小雨のなか上山温泉まで散歩の足をのばした。阿部鯉屋の脇の空き地に車を停めて、松山という町のなかの道を、春雨庵めざして歩いた。5分ほど歩いただけで、民家のなかに隣り合わせて草ぶきの屋根に苔むす庵についた。入館料が要るはずであるが、チケットを売る人もいず、茶室の障子も鍵がなく、開けると狭い茶室を覗くことができる。
聴雨亭とい茶室の脇は、茶庭になっていて、季節の紫陽花が咲き誇っていた。小雨のなかで見る紫陽花はやはり趣きがある。春雨庵は、京都の大徳寺の住職であった沢庵禅師が、流謫の身になってこの地に来て、藩主の好意で建てられた庵だ。茶を点て、雨の音や小鳥の声を聴き、花を愛でながらの生活であった。もちろん高僧であり、禅を究めていたので、藩の人々に、法話を説くこともあったであろう。
花にぬる胡蝶の夢をさまさじと
ふるも音せぬ軒の春雨 沢庵禅師
春雨庵で沢庵和尚が詠んだ歌であるが、その情景そのままの春雨庵であった。
沢庵和尚が臨済宗の本山の住職という身分で何故、この地へ流されたか。江戸幕府の朝廷の権限を弱め、幕府の権威を高めようとする政策にあった。勅許紫衣というがある。高僧は紫の衣を着るのが最高の権威であったが、天皇がこれを許すことで朝廷の収入減でもあった。幕府は朝廷のこの勅許紫衣を禁じる法度を出した。2代将軍秀忠の時である。これに抗議したのが、沢庵を初めとする京都の高僧たちであった。幕府は法度の禁制を犯したとして、多くの高僧を流罪とした。これが沢庵禅師がここで起居をすることになった由縁である。
沢庵和尚は寛永6年から3年間、3代将軍家光の許しがでるまでこの地にいた。禅を説き、歌や書、茶道などのほか京都の文化をこの地に伝えた。さらに水利、土木、建築設計などの知識も授け、この藩の発展に貢献した。
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