茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

茶と文化そして美
茶文化、芸術、職人・・・
大事!
もっと楽しく茶文化を!

さくら!真鍋小学校 IN 土浦市

2008年03月31日 | Weblog
本当に見事でした。
校庭の真ん中に桜の木は5本。
樹齢やく100年。
静かにそして存在感がありました。
こうありたいな~なんて思いつつ、櫻の幹に手をあてエネルギーを戴きました。
意外と知られていない、土浦の櫻。
今週末は満開でしょうか?
名所を紹介します。

真鍋小学校  土浦市真鍋四丁目3-1
真鍋小学校の校庭の中央には明治40年校舎新築落成記念に植えられたソメイヨシノの巨木は5本あります。昭和32年に県の天然記念物に指定され、約100年経つ今でも毎年沢山の花をつけ風格を保っています。

『真鍋小学校の桜』開花状況について
真鍋小学校のホームページでご確認下さい。
※ライトアップは平成20年4月4日,5日,6日の18:00~20:00です。

竜ヶ峰
土浦市永井987
土浦市北部に位置する竜ヶ峰の桜はシーズンを迎えると道の両脇に植えられた約700本の桜が一斉に開花し、沿道は文字通り「桜のトンネル」と化します。また、県立中央青年の家の裏山には約3000本のヤマザクラが咲き乱れます。


喫茶文明の作法

2008年03月29日 | Weblog
今日は茶道学会副会長先生の講演会です。
千葉のホテルで開催されます。
宜しかったらお越し下さい。
朝日カルチャーセンター千葉が主催のようです。

日時  3月29日(土)14:00~15:30
受講料 一般3000円
会場  三井ガーデンホテル千葉4階「白鳳」の間

面白いと思いますが、私は寝ないように努力します。

茶室・・・。

2008年03月28日 | Weblog
使用していない茶室や建物の維持の為に風通しをして良い茶室がございましたらお教え下さいませ。
人が集いひととき語り合ってよい茶室がございましたらお伺いしたく存じます。
人が集い語り合い茶を戴くだけで、茶室は生きてくるものです。
皆様と一緒に楽しい会を作りたく思いますので、宜しかったら声を掛けて下さい。
桜の季節、のんびりと寛ぎませんか?

金田中でリハーサル!

2008年03月27日 | Weblog
新橋の芸者さんで80歳のお祝いの会を4月の頭に行われます。
そのリハーサルがあの金田中で行われました。
大広間で大勢の方がお見えでした。
勿論、芸者さんや三味線家元、笛、旦那衆、大道具・・・ほか。
リハーサルだけに出演者大集合でした。
80歳の芸者さんですが、着物をして舞をはじめると凄い。
手足の切れやしなやかさ、見ているものが引き付けられる凄さはさすがでした。
花柳界のちょっと怖い世界を覗き見できた気がしますが芸に生きるまた守る息さを感じ取れた気がします。
当日は本当に華やかなんだろうと思います。
見れないのは残念ですが、リハーサルで伺えて嬉しかったです。
この機会を下さった方に感謝申し上げます。
有難う。良い勉強になりました。

不忍弁天堂・・・弁財天!

2008年03月26日 | Weblog
春ですよ~。櫻の花がニコニコと膨らんでいます。
誰しもが桜色に頬せめてにっこりとなる季節ですね~。
上野の弁天様はお人が大勢いらしてました。
寛永寺の弁天堂ですが、いわれは次のようです。
島の端に古いお堂があります。
江戸城内にあったといわれている神様です。
小さいながらも不思議と存在感があります。
良かったらお参りに行かれてくださいませ。

寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、東叡山寛永寺を創建した。天海僧正は、松山藩主水谷伊勢守勝隆とはかり、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に中之島(弁天島)を築き、のち竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請し弁天堂を建立した。
ちなみに、水谷伊勢守勝隆は竜泉寺町にあった下屋敷の池に同じように弁天堂を祭った。
西の方にある不忍池を夕日といい、東の水の谷を朝日天弁財天といった。この池は現在は無くなっているが、公園となった跡地にその一部が残り、堂宇は再建され朝日山弁天院として、地元の信仰を集めている。大祭は9月の巳の日で、巳成金(みなるかね)という。

