大佗坊の在目在口

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小田原 誓願寺墓地

2018-05-11 | 小田原

慶応戊辰小田原戦役の責任を取って自刃した小田原藩家老岩瀬大江進の墓所のある誓願寺に箱根山崎で遊撃隊との戦で戦死した小田原藩士鈴木久太郎の墓がある。
  
墓碑には「慶應四年夏五月二十有六日 於相州山崎邑遊撃隊脱走之徒攻撃之時勉励力戦而遂討 死矣生季二十有五歳鈴木久太郎藤原英賢 明治二年己巳季二月六日 建立之家嗣鈴木又次郎藤原英起」とあった。(又次郎は久太郎弟)
また、この墓地内に九曜紋と変わった家紋のある相馬家の墓域がL字型にあった。


 
相馬家の墓碑も以前、会津藩士の墓を訪ねて小田原を廻った時に、どこかで見かけたが、どこのお寺か思い出さないでいた。変わった家紋もどこかで見たような文字だとしばらく考えていたら、何のことはなかった。それは数年前の午の年、年賀状の図案に使った馬の象形文字で、頭の部分の目がないのが気になったが、誓願寺にある相馬家の家紋がよく似ていた。
   
奥州相馬氏も下総相馬氏も家紋は平将門に繋がる九曜紋で、小田原の相馬氏墓域の家紋も九曜紋を使用、相馬氏の通字である胤を使用している事から平将門を遠祖と伝えられる相馬一族には違いないが、相馬氏は平安時代から続く大族で系図でも見なければ、どの相馬氏に続くか全く分からなかった。岩瀬大江進の碑文を写し取っている時に、ふと前に訪ねた、戊辰の小田原藩の責任を背負って自刃した小田原藩家老渡辺了叟の墓のある板橋の常光寺を思い出して訪ねた。
渡辺家墓域のすぐそばに相馬家の墓碑があった。古い墓碑には九曜紋と馬の篆書体のような頭に目がある文字紋があった。小田原の相馬氏墓所は常光寺が古く、理由は不明だが途中から誓願寺に替えている。
 
 

小田原相馬氏の一番古いと思われる常光寺の墓碑は、相馬澤右衛門胤貞立造の元禄三年(1690)に亡くなった相馬胤将(相源院)で、家臣の席順を並べた寛文十年(1670)唐津順席帳に用人として相馬七左衛門の名がある。大久保忠朝が唐津藩を相続したのが寛文十年、文久二年(1862)の古小田原御家中先祖并親類書に相馬清四郎(胤明・松寿院)の名があった。古小田原とは大久保忠世、忠燐の時代から小田原藩家臣となった者たちで、小田原相馬氏は忠朝の先代大久保の時代、小田原で家臣団に加わったものと思われる。相馬清四郎による先祖書には、本国下総、生国相模とあり、「私先祖之儀父相馬七左衛門先年書上候通御座候」と前に提出した書上書と同じということで唐津以前や文久二年以前の詳細は分からなかった。常光寺の墓碑二基は相馬胤将(相源院、元禄三年)、胤貞(覚了院、元禄十六年)、誓願寺相馬家墓域で古いと思われる墓碑は安永八年(1779)に亡くなった胤英(雙林院)で、その間、七十六年の空白があるが、享保九年(1724)順席帳に相馬七左衛門胤純番頭四百六十石二十八歳と記載があるので、胤貞、胤純、胤英と続いたのかも知れない。文久二年(1862)の先祖并親類書を提出した相馬清四郎胤明が何時まで存命していたか不明だが、明治四年(1871)の小田原藩士廃藩禄高に四百六十石相馬長雄とあるので、相馬清四郎の明治時代の改名かもしれない。

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