狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

アル中問題云々

2013-03-11 14:21:35 | Weblog
今日の日本に対する世界の反応を漁ってみて正直、日本の事なめてたわー
とかと思う。 日本人にとってはある意味当たり前の日常なのだが各地で
はこれが必要とされていたのか、と。

さてアル中問題。
前回だったか、酒を飲まないアル中も居ると書いた。 アル中の問題の
最たるとされるものが家庭内暴力であり、暴力が容認される状況下では
酒を飲まなくともこれと同じ行動に出る人も居る、という考え。

自分はXXであり相手がXXである、よって自分が相手に対して暴力を振るう
のには正当な理由がある、暴力を振るうアル中の考え方はこうだと仮定
する。 普段からこういう認識があり、酒を飲む事で行動に出るハードル
が下がり暴力を振るう。 こういう認識が無い人は飲んでも暴力行為には
発展しない。 特定条件下暴力への許容が高い社会では酒抜きでそれが
起き、暴力への許容が低い、禁忌度が高い社会だと怒鳴る、物を壊す、
何らかの形での嫌がらせいわゆるパワーハラスメント、ヤツアタリなどの
行動に出る、などとなると。

こうした暴力や暴力近似行為への方向性で各個の状態を分けてみる。
1. 他者への攻撃性全てを否とする人
a. あらゆる場面で攻撃性全般を否とする人
b. 秩序維持を目的に悪事として為す人

2. 是としているが現状有る利益の保持からやらない人
a. 近似行為なら日常的にやっている人
b. 近似行為も当面はやっていない人

3. 是としていて特定条件下で振るう人
a. 酒を飲む人
b. 酒を飲まない人

一般にアル中問題として扱われているのは3aのみである。 アル中暴力
問題が3aのみとする人たちは3bは特定社会にのみ発生する問題として扱う
傾向が有ると見る。 1aはいわゆる聖人であり1bは厳格な軍人や裁判官。
私は人権活動家などの多くはこの分類上2に該当するのではと見ている。
彼らの多くは「罰されるべきだ」と主張する人たち、つまり2aは懲罰的
エリート層、2bは「金持ち喧嘩せず」である。

多くの人たちは2を目指す。 いわゆる成功者たちである。 彼らの多く
は彼らのルールで「許容される暴力近似」を繰り返す。 そして、金持ち
にもエリートにもなれなかった人たちが酒が許容される社会でアル中と
なると。
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今NHKがおかしいのだそうな

2013-03-08 15:48:37 | Weblog
算数どこで躓いたかみたいな話をどっかで見た。 私の場合は統計なんだな。
やってて吸収する気が起きなかった。

世界経済が回復傾向の模様。
これまでの状況を以下と仮定する。
1. 中国に投資する
2. 一部の中国人が潤う
3. 潤った中国人が中国から脱出する
4. 脱出中国人当人あるいは家族の脱出に伴い蛇頭に金が流れる
5. 状況維持のために蛇頭が各種団体に宣伝費を投じる
6. 各種団体が中国への投資を宣伝する

この繰り返し。 脱出を通して地下経済が肥え太っていたんだな。
このプロセスが無くなった結果表経済にお金が流れるようになってきた。
「景気回復は時間の問題だった」と言う人たちが居るが、それが真かどうかは
過去二十年の日本経済が示していると。

中国を脱出する中国人は何故中国から脱出しようとするのか。 中国が駄目だ
と思っているからであり、まあ実際そういう面も少なくないのだろう。
では脱出した先で何が起きるか。 多くの中国人が中国人の社会を作る。
資金が有ればあるだけ身内の脱出に振られる。 そこには流通しない。
結果は中国が広がっただけ。
「振り返るな」である。

権力者である事、これ同時に権威者であるという事だが権威者であった、
権威者である事が当たり前になってしまった人が権威者として扱われなく
なったらどうなるか。 手っ取り早く雰囲気に浸るなら酒だろうし周囲を
従わせようとするなら暴力だ。 これがアル中だとするなら酒を飲まない、
まだ酒を飲むに至っていないだけのアル中候補は存在する、となる。
酒が有れば暴力の箍が外れる。 社会が暴力を容認するようなら酒が有る
のと同じ事になる。 イスラム圏部族社会の家庭内暴力は酒の無いアル中
問題か。
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身内、腐儒、メンツと偽証の関係

2013-03-06 12:38:11 | Weblog
ドラえもんにジャイアンという登場人物が居る。 これが典型的暴力人なのだが
下手なのに歌を聴かせるのが好きという困った趣味を持っていたりする。 周囲
の誰もが暴力を恐れその歌を賞賛する事で当人が勘違いし続け、皆が苦痛に思う
状況が延々続いていたりする。 作品内の話だ。 だがここから若い人たちの間
で「迷惑は指摘されない限り継続する」という常識、社会意識が広く発生して
いたりすると。 これをジャイアン・リサイタル効果、とでもしたものか。

さて身内主義、儒教、吹牛メンツなどが裁判における偽証とどう関係しているの
かを考えてみる、が、特定条件の下裁判などの場で偽証が容認されるという現象
は別段珍しいわけではない、例えばアメリカだと被告が家族の場合に限って偽証
権のようなものが保障されていたはず。

まずは身内主義。 これは簡単に理解出来ると思う、なんせどこの社会にでも
あり、どこでもそれなりにテーマになっているだろうものから。
あらゆる状況で社会を敵味方に分け「味方側なのだから有利になるよう図るのが
当然」とし、そうでなければそれが悪なのだとするものがこれと。 この適用
範囲が村なら村社会、部族ならば部族社会となる。

腐儒。 儒教は「孝」を倫理最上位に置くがその結果、個々の道徳性とは無関係
な上下関係が社会に適用される事となる。 たちが悪いのはそれが上位者、親や
祖父母だが、が死んでも続く点。 つまり彼らが間違っていたとしても更新不能
になる。

吹牛メンツ。 メンツ主義とはある人の社会評価を守る義務が周囲にあるとする
状態で、社会秩序維持上の選択、妥当かどうかはともかくも、として有るものだ
がこのメンツの内容がその場その場で作り出されるホラ話、つまり最初からその
人が気分に浸っているだけの虚構なのが特徴と。 理由が気分に浸っているだけ
なので適用範囲と期間は不明だがメンツ主義的義務だけは発生する。

これらを併せると「故人の吹牛メンツを守る義務が身内の範囲で発生し、身内は
それに参加しない者を敵としなければならない」といった風の社会になる。
さらにこれらが文化的に入り組んでいたりすると一見上手く部分を除去出来た
ように見えても他から再生成されるようになっていたりと。

こうした傾向、一部の社会だけにあるのか。 否だろう。 例えば日本人の一団
がカラオケに行ったとする。 そこでは歌っている人の気分のために褒め称える
事が義務化されていたりする傾向がある。 上手いか下手かに関係無く。 これ
が善とされ社会一般に適用されたとすると裁判での証言もそうあるべきだとする
人が出てくるだろう。 裁判は例外だとするか。 それはそれで一つのルール
だろう、だが裁判だけが例外なのか。 それを例外とする事をどれだけの人が
理解し妥当だとするのか。
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渦仮説続き

2013-03-02 19:34:07 | Weblog
神様から放射状に霊が出ているんだが神様が立ち位置を変えるとここに渦が
発生すると。 霊は意思でありこれが渦状になるという事はそれが独立した
自己確認的要素を持つという事になる、というのが渦仮説。 もちろん立ち
位置が変わるなんてありえない、渦なんて出来ない、出来ても自己確認なん
て無いといった意見もあるだろうそれはそれ。 仮説は仮説。

ここで人の意識がどうやって保たれているか。 これが欲求の順次駆動。
昼間は食欲で動き食欲が満たされると性欲で動くようになり、日が暮れて
からは睡眠欲で動くようになると。 眠るとまた次の日になる、これが循環
で一般に寝る前に「今日はどうだったか」などと考えたりする、これが自己
確認。 こうした自己確認循環を維持する、霊に強要するのが肉の機能だと
していると。

三大欲求を考えるに男と女とでは社会的優先順位が異なる。 男は食料生産
つまり食欲こそを役割とする一方で、性欲は遊びとする。 一方女は共感性
ファッション性などつまり性欲を食欲の上位に置く、というか食欲の行動を
優先順位下位と看做す。 男社会にあってファッション的自己顕示的な人間
がチンピラとかヤクザとかと呼ばれている。 彼らは食を遊びとする。
少しわき道。 性欲上位の社会は社会として成立するのか。 するだろうが
答え、のはず。 食欲上位と性欲上位、どちらがよりマシかは知らないが、
現状は食欲つまり生産活動を優先上位に置く社会である。 食欲の無条件
上位が右派的、ここに支配を挟むのが左派的行動。

渦仮説前提で話を進める。 どうやら人には独立した渦で在る事を嫌う傾向
が有る模様。 大きな流れが有るとそちらに進み、流され、渦つまり自己を
無くそうとすると。 その一方で、自己保存の反発も有ると。 周囲の流れ
を奪おうとする。

大きな渦が有ったとする。 その周りに小さな渦が集まる。 小さな渦が
集まった後大きな渦を作っていたモノが無くなったとするとどうなるか。
小さな渦それぞれの周りには元々大きな渦に沿った流れが有って、大きな渦
の原因が消滅した後もそれは残る。 小さな渦たちがそれを残そうとすると
あたかも大きな渦が残っているかのような流れが出来結果、大きな渦が存続
しているかのようになる。

個人の循環を日単位とすると家族のそれは週単位、村社会のそれは年単位の
それだ、となったりする。 いや元々日単位、年単位のそれがあってそれに
合わせて個人や社会の循環が有るのだと言われるだろうか。 月単位って
意外と無いよな。 サラリーマンの給料日がそれだとすると「派手にやる」
と「地味に生きる」との循環になっていたりもするが。
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