弁才天は、仏教の守護神である天部の1つ。
ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī) が仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、「弁財天」と表記する場合も多い。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされている。弁天とも言われ、七福神の一員である。
仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。
なお、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂、弁天社などと称されることが多い。
弁才天信仰は神道と日本土着の水神である市杵島姫命(もしくは宗像三女神)や宇賀神(出自不明。日本の神とも外来の神とも。)と習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。
近世、いわゆる「七福神」の1つとして祀られる弁才天像は、農業神・穀物神である宇賀神と習合して、頭上に宇賀神像(人頭蛇身の老人像)をいただく形の像が多く見られる。また、元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。
「日本三大弁才天」と称される神奈川県江の島(今は宗像三女神を祭っている)・江島神社、滋賀県竹生島・宝厳寺、広島県宮島・大願寺はいずれも海や湖に面している
もともと弁財天を祭神としていたが現在は市杵島姫命として祀る良く知られた神社として、奈良県の天河神社がある。弁天信仰の広がりとともに各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。

この弁才天が日本では人気があった為にもともと七福神のメンバーだった吉祥天が外されてしまったと聞きます。
日本人の心を打った弁財天の魅力はなんだったんだろうか?
ちょっと考えてしまいます。
何はともあれ、春はお散歩日和です。

私も赤膚焼!

2008年03月25日 | Weblog
今茶室で皆様にお出ししている茶碗は奈良絵茶碗です。
一服茶碗でもあり小ぶりです。
私は大好きです。
小堀遠州が大変に好まれたようですね。
関りを調べました。

赤膚焼(あかはだやき)は奈良県奈良市、大和郡山市に窯場が点在する陶器である。草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。江戸後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。
小堀遠州が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。
 赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。

奈良絵の由来

 室町時代の末期頃から江戸時代にかけて作られた、横本形式の絵草紙「奈良絵本」に描かれた絵を奈良絵と呼んでいる。
  構図も単純で明るい彩色の素朴な画風は「過去現在因果経」(釈迦の前世の生涯から現世に生まれて苦行を経て覚りをひらき、その後多くの人々を得度させたことを説いている。)にみられ、大和絵の伝統を引くものである。
 赤膚焼の名工、奥田木白(江戸末期の陶工、赤膚焼の中興の祖)によって、赤膚の温雅な上釉に巧みな筆觸でかかれた奈良絵は、奈良の豊かな気分を充分にただよわせた、掬めども盡きぬ、雅趣の漾うものであります。 




4月の貞恭庵!について

2008年03月24日 | Weblog
4月29日10:00~16:00です。
本当に景光殿最後の使用となります。
葵のご紋が入っている建物です。
この景光殿には私どもも沢山の思い入れをしています。
最後となると本当にさびしいものです。
山梨から移築され今ここ増上寺にありそしてお役ごめんとなり解体されます。
多くの方にお越しいただけたら嬉しいですね。
お茶一服如何でしょうか?
お点前は時間の都合でありませんがひとときをゆっくりとしていただければ、嬉しいです。
宜しかったらお出まし下さいませ。
一服1000円でご提供してます。
5月からは景光殿がありませんので、皆様にもご迷惑をお掛けしてしまうかもしれませんが、より良い環境をつくりお迎えをしたく考えております。
どうぞ最後の景光殿を見に来て下さいませ。
良い天気に恵まれますように!

