大佗坊の在目在口

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駿府御囲堤(薩摩土手)と井宮神社

2018-06-01 | 

静岡駅からタクシーで井宮神社まで行って欲しいと云うと「みょうけんさん」ですかと返ってきた。薩摩土手の前の神社だと云うと、ああ「みょうけんさん」だねという。初め、井宮神社が地元では「妙見さん」と呼ばれているのかと思ったら「妙見山」だと言う。昔、妙見山井宮神社とか、近くの山が妙見山と呼ばれていたのだろうか。「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われている。この賤機山(171m)に連なる南側の丘が、今は三等三角点のある浅間山(140m)と呼ばれている。井宮神社前の薩摩土手で降ろしてもらった。
 
 
土手の説明看板に「静岡市史によると、慶長十一年(1606)、薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約四粁にわたって築堤したのが薩摩土手と言われています」とあった。駿河國新風土記に「籠鼻妙見山下より有渡郡中野新田に至るの大堤あり高三間敷拾貳間馬踏六間長貳千四百余間と駿府舊圖にみえたりこの堤は慶長年中安倍川の水流今の所に流され爲に築く所なりと云川表の方方面三四尺の石を積て駿府の城市の圍とす其石㊉を刻めるありて島津家の功役にて築く所なりと云傳ふ」とあり、さらに静岡市史編纂資料に「島津忠恒(家久)石網船三百艘を造り、五月百五十艘を駿河国江尻に廻漕した。是は去年七月幕府が江戸築造の石材木材を運ばん爲に、黄金百五十枚を給して造らしめたもので、實は大きな課役である。しかも石幷に材木御用付といへば空船ではなかった。それを駿府城築城の爲に半を割かせたものであって、積み來つた木石は小船にうつして巴川から北川に運び、石材の大部は安倍川改修に宛てたのであらう。是れ今も其の堤防に薩摩土手の名を冠する所以か」とある。薩摩藩の治水工事といえば、百名近い犠牲者をだした木曽川の「宝暦の治水工事」を思い出すが、薩摩側にも幕府側にもこの安倍川治水工事に薩摩藩が関わった記録がなく、駿府城拡張工事用三百艘分の石材木材のうち、百五十艘分を安倍川改修工事用に充てたものと思われている。井宮妙見下から弥勒まで約4kの間に、信玄堤と同じようにいくつかの霞堤を造ったという。弥勒地区は安倍川橋の傍にある安倍川餅元祖「石部屋」なのかがあるところで、今回、寄れなかったのが残念だった。
 

薩摩土手の起点となっている井宮神社は駿河國新風土記によると「所祭瀬織津姫也この社今に井宮大明神と称して籠鼻山妙見社の地主と称して当村の産土(うぶすま)なり」とある。一方、駿河志料に「井宮神社鎮座の年暦詳ならず、風土記云、祭所、湍織津姫也と見え、諸郡神階帳に、従五位上大井口地祗、とある神社なるべし。この地は、安倍川の辺にして、安倍有度二郡の水田に灌ぐ、用水に安倍川を堰入、水分の地にしあれば、此大神を齋奉り、井宮とも、大井口神とも称し申せるならん、古へは籠山の地宮地なり、近世妙見堂と同所に鎮座す」とやっと妙見さんが出てきた。
 
 
徳川家康は妙見大菩薩を信仰厚く、三河国内津山より別当の妙見寺に勧請し、一宇の草堂を建、内津山と号したと言う。瀬織津比売は速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売とで祓戸四神といい、主に祓神や水神として知られる。境内に家康が「臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され石合戦見学地と伝えられている」とあった。
 
合戦でもなければ、殆どが神事による印地打ちの石合戦。竹千代の時代に妙見宮はあったのだろうか。

コメント
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