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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

岩波観音

2013年01月21日 | 日記


滝山小学校から小立を通り、山道への入り口に石行寺がある。最上33観音第7番札所岩波観音である。かつて瀧山三百坊の天台修験があったと伝えられるが、岩波観音の別当をつとめる石行寺はその元締めの寺である。山門を入って本堂の南側の庭園は、名園として市民に親しまれている。

縁起によれば、石行寺は天台宗の名刹で、和銅3年(710)の開創と伝えられている。本尊の11面観世音は、前を流れる龍山川の下流で発見した霊木を刻んだと言われる。後に山形城主最上義光から寺領400石が寄進され、近在の村から人足が出て、基礎工事の土搗つまりドンヅキをした。「ヨイトコラマーケ」という勇ましい掛け声を掛けて仕事を進めた。

月山に対面する蔵王が、月山信仰の対比をなすが、その前山としての瀧山の果たす役割は大きかった。最上義光の時代、城の守護として、寺への信仰は篤いものがあった。
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大寒 身体を温める

2013年01月20日 | 日記


加齢とともに健康が気になるせいか、テレビの「みんなの家庭の医学」をよく見る。先週の話題は血管の若返り法であった。同じ年齢なのに、血管年齢がずいぶんと違ってしまう。血管が硬化すると、高血圧や心筋梗塞の原因となる。そこで、この血管の柔らかさを維持する物質N0が取り上げられた。NOは血管の壁で作られ血管を緩ませることで動脈硬化などを予防、血管を若々しく保ってくれる物質(一酸化窒素)だという。

このNOは、一般的には運動によって作り出される。だからウォーキングや家事など身体を動かすことはかなり大事な生活習慣になる。冬には戸外に出る機会も少なく、ウォーキングもなかなかできなくなってしまう。そこで屋内でできる階段歩き、週1回の雪山歩き。これを意識的に行うことでしっかり運動不足を補う。

もう一つの情報として入浴の方法が紹介された。従来は、低めのお湯に半身浴が奨励されていたように思うが、NO物質の分泌に関しては以下の入浴方法が良いとされた。
【NO分泌活性入浴法】
1.温度:40℃~41℃
2.入り方:肩までしっかり浸かる
3.入浴時間:約10分
この方法を行って見ると、身体の温まりが格段に違った。自然と汗が噴出し、入浴後も数時間にわたって身体がぽかぽかと暖かい。

今日は大寒。この節気に冬の最低気温が記録される。厳しい冬の季節を乗り越えて、春の到来を待つのは、暖房の方法が多様化した今日おいてもなお切実だ。

大寒と敵のごとく対ひたり  富安 風生

大寒やしづかにけむる茶碗蒸 日野 草城

運動や入浴で身体を温めながら、大寒の過ぎるのを待つ日々である。この二つの句は、大寒に対処する姿勢は違っているが、暖かい食べものも見逃すことはできない。

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里山

2013年01月19日 | 登山


昨日までの雪が一転して青空になる。先週もそうだったが、山行の日が好天に恵まれた。雪の青空のコントラストぐとても美しい。何か、儲けものをしたような気分だ。いつもベランダや非常階段に出て見慣れた山に登る。すぐ目と鼻の先のある山であるが、登って見て一筋縄で行かないことが分った。一つは勾配が急であることだ。その上、里山とはいえ、昨日までの積雪が予想以上にある。60センチから80センチほどもあるため、カンジキの世話になる。



さらに雑木林が広がっているため展望がきかない。目的の猿岡山は、木立の向こうにうっすらと見えるのみである。だが、見慣れた台形の山が姿を見せるとさすがに安心する。登りはじめて1時間を過ぎると、雪が湿り気をおびてギシギシする感じだ。そのためだろうか、カンジキの紐がゆるんでくる。それにしても雪の景色もきれいだ。ところどころに雪がなくなり、落葉が見えるところがある。イノシシが止まった跡では、と誰かが言った。その直後に山鳥が静けさをつんざいて飛び立った。山鳥が餌を探している跡であることが分った。



後を振り返ると蔵王の山並みがきれいに見えた。雑木林に遮られた景色が垣間見えた一瞬である。こんな景色が見ることができるから、雪を踏んで急坂を登るのだ。今日の登山には12名の仲間が参加した。男性5名、女性7名である。標高557mの猿岡山、470mの大林山の二つのピークを持った山行である。恵まれた天候、心地よい疲労、その後の温泉は最高のご馳走である。

