茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

茶と文化そして美
茶文化、芸術、職人・・・
大事!
もっと楽しく茶文化を!

入山式!茶昆布式!

2008年11月26日 | Weblog
増上寺の御法主が決まり入山式が行われました。
茶昆布式という儀式にお手伝いさせて戴きました。
お茶を出すというそのことだけに力を注ぐお手伝いでしたが、
初めての事であったということで、スムーズにできず反省中です。
ただ、その貴重な経験をさせて戴き本当に嬉しいかぎりです。
改めてお茶を差し上げるというその行為の大変さを身にしみてます。
もう一度できたら少しはましにできるのに!と思うけど、そのときそのときが勝負なので、それができないのは実力のなさかと落ち込んでます。
ただ、接客の面白さをもっとこれからも勉強してゆきたいと改めて感じました。
お寺の方々にはお力になれず少々お恥ずかしい限りですが自分の勉強にはなれました。次があったときにはきっと・・・。そう心に強く思いました。
がんばろーっと!

[真言宗豊山派浄瑠璃山医王院浄光寺]

2008年11月24日 | Weblog
[真言宗豊山派浄瑠璃山医王院浄光寺]  
重要文化財薬師堂について現薬師堂は、昭和21・22年の根本大修理の際発見された墨書や「お薬師さん」の胎内銘により、室町時代初期の応永15年(1408)の建立が明らかとなり、国の重要文化財に指定されています。茅葺き屋根の入り母屋造りで、天下屈指の最優秀作といわれる蟇股(かえるまた)や巻き込み渦文の多い木鼻、外陣天井を化粧屋根裏とした手法等にすばらしい技術が見られ、特に板壁に残る極彩色の仏画、内陣柱上の斗供(ときょう)などは優秀で室町時代初期の代表的な建築と高い評価をいただいております。2008年で満600年を迎えます。薬師瑠璃光如来十二神将 通称「お薬師さま」と呼ばれ、人々の寿命を延ばすことを本願とする二世(現世と来世)利益の仏様です。「雁田のお薬師さん」は木造薬師如来坐像(長野県県宝)で、岩座の上に日光・月光両菩薩と十二神将に囲まれており、胎内銘に応永十六年(1409)とあり、薬師堂建立の翌年の作であることがわかっています。
オンコロコロセンダリマトウギソワカ(お薬師さんのご真言)息災延命、子孫繁栄、家内安全、当病平癒等々、今日も「お薬師さん」に祈る人があとを絶ちません。

ここは私の一押しです。
ぜひ足を運んで下さい。
何度でもここへいきたいです。
気持ちのよいところです。

岩松院

2008年11月23日 | Weblog
ちょっと復活!お勧めてらめぐり
開創設は文明4年(1472年)雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、開山は不琢玄珪禅師。
本堂は136.5坪。その他庫裡、鐘楼、座禅堂、仁王門がある。本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期(慶長かその直後)の作。
雁田山麓の古刹「岩松院」への道は、のどかな果樹園の中に続いています。
かつて北斎や一茶も訪れたこの寺の本堂大広間の天井を飾るのが、「八方睨み鳳凰図」。21畳敷の天井いっぱいに五色の翼を広げた鳳凰は、北斎が没前年(1848年)の89歳に描いた集大成ともいえるもの。
鉱石をまぜた植物油性の岩絵具を使っているため、極彩色がいまだに保たれ、神々しいほどの光彩を放っています。構図やかくし絵が把握できるよう、畳の上に仰向けに寝て見ると、150年たった今も北斎の気魄をそのまま伝え、見る者に迫ってきます。
富士山が「かくし絵」として描かれているので、それを探してみるのも一興でしょう。
裏庭には松の古木の下に小さな池があり、桜が満開になる陽春には、何百というヒキガエルが集まって求愛をする「カエル合戦の池」としても有名です。そのカエルたちを見て一句したためたといわれる小林一茶の「痩せ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑が池のそばに立っています。このほか福島政則公の霊廟、由良哲次氏歌碑、高井鴻山頌徳碑などがある。

パーティー??

2008年11月22日 | Weblog
今日は朝からおめかし、そわそわして何だか落ち着きません。
それは、銀座にあるお店の10周年パーティーだからです。
華やかそうなので気後れしないようにとちょっとおめかしをと思ったのが
そわそわの原因。
髪型、服装、そして化け顔?
何だか季節的か七五三の大変さを感じました。
四谷にあるホテルで夕方から開催されるのに朝から忙しい。
気まぐれにお茶のお稽古を行ってみようとしてしまったのが大きな間違い。
普段そんなにお稽古に以降とは考えないのになぜか行く気満々!
しかし準備が追いつかず少々お稽古をあきらめて夜のパーティーに傾きかけたこよろ、一本の電話。
間違いなくお茶の先生から「まだなの~?」
「今行きます・・・。」
訪問着をきつつ、頭はアップで化粧はなしなしで・・・。
車で飛んでお茶の稽古場へ。
着いたとたん、疲れてやる気なし。
しばし団欒してホテルへ向かいました。
やはり私はお稽古には向かないかも?
パーティーは盛大でした。
銀座のお店だけに華やかでそして大人のムーディー。
このお店のままはとても綺麗な方でそつがない方。
このままだから集ったお祝いパーティーでした。
ちなみに着席でバイキング。
このままさんはグルメです。ただ、お店に一番はポテトサラダ。
ホテルなのにメニューを持参して料理長さんに作ってもらったぐらい
おいしいのです。
きょうのメニューの一押しは、やはりポテトサラダと塩むすびでした。
いいたいことは、心がある暖かいお店のままさんです。
今日はそんなおもてなしを感じたひと時でした。
まま、お疲れ様でした。

