茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

茶と文化そして美
茶文化、芸術、職人・・・
大事!
もっと楽しく茶文化を!

市川茶道会茶会・・・準備

2009年10月31日 | Weblog
明日は茶道会での茶会です。久々に親先生の席持ちです。
今日は夕方から準備に文化会館へ集合です。
会議室を茶席にするので流麗で行います。
棚を準備したり、水屋をセッティングしたりと明日に備えました。
明日の我々の当番はお点前とお運びです。
流麗棚行いますが練習もせず当日を迎えます。座った度胸だけがあるうちの社中です。ただ、面倒なだけですが、お稽古は明日本番直前にやれば・・・?
腹くくりのよいのは親先生の教えかしら?と常々感じますが面倒くさい考えが先立つだけかもです。
楽しいですがやっかいで、やっかいですが心地よいのが「茶会」です。
明日の準備よい加減です。

天台宗 浄蓮寺・・・北茨城

2009年10月30日 | Weblog
三十三体観音や浄蓮寺渓谷(滝)で有名なお寺です。
茨城100景の1つで、萱葺きの屋根に特徴があります。
慈覚大師の開基とされ、境内の愛染堂には、愛染明王が安置されています。
浄蓮寺の敷地内にある浄蓮寺渓谷の、苔むす岩に彫られた三十三体の観音像は、今から1,000年も前のものといわれています。

八葉山浄蓮寺の由来
八葉山浄蓮寺は。858年(天安2年)に天台宗3代目の座主である慈覚大師が、奥州山寺(山形県山形市)創立の帰途、当地に立ちより、道場を開いて自ら阿弥陀如来像を作り安置しました。
1857年(安政4年)に現在の本堂が再建され、本尊の阿弥陀如来は、1681年(延宝9年)の作で、仁王尊は1683年(天和3年)の作であります。

かやぶき屋根の迫力はなんともいえません。
夕刻であったのにもかかわらず本堂でお参りすることができたのは嬉しかったです。山奥でしたがこれてよかったお寺でした。

佐波波地祇神社

2009年10月29日 | Weblog
佐波波地祇神社
(さわわちぎじんじゃ・さははくにつかみじんじゃ)

通  称 : 大宮大明神・六所明神・カラカイ山
御祭神名 : 天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)
      大己貴命(おおなむちのみこと)
      積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)
      三輪神少彦名命(みわのかみすくなひこなのみこと)
      媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
      五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)
鎮座地 : 茨城県北茨城市大津町字宮平1532

【御由緒】
 当社の創立の起源は古く、延喜式神祇神名上に常陸國二十八座 大七座 小二十一座の中に 多珂郡一座小 佐波波地祇社 とあり、また日本三代實録には、「清和帝 貞観元年4月26日辛亥常陸多珂郡正六位上佐波波神進従五位下云々」とあり、また社伝によれば「多珂郡皇浦(今改大津)佐波ノ湊ニ鎮座佐波波神 天日方奇日方命而号大宮大明神云々」とあり、このことから、少なくとも1200年前の、齋衡(854~)・天安(857~)の間に創立と伝えられている。
 古くは佐波波神また六所明神と尊称されていたが、元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、大宮大明神と尊称を奉った。

山の上にこの神社は鎮座しています。境内からは海を見渡せ気持ちのよい神社です。
この時期に神社周りをするつもりはなかったのですが、なぜか呼ばれてしまいました。神無月で出雲にお出かけのはずなのに呼ばれるとはどうしてでしょうかと思ったのですが、こちらの神社は出雲の神様だったのです。
天日方奇日方命は、神武天皇に仕えた東夷征伐に大功された方で大己貴命の令孫事代主命の第三皇子だということでした。
出雲に行くことをやめたのか、老人の神様だったのか?お留守番だったのか?どうも居た様に思える・・・。いや、戎様が留守番役の神様のはず??そういえば戎様も祭っていたような・・・?とにかく村人の信仰が厚く、沢山の神社があるところです。びっくりでした!
光国公からの神鏡一面を奉納されたものは神殿に収められているということでした。歴史ある神社にお参りができてよかったです。

