大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

箱根湯本から箱根板橋へ

2013-08-01 | 

箱根登山鉄道の箱根湯本駅前、早川の対岸を旧東海道が通っている。この街道沿いの早雲寺からスタートした。
 
       
北条五代墓や連歌師宗祇墓が残る早雲寺を戊辰史跡のため訪ねるのは初めて。ここに明治十三年六月、静岡県士族で茨城県令の人見寧によって建立された「遊撃隊戦死主墓」と「供養碑」がある。
  
人見寧は幕臣人見勝之丞(鉄砲奉行組同心)長男で慶應三年(1867)、遊撃隊に加わり、鳥羽・伏見の戦いの後、関東から東北地方を転戦、明治二年(1869)、新政府に降伏後、人見勝太郎を寧に改めている。静かな佇まいの早雲寺から旧東海道を小田原方面に下って早川に架かる三枚橋を渡り山崎ノ古戦場跡石碑を探しに行ったが所在が判らなかった。
 
この古戦場跡については関東地方整備局横浜国道事務所のサイトに「慶応四年(一八六八)五月二十六日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。この一戦で、遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失い、高橋は討ち死にした」説明と地図が掲載されていた。何故、地方整備局のサイトに説明があったかと云うと、いま小田原市風祭~足柄下郡箱根町湯本約2,2k間について小田原箱根道路4車線バイパス道を建設中で山崎ノ古戦場跡石碑については近所にお住いの方に聞いたら整備局の方で保管しているようだと話をしてくれた。
 
旧道を入生田駅に向かう。小田原稲葉氏一族と春日局の墓がある長興山紹太寺に行ってみた。
 
 
杉木立の間の石段を登る。この石段の参道は下からは見えなかったが石段と平らな石畳とを繰り返しで、かなり長い石段にグッタリする。長興山山上にある墓域までは三百六十段あるという。
 

入生田から箱根板橋に向かい、板橋の南谷山香林寺に寄る。開山は大樹乗慶禅師で中興開基は北条左京大夫氏綱室の養珠院。境内に江ノ島弁天を勧請した弁天社を祀っている。
 
ある旧会津藩士を探して墓域を探したが空振りだった。本堂裏の竹林が見事で、大雄山最乗寺第二代目韶陽以遠禅師が応永年間に修復した韶陽窟と名付けられた洞窟があった。鎌倉の崖に多くみられる「やぐら」と呼ばれる横穴式の墓とおなじなのだろうか。
 
香林寺から駅に向かう途中、上板橋の宗福院地蔵堂にも寄った。
    
この境内に寛政七年(1795)建立の一刀流元祖伊藤一刀斎影久の一刀流六代目横田常右衛門豊房と七代名坂四郎治政宣の供養碑がある。ウィキぺディアによると「鏡心一刀流とは、横田豊房が開いた剣術の流派。小田原藩で伝承された」とあった。横田常右衛門豊房は伊藤一刀流六代目で鏡心一刀流元祖ということになる。渡辺誠著「刀と真剣勝負」で幕臣心形刀流伊庭八郎と小田原藩士鏡心一刀流高橋藤太郎の一対一の真剣勝負に言及している。真剣での一騎打ちの戦いは、想像するのとはだいぶ異なるようだ。また境内に明治戊辰の役で犠牲者となった軍監中井範五郎ら十三名の慰霊碑もあった。
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする