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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

西郷隆盛入水

2017年12月20日 | 


西郷隆盛が月照和尚の13回忌に詠んだ弔詩がある。その起承の句に

相約して淵に投ず後先無し

豈図るらむや波上再生の縁

とある。しっかり身体を結びあって共に死ぬはずであったが、自分一人が錦江湾の波の上に生き返った因縁を回顧している。京都の清水寺成就院の僧月照は、尊王攘夷を唱える薩摩藩主島津斉彬とかねてからの知己であった。斉彬に頼まれて、攘夷運動の連絡係のような役割を果たしていた。幕府の大老井伊直弼は危機を感じ、安政の大獄と言われる弾圧に乗り出す。

安政5年、幕府に追われて薩摩に身を寄せた。しかし、藩では斉彬の死という事態にあり、幕府とことを構えるのを嫌い、西郷に月照を託し、日向に身を隠すように命じた。西郷は藩の態度に怒りながら、もはや二人が死を選ぶほかはないとの結論にいたった。二人が月の照らす海の縁に身を投ずるのはその年の12月19日のことである。

頭を回らせば十有余年の夢

空しく幽明を隔てて墓前に哭す

西郷の漢詩は、吟詠家によって吟じられる。技巧によらず、その情を直截に表現することが、好まれる由縁であろう。
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梁川紅蘭

2017年03月29日 | 


梁川紅蘭は幕末の漢詩人梁川星巌の妻である。頼山陽の後輩で、女流では江馬細香と双璧をなした。紅蘭はもともと星巌のまた従妹であり、星巌が主宰する梨花村草舎の生徒であったから、先生と生徒との結婚ということになる。婚約がなり輿入れの品も運び終り、いよいよ華燭の典をあげるばかりになって、星巌は「2、3ヶ月旅に出る。帰るまでに三体詩をそらんじておけ」と言い残して出て行った。留守中、紅蘭は家事のかたわら熱心に三体詩の暗唱に取り組んだ。頭もいい上、熱心で苦もなく三体詩を暗唱できるようになったが、帰るはずの夫からの音信がない。一年がたち、やがて三年の歳月が流れた。

親戚筋でもあてなならない星巌を待たないで、家をでてはと、紅蘭に勧める者もあった。しかし、紅蘭はその話に耳を貸さず、夫を信じて待っていた。すると、ふいに星巌が戻り、何事もなかってように「三体詩は諳んじられるようになったか」と聞いた。紅蘭は「はい」と答え、問われるままに、どんな詩でもすらすらと答えた。星巌は新妻に美しい着物を着せ、化粧をさせて、連れ立って旅をした。知人の儒者たちに紹介をかねた旅であったが、あまりの美しさに、まるで芸妓のようだという評判がたつほどであった。星巌は美人の妻が自慢でもあったらしい。

 紅梅 梁川 紅蘭

暖は嬌容に入りて 一段と奇なり

珊瑚玉を綴る 幾枝枝

品題用いず 饒舌を労するを

喚びて佳人酔後の姿に做す

詩意は、紅梅のあでやかさを、いろいろあげつらって言う必要はない。佳人が酔ったさまに例えれば十分。品題は品評のことである。思い切った妖艶の例えではある。安政の大獄で、拘束されそうなった星巌が急病でなくなり、幕吏はかわって紅蘭に事情を聞いた。「夫は大事を女に話すような人間ではありません。皆さんは国の大事を奥方に相談されますか」と逆に聞いた。幕吏は紅蘭の言葉に二の句が継げなかったという。明治5年、朝廷は夫の勤王を助けた功に報い、扶持米2人分を与えた。同年3月29日、紅蘭は76歳で没した。
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木戸孝允

2016年09月23日 | 


山堂夜半 夢結び難く 千岳万峰 風雨の声

維新三傑とは、薩長同盟を結び、討幕を果たした薩摩の西郷隆盛、大久保利通と長州の木戸孝允(桂小五郎)をさしている。明治政府を薩長の人材をもとに作りあげ、その中心にいたのが木戸孝允である。しかし、その座に安閑としている暇はなかった。

明治4年に、欧米各国に条約改正のため予備交渉に岩倉使節団が派遣された。木戸孝允は大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らとともに全権副使として随行した。アメリカで早々にこの交渉が失敗に終わり、使節団は目的を先進国視察に変更した。

明治6年には、使節団の一行は1年10ヶ月に及ぶ米欧の視察を終えて帰国したが、国内では重大な問題が起きたいた。新政府と朝鮮の国交をめぐって話し合いが進まず、一部に征韓論が持ち上がり、西郷隆盛を朝鮮派遣使節に任命した。この問題をめぐる政争で、西郷は下野し、その後は大久保が実権を握ることになる。最長老であった木戸も大久保から距離を置き、次第に政権から遠ざかった。

邦家の前路容易ならず 三千余万蒼生を奈せん

木戸孝允は政権から身を引いて、山堂にこもって余生を過ごしたが、日本の進むべき道を考えると、安らかな眠りすらえられなかった。寒燈を前にして考えるのは、3千万を超える国民の進むべき道、生きる道である。その心境を一篇の詩に残した。容易でない日本に針路を考えると、眠ることもできず、聞くのは周りの山々に吹き付ける風の音であった。

明治10年になると、下野した西郷を担ぎだして西南戦争が起こった。このとき木戸はすでに病の床にあり、「西郷よ、いいかげんにしないか」とつぶやきながら、死に至った。
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楠木正成

2016年05月25日 | 


延元元年(1336)5月25日は湊川で、南朝の新田貞義・楠木正成軍と足利尊氏軍が激突した日である。尊氏の大軍と血戦16合に及んだ正成の軍7百余騎は、弓で射られ、切られ残るはわずか73騎になってしまった。今はこれまでと覚悟を決めた正成は、湊川の北にあった民家に入った。鎧をほどいた正成の身には12もの刀傷があった。弟の正季に「御辺の最後の願いは何ぞ」と問えば、「七生まで同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばやと存じ候え」と答えてからからと笑った。正成は「わが心を獲たり」と言うと、兄弟は刺し違えて同じ枕についた。正成の享年43歳、二人の従った従卒は全員が、この兄弟の死を追って果てた。
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武市半平太

2016年05月11日 | 


土佐藩の勤王党の首領武市半平太は、藩主山内容堂に吉田東洋暗殺の廉で切腹を賜った。慶応元年(1861)5月11日のことであった。享年37歳、前途のある士の死であった。半平太は豪農の息子で士族とは身分の開きのある郷士であったが、剣を学んで天才的なひらめきがあり、道場を開き、勤王の志士として名を響かせていた。同じ郷士であった坂本龍馬とも、昵懇の間柄であった。土佐勤王党は、郷士の青年のなかで、勢力を増やし、藩を尊王へと動かす力を持つ至った。やがて藩主容堂は、勤皇派の弾圧に乗り出した。

半平太は即時討幕を主張し、公武合体をめざした藩主とは主義が合わなかった。獄中で死を覚悟した半平太は、盥の水に我が顔を映し、自画像を描いた。それに手紙をそえて実家に送った。手紙には「ちと男上がりがよすぎて、ひとりおかしく候」と書いてあった。学問にはたけていなかったが、絵をよくし着色の美人がなども描いていた。顔は鰓が異様に張っていて、仲間に「鰓」とあだ名されてうた。龍馬が帰省して、「鰓はあいかわらず、窮屈なことを言っておるか」と仲間に言ったが、これを聞いた半平太は、「なに痣が帰ったとや、また大法螺を吹きおろう」と笑ったという話がある。

この日、切腹の宣告を受けると、腹を三文字掻き切って従容として死についた。長州の久坂玄瑞は半平太を評して、「人物の高いことは、西郷吉之助の上にあるであろう」といい、人格において維新の志士のなかでも群を抜いていた。辞世の歌は

ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 武市瑞山
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