日蓮宗総本山の身延山久遠寺篤信廟にある会津保科正之公母堂浄光院の墓域を訪ねた。
浄光院墓碑銘に「顕妣神尾氏以天正甲申生于相州小田原城下」とあり、亡母(浄光院)、姓は神尾氏、天正十二年(1584)小田原城下生まれとあった。
天正十年、徳川家康は武田氏武将穴山梅雪を誘降させ、武田勝頼を攻め滅ぼし、六月には明智光秀が本能寺に信長を自刃させた。翌十一年、秀吉は柴田勝家を賤ヶ嶽に破っている。秀吉による北條氏滅亡は天正十八年(1590)の事で浄光院が生まれた頃、小田原はまだ北条氏が支配していたことになる。
会津松平家譜に「正之は征夷大将軍徳川秀忠の第四子、母は神尾氏、慶長十六年辛亥五月七日生る、幼名幸松丸、後信濃と改む」その分注に{正之の母名は静、北條氏の舊臣の女、嘗て大将軍秀忠の乳母、井上氏に従ひて大奥に仕へ、秀忠の寵を得て妊む}とある。
静の父親である小田原北條家臣神尾栄加の家系について興味を持った。小田原北條氏の家臣団については、永禄二年(1559)北條氏康の命により、太田豊後守、松田筑前守らによって編纂され、五百六十人、役高約七万三千貫が記録されている小田原衆所領役帳(北条氏所領役帳・小田原分限帳)が在るが、原本は小田原落城で北條氏規が流配となった高野山高室院の焼失で失われ、現在幾つかの写本が存在している。
所領役帳には、神尾越中守(御馬廻衆、小机加世郷)、神尾善四郎(松山衆、東郡田奈郷)、神尾新左衛門(三浦衆、飯室)の記載がある。小田原秘鑑には御旗本備四十八番将衆の一人として神尾越中守と御馬廻衆として神尾新左衛門がいる。神尾善四郎は永禄十二年(1569)、小田原城普請を命じた北條家朱印状に名がでてくる。下山治久編「後北条氏家臣団」には神尾治部入道(相模玉縄城主北條為昌・綱成の家臣)の記載があり天文五年(1536)、鶴岡八幡宮の警護に治部入道が寄子の加世者を連れて警護に当った。所領が加世郷の神尾越中守とは加世者が寄子の治部入道とは同じ一族と考えられるが神尾栄加の名は見当たらない。
会津藩の家世実紀にも神尾栄加以前の家系の記載がないのはどういう理由があるのだろうか。神尾栄加には兄、姉、浄光院、弟の四人の子供が知られており、すべて正妻の子とも限らないが、浄光院が仮に神尾栄加が二十五歳から三十五歳の間で生まれたとすれば、神尾栄加の生まれは天文十八年(1549)から永禄二年(1559)となり、所領役帳に出てくる神尾氏の次世代にあたる。
新編相模風土記稿山王原村の項に「天文二十一年北條氏康、管領上杉憲政の嫡男、龍若丸を殺し、且憲政の家人、妻鹿田新助等六人を一色の松原にて刑せしことあり」その分注に「[鎌倉九代記]曰、氏康、神尾治部右衛門に仰せて、御首を討たせらる」と記載があり、のち神尾治部右衛門は非業の死を遂げたという。神尾栄加はこの神尾治部一族であったのか、今川氏や武田氏に仕えた神尾氏が主家滅亡のあと北條氏に仕えたのか、それとも小田原北條氏滅亡により姓を替えたのだろうか、手持ちの資料では判断つかなかった。
小田原山王(今、東町)上杉神社と上杉龍若丸供養塔(中央)
参考資料
①藤沢市史料、北条氏所領役帳 ②東京市史外篇、集註小田原衆所領役帳
③後北条氏家臣団(人名辞典)④小田原秘鑑 ⑤小田原記 ⑥寛政重修諸家譜