白さもて魅惑す朝の雪嶺は 相馬 遷子

ふかぶかと眠る山みな無名なり 堀口 星眠

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寒雲

2013年01月18日 | 日記


寒い朝の雲を写真に収めた。気温-3℃、雪がちらつくなか、青空が見えている。右の端に見える山が明日登る予定の猿岡山(557m)である。斉藤茂吉の第3歌集は「寒雲」と名づけられている。その冒頭は

高山も低山も皆白たへの雪にうづもれて籠る家村 茂吉

の歌が置かれている。昭和12年から昭和15年の歌を収めている。この歌集は「赤光」や「白桃」に見られるような編集が行われていない。折々の歌を編年体で収録したものだが、ようやく激しくなっていく戦争の足音に影響されて、茂吉は戦争の歌を多く読むようになった。

茂吉の戦争の歌は、敗戦後の読者にはこころよくは響かない。だがこの歌集には、昭和14年の7月、蔵王山頂の茂吉の歌碑が建てられたおりの「歌碑行」が、この集に収められている。

いただきに寂しくたてる歌碑見むと蔵王の山を息あへぎのぼる

一冬を雪にうもるる吾が歌碑が春の光に会へらくおもほゆ  茂吉

私は昨年も、一昨年も、雪のある3月に、蔵王山頂に立って茂吉の歌碑を見ている。歌碑には、吹き付けた雪が、海老の尻尾のような形で張り付いていた。

陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

と茂吉の歌が刻まれていた。この歌碑建立を計画したのは、茂吉の弟の高橋四郎兵衛であったが、この計画に茂吉は頭から反対した。弟や山形の弟子たちの辛抱強い説得で渋々認めた茂吉であったが、山上の歌碑に己の姿を写しこんだ歌を作った。私たちの山の会ではこの3月の山行予定でも熊野岳から中丸山への縦走を予定している。




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次年子

2013年01月17日 | 読書


葉山の山麓にある大石田町次年子(じねご)。手打ちそば所である。わが家からは、車で1時間半ほどの距離にあるが、ここの手打ちそばは、自家製のそば粉の手打ちがうれしくわざわざ車を飛ばして食べに行った。この集落には、農家をそのままそば屋にしたような店が7,8軒ある。1000円のそばを注文すると、蕨の一本漬けが出て、大根おろしを汁に入れて食べる。そばはお代わり自由である。どんぶりに盛って出すのだが、3杯も食べれば十分である。なかには5杯もお代わりする豪のものもいる。

次年子という地名の由来だが、冬の雪深い村で生まれた子は、役所への出生届けが翌年になるからこんな名が付いたとばかり思っていたが、全く違うことがこのごろ分った。この地に秋田からお里という名の婦人が来て、秋田伝統の箕つくりの技術を伝えた。それが大同2年のことであったから、最初二年子という名が付き、後に次年子と改められたいう。

箕つくりの話が書いてあるのは、藤沢周平の『随想など』のなかで、自身が書いた小説「人攫い」についての件である。この人攫いは箕つくりが仕出かす事件である。鶴岡生まれの藤沢周平は子どもの頃、農村を廻る箕つくりの人々を見ていた。農家の軒先を借りて筵を敷き、そこで箕を修繕したり、材料を持ってきて作ったりしたという。だが、箕つくりの人々には、どこか、農村に溶け込めずよそよしい雰囲気を持っていた。

そもそも箕とは、木の皮などで編んだ笊を変形したものだ。ここへ脱穀した豆や菜種を入れ、手で振って実と殻を選別する道具である。もしその時に風があれば、殻は面白いように飛んでいって、箕には実だけが残る。この箕は農家の必需品なのだが、これを作る集落は決まっていた。長井政太郎の『山形県地誌』の「箕づくりの村」を見ると、この技術を村の不出のものとし、流出を防ぐ掟があった。箕作りの技術はその家の長男にのみ教え、他へ養子に行ったものは、箕は家に帰って作ることになっていた。もしこの禁を破ったときは、その家族は村八部にされた。そのために製法の秘密が他へ流出するのが防げた。

藤沢周平が箕作りの職人に抱いた感じは、こうした技術を知られることを恐れる伝統の気質がなせることであったのであろう。この次年子から、山中の道をさらに西へ進めば、雪深い温泉地肘折である。この冬も肘折は2mを越す積雪に見舞われている。

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