毎年五月に行われる常陸大津の漁船祭は無形文化財だそうです。


岡倉天心・・・茨城大学五浦美術文化研究所「六角堂」

2009年10月28日 | Weblog
「茨城大学五浦美術文化研究所「六角堂」へ以前に足を運んだときは休館日でした。
念願の入館でした。

明治38年6月、天心の設計により建築されたもので、天心は好んでここにこもり、断崖の裾を洗う大平洋の波音を聞きながら、思索にふけり、あるいは和漢の書をひもときました。インドの詩人タゴール(ノーベル文学賞受賞者)は大正5年日本を訪れたとき、ここに立ち寄り亡友を偲びました。

天心は、尊敬する中国の詩人杜甫の草堂に倣して、この小堂を六角形に設計しました。棟札には天心の自筆で「観欄亭」(大波を観るあずまや)と書かれていました。当初、内部は板の間で、炉が切っており、眼前には広大な大平洋の海原が広がります。天心はアメリカから帰ると、ここで瞑想し読書したほか、雨で沖に出られない日には窓から釣り糸を垂らしたといわれています。

● 五浦海岸の渚と波音
 五浦は、五ツの浦が開けていることから、その名が付けられました。
 明治39年には岡倉天心が日本美術院の本拠をここに移し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと創作活動を、行いました。
 海に突き出た断崖上に見える赤い建物は天心が建てた六角堂であり、彼はここで太平洋を眺め、波の音を聞きながら、思索にふけったと言われております。
 六角堂周辺断崖に打ち寄せる波は、時にはやさしく、時にははげしく、その時々の自分の心をあらわしているように聞こえます。
 断崖に砕け散る波しぶき、小さな貝を運んでは引いていく波の音、松をわたる風の音、さまざまな自然の音のハーモニーをかもしだすこの地は平成8年度に環境庁より「残したい日本の音風景100選」として認定されました。
 又、この地は潮の干満による渚の変化が大へんうつくしいことから、「日本の渚・百選」としても認定を受けたところです。

51歳の若さで亡くなった天心ですが、晩年はインド人に恋をして六角堂で恋文をしたためていたといわれています。
病と闘いながら、突き出た六角堂で荒々しい波や穏やかな波を全面に受け、女性を思い、そして筆を執り続けたということはすごく熱い思いを感じました。
天心の自由人ではあるが時代の先端に生き大事なものを見つけて出し形つけていったことは凄いと思いました。
パワーがあった人なんでしょうね?

六角堂に立ち海を眺めて波の音を聞き考え深い思いでした。
天気もよかったので一段と海が大きく空が高く感じました。


端唄・神田福丸の会

2009年10月27日 | Weblog
三越劇場にて端唄神田福丸の会が行われました。
いい声でした。二部構成で一部は忠臣蔵、二部は江戸のすぽぽぽぽぽん。
忠臣蔵は少々夢の中へ誘われ、うつらうつら・・・。
二部は楽しい端唄の世界へ引き込まれてしまいました。
もともと芸者さんだった福丸さんなので、粋な声色が江戸下町の風情をかもし出し、舟遊びをしているようなそんな感じで酔ってしまいました。
本当に楽しかった~!
勿論会場には粋なお姉さん方が勢ぞろいって言う感じで華やかでした。どことなく違う着物の着方や今も健在な芸者さんの気質を肌で感じた気がしました。
久々に端唄の心地よさを聴きいいな~って思った今日でした。
すぐに影響されやすい私は、「端唄もいいかも?」って・・・。
あの声色に惚れた旦那衆もちらほら来場!
今では耳にしなくなった旦那衆という言葉。
やぱり江戸の旦那衆は年を召されても粋で爽やかでかっこよかったです。着物を粋に着付けていたり、スキッと流して着ていたり、帽子のつばを前下がりチャップリンのようにかぶっていたり、杖を突くのがすっとっすっと前に出してあるいていたり、・・・。その時は座敷遊びが楽しかったのだろうな~?楽しげに旦那衆をしていたのだろうな~なんて思ったり。
これよね江戸の男!旦那衆?という言う印象のお客様に素敵!って思ったり!
結構その場にいるだけで雰囲気は舟遊びか料亭?
気持ち満足で帰路に着きました。楽しいことは本当にあっという間です。