毘沙門天

2008年03月23日 | Weblog
妙見菩薩は、通常大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている。
毘沙門天はその妙見菩薩の前で活躍すると聞いています。
よって調べてみました。勿論毘沙門天のことです。
本当に奥の深いものでした。

毘沙門天(びしゃもんてん)、梵名ヴァイシュラヴァナ (वैश्रवण [vaizravaNa])とは、仏教における天部の仏。
持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。
また四天王の一員としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっている。

インド神話の財宝神クベーラを前身とする。
ヴァイシュラヴァナという称号は本来「ヴィシュラヴァス(vizravas)神の息子」という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天 (たもんてん)とも訳される。
日本で は四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。
また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められる。
安置形態としては、毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃とされる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の息子の一人とされる)を脇侍とする三尊形式の像(京都・鞍馬寺、高知・雪蹊寺など)、毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの(奈良・法隆寺金堂像など)、毘沙門天と不動明王を一対として安置するもの(高野山金剛峯寺像など)がある。
また、天台宗系の寺院では、千手観音を中尊として両脇に毘沙門天・不動明王を安置することも多い(滋賀・明王院像、京都・峰定寺像など)。
四天王の1体として北方(須弥壇上では向かって右奥)を護る多聞天像の作例も数多い。その姿は独尊の毘沙門天像と特に変わるところはないが、左右いずれかの手に宝塔を捧げ持つ像が多い。 国宝指定品としては東大寺戒壇堂、京都・浄瑠璃寺、奈良・興福寺などの四天王像中の多聞天像がある。
面白いところは、寺寺によって安置の方法が違っていること。
吉祥天が毘沙門天の妃または妹とされることです。
やはり意味があることなんだろうと思うが調べていくと、迷子になりそうなので今日はこの辺で!



又もやパソコンのご機嫌を!

2008年03月22日 | Weblog
どうも気が合わないというかパソコンのご機嫌を損ねました。
どうにもインターネットが繋がりません。
嫌になりました。
気を紛らすためにネット以外のことをしようと試みましたがメールも繋がらないのでパソコンを恨みました。
で、やっとつながりよくなったと思ったら何だか私が悪かったらしい。
どこか操作をいじくり通信不能にしたらしいです。
お恥ずかしい限りです。でも私は何もいじっていないのに!
いつものように作業をしていただけなのにとちょっと不満も見え隠れ!
何よりパソコンは動いているとご機嫌ですが、ちょっとでも作業を間違えると途端に動きません。
こんなパソコンに振り回されている自分が本当に嫌になります。
パソコンに強い人間になりたかった~、がすでにとき遅し。
私はアナログの人間だと分かりました。
ただ言い換えるのなら、アナログが一番心が伝わる方法ではないでしょうか?
人として生きているのだから心を常に震わせていたいものです。
強がりを言いつつ、大事なことは常に五感を震えることのできる人でいられることで、そう思える心を持つことが大切で粋も感じます。
私もそうありたいです。
それには何に対しても本物とであうことでしょうか?
職人さんがそうであるように!
五臓六腑にしみ渡る感覚もそうではないでしょうか。ちがうかな?
まあいいや、常によい心を持ち続けたいと思います。

りっぱに浅草観光してきました。

2008年03月21日 | Weblog
今日は友人と浅草観光。
天丼の中清に行き、たぬき塚、梅園であわぜんざいをおやつに浅草寺へ。
人の波波に窮屈を感じましたが、何だかとってものんびり話が出来たように感じます。久々かな~。楽しかったですね!
ということで、浅草寺について調べてみました。
普段、おっっしゃる通り下町の観音様という親しみがありましたが案外面白いことがわかりました。

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院。
山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが、第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。
東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。
寺伝によると、創建の経緯は次のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。
観音像は、高さ一寸八分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが、公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年)(天長5年-828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。
毎年12月13日に開扉法要が行われるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。
宮殿の左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像を安置する。
これらのことから、浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがあり、この頃に寺観が整ったものと思われる。
近世には徳川家の祈願寺に定められたこともある。
不動明王像と愛染明王像が祀られているのは興味深い一つでした。
皆様も改めて東京下町探検されると新たな一つとめぐり合うかもしれません。
たまにはいかがでしょうか?
そうそう櫻の花が咲き誇ってました。