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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

旋風

2015年02月18日 | 日記


旋風の被害が出た。竜巻と旋風の違いは、積乱雲があるかないか、だと気象予報士が解説していた。この時期、南から暖かい空気が入ってきているところへ、北の寒気が張り出してくるとそこに上空と地表の温度差が出て激しい上昇気流が生じる。積乱雲が生じていると、黒くなった空に竜巻がでるが、晴れた日でも同様な現象が起きる。

鴨長明の『方丈記』には、旋風が出てくる。「治承の旋風」という見出しがついて、本文中には辻風と表記されている。「治承4年4月の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風起こりて、6条わたりまで吹けることはべりき。3、4町吹きまくる間にこもれる家ども、大きなるも、小さきも一つとして破れざるはなし。」と書き、屋根も家のなかの家財もみな、空へ吹き散らされたという。

この旋風が、先日の旋風と同じかどうか、分からないが、大風はこのような昔からあったもののようだ。
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惟然

2015年02月17日 | 


一昨日のヒヨドリの項で引用させてもらった惟然であるが、芭蕉の門人素牛、出家して惟然(いぜん)と号した。美濃の国関の酒造家岩本屋の三男に生まれた。いわば、素封家に生まれたが、はやくから俳句の道へ入り、俳号を素牛と称した。

ある春の日に梅の花が鳥の羽風にはらはらと散るのを見て、にわかに世を疎んじ、妻子を捨てて出家し、蕉門を敲き、惟然と号した。元禄7年、芭蕉の最晩年であるが、この年西国の旅にあった芭蕉は、嵯峨の落柿舎や湖南へ遊んだとき、惟然は師の訓導を最も多く受けた時期であった。しかし、芭蕉はその後、大阪に行くが発病し、臨終を迎えることになるが、惟然はその場に立ち会っている。

別るヽや柿喰ひながら坂の上 惟 然

正岡子規を彷彿とさせるような句であるが、芭蕉が無名庵を発って、伊賀へと向かうときの即興である。惟然の洒脱な感じが句に出ている。

芭蕉没後の惟然は、乞食のような汚いなりで、風羅念仏を唱え師の菩提を弔いながら諸国を流浪した。父を慕い、探し回っていた娘にあった惟然は、娘が捉えた袖をはらい

両袖にただ何となく時雨かな 惟 然

と詠んで、走り去った。娘は髪を切って、庵を結び、父の画像を掲げて仕えたという。風羅念仏というのは、木魚に似た鳴りものを拵え「古池に、古池に、蛙とびこむ水の音、ナムアミダブツ、ナムアミダ(鉢叩きの音)」と唱えながら、街道を巡回したのだ。家族、親子の絆すらも捨てて、あらゆる束縛から自分を解放しようとした。江戸の時代には、このような生き方を選び、それを貫徹した人がいた。

水鳥やむかふの岸へつういつい 惟 然


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春を待つ

2015年02月16日 | 読書


しばらくぶりで快晴の朝を迎えた。南西に見える上山の大平山が、朝日を受けて輝いて見えるのは何とも気持ちがよい。島崎藤村の随筆に『春を待ちつつ』という小文がある。寒い冬の日に、自らの青春を省み、青春時代の苦しみを冬に喩えて書いている。

心の宿の宮城野よ
みだれて熱きわが身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとり寂しきわが耳は
吹く北風を琴と聴き
悲しみ深きわが目には
色なき石も花と見き

「そして眼前の暗さも、幻滅の悲しみも、冬の寒さも、何ひとつむだになるもののなかったと思うような春の来ることを信ぜずにはいらないでいる。」

この小文は、大正14年の正月に書いたものである。人々の冬への心はその頃とは、少しも変わっていないであろう。家の造りや、暖房器具が進化したとしても、深い雪のなかで、春待つ心は変わっていない。春のすばらしさは、冬の厳しさそのものを忘れさせる力がある。


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ヒヨドリ

2015年02月15日 | 日記


わが家に新しい家族がきた。カーテンの先にあるベランダに置いたリンゴを食べに、ヒヨドリがやってくる。すごい食欲だ。一個のリンゴを半分に割って、鉢植えの添え木にさして置いたところ、二日ぐらいが経ってヒヨドリがやってきた。カーテンの陰からそっと覗いているが、餌を食べるのに夢中である。一口大に嘴で噛み切ったリンゴの破片を上に上げてから口に運ぶ。まわりを見ながら、他の鳥に自分が見つけた餌場を取られないか、しっかりと見わたしているようだ。突然、ヒヨッ、ヒヨッと鳴くのは、他の鳥への警告なのか。

ベランダはヒヨドリの独演場である。いったん食事を始めると、2、3時間は離れずに食べている。一個のリンゴは、ほぼ2日間で食べきった。夕方来て、回りが暗くなると、塒に帰っていくらしい。朝になるといち早くやってくる。いまのところやってくるのは、このヒヨドリの一羽だけだ。他にも来たい鳥がいるかも知れないが、この一羽が独占している。

鵯や霜の梢に鳴き渡り 惟 然

晩秋から平地に降りてきて、特に雪が降ると、葉の落ちた木に残る実を餌にして5、6羽で群れをなすという。わが家にくるのは、単独でリンゴが特に気に入ったようだ。


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2015年02月14日 | 日記


当たり前の話だが、冬には山の木々は常緑樹を除いて、すっかり葉を落とす。葉は堆積して、有機物を含んだ土に還る。その有機物を吸い上げて、木は成長し、夏にはみごとな緑の山を作る。そもそも、土はどのようにしてできるのであろうか。ものの本によれば、地質鉱物が風化し粘土化したものになり、そこへ植物や動物の有機物が混ざり、木々がその生成された土を地表に繋ぎとめる役割を果している、ということであるようだ。

土には多くの小動物が棲息している。さらに土には、その他多くの微生物も含んでいる。陸上の植物の落ち葉や枯死体、動物の排泄物や死体の多くは地表に落ちる。この死んだ有機物は、土に住む小動物が噛み砕き、その体内を通ってさらに細かく柔らかくなる。植物の腐敗の過程には、キノコ類が大きな役割を果す。よい土は、植物の成長を支え、木の実は動物の栄養源になる。有機物を含んだ土は、川に流れ込み、さらに海に流れて、魚の繁殖する環境をも作る。

人類の文明は、この豊かな自然の作り出す食料が余剰するほどになった地帯に成立した。文明が繁栄することは、自然の生産物を収奪するという意味を持っている。文明が衰退していくのは、この生産力を収奪しつくし、回復不能になるときである。一国で賄えきれなくなった国は、他の
地域にその生産力をもとめた。海運や軍事力は、衰退していく文明を支える手段として発展してきたと言うことができる。


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