大佗坊の在目在口

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保科肥後守由緒之事

2015-03-12 | 會津

会津保科正之公誕生の事情については大道寺友山(重祐)による落穂集に収められている。
大道寺家の名は山城国大道寺に由来し、のち北條早雲に従い駿河に下り早雲草創の七手御家老之家にて御家門に准ずるとして御由緒家として北條氏に仕えた。晩年、友山が仕えた越前松平家諸士先祖之記録によれば友山の曾祖父駿河守政繁は天文十五年川越城主となり、祖父直繁は小田原落城の後、台徳院へ召抱えられたが慶長七年、喧嘩の傷により死去した。友山の父繁久は高田松平忠輝に仕えるも、忠輝の改易で浪人となった。
友山は山鹿素行に師事したとされ、元禄四年(1691)兵法家として会津藩に迎えられ、同十年には藩士として仕えたが、十三年(1700)藩主松平正容の時、意に背いたとして召し放たれている。正徳四年(1714)、福井松平吉邦に仕え享保二年隠居、同十五年(1730)九十二歳で亡くなった。
友山の著書のうち「越叟夜話」は享保元年(1716)福井藩のとき、「岩淵夜話」は隠居中、聞書などを引証して、徳川家康を中心に諸家の事柄を記録した「落穂集」は正之公誕生から百十六年後の享保十二年(1727)友山八十九歳の晩年に書き残した。その中に「保科肥後守由緒之事」として保科正之公誕生前後の事情を記載している。友山は「我等儀は子細有之能々承伝羅在事候」と、事情があってこの事は詳しく聞いていると述べている。友山は台徳院に仕えた父繁久から正之公誕生の詳しい事情を伝え聞いていたのであろうか。祖父直繁の兄弟である大道寺直次は小田原落城後、福島正則に従い、あと寛永十一年(1634)大獣院(家光)に目通りして甲斐国で千石を給わった。
「家世実紀」という会津藩の記録がある。「家世実紀」は、幼くして藩主となった第七代藩主容衆に会津松平家の旧事を知らせるため会津藩編年記録で文化十二年(1815)に完成、ここに藩祖保科正之公誕生前後の事も詳細に記述されている。浄光院の事柄は落穂集の保科肥後守由緒之事と大筋で同じですが、城内でお静が仕えた井上主計の御母について「家世実紀」では「井上主計頭様御母は台徳院之御乳人にて大乳母殿と唱、大乳母殿指図にて」とある。「落穂集」では「井上主計殿御母儀(世上に於て御うば様と申:分注)主計殿方へ御姥の局宿下りあられ、、、御母儀には主計殿奥向日頃の儀なれば、御うばの局の御入候」とあり、家世実紀では「御乳人、大乳母殿、」、落穂集では「御うば様、御姥の局、御うばの局」と表記されている。これは全て井上主計の母を指しているのだろうか。と言うのは別に台徳院の乳母となった人がいる。
寛政重修諸家譜によれば武田信玄に仕え、穴山梅雪の組に属した川村善右衛門重忠の妻で夫が亡くなったあと東照宮の指示により台徳院の乳母となり、大姥の局と称したとある。「うば」の表記は乳母・姥・妣・媼でいずれも母親に代わって子育てをする女性とか年とった女性の事で、大道寺友山の記憶違いで井上主計の母(永田氏)を大姥の局としたのか、それとも写本のときに表記を書き換えてしまったのか不明ですが、後に幸松丸は武田信玄の娘で穴山梅雪後室の見性院に育てられた事を考えれば「大姥の局」が梅雪に属していた川村善右衛門重忠妻(今川氏に仕えた岡部貞綱女)だとしても辻褄が合わない話ではない。
参考
デジタル公開されている早稲田図書館蔵本「落穂集」(中村万喜直道写本)

 
正之公母堂浄光院と神尾氏

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