以前から気になっていた寺がこの喜多院です。
知り合いがえらく「喜多院はよいところです」と話していたのが記憶に残っていたからです。ただ、何故か足を運ぶ機会がなくやっと行ってきました。
そういいつつ、思い立って動いたきっかけであり今回の目的はずばり「うなぎ」です。
川越のうなぎは美味しいよ!って聞いていたのでぜひ行きたいと思って店名をメモっていました。うなぎは大好きですから機会があったら川越のうなぎを食べたい!そう思って時を待っていました。
そしてやっとその時が訪れました。やたー!!
ん? 店名忘れてしまった・・・。どうしても思い出せない・・・。
ひとつはわかったのだけどそこではなく違うところがお勧めって言われていたのだが、思い出せず別の店に入ることにしました。中々そも店にはたどりつかないな~残念極まりない、せっかくいったのに・・・。今度こそ懐紙にメモした店にたどり着きたいものだわと強く思った私でした。ただ、メモしたその紙も今は・・・。
川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼり、仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見し、天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。
その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
お天気もいよかったこともあって気持ちがよかったです。
和宮様の長持も拝見でき嬉しかったです。
次回川越に行く際はうなぎの店を調べて行かなきゃ!って強く思った今日でした。
知り合いがえらく「喜多院はよいところです」と話していたのが記憶に残っていたからです。ただ、何故か足を運ぶ機会がなくやっと行ってきました。
そういいつつ、思い立って動いたきっかけであり今回の目的はずばり「うなぎ」です。
川越のうなぎは美味しいよ!って聞いていたのでぜひ行きたいと思って店名をメモっていました。うなぎは大好きですから機会があったら川越のうなぎを食べたい!そう思って時を待っていました。
そしてやっとその時が訪れました。やたー!!
ん? 店名忘れてしまった・・・。どうしても思い出せない・・・。
ひとつはわかったのだけどそこではなく違うところがお勧めって言われていたのだが、思い出せず別の店に入ることにしました。中々そも店にはたどりつかないな~残念極まりない、せっかくいったのに・・・。今度こそ懐紙にメモした店にたどり着きたいものだわと強く思った私でした。ただ、メモしたその紙も今は・・・。
川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼり、仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見し、天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。
その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
お天気もいよかったこともあって気持ちがよかったです。
和宮様の長持も拝見でき嬉しかったです。
次回川越に行く際はうなぎの店を調べて行かなきゃ!って強く思った今日でした。