仁和寺に向かう途中、「京の冬の旅」特別公開中だという傳法輪寺に寄った。傳法輪寺は山号を獅子吼山(ししくさん)とし、知恩院を総本山とする浄土宗のお寺で、寺伝に宝暦八年(1758)、関通上人が北野下ノ森に創建し、現在地には昭和四年に移転した。
ここには坐像ながら丈が二丈四尺(約7.5m)という京都で一番大きいといわれる大仏(阿弥陀如来像)と宝暦十四年(1764)に作られたという縦が一丈七尺五寸(5.3m)、横は縦一丈六尺二寸(4.9m)の涅槃図が公開されていた。座っている大仏はまだ修行中の悟りを会得している段階で、寝ている大仏は、その肉体がなくなるすなわち死の寸前の横になっている状態が、最も悟りを開いている状態を表しているという。ならば、立像立っている大仏は何だと云うと、救済の道を広めている姿だという。どんな姿にでも理由があるものだと感心する。
釈迦の入滅を描いた涅槃図あまりじっくりと見たことはなかったが、殆どの涅槃図に描かれている月は横たわっている釈迦如来の中心線上に懸っているのに、傳法輪寺の涅槃図は向かって右上部の阿那津に先導されて飛来する摩耶夫人の傍に描かれているのと、右下に猫が描かれているのが珍しい。八本の沙羅の木(四双八本?)が1本おきに枯葉と常樹に描かれていた。四方の双樹のそれぞれ一本は枯れて一本は繁茂させた。四本残った沙羅双樹の樹で「四枯四栄」を表しているのだろうか。平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」の沙羅双樹の花の色は何色だったのだろう。日本の沙羅双樹の木は白い夏椿の事だそうで、白から無色となれば色即是空の世界に入ってしまいそう。
傳法輪寺に入る時、潜った鐘楼門の上にある釣鐘は一千貫(約四トン)あるそうです。
傳法輪寺から仁和寺に向かう途中、東門の手前に五本線の筋塀のお寺があった。
山門に近畿三十六不動尊第十五番霊場 真言宗御室派別格本山 五智山蓮華寺と寺院表札があった。蓮華寺の五智不動尊縁起によると、御冷泉天皇御願いにより天喜五年(1057)、藤原康基が創建、応仁の乱の兵火で荒廃したが、江戸の豪商樋口平大夫が発心入信して常信を名乗り寛永十八年(1641)、蓮華寺の伽藍堂宇を再建、仁和寺門跡第二十一世、覚深入道親王よりの改めて五智山蓮華寺号を賜ったという。
境内に大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来の五智如来石像が安置されている。この石造群は蓮華寺が過って鳴滝音戸山に移されたとき、山中に離散・損傷していたものを収集、修復して昭和30年に境内に遷座安置されたという。
土用丑日に「きゅうりふうじ」の行事があるという。これは空海が唐より伝えた厄除けの秘法で、病魔悪鬼をきゅうりに封じ込めて、無病息災を願う秘儀だという。変わった行事だと思ったら、各地のお寺で同じような行事が行われていた。どんな民俗信仰から土用丑日と胡瓜が関連するのだろうか。