お稽古に

2009年10月26日 | Weblog
台風と知らずにこの雨の中茶室へGO!
午後から臨時お稽古しに行きました。
雨足が強く感じつつ車を走らせました。前日の月例で少々お越し戴いた方々が少なかったのでしょぼくれてまして車を走らせる元気もどことなく奪われ気味。
それにもめげず・・・って茶室に向かい時間の限られた中、着付けと歩き方と頑張りました。
このごろ思うのですが、茶室に入る一歩って本当に大事だな!って。
その一歩がその時の気持ちを表すものだな~?なんて思ったりします。
ただ入る足とこれでよいのだろうかと迷う足、はたまた拝見しに行く足や客の足、みんな違うと思いました。部屋に踏み出すその一歩が足に伝わるものなんですね~?
確かに先生方にその一歩を何度も注意された気がします。でも見ている立場ではなくやる立場でしたのでそれほど感じませんでした。座って足だけとみていると真面目一歩だな~?とかふざけているか?と思うくらいの迷う一歩も見え隠れ・・・。
自分で大事だからねその一歩!って伝えていながら自分の一歩を恥じてみたりもしました。
茶道ってお茶は手段で過ぎず自分自身との向き合い方なんだな~?ってこのごろ改めて感じています。
一歩だけでなく何事にもちゃんと向き合うそれがあの四畳半でひび学んでいる気がします。生徒さんたちがきてくれるから何よりも自分が勉強させられ、自分の不出来さを痛感しこれではだめね!頑張ろう!っていう励みになります。
親先生から学んだことも今になって理解できたこともあって、何事も無駄じゃないんだな!って思ったりもしました。今やっていることが「こうだったのか?」って気がついたり生かされたり実際理解できるのは随分先の話になるかもしれないけど「なるほどな?」って思うことは必ずくるのだな?って今この立場で感じたりしました。
学ぶって大変なことだけど、ちゃんと教えるってことやちゃんと伝えるってことって、本当にエネルギーのいることと思います。
親先生をはじめ先生方に感謝です。
お茶って奥が深いですね?自分と向き合うことですから仕方ないことですかね?
がんばろーって思いました。

更新!増上寺月例「一服如何でしょうか?」無事に終了!