一休 宗純

2008年11月21日 | Weblog
みなさんによくご存知のこの方の命日のようです。
びっくりしましたが、ちょっと調べました。
一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧である。説話のモデルとして知られる。
京都の生まれで後小松天皇の落胤という。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)など。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門·受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩「長門春草」、15歳の時に作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。
応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となる。『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。
塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
1481年、88歳で酬恩庵に没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。康正2年1456年に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。墓は酬恩庵にあり、「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入り・参拝は不可能である。
自由奔放で、奇行が多かったと言われる。
男色はもとより、仏教の戒律で禁じられていた飲酒·肉食や女犯を行い、盲目の「森侍者」(しんじしゃ)という側女がいたり、「岐翁紹禎」という実子の弟子がいた。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は『俺の商売道具に何をする』と言って、ふたりで大笑いしたという。
正月に、杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の高僧として知られる普化など唐代の禅者と通じるものがあり、教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、こうした行動を通して、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあった。彼の禅風は、直筆の法語として「七仏通誡偈」が残されていることからも伺える。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、江戸時代に彼をモデルとして一休咄に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休が村田珠光の師であるという伝承があり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された。
秋風一夜百千年 ( 秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ。 )
子供のころに見た一休さんとはちょっと離れているようにおもえるが気持ちに素直かきのままか印象のよい坊様ですね。とくとくでしょうね?
私はどことなく惹かれます。

12月の貞例会

2008年11月19日 | Weblog
「皇女和宮のゆかりの茶室・貞恭庵で一服如如何でしょうか?」
増上寺の貞恭庵にて毎月一度公開しております。
小さな建物本来が持つ魅力と空間を満喫して戴きたい!
皆様のお越しを心よりお待ち致しております。

開催日:  12月21日 (日) 
時 間: 10:00~16:00
場 所: 増上寺 境内 貞恭庵
会 費: 1000円(抹茶と季節の和菓子)

この日のテーマはもう決めています。
「ご縁と感謝」です。
感謝は何に感謝かがお越しいただけるとわかります。
きっと考えると難しいでしょう。
ぜひお越し下さい。
驚きかもしれませんよ。
そんなおもてなしを考えています。
皆様のおこしをお待ちをお越ししています。

大河ドラマ篤姫

2008年11月18日 | Weblog
もうじき終ってしまいますが、NHKの「篤姫」の影響でしょうか、増上寺へバスツアーが多く入ってきます。
なのに今までは和宮様の茶室までは足を運んで下さらなかったのですが、今月のお客様は、どういうことか茶室まで足を運んで下さいます。
大変に嬉しいことです。
ただ、バスツアーだけに時間が指定されていてちょっと短い滞在時間ですが、お越しになられた方は嬉しそうでした。
私もその手伝いができちょっと誇らしげです。
来月のバスツアーのお客様も立ち寄って下さいませ。
違った目で大河ドラマの中へ誘いできるかもしれません。
ご案内役は・・・。

善光寺!来年御開帳です。

2008年11月17日 | Weblog
信州善光寺
山号は定額山(じょうがくさん)。古えより、四門四額(しもんしがく)と称して、東門を定額山善光寺、南門を南命山(なんみょうさん)無量寿寺(むりょうじゅじ)、北門を北空山(ほくくうさん)雲上寺(うんじょうじ)、西門を不捨山(ふしゃさん)浄土寺(じょうどじ)とする。天台宗と浄土宗の別格本山ともなっている。
天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊により運営されている。
大勧進の住職は「御貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が歴代住職を勤めている。
大本願はこの手の大寺院には珍しい尼寺で、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。現在は鷹司家出身の鷹司誓玉が121世法主となっている。
本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像。
善光寺本堂は1953年3月、国宝に指定された。また、山門(三門)と経堂は重要文化財である。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている「瑠璃壇」という小部屋の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が体験できる
 『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。
 大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております
大本願は、善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。
江戸時代、慶長6年(1601)徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化されました。


貞恭庵明日です。

2008年11月15日 | Weblog
今日は準備に行ってきました。
雨がぱらついてきましたが何とか無事に準備は終了。
明日の天気が気になりつつ今は茶雅馬便を書いています。
明日お越しの方々にはお知らせが沢山あります。
ちょっと・・・、内緒のご報告が!
ぜひお越し下さい。