大佗坊の在目在口

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函館住吉共同墓地(雑賀重村墓)

2023-02-09 | 會津

共同墓地入口から立待岬に向かう道の途中左側に石川啄木一族の墓がある。

入口から1本目の街路灯の手前に小池毅の墓があり、その先の2本目の街路灯(石川啄木墓の手前約20m)、山側の石段の先に三基の墓石が並んでいる。

左側 故□□郡長雑賀重村之墓 明治十三年九月十日
中央 □生院釈如泥居士  一瀬重文之墓  明治十六年十月三十一日
右側 秀道院釈精砲居士 一瀬朝春之墓  明治十六年四月十二日

会津の一瀬という姓は前から気になっていた。高遠内藤藩士で伊那一ノ瀬を出自とする家から我家を継いだ人がいる。同姓同紋で秀禅といい、なんでも駕籠に乗ってきたと伝わっている。
会津藩家老の一瀬家は諸士系譜によると、本姓滋野、本国信濃で、今回訪ねた函館住吉に眠る一瀬・雑賀家は本姓藤原、本国紀州とあり別家だという。保科正之に仕えた初代一瀬左兵衛直長は高遠勢として武田勢と青柳峠にて戦い討死した一瀬越前守直忠の長男で、そのあと保科弾正正直に仕えた。この一瀬氏は諏訪一族ともいわれる笠原中務少輔政直次男が伊那市野瀬にあり、地名を屋号としたのが始まりという。
会津の勘助系一瀬氏は要略会津藩諸士系譜によると、鈴木太郎利重十五代雑賀孫市十重兵嫡男、一瀬勘助忠春が二代正経(鳳翔院)に供番として仕えたのが始まりで、中央の墓、一瀬重文は名を醒畝、字を郷助重文。雅号は如泥と称した。

右側の墓、一瀬朝春は会津藩士一瀬重文の長男で、名は勘助、雅号を朝春という。

明治四年、斗南県司民掛開拓課に任じられる。開拓使の測量の画工として、明治五年二月から四月にかけて、開拓使浦河支庁の命を受け、鵡川、空知川の河源より、十勝川河原までの各地に標木を立てた記録「北海道河源探討記」、日高の諸河川を遡り、水源を調査した跋渉記「「北海道跋渉雑記」等を残している。
左側の墓の雑賀重村は、会津藩士一瀬郷助の四男(三男?)として生まれ、はじめ一瀬紀一郎、のち雑賀孫六郎、雑賀重村と改名している。(写真右: 一瀬家墓域を背に函館湾を眺める)

安政元年(1854)、幕府目付堀織部正利煕、勘定吟味役村垣範正らの蝦夷、樺太視察に同行した一瀬紀一郎(雑賀重村)は蝦夷樺太の風景、「蝦夷回浦図絵」を残している。安政二年(1855)蝦夷地を直轄地とした幕府は奥羽諸藩に国境の北方警備と領地の開拓を命じた。会津藩は万延元年(1860)から慶応三年(1867)まで続いた。北方警備の拠点として本陣を標津に置いた。標津の初代代官を務めたのが会津藩士の一瀬紀一郎で、このとき纏めた「北辺要話」が残っている。ちなみに、文久二年(1862)からの二代目代官は会津藩士南摩綱紀が勤めている。のち会津藩江戸金杉陣屋詰の蘭学専修生として雑賀紀一郎の名がある。鳥羽伏見の戦いでは大坂城に残っていた御用金を運び出したと言われている。戊辰戦争では開陽丸に乗り戦った。戊辰後、斗南への移送の為、外国船(ヤンシ―号)雇入れにかかわる。明治四年一月、開産掛として斗南藩に勤めたが、同年九月開拓使に雇われた。明治十二年、開拓使は全道に郡区役所の設置を決め、茅部山越郡役所の初代郡長を雑賀重村が務めた。

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