2009年10月25日 | Weblog
今日は朝から雨!天気は最悪でした。
雨足は強くまるで今日これから来られるお客人を想定してかのようでした。
そう、出没「駄目だし4人組ではなく3人組!」久々登場です。
あら~大丈夫かしら?今さら遅いわね!ひとりつぶやきやっぱり気分は、ずぶぬれの雨でした。
なぜって、今日は雨だし朝だし睡眠不足だし頭さえていないし考えていないし・・・?と言い訳が連なり、いつものことかと立ち向かうことよりも駄目だしを受けることに潔く決めたくらいでした。
そんなことより、やっぱり3人組のチェックは掛軸に集中・・・とほほ・・・なんてこった・・・やってしまった・・・蕪村め・・・。
そう、一応今回の掛軸は与謝蕪村といわれているものを掛けたのですが蕪村は江戸の俳人。やたらわからない字体をずらずらずらずら書いてあるのです。
俳画ではあるのでその部分もあり2部構成になっているような横物の掛軸です。
ようは「読めと言われても芸術作品読むわけにはいかぬ、なんて書いてあるかは蕪村に尋ねよ!」そんな気分で駄目だしチェックを受けてました。
チャック最終結果は面白い、なんと横物わけもわからない字体をいれて悩むよりも半分に切ってしまえばちょうどよい掛軸になるのでは?とご提案を!なんとも大胆な発言。
でも一理と少々押され気味な私がいるのが見え隠れしていました。
しかしどうしてこの掛軸は粗末に扱われるのだろうか?少々疑問になりました。
親先生には表装をし直して接がしてか紙表装にしてしまい古切れを新たなものにとこれまた大胆な発想でして、この方もまたこの掛軸に対して「好きじゃないわ!」と冷ややか。
「ちょん切れ」や「接がしてしまえ」や本当にこの掛軸は可愛そうね!と思いつつ、俳画に書かれているウサギに惚れて求めたのに!とぼやきは続きます。
つまるところわけもわからない字をつらつらつらつらと綴る蕪村がいけないと思う。
後世に伝いたいのならわかりやすい字で書くべきだ!全くもってやっかいよ!とぼやきたくもなりました。
とはいえ、芸術作品としてみてくれればいいのにと思いつつ、蕪村の大胆な性格も見え隠れしていて面白いと我は思っていましたが・・・。
ただ、感じたのは持主によって原型を変えてしまうことが出来るんだよな~?なんって感じ勉強しました。
駄目だし3人組から考えることを常々学ばされています。感謝です。
朝も早くからお越し戴き駄目だしを連発、結構楽しかったです。どうもありがとうございました。
お蔭様で「ちょん切れ物語」をその後のお客様にも披露でき話題とさせて頂きました。(うしし!)
これに懲りずまたぜひお越し下さい。お待ちしております。
今日はお客様のお越しが少なかったのでゆっくりとお話できました。
遠路大島から船で来てくださった会員さんとも再会。嬉しかったです。
来月に向けまた頑張ります。

与謝蕪村のうさぎ

2009年10月23日 | Weblog
今回の月例では、この与謝蕪村の掛軸をかける予定です。
横物ですが少々大きめです。内容は出羽の国のウサギの餅つきです。
このウサギとてもすましながらも可愛いのですよ!ただ、この掛軸を選んだ理由は、今月のテーマを「十三夜」としましょ!と考えたからです。
与謝蕪村の大胆な性格が見え隠れするものです。
ぜひご覧戴きたいです。
ちなみに与謝蕪村を調べました。

与謝 蕪村(よさの ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。
「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。
俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
蕪村は摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
20歳の頃江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。
鳶鴉図(重文) 紙本着色寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。
その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。
母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。
墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。
また、俳画の創始者でもある。

川越・喜多院

2009年10月22日 | Weblog
以前から気になっていた寺がこの喜多院です。
知り合いがえらく「喜多院はよいところです」と話していたのが記憶に残っていたからです。ただ、何故か足を運ぶ機会がなくやっと行ってきました。
そういいつつ、思い立って動いたきっかけであり今回の目的はずばり「うなぎ」です。
川越のうなぎは美味しいよ!って聞いていたのでぜひ行きたいと思って店名をメモっていました。うなぎは大好きですから機会があったら川越のうなぎを食べたい!そう思って時を待っていました。
そしてやっとその時が訪れました。やたー!!
ん? 店名忘れてしまった・・・。どうしても思い出せない・・・。
ひとつはわかったのだけどそこではなく違うところがお勧めって言われていたのだが、思い出せず別の店に入ることにしました。中々そも店にはたどりつかないな~残念極まりない、せっかくいったのに・・・。今度こそ懐紙にメモした店にたどり着きたいものだわと強く思った私でした。ただ、メモしたその紙も今は・・・。

川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼり、仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見し、天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。

寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。
その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。

お天気もいよかったこともあって気持ちがよかったです。
和宮様の長持も拝見でき嬉しかったです。
次回川越に行く際はうなぎの店を調べて行かなきゃ!って強く思った今日でした。