて短時間に権力の座につき、平時忠をして、「此の一門にあらざる人は皆人なるべし」と言わしめるほど、栄華を極めたのは、歴史が示している通りである。

だが、清盛は平家の命運が、自らの病死の後、坂を転がるように滅んでいくことにいささかも気づかなかった。清盛は最後の「あっち死」といわれる熱病に冒され、戸板の上に臥しまろび、水をかけさながら悶え死んだが、その遺言が生前の性格を物語っている。

「忝くも帝祖太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望み、一事も残る所なし。但し思置く事とては、伊豆の国の流人前右兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。」と述べ、自分の墓に頼朝の首を、供えることを、子どもたちの孝養だとした。

だが、頼朝を棟梁とする武士の台頭は、清盛の思惑を超えて、平家はもとより、後白河法皇に代表される貴族の栄華をも葬り去ったのである。
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花より団子

2015年04月11日 | 日記


山形城址の公園の桜は、昨日開花を宣言したが、まだ蕾というのが本当のところだ。公園の中には、テントが張られて、団子を売る売店も出店していた。今城跡の本丸一文字門の復元工事が進められ、橋や門が一般公開されている。築城の際の石組みはみごとで、機械力のない時代は、人力で石が運ばれたのであろう。

花よりも団子の京とぞなりにける 今日も石々明日もいしいし

いしいしというのはおいしいという意味の美(い)し、を重ねた言葉で、築城に運ぶ石に意味を重ねた狂歌だ。織田信長が京都に築城したとき、毎日石を運ぶ人夫を狩りだしたので、不満がつのり、こんな狂歌が生まれたのだ。城に使われる石組みを見ると、なるほどと頷けるものがある。



写真は復元された本丸一文字門である。
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石川啄木

2015年04月09日 | 


石川啄木は郷里の渋民村を、村人から追われるようにして離れ、北海道に渡り札幌、小樽、釧路と新聞社の創業に関わった。明治40年から41年にかけてのことで、啄木22歳のときであった。すでに歌人として認められていた啄木は、北海道での生活に見切りをつけ、妻子を函館に残して、東京に出て作家になる決意をして上京した。この時、啄木を支援したのは金田一京助であった。書きためた原稿を出版社の持ち込んだが、どこの出版社からも採用されることはなかった。

東京での啄木の生活は、朝日新聞へ入社し、朝日歌壇を担当した。あわせて、毎日新聞に小説「鳥影」を連載、少しばかり生活の安定を見て、妻子を東京へ呼び寄せた。長男真一が誕生したが、育ちが悪く死去。啄木自身も病を得るという凶事が相次いで起こっている。東京にいて啄木は、郷里の自然を懐かしく思い出す日々であった。

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

かにかくに渋民村は恋ひしかり
おもひでの山
おもひでの川

この啄木の歌には郷里を懐かしむだけでなく、郷里を失くした悲しみがこめられている。そのことは、東京での生活が安定したものでなく、ふるさとにあったころの幸福と対比されている。柳が芽吹く季節になると、この啄木の歌を思い出し、その時の啄木の心情に思いを馳せる。

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