松阪駅の北西約1k弱の所にある御厨神社の脇社に三囲稲荷社があるというので行ってみた。
御厨神社の御厨牛頭天王祠は伊勢内宮の神饌を用意する所として飯高郡下ツ牧(現、平生)に建てられ、勅使参向の時には当社に止館し、旅の安全を祈願したとも伝える。戦国時代に神垣を残して廃絶したが、天正十二年(1584)、 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を築城のとき、城郭の大手先に奉遷、元和六年(1620)、紀州藩主徳川頼宣家臣の初代松阪代官長野九左衛門が城の鬼門として現在地に遷宮した。祭神は建速須佐之男命を祭る。大神宮儀式解因録に「中川経雅、天明五年(1785)本居宣長の所望により松阪御厨神社額を揮毫しこれを贈る」とある。今の社額はいつの時代のものだろうか。
三重県神社庁サイトによると御厨神社の祭神は建速須佐之男命、加夫呂岐命、火産霊命、木花之開耶姫命、大山祇命、奥津彦命、奥津姫命、応神天皇、宇迦之御魂命、市岐島姫命とある。明治の複数の神社の祭神を一つの神社に神社合祀によるもので明治六年御厨神社を改称のうえ村社に列せられ合祀が進んだと思われる。境内にある三圍稲荷神社は宇迦御魂之命を祭神として豪商三井家祖先の祈願社で東京向島の三圍神社の分霊が祀られ松阪の三井家の下屋敷から移されたという。
ここにも向島三圍神社と同じように宝井其角の句碑があった。
此御神に雨乞する人にかはりて
遊ふた地や田を見めくりの神ならは 普其角
「見めぐり」には「三囲」が掛かる。上五中七下五の頭を並べると「ゆたか」となる折句だそうです。
神社境内に宮城遥拝所の石柱があった。
皇居まで約320km、久しぶりに宮城遥拝所をみた。
松阪神社に行く。石段が急なのでしばらく見上げてしまった。
松阪神社は天正十六年(1588)、蒲生氏郷が当地飯高郡矢川庄の四五百森(宵の森)に城を築城の時、城の南側の森を鎮守社と定め、新しく壇を設け社殿を造営し正八幡を勧請し八幡宮とし松坂城の守護神とした。明治二年、天皇伊勢行幸のとき、伊勢路式内神社として神祇官権判事北大路左京権大夫を官幣使として代参させた。明治四年に、式内・意悲神社に比定され御城八幡から意悲神社に改称した(意悲神社は神舘神社の旧名との異説もある・飯南郡史)。飯南郡史では明治六年八幡神社と改称し、のち村社に列せられ、明治八年郷社に指定され、そのとき倭姫命の行在所の旧跡なので意非神社と改称する許可を得たとある。いづれにしても、明治二年三月、伊勢路式内神社として朝廷からの勅使を遣わされたのが大きかったのだろう。明治三十九年、県令により神饌幣吊料供進指定社となる。明治四十一年は全国で神社合祀が行われ近隣の十七の神社を合祀して、松阪神社と改称したとある。
ご神木の樟のそばに皇居遥拝所と神宮遥拝所があった。
三重県神社庁によると松阪神社のご祭神は誉田別命、宇迦之魂神、天照皇大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、建速須佐之男尊、豊受大神、思兼神、大山祗命、火霊神、金山彦命、蛭子命、猿田彦命、大国主命、少彦名命、熊野久須毘命、天御柱命、国御柱命、雅日女命、天棚機姫命、拷幡千々姫命、安徳天皇、多紀理毘売命、高木大神、因幡素莵神、多岐都比売命、市岐島姫命、天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、八百万神、事代主命、上筒男神、中筒男神、底筒男神と少名彦那尊御社。これだけ神様がいらっしゃると、何を頼んでも叶えてもらえそうな気分になる。