大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊豆 修禅寺

2019-06-26 | 

源範頼の墓から修禅寺に向かう。途中、桂谷八十八ヶ所標の道の標識があった。そういえば源範頼の墓の所に 八十一番 四国香川綾歌山白峯寺 本尊千手観世音菩薩の石碑があった。
 
桂谷八十八ヶ所は昭和5年、丘球学修禅寺三十八世が四国八十八ケ所霊場の土を修善寺に移し桂谷八十八ケ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、寺号を刻んだ石碑を建立したものだという。桂谷八十八ヶ所案内図に「桂谷・けいこく」と音読みで振り仮名をつけている。地名の桂谷、桂川など「かつら」と訓読みなのでなにかややこしさを感じる。霊場巡りは年寄が多い。頭の鬘に気を配ったのかなと思ったが、修禅寺八塔司の東陽院、真光院、放光庵、松竹院、梅林庵、日窓寺、半経寺、正覚院のうち、いま一院だけ残る修禅寺奥の院正覚院が、弘法大師が修行址の桂谷の山寺で、修禅寺の本地だと云われている。お寺は基本、音読みなので「けいこく」というのも有りなのかなと思うが、無駄に煩雑さをかんじる。
修禅寺の正式な呼称を「福地山修禅萬安禅寺」としている。
  
 
 
 
 
寺伝によると、弘法大師十八歳の時、来りて悪魔降伏も法を修す。のち大同二年(807)再来りて仏像数体及自像を刻み安置し真言宗福地山修善寺を草創。その後、建長年間に臨済宗に改め、建治年間に村名はそのまま修善寺として、山号は肖廬山、寺号を修禅寺とし福地肖廬山修禅寺と改めたという。延徳年間、小田原北條氏は隆渓禅師(北條早雲の義叔父)に重修させ、曹洞宗に改宗している。明治時代の地誌には肖廬山修禅寺とも福地山修禅寺とも記述があるので、正式に福地山修禅萬安禅寺と称したのは何時からだったのだろうか。修禅寺を世に知らしめたのは、岡本綺堂作戯曲「修禅寺物語」が明治四十四年、明治座で初公演されてからだろう。家に戻ってから慌てて修禅寺物語を読んだ。前書きに「伊豆の修禅寺に頼家の面といふ面あり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の假面にて、年を経足るたるまゝ面目分明ならねど、所謂古色蒼然たるもの、観来つて一種の詩趣をおぼゆ」とある。岡本綺堂が参考とした古面は修禅寺の端宝蔵で見てきた。写真は端宝蔵の入場券から転用させて貰いました。

修禅寺物語は面作り師・夜叉王は伊豆修禅寺に押し込められた将軍源頼家から面を依頼されていたが、満足のゆく面ができないでいた。出世を望む夜叉王の娘も巻き込み、頼家が持つ死への運命まで予見してしまう名人の物語ですが、最後の部分が凄まじい。頼家の冥途のおん共と、死直前の娘に、(夜叉王)「やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写ししておきたい。苦痛を堪えてしばらく待て」、「娘、顔をみせい」。(娘)「あい」。この親子、我が娘の断末魔を写し取る親と、死直前に顔を見せろと云われて「あい」と答える娘と、どちらが凄まじいのか分からなかった。綺堂は日露戦争に記者として従軍し明治四十二年この修禅寺物語を書き上げた。芝居が上演された明治四十四年、戦争が終わり、社会主義運動が高まっり、幸徳秋水らが大逆事件で処刑された年で、殺伐とした時代に上演された修禅寺物語を人々はどのように捉えていたのだろうか。綺堂は、室町時代末期の能役者が死に行く妻の面影を描き写し面の基としたという話と江戸時代初期の能役者が、誤って子を死なせた乳母の半狂乱の様子を見て演技を会得した話から修禅寺物語を作り上げたという。

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